24:Let's go back
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高校を転校しても、夜戸の日常に変化はなかった。
面倒な馴れ合いは避け、昼食が食べ終われば図書室でひとりで勉強する日々の繰り返し。
当然の如く有名な大学に進学して法学部へ。世間では難関とされている司法試験も一発で合格した。
周りに気を取られず、決められたレールの上をすべて走ってきた。
夜戸法律事務所にも自分宛ての依頼が舞い込んでくるようになる。
予定通りの人生だ。
そこから見える景色は、言葉通り目に余るものばかりだが。
『こちらは浮気したつもりはないのに、奥様から慰謝料まで請求されて…』
“誰が払うか。浮気される方が悪い”
『飲食店を訴えたいのです。ガラスの破片が入ってて…、口の中をケガをしました』
“俺が仕掛けたってバレはしないはずだ。いくら吹っ掛けられるかな”
『アリバイがないからって私が彼を殺すなんてあり得ない! 警察も酷いわ! こっちは恋人殺されてるのよ! 犯人扱いなんて…! うぅ…っ』
“弁護士さえ雇えばこっちのものよ。証拠は不十分…。逃げ切れるわ”
『被害者に対して、とても反省してます。手紙も書きました…』
“いつまで手紙書き続ければいいんだ? だるいなぁ…。ちょっと車ぶつけたくらいで死にやがって”
『事実無根です! 横領なんて…』
“どこのどいつだ。前にクビにしてやったあいつか?”
高校を転校する手前から10年間ずっと人の闇を見続けてきた。
弁護士になってから、嫌でも外面と内面が対照的な人間ばかり遭う機会が増えた。
欲望に塗れた人間ほど、全身が真っ黒で顔も性別もわからない時もあった。
(仕方ない。保身の為に弁護士がいるわけで…)
当然か、とあっさり納得した。
(弁護士が「正義の味方」と言ったのは、どこの誰だろうか。同じ役目を負っていた兄さんは、人間をどう思ってた? そして…、まだ、弁護士になりたいって思ってたのかな…)
裁判所へ向かうために青信号に切り替わった横断歩道を渡りながら、夜戸はぼんやりと今は亡き兄を思った。
兄の代わりを務める為に、父親が理想とする弁護士になれたものの、達成した実感は未だに湧いてこない。
もっと喜びが溢れ出るものかと思っていた。
相変わらず、胸はぽっかりと穴が空いている。
横断歩道を渡りながら、通行人の声に耳をそばだたせ、目を配った。
(黒、黒、黒…)
姿も、声も、匂いも、過去も。
夜戸にしか感じ取れないものばかり蔓延っている。
黒いナイフを取り出し、通りすがりに慣れた手つきで黒い影を刈り取った。
誰もそのことに気付かない。
それでも一瞬呆け、一抹の喪失感を味わう。
そして、気のせいにして歩みを止めない。
夜戸は白い息を吐き出し、雪が降り出しそうな灰色の曇り空を見上げる。
(世界はいつ終わるのかな)
空も、地面も、人間も、紙みたいに破れることも、ぐしゃぐしゃに握り潰されることも、白く塗りつぶされることもない。
(みんな汚れだらけなのに…)
仕事を終えて実家に帰宅し、シャツのボタンを外して脱衣所の鏡で胸の中心にある、縦一線の傷痕を見つめる。
(あたしには、汚れすらない。だからといって、綺麗なわけじゃない。何もないだけ)
『どうでもいいけど』
浴室に行こうとして「あ」と気付く。
メガネを外し忘れていた。
(何もないくせに…、なんとなく、これは手放せないのよね…)
10年間、ずっと掛け続けているメガネだ。デザインのせいなのか、「似合わない」と陰で言われたことがあった。
それでも外す気にはなれない。
買ったわけでも、買ってもらったわけでもないのに。
実家の夜戸の自室に設置された大型テレビは、月子の元へと繋がっている。
好物であるミルクたっぷりのカフェオレを手に、テレビの中―――カクリヨへと赴いた。
当時のカクリヨは、夜戸の自室をそのまま持ってきたかのような部屋がある。
月子はベッドに座って待ちながら、ぽりぽりと音を立てながら欠片を食べていた。
『ただいま』
『おかえりー。おねーちゃんのおかげで、今日もたくさん手に入ったよ。月子、太っちゃうかも』
冗談交じりに笑う月子に、夜戸は表情を緩めることなく「はい」とカップを渡す。
『ありがと』
食べきれてないものは横に置いてカップを受け取り、口をつけた。
ほっとしている表情だ。
『……兄さんが作ってたものと、変わらない?』
隣に腰掛けて尋ねる夜戸に、一瞬動きを止める月子だったが、夜戸に顔を向けて笑顔で頷く。
『うん』
それを聞いて、兄と同じことものが作れたことに安堵した。
『外は冬?』
カフェオレを美味しそうに飲みながら言った月子の質問に、「ええ」と頷き、目を伏せる。
『…おねーちゃん、冬…嫌い?』
毎年、冬を迎えるたびに、夜戸が微かに憂鬱げな雰囲気を纏っている気がした。
『冬…というか、雪が苦手…。なんとなく』
『どうして?』
『さあ…? 辺りが白で覆われると…、病院を連想するから…とか』
白で囲まれるのはいい気分がしない。
