1章 カンパニュラの祝福

 クラクションが低く、長く轟いた。
 脳に直接突き刺すように。

「…………っえ、」

 銀色に太陽光を反射して、大型トラックのボディが視界に迫ってくる。
 開いたままの口から、間抜けな音が漏れた。

――甲高い悲鳴。
 焦りが飛ぶ声。
 歩道から聞こえてくるそれらも、自分を覆う複数の影も、遠くで微かに鳴りわめくサイレンの音も、すべて別のものに上書きされていく。
 痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。
 全身が軋むように痛みが襲ってくる。
 それは絶え間なく、呼吸すらも拒むように。
 早くバイト先に行かないといけないのに。体を起こそうとするも、接着剤で地面にくっつけられたみたいに重くて動けない。
 頭の奥で、がんがんと鐘のような音が鳴り響いていた。
 熱された固いアスファルトの上で、じっとりと湿っていく感触があった。
 こんなによく晴れてるのに。
 指先から、爪先から、先の方から芯までゆっくりと冷えていくような……。

 その日、彼は確かに大型トラックと衝突して、確かに命を落とした。



 ***



 スマホのアラームが鳴らなかった。
 と、気付いたのは、八時を回ってからだ。
 指一本分開けておいた窓の隙間から、蝉の鳴き声が侵入してくる。
 薄いカーテンから差し込む陽光に耐えきれなくなって、竜也りゅうやは布団から這い出た。床に置いていた丸時計を見る。
 長針は二を、短い針は八のすぐ近くを示している。

「はちじ……八時? 過ぎ⁉」

 寝過ぎた。
 昨夜――もはや今日の未明だが、二十四時間スーパーの深夜帯のシフトを終えて帰宅したのが、四時半。軽く寝て、七時には起きようと考えていたのに。

「うあー……やべぇ……ってか、アラーム! おれ、アラームかけたよね?」

 慌てて傍らのスマホを引っ掴んだ。電源を入れるが、画面の明る
さは変わらない。真っ暗なままだ。

「あー、充電切れてら。充電したと思ったのに」

 眉を下げて嘆きながら、竜也は、取り込んでそのままの洗濯物の山からフェイスタオルを引っ張り出した。洗面台へ向かい、蛇口を捻る。ぱしゃぱしゃと顔を洗うと、目がすっきりした。不規則な生活のくせにニキビひとつない肌は、ご近所のご婦人たちや従姉から羨ましがられる。撫でるようにタオルで水気をとり、次は家を出るまでにすることの順番を考え始めた。

「次のバイトが、十時から。三十分前に向かえば間に合う。で、今日は明衣めいねーちゃんの弁当の日だから、あれとそれとを作って、プラスこれとどれとを添えて…………」

 小鍋に水を入れ、火にかける。
 おんぼろ冷蔵庫の下の段から、冷凍しておいたブロッコリーを出す。
 昨日バイトに行く前に作っておいた、ベーコンとほうれん草の炒め物を温める。
 卵を二個取り出し、白だしを加えて混ぜておく。

「明衣ねーちゃんには悪いけど、簡単なもんしかできねえな。アラームが鳴ってればなー」

 ぼやきながら、竜也は沸騰した小鍋にブロッコリーを入れた。
 同時作業を自然とこなす手際の良さは、これまで幾つもかけもちしてきたバイトで培ったものだ。覚えがよい、と褒められることもあるが、単純に経験が多いだけである。
 緑の鮮やかになってきたブロッコリーをザルにあげ、小鍋を下げて玉子焼き器を火にかける。温まったところに油を引き、卵液を流し入れた。じゅう、じゅわっ、と良い音がして、つい口角が上がる。

「お、いい色じゃん」

 出来上がったおかずを平皿に乗せ、しばらく熱をとる。
 その間に着替えを済ませておく。黒いカーゴパンツは胴回りにゴムが入っていて、履いていて楽だ。洗いたての半袖パーカーは、五月晴れのような水色。高校に入学するとき、父が買ってくれた腕時計を左手に巻く。これでひとまず着替えは完了。
 十時からシフトを入れているのは、市民プール監視員のアルバイト。どうせ向こうで海水着に着替えるのだが、この前海水パンツを家で履いてから行ったら普通のパンツを忘れて恥ずかしい目に遭った。そんなわけで、水着に着替えるのは向こうの更衣室ですることにしている。
 ふと、ごちゃごちゃと物が散らばった床に、鈍色のホイッスルがあるのが目に入った。プール監視員のバイトでいつも使っている笛だ。竜也はそれをズボンの横ポケットにしまった。後で、と思うと大抵忘れてしまうものだから、思いついたときに思いついたことをやっておかないといけない。
 そうこうしているうちに、家を出る時間が近づいてきた。
 従姉専用のタッパーに玉子焼きと茹でブロッコリー、おにぎり、ベーコンとほうれん草炒めを詰めこみ、保冷剤とともに保冷バッグに入れる。

