2章 王都にて


 風を切る音がした。
 と同時に、頬に鋭い痛みが走る。
 思わず手をやると、ぬらりと濡れた感触があった。眼前を通り過ぎていった指先が、柔らかい皮膚を切り裂いたのだとわかった。

「外したか」

 銀糸の三つ編みを揺らし、シリウスが短く舌打ちした。
 リュウヤはむっと唇を尖らせ、体を低くする。相手の腹部を狙って、引いた右腕を勢いよく突き上げた。が、すんでのところでシリウスの片手に止められる。ぐぐっと強い力で押し返され、リュウヤは一歩、二歩後ずさった。
 辺りは薄暗く、夕陽も沈みかかっている。
 騎士警備団第三修練場とやらにて、向かい合うのは二人の青年。
 リュウヤが剣も魔法も使わないというので、最も原始的でシンプルな方法をとっていた。
 すなわち、殴り合いである。

「可愛い子についた蠅は、叩いてでも氷漬けでも焼いても切り刻んででもして徹底的に潰せ……ってな。どれがいい? 俺は器用だからな、どれでもできる。ご希望の潰れ方を選ばせてやるよ」

「可愛い子には旅をさせよって言葉、知らないんすか」

 引きつった顔でリュウヤは言い返した。
 シリウスの柳眉がぴくりと動く。

「旅に出して余計な蠅が付くなら、俺は籠の中で飼ってやりたいよ。その方が安全だからな」

「本人の意思は無視するんすね」

「俺がいればいいだろ。こんなに愛してるんだから、他の手に触れさせる必要なぞ無い。俺が守る。俺の腕の中で安心して眠ればいい」

 ぐるりと呆れたように目を回して、リュウヤはマフラーを取った。重ね着していたので、上の一枚も脱ぐ。動いたから熱くなった。首を傾けてバキバキと音を鳴らすシリウスは、とっくに紺色の上着を脱いでいる。それどころか白いシャツの袖を肘まで捲っていた。寒くないのか、と目を剥きたくなる恰好だ。
 銀髪碧眼の青年は軽く頭を振り、目に前髪がかかるのを払った。

「所詮、お前には分からんだろうな。俺の愛は依存に近い。あの子は俺のすべてで、俺はあの子のためなら目も心臓も手足も、骨の髄さえ捧げる。その覚悟ができている」

 薄い唇が、溺れるほどの愛を紡ぐ。
 あの子、というのは、仔猫のようにツンとして笑わない少女を指している。
 ふわふわした猫っ毛の淡い金髪を肩まで垂らし、青い双眸が雪のような肌の中にぽわんと浮かぶ。目を細めたり、微かに口元を和らげたり、無表情に見えて意外に感情の機微を表へ出している、あの少女を。
 リュウヤは肩で大きく息をつきつつ、眼前の青年をじっと見つめた。
 すっきりとした輪郭の中に、形よく目鼻が並んでいる。冷たいほどに綺麗な顔立ちをしている。背はすらりと高く、細身ながらも筋肉質な身体だ。大層な器量のよさで、少女一人に固執せずとも、彼なら他のどんな道も選べるだろう。
 それでも、あの少女の愛でないとだめだという。
 他の愛では生きる理由に満たないと。
 自身を捧ぐことも構わないほどに。
 それこそ、左目を失っても。
 でもアリスはそれを望まなかった。

「……重いッッッ‼」

 ぎゃんっとリュウヤは叫んだ。温泉に入ろうとしたら湯が熱すぎて、慌てて飛び出てきたニホンザルのように皺々な顔である。

「お、おぉ、急にどうした」

 突然大声を上げたリュウヤに、シリウスはたじろぐ。

「重いッ! 話が重い! 空気も重い! ずっと重い‼」

「何なんだ急に!」

 リュウヤが駄々っ子のように腕をぶんぶん回した。相対あいたいする青年は、それまでの勢いが削がれて口をぽかんと開けている。
 ずっともやもやしていた。
 どういうもやもやなのかもよく分からない。
 分からないけど。

