一万打記念&秋のR18オンリー企画
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厄日とはこういう日のことを言うのかと、どんよりとした空の下思った。進んでいた商談は相手の身勝手な都合で頓挫し、帰り道は渋滞で車が全く進まず、仕方がないので降りて歩くことにしたらどこかに財布を落としてしまったらしい。嗚呼、イライラする。下を向きながら来た道を戻り続ければ、段々とイライラを通り越して虚しさが大きくなっていく。もう諦めるべきか。寒さで手足の感覚も麻痺してきた。一通り確認したのに無かったということは、盗られたのかもしれない。ただでさえ忙しいというのに、カードの利用停止手続きなどという瑣末で煩雑なタスクまで増えるなんて、本当に今日はついていない。ため息をついて、引き返そうとした時だった。
「あ、あの……もしかして落とし物を探してますか?」
カラン、とベルの音と共にドアが開いて、恐る恐るというふうに店内から女性が声をかけてきた。ドアから体を半分だけ出してこちらを伺う女性は、その数坪の小ぢんまりとしたカフェの従業員のようだった。
「あ、あぁ。財布を落としてしまって」
「どんなのですか?」
「黒くて、このくらいの──」
「──二つ折りの!」
頷けば、不安そうだった顔が満面の笑みに変わった。咲いた、と表現するのがしっくり来るくらい、急に向けられた笑顔に驚いた。
どうぞ、と店員がドアを大きく開けて小走りで店内奥へと駆けていく。木目調のインテリアで纏められた店内に足を踏み入れれば、コーヒーの匂いが鼻腔をくすぐり、暖かい空気がふわっと身体を包んだ。無意識に一息ついていた。かじかんだ手足に血が流れていく。裏に回る途中、店員が腰をカウンターの角に打ちつけていたのが見えた。痛たたたと腰をさすりながらカウンターの裏を確認し、すぐに見覚えのある二つ折りの黒い財布を取り出した。
「こちらで間違いないですか?」
「あぁ、これだ!」
「良かった、あと少し待って持ち主が現れなかったら交番に届けようと思ってたんです」
中身大丈夫そうですか?と渡されて確認する。名刺とカードが数枚入っているだけの財布だ。何も盗られていないようだった。問題ないことを伝えれば、また嬉しそうに女性が笑った。良く笑う人だ。自然で優しい雰囲気は、見ているこちらもホッとさせる魅力があった。接客に向いている人だ。
「あっ、コーヒー飲めますか?」
「まあ、飲めるが……」
「ちょうど良かった。今淹れたてなので、もし良ければどうぞ」
手際よくサーバーから湯気の立ちこめるコーヒーを紙コップへ注ぎ、蓋をし、スリーブをつけて砂糖と一緒に渡された。
「いくらだ?」
「あっ、いや、サービスです。自分用に淹れたものですし。今日は寒いから、カイロ代わりにしてください」
確かに、今日は何年に一度の寒さだとかニュースで言っていたことを思い出した。外に居た時よりは幾分かマシだったが、暖かい店内に入ったというのに未だに指先は凍えるように冷たかった。財布を探し回るのに必死になりすぎて、体の芯から冷えていたことに気づかなかった。爪の先まで綺麗な手が添えられた熱々のコーヒーは、受け取られるのを待っている。それでも、躊躇してしまう。
「それは……商売としてどうなんだ」
「えっ?」
「商品にはそれ相応の対価を支払う。基本中の基本だ」
サービスなんて、客でもない通りすがりの人間にするものじゃない。そう続ければ、少しばかりキョトンとした後にまた笑顔が咲いた。目まぐるしく変わる表情は見ていて飽きない。そうですね、と店員が笑いながら話し始めた。
「お金はもちろん大切ですけど、対価にも色々あると思うんですよ」
色々。この店員の言う色々とは何なのだろう。もしかして、財布の中の名刺を見られたんだろうか。コネクションだとか、恩を売りたいだとか、そういった物だろうか……いや、色々な人間を見てきた。私に取り入ろうとしているような、そんな素振りは全く見えない。
「どうぞ」
柔らかい笑みを携えた目の前の店員は、ただ純粋に、寒空の下で財布を探し回っていた見ず知らずの人間に、温かい一杯のコーヒーを渡したいだけなのかもしれない。
「……ありがとう」
「お財布、見つかって良かったです」
彼女の雰囲気に、すっかり毒気を抜かれてしまった。笑顔で手渡されたコーヒーを受け取れば、じんわりと凍えた指先からあたたまっていく。踵を返せば「ありがとうございました」と後ろから声が聞こえてきた。何も買っていないのに、むしろこちらが良くしてもらったというのに、どうしてそんなにも朗らかに言えるのだろう。ドアをくぐる際に一瞬振り返れば、変わらず優しい笑顔がこちらを見ていた。
