毒を喰らわば、
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思い出した。どうしてここにいるのか。どうして彼の声に聞き覚えがあったのか。どうして包帯を巻かれているのか。どうして記憶が朧気だったのか。どうして彼らの嘘を疑いもせず信じていたのか。
信じていたかったから。あまりに自分に都合の良い夢のようだと思っていた、分かっていたのに。それが現実であれば良いと思ってしまったから。
今までのすべてが悪い夢であってほしいと、願ってしまった。
「自分だけ、救われるつもりか?」
横たわった〝先生だったもの〟がくらげを憎らしげに見上げる。尤もな言葉だと思った。あの日、復讐を遂げようとした彼を殺したあのとき、くらげもすぐに後を追うつもりだった。なのに、彼女は今もなお無意味で無価値な呼吸を繰り返している。彼はもう、くらげに文句を言うための息ひとつ吸うことができないというのに。
高尚な理由があったわけではない。くらげは彼を憎からず思っていた。そんな彼が、復讐の業火で仇も、世界も、自分自身をも燃やす様を見ていられなかったから。もう終わらせなければいけないと思ったから。だから殺した。そうしなければ、彼でも彼自身をもう止められないのだと分かっていたから。
だから、すべての罪を背負って死ぬつもりだった。事実、自分がいなければこんな研究早々に見切りをつけられていたに違いない。そうであれば、こんなことにはなっていなかったはずだ。ナイフが手に届く場所になければ、誰かを傷つけようだなんて誰も考えないはずだ。
最低で、最悪の手段がそこにあってしまったから。誰の中にも存在する悪魔が囁いてしまったから。だから彼はあぁするしかなかった。
だから、殺すしかなかった。
「本当に?」
そう思わなければ、狂ってしまう。いや、くらげはとうに狂っていた。
自分のせいで研究所はなくなり、育ての親をその手にかけ、平和の礎となることが決まっていたのにもかかわらず、どうしてか罪に問われることもなくあたたかな箱庭で延命されている。夢にまで見た幸せすぎる夢を起きたまま見ているなんて、くらげには耐えられなかった。
監視の目を掻い潜っては、何度も自身を傷つけ、何度も無に帰ろうとした。阻止される度、うわ言のように「死なせて」と繰り返し懇願した。
そうしてくらげは心が壊れる度、七悪の薬を投与され、眠らされる。目を覚ますと事件前後の記憶をなくしていた。
しかし、あらゆる手段を用いて〝罪〟から遠ざけられ、穏やかな生活を送っていても、何かがきっかけで彼女は必ず全てを思い出してしまう。
その度リセットを繰り返し、くらげとの〝はじめまして〟の回数に比例して夜桜家は、〝何が彼女の幸せなのか〟について議論する機会が増えた。
消えぬ傷と共に、脳を痛み止めに浸してまで生かし続けることが幸せなのか? もはや病的なまでの、自罰精神しか持たない彼女の望みを尊重することが幸せなのか? 答えはそう簡単に出るものではなかった。
くらげを救うと決めた七悪は、一番近くで彼女を見守り続けた。自分が拾った命に「死なせてくれ」と言われることは、医者としてどれだけ辛かったか。齢十三の子どもにはどれだけ辛かったことか。
それでも、彼はくらげに恨まれることを承知で、罵られる覚悟で、自分のエゴで、彼女を生かし続けた。
『生まれてきてはいけなかった』
悲しい諦めの中でひとり佇んでいるくらげが、いつか「生きていて良かった」と口にできる日が来ることを祈っていた。願っていた。信じていたかった。
七悪は、くらげが幸せになる未来を諦めたくなかった。
何度も、何度もやり直してきたことで薬の効き目が薄くなり、くらげが目を覚ました途端窓から飛び降りようとした前回。遂に当主の選択が迫られた。
『もう一度だけっどうかもう一度だけ……!』
力なく七悪の腕に抱かれたくらげに与えられたラストチャンスが、あの穏やかで閉鎖的な暮らしだった。
常人では壊れてしまうほどの濃度の薬を投与し、記憶も、自己の認識も、日付感覚も、何もかもをあやふやにして、ユーフォリアに溺死させた結果が、あのくらげだった。
いつもの〝夢〟の中に立ち尽くす。また眠らされたことを悟ったと同時に、くらげは〝理由や動機は分からない〟が、彼らが自分の命を救い、記憶を消してでも延命させていたことを断片的に思い出した。
毒だけが必要なら、あれほど世話を焼く必要はない。適当な部屋に放り込んで、最低限栄養をとらせさえすれば十分だ。それを、何なんだ。彼らは。
家族を殺そうとした人間を、生かしておいても何のメリットもない人間を、温もりを注ぐべきでない人間を、
〝自分が楽になるためなら育ての親すら手にかける〟人間を、まるで、まるで────
『俺を、殺すつもりか』
くらげの手首を掴んだ男は、あのときくらげが自ら手にかけた彼は、どんな顔をしていたのだったか。