「おれもあんたも、どっちもアリスを大事に思ってる。アリスを守りたいと思ってる、側にいたいと思ってる。それでいいじゃんか」

 リュウヤとシリウスは異なる人間だ。
 違う世界で生まれ育ち、見目も身長も立ち居振る舞いも当然ながら違う。話せば、価値観や考え方、今まで見てきた世界への視線の向け方といった違いも出てくるだろう。
 それでも、アリスを死なせたくないという思いは同じだ。
 同じところが一つあれば、きっと。

「よくねぇよ。アリスには俺だけでいいんだわ」

 低い声とともに、ビュッと空を切る音が鳴った。振り回された長い脚がリュウヤの横腹にクリーンヒット。重い打撃に耐えきれず、リュウヤの体は横に吹っ飛ばされた。雪の上に顔から倒れこむ。

「あー……くっそ……」

 口の中に広がる冷たく苦い味に顔を顰め、リュウヤはむくりと体を起こした。

「しもやけになるじゃねえか!」

 シリウスが呆れた顔をした。ざくざくと雪を踏みしめる音がする。彼は腰を落とし、片方の拳を前に出して構えた。

「話を仕切り直そう。どうしたらお前は身を引く?」

「引くつもりないっす。どうしたら解ってくれるんすか」

 リュウヤは腹部を抑えながら身を低めて、シリウス同様に構える。

 ――そのときだ。

 辺りに鈍い衝撃音が広がった。
 音がした方向を見やると、人影が一つある。体格からして男か。地面の雪が舞い上がり、土煙の立ち昇る中、がっしりした大柄な身体が浮かび上がった。男はむくりと姿勢を起こす。その両耳に付けたピアスが揺れる。三本の線に斜めの一本線が突き刺す形状の耳飾りだった。
 だれ、とリュウヤは言いかけたが、それ以上、口が動くことはなかった。いや、動かせなかった、というのが正しい。
 一瞬間にして男の大きく堅い手のひらがリュウヤの顎をガッと掴んでいた。

(早ッ……)

 さっきまで、ちょっと離れたところに突っ立っていたはずだ。
 男のしかつめらしい顔が眼前に迫る。眉間に深く皺を刻み、口をへの字に曲げている。短い髪が額をくすぐるようにちらちら揺れた。

「遅い」

 男が言った。
 重低音が体の底に響く。四肢に枷をつけられ、重りを繋げられたときのような。まるで囚人気分だと聞く者に錯覚させる声だ。

「これしきも避けられぬか。まっこと脆弱で愚かな生物だな、人間というのは。嗚呼、はらわたの煮える」

「は、な、せよぉっ……!」

 男の手を振り払おうと、リュウヤはじたばた身をよじった。足元が何とも頼りないのに目をやると、自分の身体は地面から数センチほど空間を開けている。顎を掴む片手のみで持ち上げられていたのだと解り、サッと血の気が引いた。

(馬鹿力じゃねえか!)

 どういう腕力してるんだ、と心の中で毒づく。その間にも男の片手はリュウヤの顎を握りつぶそうとばかりに力を込めてくる。
 顔が変形しそうなほど強い力が。

「『アクア・スティーリア』」

 耳遠くで呪文のような声が聞こえた。
 同時に、リュウヤの顎を鷲掴みにしている腕を目掛けて、地面からまっすぐな氷柱が伸びる。先端を尖らせたそれは、しかし男の反対側の拳によって叩き壊された。そのはずみか、顎を掴んでいる手が離れた。急に自由になったリュウヤの体は、どさりと雪の上に崩れ落ちる。対して、男は後ずさって距離を取った。