カランカランとドアが閉まり、歩き出そうとすれば、外に立て掛けてあるブラックボードが目に留まった。小洒落たカフェの雰囲気をぶち壊す程にでかでかと「落とし物預かっています!」の文字が書いてある。その存在感に思わず笑ってしまった。普段はメニューやおすすめなどが書いてあるのだろう、雑に消された下の文字が微かに読み取れた。財布を見つけて、慌てて消して上から書いたのだろうか。こんなにも主張が激しい物なのに、ずっと地面ばかり見ていて気づけなかった。店に入る前と比べて、視線が上がって、随分と身体が軽く、あたたかくなったように感じた。厄日だと思っていたのに案外、そうでもなかったのかもしれない。コーヒーを渡された時の笑顔がまた頭に浮かんだ。
私が居た時も他の客は来なかったし、あまり繁盛しているようには見えなかった。経営は大丈夫なんだろうか。私にしたように無料のサービスばかりしているんじゃないだろうか……あの様子では多分しているのだろう。お人好しにもほどがある。接客には向いているが経営には向いていないタイプの人間だ。このままでは潰れてしまうのでは。会社までの道のりをずっとカフェと店員について考えていた。
欲しい。
会社にたどり着く頃には漠然とした気持ちに頭が占拠されていた。あのカフェが欲しい。
「月島ぁん!買いたい店がある!」
「M&Aの話ですか?」
「この店と店員のことを調べてくれ。なるべく詳しく」
さっきのカフェの情報をチャットで送って、すっかりぬるくなってしまったコーヒーを啜った。美味い。冷めているのに、とても美味く感じた。指先も、身体も、もうポカポカと温まっていた。
それから一週間と少し経った頃に、月島があのカフェについての報告書を送ってきた。急いでページをスクロールしていけば、ある氏名が目に入った。
ミョウジナマエ
「ナマエというのか!」
「その方が一人でやっているそうです。業績はあまり良く無いようですが、まだ開店して一年も経ってないのでそんなものでしょうね」
月島が自分の分のコピーを捲りながら話し始める。
「採算度外視のサービスをしているからな。しかもこの間なんて看板を営業中に変えるのを忘れていたし、レジ締めも苦手なようで、結構抜けているところがあるようだ」
「……何の話ですか?」
あれから気になって何度か店の近くまで行っていた。特に用事があるわけでもなく、なんとなくあの店が忘れられなくて、意図して外を通りかかることが増えていた。顔を見ると安心できた。じわじわと温まっていく感覚が蘇ってくるようだった。欲しい。その度に込み上げてくる漠然とした気持ちにむず痒くなった。
怪訝そうな顔をする月島に財布を拾ってもらったことを話せば、資料がぐしゃりと握りつぶされた。
「ちょっと、そういう話なら早く言ってください。店を買うとかバカなことを言う前に、ちゃんとお礼をしに行った方がいいのでは」
「そうか……!そうだ、そうだなっ!」
礼のことなんてすっかり抜け落ちていた。欲しいという気持ちにばかり目が行ってしまっていて、こんな当たり前のことまで忘れてしまっていた。そうと決まれば早くナマエに会いにいかなければ。
……ん?
「バカと言ったか今?」
「言ってません」
月島が皺皺になった書類を伸ばし終えて、こちらを見た。いつも以上に険しい顔をしている。
「あと付き纏いはやめてください。いつか通報されますよ」
「ナマエがそんなことするわけがないだろう」
*
店の前のブラックボードにはおすすめの期間限定メニューが書かれていた。絵も字も上手い。趣向を凝らしたデザインで、丁寧に時間をかけて作っているのだとすぐに分かる物だった。以前雑に消されていた物も、手間暇かけて作り上げた物だったに違いない。ドアノブを掴んだ手に力が入った。早やる気持ちでドアを押せば、カランカランと先日と同じ音が心地よく耳に入ってきた。
「いらっしゃいませ!」
あの日と変わらない笑顔が咲いた。心臓が跳ねて頭が真っ白になった。何をしに来たんだったか。そうだ、先日の礼を、礼を言いに──いやそんなことよりも何だこの胸の高鳴りは。ドクンドクンとうるさくてしょうがない。高揚感が体を支配していく。ナマエと視線が交わった。
ああ、そうか、礼なんてどうでも良かった。欲しいと思ったのも店ではなかった。そんなことよりも、もっとずっと伝えたいことがあるんだ、ナマエ。
「好きだ、結婚してほしい」
あとがき
「ボンボンな頼み方をする鯉登少尉が見たい」という軽い気持ちで書いた短編から始まったこのシリーズが、まさかリクエストをもらえるまでになるなんて本当に嬉しい限りです…!はなも様、ありがとうございました!ご希望に添えてたら幸いです!
