2章 王都にて


 シリウスが薬屋に来訪した一件から、一週間近く経った。
 その間、彼は仕事の隙を縫っては薬屋――というかアリスを訪れ、一時間ほど話しては帰っていった。来るたびにリュウヤへ斬り殺さんばかりの視線を向けてくるので、こちらとしてはたまったものでない。
 今日もまた、窓から陽が暮れ始めるのが窺える頃に、薬屋の扉が開いた。

「らっしゃーせー」

「何だその間の抜けた言い方は」

 扉が開くと同時に発したリュウヤの挨拶を、爽やかさの残る不機嫌な声がぶったぎった。リュウヤは口をへの字に曲げ、カウンターに頬杖をつく。オーナーが夕食の準備をしているので、店番をしている。
 ふん、と銀髪碧眼の青年が鼻を鳴らし、客用の長椅子に腰を下ろした。肩にかかる長髪は丁寧な三つ編みにされている。
 シリウスに続いて、緑髪紅目の男性も店内に入ってきた。ナビキという男で、シリウスがここに来るときは毎回いる。アリスやセレネが目当てというわけでも、薬を買いに来たわけでもなく、ただシリウスについてきているだけのようだ。

「あ、ナビキさんもいらっしゃいませ」

「こんにちは、リュウヤ君」

「おい、ナビキにはちゃんと挨拶してんじゃねえか」

「寒くなったっすねぇ。雪積もってて、来るの大変じゃなかったっすか?」

「何で無視する!」

「そこまでひどくもありませんでしたよ。これ、どうぞ」

 ナビキは持っていた包みをリュウヤに渡した。

「パウンドケーキです。酒が使われていないものを選びましたので、よければ」

「いいんすか⁉ やったぁ!」

 ナビキは寡黙だが、こうした気遣いの回る男だ。ずっしりと重みのある包みを受け取り、リュウヤはほくほく口角を緩めた。

(デザートげっと!)

 ここで暮らすようになって、リュウヤの腹はややぽてっとしてきた。
 寝る間を惜しんでまで働くことが無くなったのと、ごはんが美味しいのがその原因だ。
 食事は基本、セレネが作ってくれる。リュウヤは野菜を刻んだり、彼女が不在の時に代わりに作ったりする程度で、ばたばたと忙しくする必要がない。ゆえに出されたものを食べるだけなのだが、まぁそのごはんがめちゃめちゃ美味しい。修業を積んだ専門家の提供する料理でも大手チェーン店の企業努力でもなく、セレネの料理は、一般家庭の温かい味である。それがいっそう体に沁みて、美味しいのである。

(そいで、体動かすこともあんまりないもんなぁ。せいぜい掃除したり、王都街へ薬の配達に行ったりするくらいだし)

 客のあまり来ない薬屋だが、それなりに固定客がいるらしい。王都街のどこどこに届けてきて、とか、材料を買ってきて、とお使いを頼まれることがたびたびある。おかげでリュウヤは中央通りを歩くのにだんだん慣れてきた。ここ二、三日は散歩に出かけてみたりもしている。
 今日も、昼下がりにマフラーを巻いてとことこ歩いてきたので、程よくお腹が空いている。

(夕食なにかな。じゃがいもと挽き肉とチーズがあるって言ってたからグラタンとかかな)

 おまけにデザート付き。気を抜くとにやけてしまいそうだ。

「で、俺の可愛いアリスはどうしてる? 呼んできてもらえると嬉しいんだが」

 シリウスが長い脚を見せびらかすように組む。夕食に思いを馳せていたのがプツンと切られたリュウヤは、小さく溜め息をついて答えた。

「呼んでもいいっすけど、たぶん降りてきませんよ。ずっと部屋で本と睨めっこしてるから」

「え~~~~~仔猫ちゃんに会うことだけを楽しみに仕事終わらせてきたのに」

 長椅子の背にだらりと身を預け、シリウスが嘆いた。
 彼はよく、アリスのことを仔猫だと言う。
 確かに彼女は猫っぽい。それも、まだ幼さの残る仔猫。ふわふわと淡い金髪に澄んだ青い双眸。触れたら柔らかくほどけていきそうな、小柄な体。つんと凛々しい横顔をしておきながらも、仕草や表情の端々に年相応の幼さが垣間見える。
 それがたまらなく愛おしいのだろう。
 リュウヤの眉間に僅かな皺ができ、ぶすくれた顔になる。

