毒を喰らわば、
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「おはよう。よく眠れたかい?」
揺らめく影の中、黒い糸に指先が触れたところで、いつも夢から覚めてしまう。
所詮は夢だ。そこに意味があろうがなかろうが、目が覚めれば朧に消えてしまう泡沫に過ぎない。現に、目覚めた今となってはどんな夢だったのかよく思い出せない。
「はい。おはようございます、二刃さま」
瞼を刺す朝日に目を細めながら、くらげは窓際に立つ二刃に挨拶を返す。
くらげがこのあたたかい部屋で目を覚ましてから、五日経った。まだ自力でベッドから降りて歩き回ることはできないが、ひとりで身体を起こせる程度には動けるようになった。
主治医を名乗る少年と、二刃、この姉弟による献身的な看護のお陰だ。
食事を終え、また眠ったくらげが目を覚ますと、二人は彼女がこの部屋に運ばれた経緯を語った。
悍ましい人体実験と、日本だけじゃなく世界の治安まで揺るがす生物兵器の開発を止めるべく、スパイ協会や公務員スパイ協力のもと、彼女が軟禁されていた研究所は解体された。実験体たちは皆保護されたと言う。だが、くらげは〝状態〟が悪く命の危険にあったため、ひとりだけ姉弟の元に引き取られ治療されたのだった。
職員たちは全員身柄を拘束され、連行されたと聞いた途端、くらげはまだ自由の効かない身体を乗り出し食らいつくように〝先生〟の安否を問うた。
所長である彼は、多くの罪を犯した。あまりに多くの命を弄んでしまった。厳罰は免れられないだろう。外の世界を知らない無知なくらげでもそれは理解していた。
何を言っても彼の罪は変わらない。受けるべき罰も変わらない。そんなことは分かっている。
『せんせいは、ご無っ……いえ、どのような処遇に……?』
分かっているから、そう聞くことしかできなかった。
『……今は、スパイ協会にいる。処遇は政府や警察と協議中だよ』
少しの沈黙の後、二刃が重々しく答える。その答えを聞いて、くらげはシーツをきつく握り締め皺を作った。
震える喉を、巻かれた包帯の上から押さえて、彼女は言った。
『もし、もし処遇が決まったら、私にも同じだけの罰を与えてください……せんせいの罪は、私の罪です』
罪の重さを、命の重さを知らずにいられたなら。〝無知〟ではなく、〝無垢〟でいられたなら。くらげはこれほど苦しまずに済んだのだろう。罪を罪と知らず、自分の足元に転がる命だったものに気付かずにいられたら、どれだけ楽だったろうか。
かの哲学者は、無知は罪だと言った。くらげは自身の心を守るために、自身の血が何に使われているのかを深く知ろうとしなかった。知ろうとしないことは、間違いなく罪なのだ。なら、自分だけが助かることは許されない。
あの日、死の匂いが立ち込める部屋の中で、復讐を誓った彼の手を取ったあのときから。私の運命は彼と共に在るのだと思っていた。
『そういうことは、自分の足で歩いて、自分の頭で考えられるようになってから言いな』
額を中指で弾いた二刃が放った言葉の意味を考えながら、くらげは痛む額を押さえた。
『今はとにかく回復することだけ考えるこったね』
情状酌量の余地ありとして、くらげは罪に問われていないのだと後日主治医から聞かされるが、どこか納得のできない自分が彼女の中にいた。
それからだ。くらげの見る夢の中に黒い影が現れるようになったのは。
「またよく眠れなかったんだろう? 隠したって分かるよ」
「いえっそんな……眠れては、いるんです……ただ、」
休息を取っているはずなのに、どうしてか休まった気がしない。そうこぼしたくらげの傍に近寄り、二刃は俯いた彼女の小さな頭を撫ぜた後、ポンッと軽く叩いた。
「よし! 風呂に入るよ! モヤモヤしたものはシャワーで流すに限る!」
「風呂……ですか? でもこの手じゃ」