2024.05.21
「あ、あの……もしかして落とし物を探してますか?」
カラン、とベルの音と共にドアが開いて、恐る恐るというふうに店内から女性が声をかけてきた。ドアから体を半分だけ出してこちらを伺う女性は、その数坪の小ぢんまりとしたカフェの従業員のようだった。
「あ、あぁ。財布を落としてしまって」
「どんなのですか?」
「黒くて、このくらいの──」
「──二つ折りの!」
頷けば、不安そうだった顔が満面の笑みに変わった。咲いた、と表現するのがしっくり来るくらい、急に向けられた笑顔に驚いた。
どうぞ、と店員がドアを大きく開けて小走りで店内奥へと駆けていく。木目調のインテリアで纏められた店内に足を踏み入れれば、コーヒーの匂いが鼻腔をくすぐり、暖かい空気がふわっと身体を包んだ。無意識に一息ついていた。かじかんだ手足に血が流れていく。裏に回る途中、店員が腰をカウンターの角に打ちつけていたのが見えた。痛たたたと腰をさすりながらカウンターの裏を確認し、すぐに見覚えのある二つ折りの黒い財布を取り出した。
「こちらで間違いないですか?」
「あぁ、これだ!」
「良かった、あと少し待って持ち主が現れなかったら交番に届けようと思ってたんです」
中身大丈夫そうですか?と渡されて確認する。名刺とカードが数枚入っているだけの財布だ。何も盗られていないようだった。問題ないことを伝えれば、また嬉しそうに女性が笑った。良く笑う人だ。自然で優しい雰囲気は、見ているこちらもホッとさせる魅力があった。接客に向いている人だ。
「あっ、コーヒー飲めますか?」
「まあ、飲めるが……」
「ちょうど良かった。今淹れたてなので、もし良ければどうぞ」
手際よくサーバーから湯気の立ちこめるコーヒーを紙コップへ注ぎ、蓋をし、スリーブをつけて砂糖と一緒に渡された。
「いくらだ?」
「あっ、いや、サービスです。自分用に淹れたものですし。今日は寒いから、カイロ代わりにしてください」
確かに、今日は何年に一度の寒さだとかニュースで言っていたことを思い出した。外に居た時よりは幾分かマシだったが、暖かい店内に入ったというのに未だに指先は凍えるように冷たかった。財布を探し回るのに必死になりすぎて、体の芯から冷えていたことに気づかなかった。爪の先まで綺麗な手が添えられた熱々のコーヒーは、受け取られるのを待っている。それでも、躊躇してしまう。
「それは……商売としてどうなんだ」
「えっ?」
「商品にはそれ相応の対価を支払う。基本中の基本だ」
サービスなんて、客でもない通りすがりの人間にするものじゃない。そう続ければ、少しばかりキョトンとした後にまた笑顔が咲いた。目まぐるしく変わる表情は見ていて飽きない。そうですね、と店員が笑いながら話し始めた。
「お金はもちろん大切ですけど、対価にも色々あると思うんですよ」
色々。この店員の言う色々とは何なのだろう。もしかして、財布の中の名刺を見られたんだろうか。コネクションだとか、恩を売りたいだとか、そういった物だろうか……いや、色々な人間を見てきた。私に取り入ろうとしているような、そんな素振りは全く見えない。
「どうぞ」
柔らかい笑みを携えた目の前の店員は、ただ純粋に、寒空の下で財布を探し回っていた見ず知らずの人間に、温かい一杯のコーヒーを渡したいだけなのかもしれない。
「……ありがとう」
「お財布、見つかって良かったです」
彼女の雰囲気に、すっかり毒気を抜かれてしまった。笑顔で手渡されたコーヒーを受け取れば、じんわりと凍えた指先からあたたまっていく。踵を返せば「ありがとうございました」と後ろから声が聞こえてきた。何も買っていないのに、むしろこちらが良くしてもらったというのに、どうしてそんなにも朗らかに言えるのだろう。ドアをくぐる際に一瞬振り返れば、変わらず優しい笑顔がこちらを見ていた。
カランカランとドアが閉まり、歩き出そうとすれば、外に立て掛けてあるブラックボードが目に留まった。小洒落たカフェの雰囲気をぶち壊す程にでかでかと「落とし物預かっています!」の文字が書いてある。その存在感に思わず笑ってしまった。普段はメニューやおすすめなどが書いてあるのだろう、雑に消された下の文字が微かに読み取れた。財布を見つけて、慌てて消して上から書いたのだろうか。こんなにも主張が激しい物なのに、ずっと地面ばかり見ていて気づけなかった。店に入る前と比べて、視線が上がって、随分と身体が軽く、あたたかくなったように感じた。厄日だと思っていたのに案外、そうでもなかったのかもしれない。コーヒーを渡された時の笑顔がまた頭に浮かんだ。
