一万打記念&秋のR18オンリー企画
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※網走で捕まった後の病院でのお話
「なるほど……随分な冒険をしてきたようだ」
小樽から今までのことを話せば、椅子に座った中尉が嬉しそうに顎を触った。その後ろには月島軍曹と鯉登少尉が控えている。少し視線を落としている鯉登少尉と、鋭い視線で突き刺してくる月島軍曹が対照的だった。
「相応の処分を受けます。でも杉元さんとインカラマッは──」
「私が何故、あの時君を撃たなかったか分かるか?」
私の言葉を遮って投げかけられた問いに慌てて口を噤んだ。小樽で私が杉元さんと馬橇で逃亡した時、確かに中尉は私たちのことを撃とうとしていた。まだギリギリ射程圏内だったはずなのに、なぜ撃たなかったのか。その理由は、当時も今も分からないままだった。試すような視線と沈黙が居心地悪く、分かりませんとやっとのことで絞り出せば、中尉は足を組み替えふっと笑った。
「ナマエさんなら私の元に戻ってきてくれると信じていたからだ」
現にこうやって今君は、私のもとに居る。続けられた言葉にひゅっと息が詰まった。ずっと、インカラマッを通して私たちのことは筒抜けだったのだろう。いつでも捕まえて殺して奪うこともできたのに、そうしなかったのは自分から来させるためだったのだろうか。どこまでが中尉の計画だったのだろう。まんまと策に嵌り、自ら刺青人皮も情報も差し出してしまった。
「……ナマエさんは、私たちの代わりに刺青人皮を集めてきてくれたのだろう?」
違う、と頭の中で思うことすら許されないようだった。その異様な見た目を忘れるほどに、目の前の顔は優しい笑みを薄っすらと携えているのに、有無を言わせない雰囲気に圧倒される。
「共に死線を潜り抜けた者達に情が湧くのも理解できるがね、我々の本来の目的を忘れてはいけない」
おもむろに中尉が立ち上がり、軍靴の音が部屋に響き渡る。目だけで追っていれば、そのうち背後に回られ姿を見失った。カチャカチャと鋲が床に擦れる音だけがしばらく聞こえ続けて緊張が最大限に高まった時、突然肩を掴まれ大きく体が跳ねた。力は入っておらず痛くもなんともない。でも、指の一本も動かせなくなるほど、呼吸をするのも憚られるほどの緊張感に一瞬で体が支配される。肩に置かれた優しい手が、驚くほどに重く感じた。あの時と同じ手だ。兄が死んだ時と同じ手だ。
「君がしてきたことを知っても杉元は一緒にいてくれるかな?」
じわじわと中尉に浸食されていく感覚に震えが止まらなかった。怖い。中尉が怖かった。でもそれ以上に、今までの行いを杉元さんに知られるのが怖かった。どこまでも真っ直ぐで、あたたかくて、光のような存在に、自分の後ろめたい所が知られるのが堪らなく怖かった。
「アシリパはどう思うだろう」
耳元で囁かれた言葉に、のびのびと山を駆け、私たちにアイヌの暮らしと文化を教えてくれるアシリパさんの姿が浮かんだ。自分の夢のために彼女たちの土地を、森を山を切り開いてケシで埋め尽くそうとしていたと知られたら。今でも心のどこかでその夢を諦めきれない自分がいると知られたら。するりと、肩から首へと中尉の手が滑った。
「日本の未来のためだと言っても、あの二人に理解されると思うかね?」
首にかかった指がとんとんと頸動脈のあたりを叩いていて、息苦しさにどんどん呼吸が乱れていく。息を吸うごとに、鉛のように重く冷たい空気が体の内から体温を奪っていくようだった。「私にはまだナマエさんが必要だ」と甘美な囁きが鼓膜を揺らす。空っぽなのだと理解していても、そこに何かがあって欲しいと思わせる不思議な声だ。何もないと分かっているのに、ボロボロの時に一番欲しい言葉をくれるのだからつい錯覚して縋ってしまいそうになる。
「夢を語るナマエさんは美しかった」
君のためにもケシの栽培を進めているよ、更に農地を拡大しているからモルヒネの研究用にもそのうち沢山使えるようになるだろうと、今度は楽しそうにケシについて話し始めた。お陰で結構儲かっているのだと告げられて、ついに耐えきれずに目を伏せた。一体どれだけの人たちの人生を狂わせれば気が済むのだろう。それに乗っかる形で自分の夢を叶えようとしていた私が言えた義理ではないのに。
