2章 王都にて
普段の朗々とした声に、上白糖をどっさりと加えたような甘ったるさが加えられる。それは自分だけに向けられる声音だった。
「愛してる」
彼は荒い息遣いを隠して言った。
銀糸のような前髪が左頬を覆う。その下を赤い雫が垂れ落ちている。
腰が抜けて座りこんでしまった自分を襲おうとした魔獣に抉られたのだった。
(私のせいだ)
長い指が淡い色の金髪を掬った。
「ちょっと汚れるが、我慢してくれ。悪いな」
頬に触れていた熱が移動する。軽々と抱き上げられ、彼の綺麗な顔がぐっと近づいた。
緑玉のような片目を細めて微笑する。
掠れかけた低い声がささやいた。
「……君に怪我がなくてよかった。愛してるよ、仔猫ちゃん」
それが、一年前のこと。
王都災害事件の日のことである。
***
箒の柄の端に両腕を乗せ、リュウヤは窓枠に止まる小鳥を眺めていた。薄い檸檬色の毛並みと、小刻みに体を揺らす仕草が可愛らしい。視線に気付いたのか、小鳥はチチチッと鳴いて飛び去った。
「あらあら、おねむの時間は終わったんじゃなかったかしら」
くすくすと忍び笑いをしながら、セレネが声をかけた。彼女は先ほどから、カウンターの背にある戸棚から瓶を取り出してはラベルと中身を確認し、また元の位置に戻すということを繰り返している。手元に数枚の紙を置き、それに何やら書き留めている。
「うっ……すみませんっす」
「ふふっ、いいのよ。お客さんが来たら、おねむのままじゃ困るけどね」
麗しい瓜実顔を和ませ、セレネは
リュウヤは箒を持ち替え、足元の埃をささっと掃いた。ちりとりがないので、玄関を開けて埃を外に出す。
――他人です。
昨日、王都街でアリスが言ったことが気になっていた。
リュウヤの知らない青年……それも端正な顔立ちのイケメンに呼び止められ、知り合いのように話しかけられ、愛おしげな目を向けられ、それでも他人だという。
(他人なわけがないだろ)
あれは……青年のアリスを見る目は、愛おしくてたまらないという目だった。
横にいるリュウヤには一瞥もやらず、視界に彼女だけを映して。
蜂蜜をとろりと垂らしたような、上白糖を溶かしこんだような甘い表情を浮かべて。
(……)
元彼、という単語が脳裏をよぎる。
思わず、ぶんぶんと頭を振った。
(なに考えてんだろ。そもそもほんとにそうだったとして、おれが口出すこともないじゃんね)
アリスと彼がどういう関係だろうが、わざわざ追求することではない。
(だって、おれ、アリスのこと知り始めたばっかりで)
彼女のことが恋愛的に気になるとか、好きだとかそういうのはまだなくて、だからリュウヤが干渉するべきではない。
なのに少しだけ、ちょっとだけ、もやもやする。
もやもやする必要もないだろうに。
(……それにしてもイケメンだった)
リュウヤは箒を動かす手を緩め、溜め息をつく。
身長は一八〇くらいだろうか。ただ高いだけでなく、すらりと均整の取れた体つきに長い脚。さらさらと艶のある銀髪にエメラルドの目。
他人だとアリスが言った瞬間、彼は捨て犬のようにぐしゃりと顔を歪ませた。そのままアリスが背を向けて早足で歩き出したため、リュウヤは慌てて追いかけた。一度だけ、ちらっと振り向いたが、彼は雨に打たれた犬みたいに顔を俯かせていた。
(追いかけてきそうにもなかったし、あの後どうなったかな)
そう考えかけ、いやいやこれもまた自分が気にすることではない、と頭を振った。
「ねぇ、また手がお留守になってるけど?」
セレネの訝しげな声に、はっと我に返る。
「そろそろ掃除は切り上げていいわ。お茶でも淹れてくれる? そうね、アリスにホットココアでも持ってってあげて」
「うっす」
リュウヤはぺこりと頭を下げた。抱えた箒の柄でぺんぺん肩を叩きながら奥の台所へ行こうとして、ふと足を止める。
「あら、どうかした?」
「……いや、何でもないっす」
首を横に振り、リュウヤは止めた足を再び動かし始める。
そのとき、薬屋の扉が開いた。
チリンと可憐な鈴の音が鳴り響く。
「――ご機嫌よう、セレネ嬢。先日ぶりだな」
朗々とよく通る声は、ミントのような清涼感と凛々しさを含む。
開いた扉から入ってきたのは、すらりと背の高い青年である。長い銀髪を一つに纏め、肩に流している。
リュウヤはつい「あ」と声を漏らした。
昨日、王都街でアリスに声をかけてきた青年だった。
彼の後に続いて男性がもう一人、店内に入る。こちらはすっきりと整えた深い緑色の髪に、つり目がちな紅色の双眸の男だ。堅い表情のまま店の主に会釈した。彼もまた、同じ紺色の制服を着ていた。
「あら、いらっしゃい。今日はどのようなご注文で」
「他人行儀は止めてくれ。むずがゆい」
にこやかに迎えるセレネに、銀髪の青年は柔らかい表情を浮かべてカウンターに歩み寄った。緑髪の男性は扉の近くにそっと立つ。