思い出そうとする度、 頭が痛む。「思い出すな」と鳴り響く警鐘の合間に、「ここにいてはいけない」と訴える声が聴こえる。どこに行けば良いのかも分からないまま、ただここ以外の場所へと向かうために歩き始めた。
進むべき道も分からず、そこに道があるのかも分からない。先の見えない暗闇から抜け出したい一心で、重い身体を引き摺る。見えない段差から落ちて地に伏しても、くらげは進み続けた。
何度壁にぶつかっても、足がこわばって歩けなくなっても、膝を擦ってでも、這いずってでも進んだ。いつか、どこかへ辿り着けると信じて。
でも、どこへ? どこに行っても、どこを探しても、見つかるはずがない。居場所はもうどこにもないのだから。
先の方に、淡い光が見えた。くらげは光へと手を伸ばしかけて、やめた。諦めの中で足を止めてしまった。
あれだけ必死に追い求めた光を目の前にして、彼女は気付いてしまった。思い出してしまった。自分は、あたたかくて柔らかいものに手を伸ばしてはならないことを。それに触れたいと願うことすら許されないことを。
自分のような者が触れて、その光が消えてしまったら。
『あなた、血が……』
白いハンカチが、白い手が、清らかな彼女が赤く赤く染まって溶けていく。
くらげは消えゆく彼女だったものを、彼女の優しさを慌てて掻き集め、胸に抱きかかえる。抱えたものを頬を寄せると、替えたばかりのシーツの匂いがした気がした。
指の隙間から、腕の隙間から優しさがこぼれ落ちるのも厭わず、くらげは諦めから立ち上がった。そして、今度は光に背を向けて歩き出す。あたたかな光から一歩でも、醜悪なものを遠ざけるために。
『生まれてきちゃいけない生命なんて、あるはずないよ』
ちっぽけな手からすり抜け落ちても、くらげがもらった優しさは彼女の中にあった。腕の中にはなく、胸の中にもないが、確かに。彼女の中に残っていた。
〝思い出〟だけで十分だった。それさえあれば、文字通り棒のようになってしまった足を動かすことができた。光から遠ざかり、暗闇を進むのも怖くなかった。
そうして暫く歩き続けると、大きな扉へと辿り着いた。ようやく現れた〝終わり〟にくらげは安堵と緊張が入り交じった感情を覚える。
意を決して、〝外〟へ出ると、冷たく濡れた感触が足の裏から伝わってくる。
足元を見ると、何メートルも先にある門まで続いているレンガ造りの地面が見えた。
頭の先から足の先までぐっしょりと濡らす雨粒を拭うこともせず、くらげは重く閉ざされた門へと歩みを進めた。
「その門より一歩でも外に出れば、首の装置が作動し貴様の心臓は止まるぞ」
信じていたかったから。あまりに自分に都合の良い夢のようだと思っていた、分かっていたのに。それが現実であれば良いと思ってしまったから。
今までのすべてが悪い夢であってほしいと、願ってしまった。
「自分だけ、救われるつもりか?」
横たわった〝先生だったもの〟がくらげを憎らしげに見上げる。尤もな言葉だと思った。あの日、復讐を遂げようとした彼を殺したあのとき、くらげもすぐに後を追うつもりだった。なのに、彼女は今もなお無意味で無価値な呼吸を繰り返している。彼はもう、くらげに文句を言うための息ひとつ吸うことができないというのに。
高尚な理由があったわけではない。くらげは彼を憎からず思っていた。そんな彼が、復讐の業火で仇も、世界も、自分自身をも燃やす様を見ていられなかったから。もう終わらせなければいけないと思ったから。だから殺した。そうしなければ、彼でも彼自身をもう止められないのだと分かっていたから。
だから、すべての罪を背負って死ぬつもりだった。事実、自分がいなければこんな研究早々に見切りをつけられていたに違いない。そうであれば、こんなことにはなっていなかったはずだ。ナイフが手に届く場所になければ、誰かを傷つけようだなんて誰も考えないはずだ。
最低で、最悪の手段がそこにあってしまったから。誰の中にも存在する悪魔が囁いてしまったから。だから彼はあぁするしかなかった。
だから、殺すしかなかった。
「本当に?」
そう思わなければ、狂ってしまう。いや、くらげはとうに狂っていた。
自分のせいで研究所はなくなり、育ての親をその手にかけ、平和の礎となることが決まっていたのにもかかわらず、どうしてか罪に問われることもなくあたたかな箱庭で延命されている。夢にまで見た幸せすぎる夢を起きたまま見ているなんて、くらげには耐えられなかった。
監視の目を掻い潜っては、何度も自身を傷つけ、何度も無に帰ろうとした。阻止される度、うわ言のように「死なせて」と繰り返し懇願した。
そうしてくらげは心が壊れる度、七悪の薬を投与され、眠らされる。目を覚ますと事件前後の記憶をなくしていた。
しかし、あらゆる手段を用いて〝罪〟から遠ざけられ、穏やかな生活を送っていても、何かがきっかけで彼女は必ず全てを思い出してしまう。