「しかしミョウジ少佐への手向けの花はこんなものでは足りないだろう……兄君に寂しい思いをさせないためにも、もっともっと必要だ」
カチャカチャとまた音がして、中尉が私の前に戻ってきた。恐る恐る目線を上げれば、先ほどまでの声色からは想像できないほどに冷たい瞳と視線がかち合った。
「私のために、ミョウジ少佐のために、また働いてくれることを期待しているよ」
でも今はちゃんと睡眠を取るように、と最後にまた肩に触れられて、鶴見中尉が月島軍曹と鯉登少尉を引き連れ部屋を後にした。一人残された部屋で、緊張の糸がプツリと切れて膝から崩れ落ちそうになる。いま膝をついたらもう二度と立ち上がれない。そんな気がして、咄嗟によろけた先の壁に手をついた。必死になって息を整えようとするが恐怖と緊張で上手くいかない。頭も回らない。その割に目が冴えていて、胃がキリキリする。こんな状態では寝られるわけもない。何もかもがぐちゃぐちゃな頭の中で、ふと手術の後片付けをしなければという気持ちに駆られ、重い体を引きずるようにして私も部屋を後にした。
*
おはようございます、といつもの時間に病室を訪れたナマエさんが普段とは違う服を着ていた。袖に大ぶりな菊があしらわれた乳白色の着物に濃紺の袴という、落ち着いているのにどこか華やかさと品がある姿に思わずじいっと見入ってしまった。
「その服どうしたの?綺麗だね」
「あ、ありがとうございます。着替えとして中尉殿が用意してくださった物なんです」
へぇ、と自分で聞いたくせにどこか冷たくて無機質な返事をしてしまったからか、ナマエさんが少し居心地悪そうに「以前から良く頂くことがあって……」と歯切れ悪く付け加えた。これは警告か牽制なのだろう。ナマエさんがそちら側の人間なのだと示すための魂胆が透けて見えた。綺麗な服を着せて自由を奪い、まるで愛玩動物のように飼い慣らしているようで気分が悪い。ナマエさんもそれが分かっているのか、いつもよりも表情が冴えない。
「すみません……体温、測りましょうか」
気まずい空気に対しての謝罪だったのだろうか。返す言葉が見つからず、差し出された体温計を無言で受け取って脇に挟んだ。傷口の具合や痛みの確認、包帯の交換など、ここ数日ですっかり習慣化したやりとりが進んでいけば、ゆるやかに空気も和らいでいく。寝台からテキパキと仕事を進めて行くナマエさんを見ていると、なんだか旅順にいた頃を思い出して少し懐かしく感じた。
もうそろそろ良い頃合いですね、と体温計を回収したナマエさんの奥、廊下の先で一人分の足音がこちらに向かってきているのに気づいた。靴底に鋲が打ってある。隣室を通りすぎ、真っ直ぐに向かってくる。明らかにこちらへ用事がある足の運び方だ。誰だと待ち構えていると、開けっ放しの扉の向こうから額当てを付けた死神が顔を覗かせた。
「このままで良い。すぐに戻るつもりだ」
慌てて立ち上がって椅子を譲ろうとしたナマエさんを制して、鶴見中尉が頭から足先へ視線を巡らせた。似合っているね、と満足そうな言葉と顔にナマエさんは硬い笑みで返していた。何の用だと睨みつければ、おもむろに上衣を脱ぎだして、中から刺青人皮が現れた。小樽で白石が言っていた時からずっと着込んでいるのかよ、変態め。
「刺青人皮を全て確認させてもらったよ」
嬉しさを隠そうともしない視線がナマエさんに移った。
「辺見和雄、二瓶哲造や姉畑支遁まで集めて……本当に、君は私が思っていた以上の働きをしてくれた」
まるでナマエさんが最初から俺達にそういうつもりでついてきたような言い方だ。そんな訳がないのに、わざわざそんな言い方をして俺達を分断しようっていうのだろうか。ナマエさんを盗み見れば、不安そうに口元をきゅっと一文字に結んで、何も言わずに壁際で静かに佇んでいた。
「不死身の杉元……私の優秀な部下を、大切な戦友の妹君を、怪我をさせずに返してくれたことについて礼を言おう」