「アリスが帰ってきたんだろう?」
青年は垂れた目元に笑みを乗せてささやく。
「出せ」
「強盗みたいなこと言わないで頂戴」
瓜実顔の美女が肩をすくめる。
「相変わらずね、シリウス君」
「だって俺がどれだけアリスを摂取してないか知ってるかセレネ嬢⁉ 君はいい、同じ家にいるんだから帰ってきた瞬間におかえりも大好きも言える、こっちは連絡手段もない会う約束も取り付けられないんだぞ!」
銀髪碧眼の青年――シリウスと呼ばれた彼は大袈裟に身振り手振りを交えながら、流々と捲くし立てる。まるで、ぎゃんぎゃん吠える大型犬みたいだ。
「あー早くアリスと喋りたいあの清浄さに触れたい吸いたいキスしたい抱きしめたい」
(やべえ奴じゃん‼)
欲求ダダ漏れのシリウスを見て、リュウヤは心の中で叫ぶ。
(見たくなかったこんなの。見なかったことにしたい。切実に)
サッと顔をそらすと、扉の横で待機している男性と目が合った。静かに会釈されたので、お辞儀を返しておく。
セレネが溜め息をつき、カウンターから出る。
「はいはい、呼んでくるわ。ついでにお茶にしましょうね」
「え、ちょっと、」
一人にしないでほしい!
リュウヤが小さく抗議の声を上げるも虚しく、セレネは栗色の髪を揺らして階段を上がっていった。
(ノット知り合い三人組になっちゃったじゃん)
はっきり言って気まずい。
リュウヤは何ともいえない微妙な顔で一歩下がった。セレネたちが来るまで壁にでもひっついていようと思ったのだが、そのうちに抱えていた箒が落ちた。カラン、と乾いた音を立てて床に転がる。
カウンターに頬杖をついていたシリウスがちらりとこちらへ目をやった。
視線がかち合う。
「……」
「……」
青年の眉間に皺が寄っていく。
「……お前、誰?」
地を這うような低い声音でぼそりとシリウスが呟いた。カウンターから肘を下ろし、乾いた靴音を立てながら向かってくる。リュウヤの頬をダラダラと滝のような汗が流れ落ちた。
「俺は騎士警備団所属、シリウス・L・スティーリアだ。誰と訊いているんだが」
シリウスはリュウヤの前に立ち、腕組みした。険しい顔の美人は威圧感が強い。目線の高さが違うため、リュウヤは自然と彼を見上げる形になる。
蛇に睨まれた蛙。
狼を目の前にした兎。
巨大な魔獣に半壊されていく家から這う這うの体で逃げ出した人間。
リュウヤはそれらの、いずれも後者側である。
「お、
(怖い怖い怖いなにこのイケメン! セレネさん早く戻ってきて!)
からからに乾いた喉から何とか一言絞り出し、リュウヤはぺこっと小さく頭を下げた。
シリウスが柳眉を上げる。
「ふぅん。いつからここにいる?」
「えっ、え~……っと、今日で五日、いや六日目くらい……かな」
リュウヤの返答に、銀髪碧眼の青年は短く舌打ちした。
「……セレネ嬢め、俺の知らん間に変なの雇ったな。君、家は近くにあるのかね」
「ここっす」
「は⁉」
シリウスが片方の碧眼を思い切り見開いた。
視界の端で、扉の付近に立つ緑髪の男が手で顔を覆ったのが見えた。
「おまっ、ここに住んでるのか⁉ アリスのいる
「そっすけど」
本当に何なんだこいつ。
ぱくぱくと音の出ないまま唇を開閉させたのち、シリウスがいきなり身を寄せる。次の瞬間、襟元を強く掴まれ、リュウヤは「ぐえ」と蛙が潰れたような声を漏らした。
ずいっと端正な顔が近づく。
形の良い頬がぴくぴく震えている。
「まさかとは思うがお前、俺のアリスに不埒なことしてないよな?」
「はあ⁉」
リュウヤは反射的に睨んだ。
「不埒なことって何すか、してたらどうするんすか」
「斬る」
「何を⁉」
「おいナビキ、ここの壁壊すから修理の手続きしといてくれ」
「壊すの決定してんの⁉ やだッやめてくださいっす!」
シリウスが、扉横で待機する男へ不穏な指示を飛ばす。襟首を掴まれたままジタバタと身をよじりながらリュウヤは彼の上着を引っ掴む。
ぎゃーぎゃー騒ぐ男たちの耳に、ふと小さな足音が届いた。
「えっと……」
二人の青年たちは、躊躇いがちに発された声音が聴こえてきた方へ即座に顔を向ける。
先からたびたび名前の出ていた当人が立っていた。
「あり、」
「アリス!」
リュウヤの呼びかけたのを、眼前の青年がそれより大きな声で遮った。セレネと話していたときの清涼感ある音とも、先の威圧感を含む重低音とも異なる、口の中で飴玉を転がすような声音である。それも砂糖を思いっきり大量に含んだイチゴミルクだ。
シリウスがぱっと顔をきらめかせ、同時にリュウヤの襟元から手を離した。おっと、と身が自由になったリュウヤはついよろける。嬉々として少女に駆け寄る後ろ姿に銀髪がなびく。
リュウヤは呆気にとられ、心の中で叫んだ。
(まじで何なんだこいつ!)