それでも、雪が苦手、という理由には、発言しておいてしっくりこなかった。
『あと何回、冬を越せばいいのか…。そもそも、今って何回目だっけ?』
『月子はもう数えてないよ』
2人は首を傾げる。
お互い、容姿は10年変わらないままだ。
月子に至ってはそれ以上の年月を過ごしてきた。
『冬眠でもできたらあっという間なのに…』
夜戸の発言に、月子はカップを落としそうになった。
姉が冗談みたいなことを言い出したからだ。
『本気で言ってる?』
『言ってる』
夜戸は真面目に答えた。
月子は苦笑いしか出てこなかった。
休日はできるだけカクリヨの中で過ごしている。
もちろん月子の存在どころか事情を知らない父親には内緒だ。
コーヒーの入った青のマグカップを持ちこみ、出入りとして使用しているテレビは、今は現実のニュース番組を流し、丸いローテーブルの上で月子の勉強を教えていた。
日々樹に勉強を見てもらっていたと言うから、夜戸もそうするようになった。
長く生きてはいるものの、月子の頭の中の知識は外見と相違ない。
これまで勉強というものに縁がなかったからだ。
日々樹と出会った当初は、まともに話すことも出来なかった。
今では随分と流暢に喋れるようになったものだ。
『算数はきらい』
小学生用の問題集に記載された×や+の文字を睨む月子。
『そう言わないで。足し算、引き算、割り算、掛け算をどの場面で使うか考えながら解くだけ』
『月子がお買い物行くわけじゃないんだからっ』
もうずっとカクリヨに籠りきりだ。
現実世界で起きている出来事はテレビを見ればわかる。
(引きこもりもよくないと思うんだけどな…)
そうは思っても、現実世界へ連れ出す気にはなれなかった。
どちらかといえば人ととの接触がないカクリヨの方が居心地がいい。
外は夜戸の心次第で再現も可能だ。
『おねーちゃんは算数好き?』
ノートの端っこにネコのラクガキをしながら月子が質問した。
夜戸は肩を竦ませる。
『あたしも算数とか数学が苦手だったけど、弁護士になるのに必要なことだったから覚えた。嫌いでも覚えないといけないの』
月子は意外そうに目を丸くする。
『なんでもできるって思ってた。すうがくって、あの算数より難しいやつでしょ?』
『あたしにも、苦手な教科くらいあるよ。高校の時だって、テスト勉強するために、昼休みの図書室で集中的に……』
何かを、思い出しかけた。
問題の公式が解けなくて頭を悩ませていると、向かい側の席に座っていた人物が…。
指先が自然とメガネに触れる。
霧がかった記憶に茫然としていると、「おねーちゃん?」と心配する月子の声と、“続いてのニュースです”とニュース番組のアナウンサーの声に顔を上げた。
空虚なはずの胸の中が落ち着かない。
“稲羽市で起きた連続殺人事件の犯人が逮捕されました”
『ううん。ごめん…。ちょっと休憩しようか。あたし、おかわり淹れてくるから』
カラになったマグカップを片手に立ち上がり、テレビに手を伸ばした。
“犯行に及んでいたのは、当時、稲羽署に勤務していた刑事…”
パリンッ!
テレビに映された顔写真を見た瞬間、マグカップが手から滑り落ち、真っ二つに割れた。
『おねーちゃん!?』
月子の声が遠い。
画面に映る顔写真の下には、“足立透(27)”と表示されていた。
室内のはずなのに、耳元で風の音が聞こえた気がした。
その瞬間、夜戸の中にある、記憶を覆っていた濃霧が一気に晴れる。
『おねーちゃん!!』
大声を上げる月子の小さな肩に、手を触れた。
『大丈夫…。なんとも…ない…。破片…気を付けて』
取り繕い、足下のカップの破片を拾っていく。
“市民を守る警察官…ましてや刑事が殺人だなんて”
“その…犯行に及んだ動機は…わかってないんですか? 罪を認めて自供は始めてるわけでしょ?”
“同じ署にいた人たちは彼の異変に気付かなかったんですかね”
コメンテーターたちが各々言い合っている中、夜戸はテレビ画面を通り抜けてウツシヨの自室に戻り、冷たい床に座り込む。
胸の傷痕を唐突にこじ開けられ、なくしていたものをねじ込まれた気分だ。
重量のあるもので、立ち上がるのに時間がかかる。
窓から差しこむ明かりが、夜の闇にゆっくりと吸い取られていく。
静かな部屋の中、夜戸はメガネを取り、しばらく見つめていた。
レンズに映るのは、思った以上に戸惑っている表情だ。
他人の顔と錯覚しそうになる。
『……足立……先輩……』
雪の中を歩く去り際の背中。
冷たい言葉。
酷い別れ方をしたことも鮮明に思い出す。
今更…、とうなだれた。
『今更…、思い出したところで……』
自室のテーブルの横に置かれた、黄色の小さなゴミ箱に視線を移したが、メガネを捨てることができなかった。
将来、裁判沙汰になったら弁護をする、という学生時代の懐かしい約束が蘇る。
『約束……』
“会いたい…”
耳元で囁かれたその声に「え?」と振り返ったが、画面が消えたままのテレビがあるだけだった。
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