私が居た時も他の客は来なかったし、あまり繁盛しているようには見えなかった。経営は大丈夫なんだろうか。私にしたように無料のサービスばかりしているんじゃないだろうか……あの様子では多分しているのだろう。お人好しにもほどがある。接客には向いているが経営には向いていないタイプの人間だ。このままでは潰れてしまうのでは。会社までの道のりをずっとカフェと店員について考えていた。
欲しい。
会社にたどり着く頃には漠然とした気持ちに頭が占拠されていた。あのカフェが欲しい。
「月島ぁん!買いたい店がある!」
「M&Aの話ですか?」
「この店と店員のことを調べてくれ。なるべく詳しく」
さっきのカフェの情報をチャットで送って、すっかりぬるくなってしまったコーヒーを啜った。美味い。冷めているのに、とても美味く感じた。指先も、身体も、もうポカポカと温まっていた。
それから一週間と少し経った頃に、月島があのカフェについての報告書を送ってきた。急いでページをスクロールしていけば、ある氏名が目に入った。
ミョウジナマエ
「ナマエというのか!」
「その方が一人でやっているそうです。業績はあまり良く無いようですが、まだ開店して一年も経ってないのでそんなものでしょうね」
月島が自分の分のコピーを捲りながら話し始める。
「採算度外視のサービスをしているからな。しかもこの間なんて看板を営業中に変えるのを忘れていたし、レジ締めも苦手なようで、結構抜けているところがあるようだ」
「……何の話ですか?」
あれから気になって何度か店の近くまで行っていた。特に用事があるわけでもなく、なんとなくあの店が忘れられなくて、意図して外を通りかかることが増えていた。顔を見ると安心できた。じわじわと温まっていく感覚が蘇ってくるようだった。欲しい。その度に込み上げてくる漠然とした気持ちにむず痒くなった。
怪訝そうな顔をする月島に財布を拾ってもらったことを話せば、資料がぐしゃりと握りつぶされた。
「ちょっと、そういう話なら早く言ってください。店を買うとかバカなことを言う前に、ちゃんとお礼をしに行った方がいいのでは」
「そうか……!そうだ、そうだなっ!」
礼のことなんてすっかり抜け落ちていた。欲しいという気持ちにばかり目が行ってしまっていて、こんな当たり前のことまで忘れてしまっていた。そうと決まれば早くナマエに会いにいかなければ。
……ん?
「バカと言ったか今?」
「言ってません」
月島が皺皺になった書類を伸ばし終えて、こちらを見た。いつも以上に険しい顔をしている。
「あと付き纏いはやめてください。いつか通報されますよ」
「ナマエがそんなことするわけがないだろう」
*
店の前のブラックボードにはおすすめの期間限定メニューが書かれていた。絵も字も上手い。趣向を凝らしたデザインで、丁寧に時間をかけて作っているのだとすぐに分かる物だった。以前雑に消されていた物も、手間暇かけて作り上げた物だったに違いない。ドアノブを掴んだ手に力が入った。早やる気持ちでドアを押せば、カランカランと先日と同じ音が心地よく耳に入ってきた。
「いらっしゃいませ!」
あの日と変わらない笑顔が咲いた。心臓が跳ねて頭が真っ白になった。何をしに来たんだったか。そうだ、先日の礼を、礼を言いに──いやそんなことよりも何だこの胸の高鳴りは。ドクンドクンとうるさくてしょうがない。高揚感が体を支配していく。ナマエと視線が交わった。
ああ、そうか、礼なんてどうでも良かった。欲しいと思ったのも店ではなかった。そんなことよりも、もっとずっと伝えたいことがあるんだ、ナマエ。
「好きだ、結婚してほしい」
あとがき
「ボンボンな頼み方をする鯉登少尉が見たい」という軽い気持ちで書いた短編から始まったこのシリーズが、まさかリクエストをもらえるまでになるなんて本当に嬉しい限りです…!はなも様、ありがとうございました!ご希望に添えてたら幸いです!
2024.05.21