「シリウス君は、アリスの元上官なの」
白く滑らかなカップに紅茶をそそぎながら、セレネが言った。
一階の奥にある居間に場所を移し、お茶を頂いている。ローテーブルには紅茶ポットとカップ、お茶請けの焼き菓子が並んでいる。
「上官?」
聞き慣れない言葉に、リュウヤは思わず繰り返した。
「一年か二年くらいかしら、あの子、騎士警備団にいたのよ。そのときに直属の上官だったのが彼」
聞くところによると、騎士警備団というのはどうやら警察のような組織らしい。
「……先輩と後輩、みたいなこと?」
「そんな感じね。ま、シリウス君の方はそれだけじゃないみたいだけど」
ローテーブルを囲んで、いくつかの椅子とソファに腰かけている。
壁側にある一人掛けの椅子にセレネ、その向かい側のソファにリュウヤとアリスが並んで座る。傍らの椅子に緑髪の男性――ナビキという名前らしい――が腰を下ろし、無言でカップを傾けていた。
そうしてもう一人はどこにいるかというと……ソファの背もたれに上半身を乗せ、少女の淡い金髪を愛おしげに梳いている。
「髪伸びたなぁ。前の短かったのも可愛かったが、今の長さも愛らしい。もう少し伸ばしたら俺とお揃いになるな」
「……」
アリスはちらりと目の端で青年を見やったが、何も言わずマグカップに口をつけた。彼女の分だけ、紅茶ではなくホットココアである。ふんわりと甘い匂いを纏った湯気が漂う。
「あー柔らかい。可愛い、俺の仔猫ちゃん。ここ最近、特に書類仕事に追われてたから全身に沁みる」
シリウスがでれでれと目尻を下げ、上半身をぐっと寄せて少女に抱きつく。アリスは「や」と一言だけ発し、ぐいっとシリウスの端正な顔を押しのけた。つれないとこも不機嫌ちゃんも可愛い、と銀髪の青年が笑みを深くする。
リュウヤはその横で静かにドン引きしていた。何なんだこの変態。
頬ずりしてこようとする青年を押し返しながら、アリスは控えめに口を開いた。伏せた睫毛は長く、その陰を白い肌へ落とす。
「私は騎士警備団を辞めた身です。シリウスくんとはもう関わりがないはずでしょう」
「……アリス、そんな言い方はないんじゃないかしら」
セレネが眉間に小さく皺を作り、咎めるように言った。
「そうだぞ、君に他人だと言われて俺がどれだけ傷ついたか。これはもう『ごめんなさい』だけじゃ済まん……ってそんな顔するな可愛い」
花びらのように柔らかい唇をきゅっと引き結んだアリスを覗きこんだシリウスは、その愛らしさに悶える。当の少女はむっと眉根を寄せた。
「ところでシリウス君」
セレネが焼き菓子をつまむ。刻んだ胡桃がたっぷりと散りばめられたブラウニーは、彼女お手製のものだ。
「何かなセレネ嬢。俺はこの可愛い仔猫ちゃんをもうしばらく堪能していたいんだが」
「さっきから貴方、アリスに対して可愛いしか言ってないわよ。ねえ、本拠に戻らなくていいの? 制服姿だし、巡回か何かの途中なんでしょ?」
「あー」
シリウスは、うんざりと宙を睨む。
「一応、当座の仕事は終わらせてきたんだがな。戻らなきゃだめかな、ナビキ」
「当然です」
緑髪の男性が初めて言葉を発した。シリウスのそれより低く、落ち着きを感じさせる声音である。髭のないサッパリとした童顔だが、ナビキの方が年齢は上なのかもしれない。
「終わらせたとお思いでしょうが、今朝お渡しした書類の類は半分にすぎませんので」
「まじかよ」
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、シリウスは渋々と少女に絡めていた腕を離す。するりと彼女の頬を撫で、にこっと嫌味なく微笑んでみせる。
「顔を見れてよかったよ。また来るね、アリス」
シリウスが、語尾にハートマークでも付きそうな甘ったるい声でささやいた。アリスは目を伏せ、小さく息を吐く。
「紅茶をありがとう、セレネ嬢。――あぁ、お前、オガタリュウヤとか言ったか」
宝石のような碧眼がこちらに向いた。リュウヤは飲んでいた紅茶を吹き出しそうになり、すんでのところで留める。
「アリスに手を出したら、命の保証はないと理解しろ。いいな」
すっと真横に線を引くように細められた目が、釘を刺す。
リュウヤは空になったカップをローテーブルに置く。
どういう顔をすべきか迷った末に、とりあえず半眼で見つめ返しておいた。
まじで何なんだ、こいつ。