2章 王都にて


 お使いを頼まれてくれないか、と言われたのは、床の雑巾がけをちょうど終えたときである。

 王都に到着してから数日後。
 ひとまず薬屋で暮らすことになり、リュウヤはせっせと下働きを重ねていた。荷物持ちに階下の掃除、窓拭き、備品磨き等々、ちまちました雑用を引き受けている。今朝の雑巾がけもその一つだ。ちょっと早く起きすぎたので、セレネが朝食を作る間に床でも拭いておこうと思い立った。

「あらあら早起きさん、健康的だこと」

 油を引いたフライパンに薄切りのベーコンを敷きながら、セレネは揶揄からかうように微笑していた。豊かな肢体を地味な色合いのセーターに包み、その上にこれまた地味な深草色のエプロンを着用。「薬屋の店主オーナー」とて出る際はドレスのような服を纏うが、店を開けていない間は、このような落ち着いた服を着るらしい。それでも華やかさは変わらないのだから、相当な器量のよさである。しなやかな仔猫のような風貌のアリスとは、また違った系統の美人だ。

「まだ寝ててもいいのよ? お掃除は今じゃなくてもいいし、朝ごはんできるまで時間かかるわよ」

「はは……目ぇ冴えちゃったからなぁ。もう寝れないっすよ」

 リュウヤは苦笑を返し、雑巾を水に浸した。指先からキンと凍りついていくような冷たさで、反射的にぶるるっと身を震わせる。
 セレネの言う通り、健康を考えてのことでもあった。
 雪の積もった景色が窓の外に広がるのを寝ぼけ眼に捉え、布団を跳ねのければ即座に身が縮まる。否応なしに頭が冴えてしまう寒さである。

(動かんと体がなまる!)

 リュウヤはあくまでも「居候」という形である。雇用関係は結んでいない。
 彼が雑用手伝いをしているのは単なる自主的行動だ。食事、風呂、睡眠に困らなくなったのは安心だが、染みついた勤労根性は抜けず、何もすることがないとかえって耐えられない。子どもが両親の家業を手伝うのと同じようなもので、駄賃の有無と多寡に関わらず、ちまちまと雑用をしている。



 朝食ができたと呼びに来たセレネは、同時にお使いの話を持ち出したのだった。

「いっすけど、おれ、ここらへんの道分かんないですよ。来たばっかだし、迷って帰ってこられなくなりそう」

 リュウヤは水にさらしていた雑巾を絞り、バケツの縁に乗せた。バケツの中の水は燃え尽きた炭のような色で、それだけ彼が隅から隅まで埃を拭いとったのが窺える。

「いいわよ、アリスにも一緒に行ってもらうから。さっき起こすときに話してきたわ」

 バケツを引き取り、セレネは、手を洗ってきなさい、と促す。

「ついでに、中央通りでお買い物でもしてきなさいな。ふふっ、お小遣いあげるから、ね?」

 唇の端を甘く持ち上げて、セレネがにっこりと笑った。



 ***



 王都街中央通りに経営される雑貨店『モルシー』、その店主へ調合薬の包みを届けること。
 お使いの内容はこれだけで、金銭のやり取りも無かったため、すぐに済んだ。

「うん、確かに。どうもありがとう」

 店主モルシー氏は包みに添えられた紙を確かめ、頷いた。好々爺然として顔が満足げそうに、にやける。それをリュウヤの横にいる少女が半眼で見る。中身が何であるかご存じらしい。

「あっさり済んだな」

「ええ」

 雑貨店を出て、往来の中に紛れこむ。王都に初めて来たときよりは人々の行き交いが少ないように感じられたが、昼前の中央通りは十分に賑わっている。

「あぁそうだ、セレネさんがお小遣いくれて、買い物でもしてこいって言ってたんだけど。何か買いたいものある?」

 リュウヤは、鼻をずびっとすすりながら訊ねた。剥き出しの首周りから冷たい冬風が入りこんできて服の隙間を通り抜けていく。マフラーが欲しい。

「買い物が必要なのは私じゃなくて、リュウヤくんかと思いますが」

 見るともなしに目の端でちらりと視線をやり、アリスは白い息を吐いた。耳先と鼻の先が赤くなっている。出掛けにセレネが呼び止めてぐいぐい巻いた、もこもこのマフラーに柔らかそうな頬をうずめるさまは、ひどく幼い。

「カンパニュラでいろいろ貰ってましたけど、あれだけじゃちょっと厳しいでしょう。服とか、下着とか、防寒具とか買いませんか」

「なんか生活必需品が服に限定されてるけど」

「他にも要るものがあれば、まとめて買っちゃいましょう」

 まずは服ですね、と澄んだ青い眸がこちらを向く。緩く短い三つ編みにした金髪と白い肌は淡く、空に溶けてしまいそうだった。



 右腕に一つ、左に三つ。
 紙袋の数である。
 だいたい二時間ほどだろうか、それでこの量なのだから十分すぎる成果だ。横を歩く少女にもまた一つ持ってもらっている。

(……買い過ぎたかな)