「ふん、まあいい」

 銀糸のような三つ編みを揺らし、シリウスが立ち上がった。

「リュウヤ、お前、ちょっと付き合え」

「はあ?」

「いいから。話をしよう。な?」

 端正な顔に嫌味なほど爽やかな笑みを乗せ、シリウスが言う。
 な、と疑問文にされても、その声音には抵抗も拒否も許さない圧力があった。



 ***



 窓から差しこむ陽が薄く、暗くなりつつある。
 そろそろ室内灯に切り替えようか、と思いながらもアリスはページを捲る。このページまで読んだらやめよう、やめようと思うのに、踏ん切りがつかない。
 手にあるのは一冊のノートだ。ノートといっても薄い紙の束が連ねられた簡易的なものではなく、しっかりとした分厚い表紙のついたものである。
 どのページを見ても、びっしりと文字が敷き詰められている。
 黒いインクで綴られたそれらは右上がりの癖がある。ページの真ん中で、一つの語を丸で囲み、別の単語と矢印で結びつけている。殴り書きしたような部分も多く、インクが所々滲んでいた。

(読めないよ。……兄さん)

 きゅっと唇を引き結び、アリスはまた次のページを捲った。
 ふと、紙の上に黒々と濃い影が落ちた。



 ***



 話をしよう、と半ば引きずられる形で連れてこられたのは、王都街中央通りを抜けた先にある、小さな森だった。

「ま、ここでいいか」

 シリウスは低く呟き、肩にかかる三つ編みを振り払った。
 辺りは薄暗く、地面に積もった雪に二人分の影が落ちる。木々にくくりつけられた細いランタンのようなものが灯っている。普段あまり使われることのない場所なのだろうか、人気がないので、ちょっと怖い。

「騎士警備団の第三修練場だ。最近はあまり使われてないがな」

と、シリウスが短く言い添える。
 リュウヤはマフラーに鼻先まで埋めた。慌てて引っ掴んできたのが、このマフラーだけだった。できるだけ早く帰りたい。寒いし空腹だし、何で付いてきてしまったんだろう。
 ちなみに、ナビキは薬屋に残っている。ここで待っててくれ、とシリウスに言われ、半眼でささやかに反抗していた。リュウヤが突然いなくなったら、店主たちが心配するだろうとのことである。じゃあ連れ出すなよ、とも思う。頼みの綱となりそうなナビキがいないのもあって、ますます心細い。
 宝石をはめ込んだような碧眼が、ランタンの光を受けて鈍く輝いた。

「さて、話をしようか。オガタリュウヤ」

「今さら移動しといてなんだけどさ、薬屋じゃだめかな。寒いんだけど」

「アリスのいるところで暴れられるか。ここなら配慮も邪魔も要らん」

「暴れるつもりなんすか」

 リュウヤは後頭部をガシガシと掻いた。吐き出される息の白さが寒々しい。
 向かい合う青年が目を細め、首を少し傾けてみせる。
 さらりと上質な糸のような銀髪が空を撫でた。

「――お前、何が目的だ?」

 薄い唇の隙間から発される声音はひどく冷たく、低かった。ヒュッと喉を握られたように声が出せなくなる。水中に体を深く沈めたときの、空が手の届かないほど遠くに見えるときの、あの感じ。あるいは、照明も蝋燭もない土蔵の中で、眼前で扉が閉じられていく感じ。
 不意に、端正な顔がぐっと近づく。眼前で銀髪が揺らめき、首元で小さく息を吸う気配がした。シリウスが身を離し、柳眉をひそめたまま唸るように言った。

うまく隠したものだな、お前からは魔力が感じられない。本当に人間か? 出自はどこだ。どこで彼女アリスと知り合った。何が目的であの子に近づいた」

 ぼうっと光を浴びた緑玉が自分を捕らえて逃がそうとしない。

「答えろ」

 リュウヤはぎゅっと顔の中心に力を込めた。
 今にも泣き声を爆発させそうな赤ちゃんみたいな表情で、口を開く。

「……おれは、アリスと約束しました」

「何の話だ。俺が訊いたことに答えろ」

「あんたはアリスが『死にたい』って言ってたの知ってるんですか」

 シリウスの片目が微かに見開かれた。

「アリスがまた死にたくなったら、おれが手を引っ張って明るい方へ走ってやるって。約束した、から、」

 一度言葉を切る。リュウヤは目をそらし、雪の厚く積もった地面を見つめた。

「おれがどこから来たとか、目的とか、そんなの言えないっす。ちゃんとした理由なんか無いよ。ただアリスを死なせたくないだけで、助けてくれたから、おれを必要だって言ってくれたから――」