「あ、」

 海水パンツとメモ帳、財布を入れたトートバッグを引っ掴んだとき、スマホを充電していないことに気付いた。

「九時……二十九分かー……間に合わないな」

 いいや、なんとかなるだろ、とひとりごち、スニーカーに足をつっかける。

「行ってきます」

 声をかけた先は、奥にある写真か、自分自身にか。
 玄関の戸を開けると、夏の日差しが飛びこんできて、部屋の中を眩しく照らした。



 明衣ねーちゃん、というのは、竜也の従姉である。
 彼が両親を亡くす以前から仲良くしてくれ、今では親族の中でいちばん頻繁に連絡を取り合っている。
 先月、馬車馬のようにこき使われていた会社を辞めてから、明衣はマンションの一室に引きこもり気味。お互い一人暮らし同士だが、明衣は全く料理をしない。インスタント麺と栄養ドリンクばかり摂っているので、こうして竜也が弁当を作って配達することに決めている。
 竜也の住む古アパートから明衣のマンションまでは、階段含めて、徒歩五分。
 インターフォンを鳴らすと、「ぁい」と地を這うような低音が唸った。最初の「は」が掠れ切っている。いま起きたところらしい。
 竜也は、すぅと息を吸い直して、

「リュウヤ食堂でっす! 明衣ねーちゃん、おは!」

「……朝から元気だな」

 呆れたように部屋の主は呟き、鍵開けてるから入ってこい、と投げやりに言った。

「ねーちゃん、それはさすがに不用心だろ」

 失礼します、と一礼してから、ドアを開ける。
 ひんやりとした冷気が、汗ばんだ肌とシャツの間を通り抜けていく。

「お邪魔しまーす……って、そこまで来たなら出てよ」

 玄関の前に、半袖のティーシャツと高校名が印字されたハーフパンツを身に着けた塊がいた。伸ばしっぱなしにしたセミロングの黒髪を崩れかけた団子にまとめ、仁王立ちしている。
 八歳上の従姉、明衣だ。

「暑いのがいやだから、金かかるの承知でエアコンつけてるんだ。一秒でも外に出たくない」

 明衣は、不機嫌そうに言った。目の下の隈が青々しい。だらしない恰好と相まって、実に不健康そうな見た目だ。目鼻立ちの良い美人なのに勿体ない。

「え、じゃあ、買い物とか、どうしてんの」

「夜、コンビニに行ってる」

「吸血鬼じゃん」

 竜也は眉尻を下げた。

「体壊すよ。ほら、これ持ってきたからさ。ちゃんと野菜も食べなよ」

「うるさい十九歳。つやつやの肌しやがって」

 明衣が苦虫を嚙み潰したような顔をした。それでも竜也の差し出した保冷バッグを素直に受け取り、抱きかかえる。

「先週みたいに、ほうれん草だけ残してたら怒るかんね」

「はいはい。ほれ、どうせ今日もバイトなんだろ。早く行きな」

 素直じゃない従姉は、しっしっと犬を追い払うように手を振った。

「わかった、わかった。……あ」

 ドアノブに手をかけ、竜也は振り向く。
 ニッと上げた口角から、八重歯がささやかに覗いた。

「モバ充、貸してくれる?」



 腕時計は、九時四十二分を指す。

「う、ちょっとやばいかも……走るか」

 明衣と話しすぎただろうか。ここから市民プールまでは、徒歩十分、走って七分ほど。ただ、途中で横断歩道があるから、その待ち時間も考えると危うい。
 スニーカーの爪先が、とん、とアスファルトを蹴った。
 街路樹が影を落としているものの、陽光と紫外線が遠慮なく降りそそいでくる。思わず片方の手で庇をつくった。目を細め、前方から走ってくる自転車を器用に避けて進む。トートバッグの中で、充電の熱を帯びたスマホが揺れる。日傘を傾けて歩いているおばあちゃんを追い越す。歩道の傍らにある、綺麗な直方体に刈られた植え込みから、ガサッと音がした。
 横断歩道の信号が、青に変わった。
 ほんの少し速度を緩め、走り抜けようとした。
 目を刺すような太陽の光を、どこかの排気口から出てきたぬるい風を、ゆらゆらと揺らめく夏の熱気を全身に浴びる。
 右側から、鈍い色の車体が近づくのも知らずに。