 服屋を二、三店ハシゴし、半袖と長袖の服をそれぞれ四枚ずつ、着回しの利きそうなズボンを二本ほど、下着を三セット、靴下五足、購入。お約束のごとく値札の数字がよく分からず、アリス(気恥ずかしかったが支払いで戸惑うのは目に見えているのでついてきてもらった)に訊きつつ、何とか購入を終えた。セレネから貰った小遣いはこれですっからかんだ。ちょうど足りたと思うべきか、それとも使い過ぎただろうか。
 ちなみに念願のマフラーも手に入れ、さっそく首元に巻きつけている。

「すげぇ、明日から着る服に迷える」

「……セレネママ、いくらなんでもお金持たせすぎじゃ……ううん、でも、服とか靴下とか揃えること想定したらあれぐらいは……それにしたってちょっと多い……」

 両腕に下げた紙袋を振り回したくなるのを抑えながら、リュウヤは無邪気に目を輝かせる。その隣でアリスは苦虫を嚙み潰したような顔をしている。

(うーん、ずっしりくる)

 右腕に下げる荷物を少なくしたのは、一応、肩にかかる負荷を慮ったためである。
 カンパニュラで魔獣に抉られた右肩は、治癒魔導士ミシェのおかげですっかり治ったはずだ。はず、というのは、何となく怖くて傷痕を確かめられないのと、セレネの雑用で棚の高いところにある物を下ろしたり、掃除したりで筋肉痛になってしまって、首を捻ると痛いからである。

(もうズキズキ痛んだりしないから、たぶん治ってんだろーけどな。見るの怖い)

 帰ったら覚悟決めて確かめよう、とリュウヤはこっそり拳を握る。そのとき、つい腹にも力が入ったようで、ぐぎゅるるるるる……と間抜けな音が鳴った。次いでぐう、きゅるる……と隣からも空腹を主張する音が聴こえてきた。

「……そういやお昼時だな」

「……ですね」

 賑やかな人混みの中、二人は顔を見合わせた。
 一瞬ぽかんとした顔つきをしたのち、リュウヤが吹き出す。やがて顔全体をくしゃくしゃにして、陽気な笑い声を上げ始めた。
 アリスはマフラーに鼻先まで埋め、わずかに目尻を緩めた。小さい耳先がほんのりと赤く染まっている。
 ――と、そのとき広場の方で、わっと大勢の歓声が上がった。
 リュウヤは笑うのを一旦止め、思わずそちらに顔を向けた。

「何だ、なんだ」

「ああ、中央広場で剣闘大会やってんだよ」

 近くの肉屋で、鶏肉を選んでいた男と店の主人とが話している。

「けんとーたいかい?」

 耳慣れない単語に、リュウヤはアリスを見た。

「寒いのによくやりますよね」

 違う、そうじゃなくて。

「リュウヤくん、見たいの? 構いませんけど、私、なにかごはん買ってきていいですか」

 そうじゃなくて。

「あ、サンドイッチのお店が出てる。リュウヤくんも食べます? 肉と魚、どっちがいい?」

「…………はい」

 そうじゃないけど、リュウヤはとりあえず喉元まで出かかった言葉を飲みこんだ。



 ***



 現世で生きていくにあたって、他者との敵対は必ず起こる。
 小は菓子の奪い合いに始まり、大は国家の奪い合いへ至るまで、人々は争いを繰り返す。同族間だけでなく、異なる種族の間でもそれは行われる。あるいは魔獣や魔植物といった、一歩前に踏み出すだけで数十人の命を潰す厄介なものも存在する。
 であれば、我々は小さなただの住民でいるだけではなく、微力であっても抵抗する術を持つべきである。日々、鍛えるべきである。
 そしてその腕試しの場となるのが、有志によって開催される剣闘大会なのだ!
 ――というようなことを、今しがた横で試合を観ていた男性に熱く語られた。頭に白い手拭いを巻き、がっしりとした体格の若者だ。

「参加者は男性が多いが、人型であればもちろん女性も参加可能! 今回は魔法使用不可、木剣以外の武器使用不可で、それぞれ一本勝負ずつの勝ち抜き戦。男のロマン溢れる剣の打ち合い、優勝賞品は酒樽五本!」

「な、なるほど……」

 男性は鼻息荒く語ると、手に持っていた透明なカップをぐいと呷った。鮮やかな赤みがかった黄色の、夕焼けにも似た色の液体が彼の喉へ吸いこまれていった。昼間から酒かよ、と思ったが、酒特有の匂いはしない。

「オレンジジュースだよ。酒が苦手なもんでね」

「あ、そっすか……」

(ごめんおにーさん、そこは興味ないっす)