返したつもりなんてねぇよ。反射的に心の中で毒づいた言葉は、声になることはなかった。仰々しい言い方にイライラが募って仕方がない。苛立ちが膨らんで、言葉を発することさえ億劫なほどだった。まだ万全の状態ではないが半殺しにくらいならできるだろう。でもそんなことをしても何も解決しない。今はただ、目の前の男をぶん殴りそうになる衝動を抑えるために全力を尽くしていた。
「嫁入り前の大切な体に何かあってはミョウジ少佐に面目が立たん」
「……そんなことを言いにわざわざ来たのか」
「まさか、今日は釘を刺しに来たのだよ」
事が終われば今回も必ず返してもらう、と。
中尉の手が、ナマエさんの肩に触れた。びくりと少しだけ跳ねてそのまま固まったナマエさんに、堪え切れず自分の中で何かが切れた音がした。
「返すって……ナマエさんはあんたの物じゃねぇんだよ」
中尉の口元がゆっくりと弧を描いた。その手は未だにナマエさんに触れたままだ。早くその血に塗れた手をどけろ。
「……元気そうで何よりだ」
その調子で樺太でも頼むと鶴見中尉が部屋を出ていき、ナマエさんのほっとしたような息遣いが聞こえてきた。一瞬だけ目が合ったのに、逃げるようにまたすぐに逸らされてしまった。中尉はもう居ないというのに、部屋にはまだ張り詰めた重い空気が充満している。
「……お水、替えてきますね」
「待って、ナマエさん」
水差しを掴もうとした手首を咄嗟に掴んだ。細い手首だ。回した指が十分に余るほどに。
「鶴見中尉に何かされた?」
「い、いえ、とても良くしてもらってます」
「じゃあ、何か言われたでしょ」
瞳が大きく揺れている。いつもは真っ直ぐに俺の目を見て話してくれるのに、さっきから全然目が合った気がしなかった。何か言われたのは明白だった。そんなこと、と俯きがちに否定し始めたナマエさんの言葉を遮った。
「ナマエさん、震えてる」
細い手首からふるふると、小刻みな震えが伝わってくる。指摘され、一瞬だけ力が入って手を振りほどこうとしたみたいだったが、俺が離すつもりがないと悟ったのか、またすぐに力が抜けた。
「ナマエさん、大丈夫だから」
俺がついてるから、と真っ直ぐに見上げて伝えれば、ナマエさんが泣きそうな顔をした。綺麗な瞳が充血して、真っ直ぐに結ばれている唇が少しだけわなないている。未だに震えている手を両手で包み込んだ。いとも簡単に俺の手にすっぽりと隠れてしまう華奢な手は、緊張からか指先がひんやりとしていた。きっと大丈夫だと、いつも俺たちを励ましてくれていた手が、こんなにも小さくて儚かったのだと今さらになって気づいた。今度は俺が少しでも力になれればと、滑らかな手を優しくさすった。じわじわと、俺の手の中で温まっていく存在が愛おしかった。
「俺は返したつもりはないよ」
考えるよりも前に話し始めていた。脈絡のない言葉に、ナマエさんが少しきょとんとした顔で俺を見つめ返した。
「大人しく返すつもりもないよ」
「えっ」
何を言っているのか理解して、誰かに聞かれていたら大変だと思ったのか、焦ってきょろきょろと辺りを見回すナマエさんに笑いが漏れた。誰か居る気配はないし、多分大丈夫だ。それに、聞かれていたからといって別に何かが変わるわけでもない。あの時、馬橇から降りる時に手を取ってくれた時から、俺はこの手を離すつもりなんてないんだから。
ナマエさんにも色々事情があって、俺に話せていないことや隠していることがたくさんあるんだろう。俺だって人のことは言えないし、無理に聞き出したりなんてしたくない。それでも伝えたかった。ぽかぽかと、漸く温もりを取り戻してきた手を、またぎゅっと握り直した。
「俺が何度でもナマエさんを連れ出すから」
連れ出してくれてありがとうという言葉に、嘘はなかったと分かっているから。
あとがき
如月様、大変お待たせいたしました!!
当初は単発ものにしようか、現パロも良いかも、と考えて書き進めていたのですが、やっぱり中尉は明治が一番輝く気がして原作沿い設定で書かせていただきました。かなりお時間頂いてしまって本当にすみません!ご希望に沿えていれば幸いです。とても素敵なリクエストをありがとうございました!!