「助かった。さんきゅ、シリウス」

「貸しにしておく」

 リュウヤは口に入った雪を吐き出しながら、礼を述べた。
 ふん、と銀髪碧眼の青年が鼻を鳴らす。

「念のため訊くが、あれはお前の仲間か?」

「ご冗談!」

「そうか。――なら、遠慮なく。『アクア・スティーリア』」

 シリウスは男へ向けて、腕をまっすぐ掲げる。長い指がパチンと軽快な音を奏でた。瞬きののち、男の周囲を氷柱が取り囲んだ。先端の鋭い氷の柱はそれぞれに男の目を狙い、腹を突き刺さんとし、四肢の動きを止めようとする。
 だが、それらはいずれも男の拳によって打ち砕かれる。

「『インドゥラーレ』」

 男が低く発した。両の拳が光を帯び、ガキンガキンと金属を破壊するような音を立てながら氷を砕いていく。目の前の氷柱を折ると、今度は身をぐぐっとかがめた。バネのごとき瞬発力で飛び出し、こちらに走ってくる。

「うわわわわわわ」

「落ち着け馬鹿。『アクア・グラキエス・パリエース』」

 シリウスが素早く唱えると、瞬時に氷の壁が眼前を覆った。

「んー、補強もしとくかね」

 続けて『フォーティス』と詠唱を重ねる。堅い氷壁が二層、三層とバウムクーヘンのように形成されていく。その場にしゃがみこんで縮こまっていたリュウヤは、氷壁越しにぼやけた黒い影を見てまた悲鳴を上げた。

「来てる来てる来てる!」

「騒ぐな五月蠅うるさい」

 男の顔らしき影と、それより一回り小さい――いや、だんだん大きくなっている――壁を砕き壊そうと近づいているのだ――拳の影が迫った。ガッと氷壁にひびが入る。再び拳が振り下ろされる。ひびが少しずつ広がる。

「リュウヤ、ちょっと下がっとけ」

「え、え、」

 氷壁の向こうで、くぐもった舌打ちが聞こえた。

「小賢しいッ! 『インドゥラーレ』!」

 男の拳が、音高く氷を割った。氷壁の破片と細かい結晶とが、夕暮れの中にちらちらと舞っては微かな光を眩しく反射する。半ば幻想的な光景の中、銀糸の三つ編みがひゅんっと振り回されるのが、視界の端に映った。
 もう一方の拳がリュウヤの顔へと一直線に向かってきた。

「うぉっ」

 すんでのところで上半身をのけぞらせ、リュウヤは拳を避ける。

「我の拳を見切るか」

 男が眉をひそめて、しかつめらしい顔に不機嫌を乗せた。
 リュウヤは顔を引きつらせつつ、体勢を元に戻す。
 避けられたのはたまたまだった。あと少しリュウヤの体が硬かったら、あと少しタイミングがずれていたら、と思うとぞっとする。肝を冷やしつつ、ぐぐぐっと男の拳を押し返した。人間の拳とは思えない、金属のような硬い感触だ。

「我の拳を見切るのは父上だけでよいのだ。それを人間なんぞが……。あぁ苛立たしい、苛立たしい。実に憤る。虫が腸の上を這いずり回るような気がしてならぬ」

「おれは虫かよ」

 シリウスには蠅だと言われた。
 そんなに虫っぽいだろうか、とリュウヤは小さくショックを受けた。

「ただでさえ下等な人間どもには我慢ならぬのだ。何もできぬくせに我が物顔で歩き回る。世界は自分どものためにあると思い違いする。鼠のごとく増える。嗚呼そうだ、やっぱり殺してしまおう。無益だろうが有益だろうが殺生をするなとは言われておらん。……なあ、貴様、鬼子の手記の在りかは知らぬだろうな」

「……シュキ?」

(何だ、何の話を……)

