何も言えなくて……夏
「あの小さかった六歳の少年が、こんなに立派に育って先生は嬉しいよ」
この日、俺は大学病院へと来ていた。
この時期特有の不調を見てもらいに、では無い。
100%関係ないとは言えないが、事故のあった八月三日周辺で毎年、定期的に身体を見てもらっている。
今は年に一度だが、小学生の頃は成長段階と言う事もあり、年に四回、つまりワンシーズンに一度、通院していた。
脳外科、精神科、そして外科だ。今は外科を診断中。
「先生のお陰です。ありがとうございました」
外科の先生がいなければ今の俺はいない。将来の夢を外科医にしたのはこの先生がいたからこそだ。
つまりは俺の目標の人。尊敬する人。尊敬出来る人だ。こんな人になりたい。先生に会う度にその想いは増していった。
まだ夢を叶える途中だし、照れるから伝えられていない。いつか言える日が来るといいな。
その前に医学部に行くのが先だが。
「どうだい衛くん、その後の体調は?」
「ええ、お陰様で好調です」
好調、嘘は付いていない。が、少し心がズキズキと傷んだ。
この時期だけ不調。そんな事を言ったら先生も困ってしまうだろう。それが簡単に想像出来てしまったから、好調な振りをした。
「幸い後遺症も無いし、順調そのものだな」
記憶喪失と言う特大の後遺症はあるものの、身体は本当に何も無い。
両親が死ぬ程の交通事故だったのに五体満足で麻痺なども無く、記憶が無いだけで脳みそも勉強や記憶力など衰えていない。日常生活になんの支障も出ずに暮らせている。これを奇跡と言わずなんと言うのだろう。
「本当に、日常生活が送れているのが奇跡です」
大事故にも関わらず、そこら辺の人達と同じ様に普通に送れている日常。それだけでも感謝すべき事なのだろう。
先生は多くを語らないが、きっと事故を起こして運ばれて来た小さな少年の命を失われないようにと当時出来うる限りのスキルを持って手術をして下さったに違いない。
そんな先生の偉大さを知るのは早くとも十年後になるのだろうな。俺も、俺と同じ状況の子供を何の迷いも無く救える判断とスキルを持っていたいと思う。
「君が元気でいてくれるだけで先生は嬉しいよ」
「いつも見守って下さって本当に感謝しています」
両親を失くした俺は、病院で長く入院生活を送る中、いつも声をかけて気にかけてくれていた先生を父のように慕っていた。
この一年に一度の通院では、父に会いに実家に帰って来ていると言う感覚だった。
ああ、先生元気にしているな。でも、あの頃より少し老けて白髪も増えて来た。ちゃんと寝て睡眠取れてるかな。食事して栄養とってるだろうか。なんて余計な心配をしていたりする。きっとその事を言うと、そっくりそのまま返されるんだろうな。医者だからな。
「当然の事をしたまでだよ」
「それでも、本当にありがとうございました」
深々とお辞儀をする。
「これで診察は終わるけど、何か聞いておきたいこととか不安な事は無いか?」
「……いえ、特には大丈夫です」
たったの15分足らずの診察は滞りなく終了した。
体調面やこの一年の出来事をザッと話して世間話に終始して終わった。
俺は立ち上がり、再び大きな一礼をして診察室を出て行った。
寂しさは感じたものの、患者の内の一人に過ぎない俺を先生は極力特別視する事もしない。俺も長居する理由もないし、次の診察もある。次の科に行かなければならないので、歩き始めた。
「衛くん、記憶の方はどうかね?」
次は脳外科に来ていた。記憶喪失だと分かると脳外科にも頻繁に通っていた。
「いえ、全く」
「そうか。焦ることは無い。焦りは禁物だ。いいね?」
「……はい」
何かを見透かした様に先生はそう優しく諭した。
毎回お互い答えは同じで、ずっと同じやり取りを繰り返している。
記憶を取り戻したいと必死な俺。個人差があり、すぐに取り戻す人もいれば、一生ダメな人もいる。部分的な記憶だけの人もいれば全て取り戻す人もいる。
俺はどの部類に入るのだろう。この先、ずっと記憶がないままだろうか。それとも少しは戻るのか。
「焦らなくていい。日常を送る事で急に思い出すことだってある」
「そういうものでしょうか?」
「思い詰めないことだよ。日々の記憶や勉強の暗記は大丈夫かぃ?」
「お陰様で問題ありません」
「そうだろうね」
微笑みながら先生は、ちゃんと去年予約した日時に来れているのだから問題ないだろうと言った。
記憶喪失になっただけで脳みそは傷ついていないし、暗記や過去の記憶は問題なく思い出せる。お陰で頭は良くなったのでは無いかと思う。
「脳みそも問題なく元気そうだ。何も言うことは無いよ」
「ありがとうございました」
記憶が蘇らない限り脳外科にはお世話になるだろうが、話す事もあまり無い。外科より短い時間で検診は終了した。
後は精神科か。ここが一番気が重い。
「まだ、記憶が戻らなくて……」
精神科の先生はただ静かに黙って聞くだけ。
俺は記憶喪失が戻らない事を話すだけ。
診察はものの五分で終わった。
全ての診断を終了し、時計を見るともう夕方近くになっていた。朝から来て予約していたはずなのに。病院は一日がかりだと言うが、本当にそうだ。
毎年、毎年一日かかってしまう。まぁ夏休みに入っているし、遊ぶ様な親しくしている友達なども幸いいない。暇を持て余しているのだからちょうどいい。
いや、今は暇では無いな。タキシード仮面として記憶を取り戻す為、悪の組織と戦ったり、セーラームーンを助けている。
それにそう。セーラームーンの正体である月野うさぎの存在が、今は気になって気になって仕方がない。
それに夢に出てくるプリンセスも。どこか月野うさぎと似ている様な気がしてならない。芽生えたこの感情の行く先も。
夏休みは始まったばかりだ。夏休みも敵が現れるのだろうか。セーラームーンに、月野うさぎに会えるチャンスはあるだろうか。
期待する事の無かった俺の人生の未来に想いを馳せながら、一人きりのあのだだっ広いマンションの家へと帰って行った。
おわり
20240803 地場衛生誕祭2024
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