2024.08.21
「なるほど……随分な冒険をしてきたようだ」
小樽から今までのことを話せば、椅子に座った中尉が嬉しそうに顎を触った。その後ろには月島軍曹と鯉登少尉が控えている。少し視線を落としている鯉登少尉と、鋭い視線で突き刺してくる月島軍曹が対照的だった。
「相応の処分を受けます。でも杉元さんとインカラマッは──」
「私が何故、あの時君を撃たなかったか分かるか?」
私の言葉を遮って投げかけられた問いに慌てて口を噤んだ。小樽で私が杉元さんと馬橇で逃亡した時、確かに中尉は私たちのことを撃とうとしていた。まだギリギリ射程圏内だったはずなのに、なぜ撃たなかったのか。その理由は、当時も今も分からないままだった。試すような視線と沈黙が居心地悪く、分かりませんとやっとのことで絞り出せば、中尉は足を組み替えふっと笑った。
「ナマエさんなら私の元に戻ってきてくれると信じていたからだ」
現にこうやって今君は、私のもとに居る。続けられた言葉にひゅっと息が詰まった。ずっと、インカラマッを通して私たちのことは筒抜けだったのだろう。いつでも捕まえて殺して奪うこともできたのに、そうしなかったのは自分から来させるためだったのだろうか。どこまでが中尉の計画だったのだろう。まんまと策に嵌り、自ら刺青人皮も情報も差し出してしまった。
「……ナマエさんは、私たちの代わりに刺青人皮を集めてきてくれたのだろう?」
違う、と頭の中で思うことすら許されないようだった。その異様な見た目を忘れるほどに、目の前の顔は優しい笑みを薄っすらと携えているのに、有無を言わせない雰囲気に圧倒される。
「共に死線を潜り抜けた者達に情が湧くのも理解できるがね、我々の本来の目的を忘れてはいけない」
おもむろに中尉が立ち上がり、軍靴の音が部屋に響き渡る。目だけで追っていれば、そのうち背後に回られ姿を見失った。カチャカチャと鋲が床に擦れる音だけがしばらく聞こえ続けて緊張が最大限に高まった時、突然肩を掴まれ大きく体が跳ねた。力は入っておらず痛くもなんともない。でも、指の一本も動かせなくなるほど、呼吸をするのも憚られるほどの緊張感に一瞬で体が支配される。肩に置かれた優しい手が、驚くほどに重く感じた。あの時と同じ手だ。兄が死んだ時と同じ手だ。
「君がしてきたことを知っても杉元は一緒にいてくれるかな?」
じわじわと中尉に浸食されていく感覚に震えが止まらなかった。怖い。中尉が怖かった。でもそれ以上に、今までの行いを杉元さんに知られるのが怖かった。どこまでも真っ直ぐで、あたたかくて、光のような存在に、自分の後ろめたい所が知られるのが堪らなく怖かった。
「アシリパはどう思うだろう」
耳元で囁かれた言葉に、のびのびと山を駆け、私たちにアイヌの暮らしと文化を教えてくれるアシリパさんの姿が浮かんだ。自分の夢のために彼女たちの土地を、森を山を切り開いてケシで埋め尽くそうとしていたと知られたら。今でも心のどこかでその夢を諦めきれない自分がいると知られたら。するりと、肩から首へと中尉の手が滑った。
「日本の未来のためだと言っても、あの二人に理解されると思うかね?」
首にかかった指がとんとんと頸動脈のあたりを叩いていて、息苦しさにどんどん呼吸が乱れていく。息を吸うごとに、鉛のように重く冷たい空気が体の内から体温を奪っていくようだった。「私にはまだナマエさんが必要だ」と甘美な囁きが鼓膜を揺らす。空っぽなのだと理解していても、そこに何かがあって欲しいと思わせる不思議な声だ。何もないと分かっているのに、ボロボロの時に一番欲しい言葉をくれるのだからつい錯覚して縋ってしまいそうになる。
「夢を語るナマエさんは美しかった」
君のためにもケシの栽培を進めているよ、更に農地を拡大しているからモルヒネの研究用にもそのうち沢山使えるようになるだろうと、今度は楽しそうにケシについて話し始めた。お陰で結構儲かっているのだと告げられて、ついに耐えきれずに目を伏せた。一体どれだけの人たちの人生を狂わせれば気が済むのだろう。それに乗っかる形で自分の夢を叶えようとしていた私が言えた義理ではないのに。