くらげの手は、親指を除いた四本の指が包帯で一纏めにされていた。痛ましい傷があるから、と説明されたが、自傷癖のある実験体が同じように手を拘束されていた光景をくらげは研究所で見たことがあった。
「私が洗うから問題ないよ」
そう言うや否や、二刃は目で追えないほどの速さで脱衣所にくらげを運び、病衣を脱がせ、包帯が濡れてしまわないようラップやビニールでグルグル巻きにした。しばらくシャワーを出しっ放しにして時折手を翳すその行為に、何の意味があるのか分からないまま、くらげは風呂椅子に座って二刃を眺めていた。
「そうだ、これを忘れてたね」
「あの、これ……は?」
「ん? シャンプーハットだよ」
「しゃんぷーはっと……」
二刃はくらげの長い髪を一束にまとめ、シリコン製のそれを被せる。
研究所にいた頃も、風呂には入っていた。しかし、湯船に浸かってゆっくりとしたことはなく、風呂と言えば、最低限身体の清潔さを保つために浴びるものだとくらげは思っていた。
「熱くないかい?」
「だ、大丈夫、です」
二刃の華奢な指が髪を梳かす。梳かされた隙間から染み込むように、温かい湯が髪を、肩を、背中を濡らしていく。十分に濡れたことを確認すると、シャンプーを馴染ませた手が、程よい強さで頭皮を揉み解していった。
ひとに風呂に入れてもらうのは、くらげにとって初めての経験だった。ただシャワーを浴びて、洗剤で洗い、流すだけだったはずの風呂が、ひとに入れてもらうとこんなに違うものなのか。と、感動にも似た何かが胸をあたためる。
それと同時に、申し訳なさがくらげの頭を冷たくした。
「申し訳、ございません」
「急に何さね、あ、頭流すからちょっと上向きな」
モコモコになっていた泡が身体を伝い、排水口へと吸い込まれていく。一通り流し終えると、二刃はくらげの謝罪について深堀することもなくコンディショナーのポンプを押していた。
「こんな汚い身体を、洗わせてしまって……」
実験の痕が残る傷だらけの身体や、ベッドから動けなかったせいで何日も風呂に入れていなかった身体のことを言っているのだと、二刃はすぐに気が付いた。伸びたい放題の白い髪は、枝毛だらけでゴワゴワとしていて、ろくに手入れもされていなかったのだろう。
いや、髪を手入れするということすら、研究所では教えられなかったのだろう。
「もっと早く、入れてやれば良かったね」
切っては縫われた痕がいくつも赤黒い花を咲かせている、くらげの身体に二刃の指先が触れる。
二刃の言葉を、汚れを早く落とすべきだったという風に受け取ったくらげは、恥ずかしそうに俯いた。俯いた拍子に、包帯で隠された項があらわになる。くらげ以外は知っているその下にある傷痕を思い、二刃の手が止まる。
痛かったろう、と口走りそうになるのを堪え、ボディソープを泡立て始めた。
「……傷のひとつやふたつ、見慣れてるからね。汚いだなんて思わないよ。汚いだなんて……」
シャンプー同様、モコモコになった泡を身体に滑らせ汚れを落としていく。傷痕の上を通る度、もう痛まない古いものでも二刃が細心の注意を払ってくれていることが肌から伝わってきた。まるで割れ物に触れるような、その手つきにくらげは少しくすぐったい気持ちになる。
「体力が戻ったら、ゆっくり湯船に浸かろう。それから髪も、兄妹に手先が器用な子がいてね。ちょっとばかし美容にうるさいけど、綺麗に揃えてもらおう」
初めてのドライヤーは音が大きく、心臓がばくばくしたが、そう語り聞かせる二刃の声はくらげがこれまで触れてきた何より柔らかく、彼女の手が触れている間は落ち着いていられた。
心地良い温風と、髪の一本一本まで丁寧に手櫛で梳かし乾かす手が風呂で体力を消耗したくらげを眠りに誘う。
「寝られるときに寝な。七悪には少し検査の時間を遅らせてもらうよう言っておくから────」
船を漕ぐ頭の中に、どこかで聞いたような名前が現れる。
どこで聞いたんだったか。最近、どこかで、何かで聞いたような気がするのに。上手く思い出せない。
ナナオ────?