 言を連ねながら顔を上げた瞬間、腹に鈍い痛みがぶつかってきた。
 重くて、痛い。
 衝撃を受けた一点からひびが入り、全身がバラバラと崩れていくんじゃないかとさえ思うほどに。

「いっ、てぇ……!」

 リュウヤはゲホゲホと咳きこみながら体を折り曲げ、その場に膝をついた。鼻の奥がツンとする。目尻が熱い。
 ぐらつく視界の端に、シリウスが拳を震わせているのが映った。

「ふざけるな」

 咳の合間に、ぐらぐらと揺れる声が混じる。

「俺が何回、それをあの子の口から聞いたと思っている」

(……あぁ、何だ、)

 知ってんじゃねえかよ。



 約束したのは、先日のことだ。
 蜂蜜とシナモン入りの生姜湯を飲んでいたときだった。
 少し話をしましょうか、とアリスは湯気の立ち上るマグカップを膝上に乗せた。

「カンパニュラで私が言ったこと、憶えてますか」

 リュウヤは、こくんと首を縦に振る。蜂蜜とシナモンを加えた生姜湯の甘さが喉に纏わりついていた。
 頬にかかる横髪を耳にかけ、アリスが静かな声で言った。

「私は私のこと、いつ無くなってもいいと思ってる。それは今も変わりません。……私は、ちっちゃいときにほんとの家族を亡くしています。薬屋ここで一緒に育った義兄は、私のせいで亡くなりました。シリウスくんの左目は、私のせいで見えなくなったものです。私の周りのひとは未熟で弱い私を守ろうとして死んでいきます。治らない怪我をします。私のせいです」

 時折、語気が微かに強まるのを淡々とした喋り方で抑えこむようにして、アリスは続けた。

「私は死神みたいなものです。一緒にいると、君も死にます」

「人間、そういうもんだよ」

 リュウヤは、しんみりとした口調で呟いた。

「アリスといるから死ぬとかじゃないよ。どうやっても人間は死ぬよ」

「私を守ろうとしなければ、気に掛けなければ、もっと長く生きられたはずです」

「守りたいって思うくらい、大事に思ってくれてたんだね」

「……みんな、生きる価値のあるひとです。私のことで無駄に傷つく必要のないひとです。温かい家庭を持って、魔法の才覚があって、みんなから慕われるほど優秀で、きらきらしてて。私とは違う。私よりもずっと、ずっと生きる価値のあったひとたちです」

 アリスが言葉を切り、小さく息を吸う。
 握りしめた服の裾に深い皺が寄る。
 淡い金色の髪が耳横をすべり落ちていく。
 細い肩が僅かに震えている。

「だから」

「その先は言っちゃだめだよ」

 少女の顔をまっすぐ見据え、リュウヤは遮った。マグカップをテーブルの上に置く。次に出てくる言葉を何となく分かってしまった。
 死にたがりは否定しない。
 生きるも死ぬも選ぶのは結局個人の自由であり、そうでなければいけない。
 そこにリュウヤという他人が口を出す隙間はない。
 でも。

「おれはアリスに死んでほしくないよ。最初に助けてくれたのは君だし、いちばん助けてくれたのも君だ」

 王都に来る前、カンパニュラという街でたくさんの人に助けられた。
 宿屋の主人レヴォルドに奥さん、ご隠居。グウィンやイールら青年団の皆。彼らがいたから魔獣に対抗できた。彼らと協力できたから、今の命がある。
 その中でいちばん最初に手を差し伸べてくれたのは、魔獣から守ってくれたのは、目の前の少女だった。

「死ぬ話なんてしたくならないくらい遠いとこに――どっか明るいとこに、おれが手ぇ引っ張って連れてくからさ」

 約束、とリュウヤは小指を差し出す。
 お節介でもエゴでも押しつけでもよかった。
 他の誰が死ぬのも見たくない。
 君なら、尚更。

「そ……っか」

 炭酸水のように純然な声がささやく。
 アリスは顔を俯かせたまま、自らの小指をおずおずと絡めた。

「……じゃあ、それまで守ってあげる。リュウヤくんが死なないように」



 ***



「立てよ。話し合おうじゃないか」

 堅く冷たい重低音が、頭の上から降ってくる。

「……ああ、そうだな。そっちのが手っ取り早い」

 リュウヤは、ぷっと口内に溜まった唾を吐いた。
 雪の積もった地面に一滴、二滴、赤が染みつく。
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