「しかしミョウジ少佐への手向けの花はこんなものでは足りないだろう……兄君に寂しい思いをさせないためにも、もっともっと必要だ」
カチャカチャとまた音がして、中尉が私の前に戻ってきた。恐る恐る目線を上げれば、先ほどまでの声色からは想像できないほどに冷たい瞳と視線がかち合った。
「私のために、ミョウジ少佐のために、また働いてくれることを期待しているよ」
でも今はちゃんと睡眠を取るように、と最後にまた肩に触れられて、鶴見中尉が月島軍曹と鯉登少尉を引き連れ部屋を後にした。一人残された部屋で、緊張の糸がプツリと切れて膝から崩れ落ちそうになる。いま膝をついたらもう二度と立ち上がれない。そんな気がして、咄嗟によろけた先の壁に手をついた。必死になって息を整えようとするが恐怖と緊張で上手くいかない。頭も回らない。その割に目が冴えていて、胃がキリキリする。こんな状態では寝られるわけもない。何もかもがぐちゃぐちゃな頭の中で、ふと手術の後片付けをしなければという気持ちに駆られ、重い体を引きずるようにして私も部屋を後にした。
*
おはようございます、といつもの時間に病室を訪れたナマエさんが普段とは違う服を着ていた。袖に大ぶりな菊があしらわれた乳白色の着物に濃紺の袴という、落ち着いているのにどこか華やかさと品がある姿に思わずじいっと見入ってしまった。
「その服どうしたの?綺麗だね」
「あ、ありがとうございます。着替えとして中尉殿が用意してくださった物なんです」
へぇ、と自分で聞いたくせにどこか冷たくて無機質な返事をしてしまったからか、ナマエさんが少し居心地悪そうに「以前から良く頂くことがあって……」と歯切れ悪く付け加えた。これは警告か牽制なのだろう。ナマエさんがそちら側の人間なのだと示すための魂胆が透けて見えた。綺麗な服を着せて自由を奪い、まるで愛玩動物のように飼い慣らしているようで気分が悪い。ナマエさんもそれが分かっているのか、いつもよりも表情が冴えない。
「すみません……体温、測りましょうか」
気まずい空気に対しての謝罪だったのだろうか。返す言葉が見つからず、差し出された体温計を無言で受け取って脇に挟んだ。傷口の具合や痛みの確認、包帯の交換など、ここ数日ですっかり習慣化したやりとりが進んでいけば、ゆるやかに空気も和らいでいく。寝台からテキパキと仕事を進めて行くナマエさんを見ていると、なんだか旅順にいた頃を思い出して少し懐かしく感じた。
もうそろそろ良い頃合いですね、と体温計を回収したナマエさんの奥、廊下の先で一人分の足音がこちらに向かってきているのに気づいた。靴底に鋲が打ってある。隣室を通りすぎ、真っ直ぐに向かってくる。明らかにこちらへ用事がある足の運び方だ。誰だと待ち構えていると、開けっ放しの扉の向こうから額当てを付けた死神が顔を覗かせた。
「このままで良い。すぐに戻るつもりだ」
慌てて立ち上がって椅子を譲ろうとしたナマエさんを制して、鶴見中尉が頭から足先へ視線を巡らせた。似合っているね、と満足そうな言葉と顔にナマエさんは硬い笑みで返していた。何の用だと睨みつければ、おもむろに上衣を脱ぎだして、中から刺青人皮が現れた。小樽で白石が言っていた時からずっと着込んでいるのかよ、変態め。
「刺青人皮を全て確認させてもらったよ」
嬉しさを隠そうともしない視線がナマエさんに移った。
「辺見和雄、二瓶哲造や姉畑支遁まで集めて……本当に、君は私が思っていた以上の働きをしてくれた」
まるでナマエさんが最初から俺達にそういうつもりでついてきたような言い方だ。そんな訳がないのに、わざわざそんな言い方をして俺達を分断しようっていうのだろうか。ナマエさんを盗み見れば、不安そうに口元をきゅっと一文字に結んで、何も言わずに壁際で静かに佇んでいた。
「不死身の杉元……私の優秀な部下を、大切な戦友の妹君を、怪我をさせずに返してくれたことについて礼を言おう」