その度リセットを繰り返し、くらげとの〝はじめまして〟の回数に比例して夜桜家は、〝何が彼女の幸せなのか〟について議論する機会が増えた。
消えぬ傷と共に、脳を痛み止めに浸してまで生かし続けることが幸せなのか? もはや病的なまでの、自罰精神しか持たない彼女の望みを尊重することが幸せなのか? 答えはそう簡単に出るものではなかった。
くらげを救うと決めた七悪は、一番近くで彼女を見守り続けた。自分が拾った命に「死なせてくれ」と言われることは、医者としてどれだけ辛かったか。齢十三の子どもにはどれだけ辛かったことか。
それでも、彼はくらげに恨まれることを承知で、罵られる覚悟で、自分のエゴで、彼女を生かし続けた。
『生まれてきてはいけなかった』
悲しい諦めの中でひとり佇んでいるくらげが、いつか「生きていて良かった」と口にできる日が来ることを祈っていた。願っていた。信じていたかった。
七悪は、くらげが幸せになる未来を諦めたくなかった。
何度も、何度もやり直してきたことで薬の効き目が薄くなり、くらげが目を覚ました途端窓から飛び降りようとした前回。遂に当主の選択が迫られた。
『もう一度だけっどうかもう一度だけ……!』
力なく七悪の腕に抱かれたくらげに与えられたラストチャンスが、あの穏やかで閉鎖的な暮らしだった。
常人では壊れてしまうほどの濃度の薬を投与し、記憶も、自己の認識も、日付感覚も、何もかもをあやふやにして、ユーフォリアに溺死させた結果が、あのくらげだった。
いつもの〝夢〟の中に立ち尽くす。また眠らされたことを悟ったと同時に、くらげは〝理由や動機は分からない〟が、彼らが自分の命を救い、記憶を消してでも延命させていたことを断片的に思い出した。
毒だけが必要なら、あれほど世話を焼く必要はない。適当な部屋に放り込んで、最低限栄養をとらせさえすれば十分だ。それを、何なんだ。彼らは。
家族を殺そうとした人間を、生かしておいても何のメリットもない人間を、温もりを注ぐべきでない人間を、
〝自分が楽になるためなら育ての親すら手にかける〟人間を、まるで、まるで────
『俺を、殺すつもりか』
くらげの手首を掴んだ男は、あのときくらげが自ら手にかけた彼は、どんな顔をしていたのだったか。
思い出そうとする度、 頭が痛む。「思い出すな」と鳴り響く警鐘の合間に、「ここにいてはいけない」と訴える声が聴こえる。どこに行けば良いのかも分からないまま、ただここ以外の場所へと向かうために歩き始めた。
進むべき道も分からず、そこに道があるのかも分からない。先の見えない暗闇から抜け出したい一心で、重い身体を引き摺る。見えない段差から落ちて地に伏しても、くらげは進み続けた。
何度壁にぶつかっても、足がこわばって歩けなくなっても、膝を擦ってでも、這いずってでも進んだ。いつか、どこかへ辿り着けると信じて。
でも、どこへ? どこに行っても、どこを探しても、見つかるはずがない。居場所はもうどこにもないのだから。
先の方に、淡い光が見えた。くらげは光へと手を伸ばしかけて、やめた。諦めの中で足を止めてしまった。
あれだけ必死に追い求めた光を目の前にして、彼女は気付いてしまった。思い出してしまった。自分は、あたたかくて柔らかいものに手を伸ばしてはならないことを。それに触れたいと願うことすら許されないことを。
自分のような者が触れて、その光が消えてしまったら。
『あなた、血が……』
白いハンカチが、白い手が、清らかな彼女が赤く赤く染まって溶けていく。
くらげは消えゆく彼女だったものを、彼女の優しさを慌てて掻き集め、胸に抱きかかえる。抱えたものを頬を寄せると、替えたばかりのシーツの匂いがした気がした。
指の隙間から、腕の隙間から優しさがこぼれ落ちるのも厭わず、くらげは諦めから立ち上がった。そして、今度は光に背を向けて歩き出す。あたたかな光から一歩でも、醜悪なものを遠ざけるために。
『生まれてきちゃいけない生命なんて、あるはずないよ』
ちっぽけな手からすり抜け落ちても、くらげがもらった優しさは彼女の中にあった。腕の中にはなく、胸の中にもないが、確かに。彼女の中に残っていた。
〝思い出〟だけで十分だった。それさえあれば、文字通り棒のようになってしまった足を動かすことができた。光から遠ざかり、暗闇を進むのも怖くなかった。
そうして暫く歩き続けると、大きな扉へと辿り着いた。ようやく現れた〝終わり〟にくらげは安堵と緊張が入り交じった感情を覚える。
意を決して、〝外〟へ出ると、冷たく濡れた感触が足の裏から伝わってくる。
足元を見ると、何メートルも先にある門まで続いているレンガ造りの地面が見えた。
頭の先から足の先までぐっしょりと濡らす雨粒を拭うこともせず、くらげは重く閉ざされた門へと歩みを進めた。
「その門より一歩でも外に出れば、首の装置が作動し貴様の心臓は止まるぞ」