『無事で良かったぁ!!』
くらげは眠りに落ちる間際、恐ろしいものを見たように目を見開いた先生の顔が見えた気がした。
揺らめく影の中、黒い糸に指先が触れたところで、いつも夢から覚めてしまう。
所詮は夢だ。そこに意味があろうがなかろうが、目が覚めれば朧に消えてしまう泡沫に過ぎない。現に、目覚めた今となってはどんな夢だったのかよく思い出せない。
「はい。おはようございます、二刃さま」
瞼を刺す朝日に目を細めながら、くらげは窓際に立つ二刃に挨拶を返す。
くらげがこのあたたかい部屋で目を覚ましてから、五日経った。まだ自力でベッドから降りて歩き回ることはできないが、ひとりで身体を起こせる程度には動けるようになった。
主治医を名乗る少年と、二刃、この姉弟による献身的な看護のお陰だ。
食事を終え、また眠ったくらげが目を覚ますと、二人は彼女がこの部屋に運ばれた経緯を語った。
悍ましい人体実験と、日本だけじゃなく世界の治安まで揺るがす生物兵器の開発を止めるべく、スパイ協会や公務員スパイ協力のもと、彼女が軟禁されていた研究所は解体された。実験体たちは皆保護されたと言う。だが、くらげは〝状態〟が悪く命の危険にあったため、ひとりだけ姉弟の元に引き取られ治療されたのだった。
職員たちは全員身柄を拘束され、連行されたと聞いた途端、くらげはまだ自由の効かない身体を乗り出し食らいつくように〝先生〟の安否を問うた。
所長である彼は、多くの罪を犯した。あまりに多くの命を弄んでしまった。厳罰は免れられないだろう。外の世界を知らない無知なくらげでもそれは理解していた。
何を言っても彼の罪は変わらない。受けるべき罰も変わらない。そんなことは分かっている。
『せんせいは、ご無っ……いえ、どのような処遇に……?』
分かっているから、そう聞くことしかできなかった。
『……今は、スパイ協会にいる。処遇は政府や警察と協議中だよ』
少しの沈黙の後、二刃が重々しく答える。その答えを聞いて、くらげはシーツをきつく握り締め皺を作った。
震える喉を、巻かれた包帯の上から押さえて、彼女は言った。
『もし、もし処遇が決まったら、私にも同じだけの罰を与えてください……せんせいの罪は、私の罪です』
罪の重さを、命の重さを知らずにいられたなら。〝無知〟ではなく、〝無垢〟でいられたなら。くらげはこれほど苦しまずに済んだのだろう。罪を罪と知らず、自分の足元に転がる命だったものに気付かずにいられたら、どれだけ楽だったろうか。
かの哲学者は、無知は罪だと言った。くらげは自身の心を守るために、自身の血が何に使われているのかを深く知ろうとしなかった。知ろうとしないことは、間違いなく罪なのだ。なら、自分だけが助かることは許されない。
あの日、死の匂いが立ち込める部屋の中で、復讐を誓った彼の手を取ったあのときから。私の運命は彼と共に在るのだと思っていた。
『そういうことは、自分の足で歩いて、自分の頭で考えられるようになってから言いな』
額を中指で弾いた二刃が放った言葉の意味を考えながら、くらげは痛む額を押さえた。
『今はとにかく回復することだけ考えるこったね』
情状酌量の余地ありとして、くらげは罪に問われていないのだと後日主治医から聞かされるが、どこか納得のできない自分が彼女の中にいた。
それからだ。くらげの見る夢の中に黒い影が現れるようになったのは。
「またよく眠れなかったんだろう? 隠したって分かるよ」
「いえっそんな……眠れては、いるんです……ただ、」
休息を取っているはずなのに、どうしてか休まった気がしない。そうこぼしたくらげの傍に近寄り、二刃は俯いた彼女の小さな頭を撫ぜた後、ポンッと軽く叩いた。
「よし! 風呂に入るよ! モヤモヤしたものはシャワーで流すに限る!」
「風呂……ですか? でもこの手じゃ」
くらげの手は、親指を除いた四本の指が包帯で一纏めにされていた。痛ましい傷があるから、と説明されたが、自傷癖のある実験体が同じように手を拘束されていた光景をくらげは研究所で見たことがあった。