返したつもりなんてねぇよ。反射的に心の中で毒づいた言葉は、声になることはなかった。仰々しい言い方にイライラが募って仕方がない。苛立ちが膨らんで、言葉を発することさえ億劫なほどだった。まだ万全の状態ではないが半殺しにくらいならできるだろう。でもそんなことをしても何も解決しない。今はただ、目の前の男をぶん殴りそうになる衝動を抑えるために全力を尽くしていた。
「嫁入り前の大切な体に何かあってはミョウジ少佐に面目が立たん」
「……そんなことを言いにわざわざ来たのか」
「まさか、今日は釘を刺しに来たのだよ」
事が終われば今回も必ず返してもらう、と。
中尉の手が、ナマエさんの肩に触れた。びくりと少しだけ跳ねてそのまま固まったナマエさんに、堪え切れず自分の中で何かが切れた音がした。
「返すって……ナマエさんはあんたの物じゃねぇんだよ」
中尉の口元がゆっくりと弧を描いた。その手は未だにナマエさんに触れたままだ。早くその血に塗れた手をどけろ。
「……元気そうで何よりだ」
その調子で樺太でも頼むと鶴見中尉が部屋を出ていき、ナマエさんのほっとしたような息遣いが聞こえてきた。一瞬だけ目が合ったのに、逃げるようにまたすぐに逸らされてしまった。中尉はもう居ないというのに、部屋にはまだ張り詰めた重い空気が充満している。
「……お水、替えてきますね」
「待って、ナマエさん」
水差しを掴もうとした手首を咄嗟に掴んだ。細い手首だ。回した指が十分に余るほどに。
「鶴見中尉に何かされた?」
「い、いえ、とても良くしてもらってます」
「じゃあ、何か言われたでしょ」
瞳が大きく揺れている。いつもは真っ直ぐに俺の目を見て話してくれるのに、さっきから全然目が合った気がしなかった。何か言われたのは明白だった。そんなこと、と俯きがちに否定し始めたナマエさんの言葉を遮った。
「ナマエさん、震えてる」
細い手首からふるふると、小刻みな震えが伝わってくる。指摘され、一瞬だけ力が入って手を振りほどこうとしたみたいだったが、俺が離すつもりがないと悟ったのか、またすぐに力が抜けた。
「ナマエさん、大丈夫だから」
俺がついてるから、と真っ直ぐに見上げて伝えれば、ナマエさんが泣きそうな顔をした。綺麗な瞳が充血して、真っ直ぐに結ばれている唇が少しだけわなないている。未だに震えている手を両手で包み込んだ。いとも簡単に俺の手にすっぽりと隠れてしまう華奢な手は、緊張からか指先がひんやりとしていた。きっと大丈夫だと、いつも俺たちを励ましてくれていた手が、こんなにも小さくて儚かったのだと今さらになって気づいた。今度は俺が少しでも力になれればと、滑らかな手を優しくさすった。じわじわと、俺の手の中で温まっていく存在が愛おしかった。
「俺は返したつもりはないよ」
考えるよりも前に話し始めていた。脈絡のない言葉に、ナマエさんが少しきょとんとした顔で俺を見つめ返した。
「大人しく返すつもりもないよ」
「えっ」
何を言っているのか理解して、誰かに聞かれていたら大変だと思ったのか、焦ってきょろきょろと辺りを見回すナマエさんに笑いが漏れた。誰か居る気配はないし、多分大丈夫だ。それに、聞かれていたからといって別に何かが変わるわけでもない。あの時、馬橇から降りる時に手を取ってくれた時から、俺はこの手を離すつもりなんてないんだから。
ナマエさんにも色々事情があって、俺に話せていないことや隠していることがたくさんあるんだろう。俺だって人のことは言えないし、無理に聞き出したりなんてしたくない。それでも伝えたかった。ぽかぽかと、漸く温もりを取り戻してきた手を、またぎゅっと握り直した。
「俺が何度でもナマエさんを連れ出すから」
連れ出してくれてありがとうという言葉に、嘘はなかったと分かっているから。
あとがき
如月様、大変お待たせいたしました!!
当初は単発ものにしようか、現パロも良いかも、と考えて書き進めていたのですが、やっぱり中尉は明治が一番輝く気がして原作沿い設定で書かせていただきました。かなりお時間頂いてしまって本当にすみません!ご希望に沿えていれば幸いです。とても素敵なリクエストをありがとうございました!!
2024.08.21
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