00-A:A story you never knew
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5月1日火曜日。
「……今日も来てる」
騒がしい図書室の中、ひとりだけ空気が違う。
奥の机に着席している小柄な背中は、まるで静かな水面だ。
あの席だけ、音が遮断された別空間みたいな気にされた。
1年生で、学校で会って1ヶ月も経っていないというのに、初めから、僕が来る前からそこにいるようだった。
前から思っていた。
僕が座る席から一番近い人間のはずなのに、仕草の一つ一つが静寂だ。
気を遣っている様子ではない。
あの容姿なのに、そこにいる気配はあるのに、空気と一体化している気さえした。
図書室のはずなのに、僕と彼女だけ場違いだと思わされる騒々しい空間を抜け、いつもの席へと向かう。
「…?」
後輩の横を通過しようとして、足を止める。
いつもはまったく波立たない気配が、わずかに震えている気がした。
広げた勉強道具を前に、鉛筆が止まっている。科目は数学か。
横顔は強張り、目は鋭く問題を睨んでいる。
命でも賭けているのか。
大袈裟と笑えないほど、ピリピリとしていた。
僕は知っている。
この顔は…。
「わからないの?」
僕は肩を叩くように、声をかける。
後輩の顔が、わかりやすくはっとすると、こちらを見上げた。
「先輩…」
横から後輩の教科書とノートを覗き込んだ。
落ち着いてやれば出来る公式ばかりだ。
拍子抜けしてしまう。
「わからないの?」
今度は鼻で笑ってやった。
小さくショックを受けているようだが、僕に優しい言葉は期待しない方がいい。
「……先輩…、わかるんですか?」
ナメてもらっちゃ困る。
呆れまじりに言ってやった。
「3年生だよ、僕。なんのために勉強してるのさ」
肩を竦めて自身の席に移動しようとすると、後輩に手首をつかんで止められる。
いきなりのことでびっくりした。
「教えてください」
ぎゅっと握られる。
思ったより小さな手だ。
「忙しい」
冷たく言って手を振り解いた。
しかし、後輩は席を立って再びつかんで食い下がってくる。
子犬かよ。
「復習だと思って…」
「先生の話、聞かないからでしょ…」
「あの先生の説明じゃわかりにくいんです」
自業自得、と言いかけたところで遮られた。
後輩の学年を思い出し、担当しているだろう数学教師が脳裏をよぎる。
「……担当は?」
「来嶋先生」
「あー…」
やっぱりだ。
2年の時に僕もその教師の数学の授業を受けたことがあったが、説明は、教科書以上にわかりづらい。
よくこの進学校に赴任できたな。
「まあ、僕なら…、あの先生よりか上手く教えてあげられるかもね」
さっきより弱めの力で後輩の手を解き、そう言いながら自分の席に着いた。
後輩は、雨に打たれた子犬みたいに小さく項垂れ、自分の席に戻ろうとする。
僕は音のないため息をついた。
「何してんの」
「え」
後輩はきょとんとする。
「教えてあげる僕が移動しないといけないの?」
コン、コン、と鉛筆の後ろで机を叩いたあと、目の前の席に向けた。
するとどうだ。
子犬は目に見えない耳をピンとさせ、尻尾をパタパタとし、勉強道具をスライドさせながら机の手前左端に移動して着席する。
「よろしくお願いします」
頭をペコリと下げられた。
そろそろつむじの位置を覚えてしまいそうだ。
無表情のくせにわかりやすい反応に、僕は、そのまま“お手”でもしてくれたら面白いのに、と思ってしまった。
他人なんて大嫌いだけど、静かで吠えない子犬の方がまだ可愛げがあるか。
そして、席は机の奥の左端が僕、手前の左端が後輩となり、僕は自分の勉強をしながら、後輩の勉強を見ることになった。
認めたくないけど、後輩の言った通り、復習の役にも立っている。
案外無駄な時間ではない。
損がないのはいいことだ。
5月18日金曜日。
いつも通りの席で勉強していて、僕はふと気になったことを尋ねた。
「君さ。友達いないの?」
「いません」
鉛筆も止めず、華麗な即答だった。
元々、作る気もないみたいだ。
「だろうね…。いたら、僕じゃなくて他の子たちと机を囲んでやってるもんね…」
僕以外の人間と一緒にいるところなんて見た事がない。
そもそも、いたとしたら、ここに来ないか。
「本来、勉強は騒いでやるものじゃありません。集中が途切れます」
最も過ぎて、顔に花丸でも書いてやりたくなる。
「僕といて集中できる?」
「できますよ。同じことやってますから」
これも即答だ。
「あ、そう」
「足立先輩は?」
「僕?」
「邪魔になってませんか?」
フェアでないかもしれないが、これには素直に答えてやるつもりはない。
「なってたらどうしてると思う?」
「……………」
聞き返された後輩は黙った。
確信ではないから答えづらいのだろう。
僕は鉛筆を回してノートを指す。
「そこ。2問目、式が逆」
「あ」
後輩は消しゴムを使って間違った式を消し、僕が言ったことをそのまま鵜呑みにせずに問題文を読み直してから、改めて式を解き始めた。
どうやら後輩は、動揺すると本来なら理解出来る問題の正解率が下がるようだ。
静かな時間が再び訪れる。
隣の、開いた窓からやわらかい風が入り、ふわり、とノートのページがめくれる。
後輩の顔を見ると、先程の風に運ばれてきたのか、口元は緩やかなカーブを描いていた。
「…今、笑った?」
僕は思わず尋ねる。
「誰がですか?」
自覚なしの彼女の口元は、元の一文字に戻っていく。
僕は、ああ、と今更なことに気付いた。
どれだけ愛らしい姿で周りの者から可愛がられようと、本物の子犬は笑わない。
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