 男は大きく息をついた。

「やはり知らぬか。益のなさを露呈して死ぬのは、さぞ腹立たしいことだろう。せめて貴様を殺す男の名くらいは知りたかろうな」

 右肩を引き、男が拳を溜める。

「我が名はケドルス=ザック・シーミアルフ。死後への土産に持ってゆくがよい。インドゥラー……」

 不意に、男の口が紡ぐ詠唱が途切れた。
 否、切れたのは言葉だけでない。

「なッ……」

「え⁉」

 本体から切り離された手首が、血飛沫を以て宙を飛んだ。
 男が攻撃しようと前に出した右腕もまた、手首から先がすっぱりと切断されたのである。
 断面から赤を吹き出す肉塊が、地面の上の雪に沈む。じわり、じわりと赤黒い血が、白を侵食していった。

「『自らの拳を硬化させる魔法インドゥラーレ』に、魔族『シーミアルフ』の名前か。古い本で読んだわ、その威力は岩をも砕く……って」

 清涼感のある声音は、朗々とよく響く。
 リュウヤが振り向くと、声の主は呑気に乱れた髪を手櫛で整えていた。男――「シーミアルフ」の横顔を眺めるように、悠然と立っている。どこから取り出したのか、シリウスは透明で装飾のない剣を男の耳先に突きつけた。冷気を纏った長い剣である。剣の表面に付いた血潮が生々しい。

「それなら、こちらはその拳を腕ごと斬り落とせばいい。簡単な話だ」

「貴様ッ……貴様ァ‼」

 シーミアルフはカッと両目を見開いて吠えた。破いた服の裾で切断面を覆って止血しようとするが、ぼたぼた、赤い滴は地面に落ち続ける。

「よくも……よくも我の右腕をッ……」

「吠えてる余裕があるなら撤退しろ」

 体を折り曲げ、苦悶に顔を歪める男に、シリウスが言い放った。右のみ外気に晒した緑玉が冷酷な光を宿している。

「一時の恥に耐えて、命ある身を大事にするか? それとも、お前の嫌いな人間にこれ以上の屈辱を受けるか? どっちでも構わんが、こちらとしては相手するのが面倒になってきた。さっさと尻尾巻いてどっか行ってくれると喜ばしいんだがな」

「ふざけるなッ……!」

 食いしばった歯の隙間から荒い息を漏らし、シーミアルフが唸った。額に玉粒の汗が次々と浮き出る。
 シリウスは冷ややかに見下ろし、それと、と付け加えた。

「お前の言う『手記』は、ここに無い。魔族どもに渡すつもりもない」

 また、「手記」だ。
 自分の頭の上で、自分を蚊帳の外にしたまま話が広げられていく。
 リュウヤは半歩分、男から距離を取りつつ、彼らの会話を反芻した。

(シュキ……シュキってーと、あれか、日記とか独白みたいなやつ。……うん?)

 ――アリスがよく、手帳にしては頑丈な表紙のついた本を持ち歩いていなかったか?

(……まさか……まさか、あれが『手記』?)

 腕を抑え、呻き声を上げているこの男が狙っているのは、あの本なのか。
 だとすると。
 こめかみから顎へ、すっと汗が伝い流れる。

「シリウス」

 リュウヤは震える声で呼びかけた。

「アリスが、危ない」

 もし男に仲間がいるなら。
 単独で行動しているわけでないのなら。
 こうしている間に誰かが薬屋を襲撃しているかもしれない。アリスが、薬屋が、セレネが、ナビキが危ない。

「分かっている。『アクア・スティーリア』」

 剣のような鋭い切っ先をもった氷柱が地面から伸びる。大柄な男を四方から威嚇するように取り囲んだ。流血の止まらぬ右腕を腹横に押しあてたまま、シーミアルフが血走った眼で睨んだ。

「骨の髄まで凍てついて眠れ」

 シリウスが指を打ち鳴らす。
 その端正な顔に、黒い影が色濃く落ちる。
 ぱっと空中に出現した大きな氷の塊が、氷柱で囲んだ中心へまっすぐ落下した。
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