何も言えなくて……夏
……まただ。頭がガンガンして身体もクラクラして重い。上手く呼吸も出来ない。
この時期になるといつもこうだ。毎年の事とはいえ、慣れない。
七月を迎え、梅雨が明けそうな半ばになると俺はいつも身体に不調が出ている。
定期テストが終わり、梅雨もある。その上、猛暑の夏も到来。体調を崩す条件としては揃っている。他人からすればただの体調不良で、夏バテだの夏風邪だの熱中症だのこの季節特有の病名で片付けるだろう。
しかし、そうでは無い。明らかに違う。
八月三日ーー六歳の俺は、交通事故に合い、両親を失ったらしい。
らしいというのは俺自身、この事故を境に全ての記憶を失ってしまったからだ。何も分からない。自分のことさえも。
目覚めた病院で言われた“地場衛”という名前も、“八月三日が誕生日”だと言う事さえも全く分からない。果たして本当にそうなのか?
全て記憶を失くした俺は、自分や両親は愚か、祖父母だと見舞いに来てくれた二人のことさえ分からない。両親の叔父や伯母たちでさえ知らない。俺からすれば親戚や親族さえも他人。
だから、親戚の家に引き取られても他人の家に居候しているという感覚しか無く、家の人達の顔色を伺ってばかり。子供らしくなかっただろう。甘えて欲しかっただろうと思う。
だが、命拾いしてから空気を読んで生きることを選んだ俺は、甘えたり子供らしく生きられる事が出来なかった。
天涯孤独。文字通りずっと独り。
記憶さえあればもう少し状況は違っていただろうか?
ただ両親を失っただけなら、親戚や祖父母に甘えられて、子供らしく振る舞えたのか。たまに考えてしまう。
いや、そうであってもきっと本当の家族では無いし、子供じゃないから気を使ってしまっていただろうな。
どちらにしても、俺は子供らしく振る舞えず可愛げが無いだろう。どう足掻いてもこんな生き方しか出来ない。
この時期の俺の不調は、事故があった日で俺の誕生日でもあるらしい八月三日が近づいているからだ。
毎年、この日が近づくと必ず体調を崩す。この時期だけだ。
それを証拠に、八月三日を過ぎれば元通りに体調は好調になる。夏本番の八月だが、夏バテも熱中症も今の所無縁の生活を送れている。
事故のお陰なのかは分からないが、八月三日を過ぎれば体調は頗るいいのだ。
失ったものばかり言っては来たが、入ってきた物もある。それは両親の保険金だ。多額だった。
俺一人が大人になるまで生きていける程の高額の保険金が入って来た。
正直、これは複雑だった。どれだけ記憶に無いとはいえ、やはり高額のお金より両親に生きていて欲しかった。
記憶が無いとはいえ、やはり寂しい。色んなことを話し、遊び、どこかへ出かけたり勉強や進路の相談をするはずだった未来。
そんな当たり前に通る未来は六歳で全て無くなってしまった。
あの日、一体誰の提案で何処に出かけてどんな風に事故にあったのか?
誰が悪い訳では無いのは分かっているし、責められることでは無い。それでも、何も覚えていないことで、この色んな感情の行き場は未だ彷徨い続けて消化出来ないでいる。憤り。正にこの言葉がピタリと当てはまる。
父親は会社を経営していたらしく、財産も相続出来る様に何かあれば俺に相続出来るように弁護士を通して話してくれていたらしく、多額の相続とマンションをもらった。
マンションに暮らし始めたのは元麻布中学に進学してからで、小学校の頃は親戚や祖父母の家を転々としていた。
マンションで一人暮らしを始めたのは良いが、広く身分不相応で一人で暮らすには広すぎて寂しさが押し寄せた。
やはりどれだけお金や暮らしに不自由無くても本当の家族ーー両親がいてくれたらという想いは拭え無かった。
もし生きていたら、家族が増えている未来だってあったはずで。弟でも妹でもきっと可愛くて仲良くできたはずだ。
そんな未来の妄想さえも潰えて出来ないなんて、世の中は不公平だと思えた。
事故以前の俺がどんな性格だったかは知らない。
だが、事故後の俺は、記憶も両親もいないことで人付き合いというものもしなくなった。必要性を感じなかった。
親しくして、もし又両親の様に失う事になったら?そんな事を考えると親しくしない方がいい。その方が悲しまなくて済むし、孤独を感じなくていい。
小学生の時も中学の時も積極的に友達を作るという事はしなかった。最も、小学生時代は親戚の家をたらい回しにされていたから転校も多く、友達を作るという概念そのものが無かったし、必要性を感じなかった。
しかし、中学からは中高一貫校のエリート校。両親が残してくれたマンションで一人暮らし。今までとは違う環境。少しは変わらなくてはと思った。
だが、そんな事とは裏腹にやはりそう簡単に人の性格と言うのは変わらないと知った。人との接し方が分からない。拗らせた。コミュ障が酷かった。