 ***



 ぱちり、と静かに目蓋を押し上げた。
身体の熱がすべて失われたみたいに、地面と接地している背中がひんやりしている。

「痛くない……」

 痰が絡んだような声が耳元で響いた。それが自分の喉から発された音だと気付き、竜也は身を起こす。洗いざらしの黒ズボンに、爽やかな水色の裾が重なっている。心臓が、一度大きく脈打った。
 腕は、ある。足もついている。顔にぺたぺたと触れてみる。本来あるべきところに目鼻があり、乾いた頬の手触りだけが残った。
 顔を上げる。
 自分以外には誰もいない。
 先の横断歩道でも、病院でも、今朝急ぎ足で出てきたぼろアパートの部屋の中でもない。
 そこは、真っ暗闇だった。

「え、だっておれ、トラックに――」

 トラックに、と繰り返すと、重い衝撃がよみがえってきた。骨の軋む感覚。じっとりと滲む汗に入り混じった赤い液体。鼻から脳天を直に突き抜けていく、鉄の臭い。それらは程度を増し、残酷を訴え、気力を奪い取る。
 くらくら、クラクラと目の前が歪んでいくような思いがした。
 あれは現実に起こったことだ。
 自分の身に起きたことだ、と改めて解った。

「おれ、死んだの……?」

「仰る通りですよ、緒方竜也さん」

 手のひらに顔を埋めていると、背中から声がかかった。
 誰もいなかったのに。
 竜也はおそるおそる振り向いた。
 黒い空間の真ん中に、ぽつんと白っぽい人物が浮かび上がる。ワイシャツに真っ黒のネクタイ、灰色のスラックスを合わせた、サラリーマン風の地味な男だ。街ですれ違っても記憶に残らないような、主だった特徴のない人物である。
 誰だ、と思わず後ずさってしまう。構わず、男はこちらへ足を進めてくる。左脇に抱えていた分厚い青色のファイルを持ち直し、ぱらぱらとページをめくった。

「えー、ごほん。緒方竜也おがたりゅうやさん、で間違いないですよね」

「は……」

「御返事は、はいかいいえで。中途半端だと時間がかかりますでしょ?」

「は、はい……」

 柔らかい口調で咎められ、竜也は小さく体を引く。
 よく見れば男の頭上に、光る輪が浮かんでいた。蛍光灯のような光り方をしている。

「んんー……どうしましょうか。あなた、間違って死んじゃったんですよねえ」

 彼は二色ボールペンを自らの顎に押しあてて、唸った。ついでに、耳を疑うことを言ってのける。

「…………は?」

 ぽかんと口を開けたまま、サラリーマン風の男を凝視する。

「こちらの不手際か、あっちのミスかは分かりかねますけど、ともかく一度死んじゃったし、どうされます?」

「いや……いやいやいや、ちょっと待って⁉」

「はい? どうされました?」

 男がファイルから顔を上げ、首をかしげた。

「あぁ、こちらが名乗っていませんでしたね。これは失敬。魂管理局人間係の常世環とこよたまきと申します」

「じゃなくて! いや、あの、それもあるけど……とりま、ここ、どこっすか」

 ぱたん、とファイルを一旦閉じ、彼は敬礼してみせた。竜也の声がだんだんしぼんでいく。

「はい? ……ありゃ、説明してなかった感じですかー。困るなあ、まったく」

 常世が、やれやれ、と空いている方の手で後頭部をかく。

「では、簡単にご説明を。緒方さんが今いるここは、言うならば死後の世界です」

 緒方竜也。享年十九歳。死因、交通事故。細かく言えば、胸部損傷による心肺停止。大型トラックと衝突後、救急車で市民病院に搬送された。が、運悪くそのまま死亡が確認される。

「ちなみに、運転手さん、夜遅くの勤務が続いていて、判断能力が落ちていたみたいですね」

「おれと結構近い状況っすね。気ぃ付けよ」

 人間を始めとした生物の多くは、あらかじめ寿命が定められているという。
 生まれてから死ぬまではあちらの世界、死んでから別の生を受けるまではこちらの世界。一つの魂は二つの世界を行き来し、そうして生を繰り返す。
 その生と死の中継地点を担うのが、魂管理局である。