「私が洗うから問題ないよ」
そう言うや否や、二刃は目で追えないほどの速さで脱衣所にくらげを運び、病衣を脱がせ、包帯が濡れてしまわないようラップやビニールでグルグル巻きにした。しばらくシャワーを出しっ放しにして時折手を翳すその行為に、何の意味があるのか分からないまま、くらげは風呂椅子に座って二刃を眺めていた。
「そうだ、これを忘れてたね」
「あの、これ……は?」
「ん? シャンプーハットだよ」
「しゃんぷーはっと……」
二刃はくらげの長い髪を一束にまとめ、シリコン製のそれを被せる。
研究所にいた頃も、風呂には入っていた。しかし、湯船に浸かってゆっくりとしたことはなく、風呂と言えば、最低限身体の清潔さを保つために浴びるものだとくらげは思っていた。
「熱くないかい?」
「だ、大丈夫、です」
二刃の華奢な指が髪を梳かす。梳かされた隙間から染み込むように、温かい湯が髪を、肩を、背中を濡らしていく。十分に濡れたことを確認すると、シャンプーを馴染ませた手が、程よい強さで頭皮を揉み解していった。
ひとに風呂に入れてもらうのは、くらげにとって初めての経験だった。ただシャワーを浴びて、洗剤で洗い、流すだけだったはずの風呂が、ひとに入れてもらうとこんなに違うものなのか。と、感動にも似た何かが胸をあたためる。
それと同時に、申し訳なさがくらげの頭を冷たくした。
「申し訳、ございません」
「急に何さね、あ、頭流すからちょっと上向きな」
モコモコになっていた泡が身体を伝い、排水口へと吸い込まれていく。一通り流し終えると、二刃はくらげの謝罪について深堀することもなくコンディショナーのポンプを押していた。
「こんな汚い身体を、洗わせてしまって……」
実験の痕が残る傷だらけの身体や、ベッドから動けなかったせいで何日も風呂に入れていなかった身体のことを言っているのだと、二刃はすぐに気が付いた。伸びたい放題の白い髪は、枝毛だらけでゴワゴワとしていて、ろくに手入れもされていなかったのだろう。
いや、髪を手入れするということすら、研究所では教えられなかったのだろう。
「もっと早く、入れてやれば良かったね」
切っては縫われた痕がいくつも赤黒い花を咲かせている、くらげの身体に二刃の指先が触れる。
二刃の言葉を、汚れを早く落とすべきだったという風に受け取ったくらげは、恥ずかしそうに俯いた。俯いた拍子に、包帯で隠された項があらわになる。くらげ以外は知っているその下にある傷痕を思い、二刃の手が止まる。
痛かったろう、と口走りそうになるのを堪え、ボディソープを泡立て始めた。
「……傷のひとつやふたつ、見慣れてるからね。汚いだなんて思わないよ。汚いだなんて……」
シャンプー同様、モコモコになった泡を身体に滑らせ汚れを落としていく。傷痕の上を通る度、もう痛まない古いものでも二刃が細心の注意を払ってくれていることが肌から伝わってきた。まるで割れ物に触れるような、その手つきにくらげは少しくすぐったい気持ちになる。
「体力が戻ったら、ゆっくり湯船に浸かろう。それから髪も、兄妹に手先が器用な子がいてね。ちょっとばかし美容にうるさいけど、綺麗に揃えてもらおう」
初めてのドライヤーは音が大きく、心臓がばくばくしたが、そう語り聞かせる二刃の声はくらげがこれまで触れてきた何より柔らかく、彼女の手が触れている間は落ち着いていられた。
心地良い温風と、髪の一本一本まで丁寧に手櫛で梳かし乾かす手が風呂で体力を消耗したくらげを眠りに誘う。
「寝られるときに寝な。七悪には少し検査の時間を遅らせてもらうよう言っておくから────」
船を漕ぐ頭の中に、どこかで聞いたような名前が現れる。
どこで聞いたんだったか。最近、どこかで、何かで聞いたような気がするのに。上手く思い出せない。
ナナオ────?
『無事で良かったぁ!!』
くらげは眠りに落ちる間際、恐ろしいものを見たように目を見開いた先生の顔が見えた気がした。