 リュウヤは愛想笑いを返し、ひょいっと爪先立ちで人混みの向こうを観ようとした。剣闘大会の中心地となる広場を、人の輪が二重、三重以上に囲んでいる。そのうえリュウヤは大荷物なので、人を器用に避けて前方に出ることも難しい。アリスはさっきからカツサンドをもぐもぐしている。無理に前を観ようと出て行って彼女とはぐれるのもよくない。

(こういうとき、背が高かったらって思うんだけどな。全然見えねぇ)

 最後に身長を測ったのは、高校三年生の春だったか。当時は一六九センチメートル。あれから測っていないが、伸びた自覚もない。低くも小柄でもない体格だが、こうして人混みに揉まれれば埋もれてしまう。せめて一七〇は超えたかった。

「――勝者、騎士警備団所属スティーリア大佐ぁああ! 強いッ、これは圧勝‼」

 司会らしき若い男が声を張り上げた。
 周囲から割れんばかりの拍手が沸き起こる。
 興味なさげにカツサンドへかぶりつこうとしていた少女の動きが、一瞬だけ止まった。

「スティーリア大佐、これで十三連勝ですが次への意気込みは?」

「うん、特にないな」

 拡声器を通して、爽やかな低い声が伝わってくる。司会の男の声がパリッと堅く塩っ気のある煎餅なら、回答した彼の声は清涼さを感じさせるミントだろうか。

(うーん、見えねえ)

 爪先立ちでは埒が明かず、リュウヤはぴょんぴょんと小さくジャンプした。

「つえぇな、やっぱ」

「前回は準優勝? だっけか?」

「でもあのときは魔法使用が許可されてたから。決勝の相手は炎魔法使ってたでしょ? 純粋に剣だけで闘ったらスティーリア大佐がいちばんってことかしらね」

「さすが次世代の――ってとこか」

「見ろよ、あの涼しげな顔。さっきから三試合くらい連続で出てるのに汗一つかいてやしない」

「はぁ……恰好いいわぁ、シリウス様」

「あの麗しい見目で、お強くて。あんな方に愛されたら最高ねえ」

 観客たちの話し声がざわざわと波のように広がっていく。

「ここで十五分ほど休憩を挟みます。次の試合は先ほど勝ち抜きましたこの二人、騎士警備団所属キリング少佐と薪屋のヒュールー氏! 続いて煉瓦職人ビリィク氏と旅の剣士マリエッテ嬢の対決だ!」

 司会の男が腕をぶんぶんと頭の上で振るのが、人の頭越しに見える。

「リュウヤくん」

 ジャンプを繰り返していると、上着の裾を引っ張られた。アリスがこちらを見ていた。

「帰りませんか。リュウヤくん、お腹空いてますよね」

 ね、と幼い子どもを説得するように言う。カツサンドは食べ終えたらしく、小さく折り畳んだ包み紙をきゅっと握っている。

「う、うん」

 正直、全然見れていないからもう少し留まりたい。後ろ髪を引かれながらも、リュウヤは大人しく首を縦に振った。

「えー、その次は連勝中のこの男――」

 司会の男の声が溌溂と響く中、二人はくるりと広場に背を向ける。
 リュウヤは歩きながらサッと両腕の紙袋の数を確認し、アリスの横にぴたりとついた。

「すっげえ人だったな。ああいうのってやっぱ人気あるんだ」

 アリスは見るともなしに目の端で彼をちらりと見た。不機嫌、というのとは違う微妙な表情を浮かべている。
 そうして歩いていると、後ろから近づいてくる気配が一つ。

「失礼。君、」

 清涼感と凛々しさを含んだ低い声に呼び止められ、リュウヤは振り向いた。それに続いてアリスも足を止め、マフラーに頬を埋めたまま、声の主の方を見やる。
 そこに立っていたのは、背の高い一人の青年だった。
 銀糸のような長髪を一つに纏め、さらさらと流している。エメラルドをはめ込んだような右眸。反対側の目は黒いバンドで覆われている。黒のハイネックに灰色のだぶっとしたパーカー、黒い細身のパンツといったシンプルな服装ながら、引き締まった体型であることが窺える。端整で甘い顔立ちに均整の取れた体つきと、まるでよくできた彫刻のようだ。

(誰このイケメン)

 見知らぬ美形にリュウヤはたじろいだ。
 青年は、じっとリュウヤの隣――アリスを見つめる。やがて、やっぱり、と薄い唇の奥から掠れた音を漏らした。

「ようやく会えた。久しいね、俺の可愛いアリス」

 整った顔がさらにきらきらしくなる。爽やかな声音に微かな甘ったるさが足される。

「えっと、知り合い?」

「……いえ、」

 リュウヤが小声で訊ねると、アリスはスッと目を細めた。唇の端をきゅっと引き結ぶ。

「他人です」
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