「である……って言われても」

「本当は、役所で書類手続きしなきゃなんですけど。ま、ちょっと異例でして」

 常世が引きつった笑みを浮かべた。

「先ほど、『間違えた』って申しましたでしょ? 実は、本日こちらに来るのは別の魂だったんです」

 色艶のよい手を、ぱちんと合わせる。すると、暗闇から新たなファイルが現れた。

「え? ……え⁉」

 魔法のような光景に、竜也は目を疑う。
 常世は平然と携えていたファイルを小脇に抱え、新しいファイル――柔らかい桃色の表紙を開いた。

「ええと。本日、寿命を迎える予定だったのは、猿のメープルさん、九歳ですね。一応、常世の管轄外なんですけど」

「誰⁉ 猿⁉」

「死因は緒方さんと同じものです。つまり、緒方さんの死はイレギュラー」

 いれぎゅらー……と、竜也は、憮然とした表情で反復する。眉間をきゅっと寄せ、猿の赤ちゃんのような顔である。

「メープルさんが大型トラックにぶつかって亡くなるのを、緒方さんが代わりに衝突されたことで妨げられたんですよ。元々、あなたの寿命はもう少し先でした」

「先? どれくらい先なんすか」

「三日後です」

「短っ」

 冗談じゃない。まだ返済額の半分の半分にも辿り着いていないのに。
 背筋に冷汗がぽとりと垂れた。

「そう、短いんですよ。正直いま戻ったとしても、またすぐこちらに来るでしょう。三日ですよ? 三日。手続きも、何もかもやり直さなきゃいけませんし、そのうえ期限は三日。常世だって家に帰りたいですよ、ここんとこ働きづめですからね。魂管理局なんて年がら年中人手不足なのに、こうしてまたミスが起きる……」

 三日、三日と連呼しながら、常世の口調は愚痴混じりの暗いものになっていく。
 それをよそに、竜也は現在の状況を見つめる。

(父さんの借金が総額二千万。今まで返したのは三百万……今月分のバイト代だってどれもまだ貰ってない。なのに死んじゃった……。でも間違え死だったわけで、いやいや三日分の稼ぎじゃ大した額にはならないっていうか、おれ、交通事故だったわけで、そしたら入院生活――)

「だー! ついていけない! きゃぱおーばー!」

「みなさん、よく仰います」

 髪をかきむしり、竜也は後ろ向きに転がる。生来、考えこむのは好きじゃない。高校の定期試験だって、赤点を回避すればいいと思っていたタイプだ。
 転がりまわる青年に、常世が、どんよりした顔でにこりと頷いた。まるで育児に疲れた母親が、重い腰を上げて、泣いている赤ちゃんを安心させるように。

「緒方さん、緒方さん。提案が一つ」

 常世は二色ボールペンをくるりと回した。青いファイルから一枚の白紙を取り出し、ペンを走らせる。

「緒方竜也さんとしての寿命三日と、あなたの来世――お名前は仮にAさんとしましょう、Aさんの寿命とを合わせるんです。そうすれば寿命の総日数は変わらない。イレギュラーには、イレギュラーで対応しましょう」

「え、……え、どういうこと?」

 紙の上に書かれたのは、二つの丸。左の丸には「緒方竜也、残り三日」、右には「来世」と書き入れる。それらをぐるりと太い線で囲む。

「勿論、巻き込んだのはこちらです。おそらく魂管理局の不手際です。だから特別に、緒方さんには来世の選択権を授与しましょう。来世、また人間になりたいだとか、今度は犬になりたいとか、そういったご希望があればできるかぎり叶えます」

 常世が目尻に皺を寄せて微笑んだ。これで不問にしてもらえないか、と眸の奥がささやいていた。
 竜也は、視線を下に移した。地面という概念のないような、真っ暗い地盤に。

「…………おれはおれのままで、借金と無縁の人間になりたい、かな」

 ぼそりと呟く。
 父親が遺していった借金は、竜也に押しつけられた。
 いつも優しく笑っていた父は、あれをどこで作ってきたのだろうか。
 家賃の安い古アパートへ引っ越し、生活費を切り詰めても、そうそう貯められる金額ではない。目についた求人チラシに手あたり次第、電話をかけ、足を運んできた。月末の数日をもやしと水で切り抜けたこともある。現在、食生活が安定していたのは、明衣の支援である。食べ盛りの竜也にとっては、地獄に蜘蛛の糸だった。
 もっと見目の良い容姿になりたいだとか、頭がよくなりたいだとかよりも、とにかく借金と離れたい。あんなの、ただの枷だ。重荷だ。さっさと取り払い、軽くなった背中に弁当を詰めたリュックを背負って明衣のところへ行きたい。時間を気にせず、遊びまわりたい。

「それは……今の緒方さんの状態で、異なる世界に行きたいということですかね?」

 常世が、瞬きを繰り返した。顔は竜也に向けたままだが、さらさらと紙に書き留めているらしく、右手が一生懸命動いている。

「ん……? まあ、よく分かんないけど、そういうことになるのかな?」

 曖昧に頷くと、目の前の男はボールペンをファイルに挟んだ。

「ご希望どおりだと、ちょーっと常世の管轄外になりますね。でも、叶えますよ」

 常世が右腕を掲げる。
 ぱちん、と指が音を奏でた。

「え?」

「それでは緒方さん、よき生を」

 笑みを深くして、常世は、ひらひら手を振った。頭上に浮かぶ輪の光が強く、眩しさを増していく。
 視界に映る黒を光が覆い尽くす。
 竜也は半ば反射的に、ぎゅっと目を固く瞑った。
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