一周年記念企画(更新中)
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「ナマエの元気がなかった」
小休憩から帰社し、エレベーターを待っているとポツリと鯉登さんが隣で呟いた。
「そうですか?気のせいでは?」
「気のせいなわけがあるか。明らかに何かあった様子だ」
まるで俺の目が節穴かのように見てくるが、ついさっき会ったミョウジさんのことを思い出しても、いつもと変わらない様子だった。「いらっしゃいませ!」と元気よく出迎えてくれて、穏やかな笑顔で注文を聞いてくれたのに、鯉登さんは何かを考えるように手の中のブレンドコーヒーの蓋を見つめている。
「考えすぎでしょう。私には落ち込んでいるようには見えませんでしたよ」
「月島は一度でも私が髪を切ったり、新しいスーツを下ろしたりして気づいたことがあるか?」
「いえ、ないですけど」
「それが答えだろう」
上司のスーツを把握している方が気持ちが悪いのでは?
出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。しかし確かに俺は誰かの髪型が変わったりしても全く気付かないタイプの人間だ。何か変わったと思わないか?と聞かれた日には、何が正解か分からず一生沈黙してしまう自信がある。鯉登さんの言い分も一理あると、何も言い返せずいつもの一杯を啜ったら、外の気温のせいか既にぬるくなっていた。
「何かしてやれることはないだろうか」
「何も言われていないのなら、普通に接してあげるのが良いのでは」
仮に本当にミョウジさんが落ち込んでいるとして、踏み込んでもらいたいかは本人にしか分からない。まだ自分の中で消化したい段階かもしれないし、女性ならではの言いづらい悩みなんかもあるだろう。小さな親切大きなお世話という言葉があるように、あまりこちらが世話を焼きすぎるのは良くない。そのことを分かっているのか分かっていないのか、鯉登さんは相槌のような、ため息のようなものを返してくるだけだ。
「月島は落ち込んだ時に何があれば嬉しいと思う?」
ポーン、とエレベーターが到着した音がして、目の前の空っぽの箱の中に颯爽と乗り込んでいく鯉登さんを追いかけた。
「そうですね……私は熱い風呂とホカホカの白米があればそれで」
「やはり夜景か、クルージングか……」
「聞いてますか」
*
「ラッコだ」
「……はい」
「これはペンギン」
「はぁ……」
「可愛いだろう」
「ええ、可愛いです」
私のよりもグレードの良いスマホ画面で見せられる動物たちはとびっきり可愛いのだけど、何故見せられているのか分からないので困惑ばかりが募ってしまって、あまり集中できない。今、私は、昼間に一度月島さんと一緒に来てくれたと思ったら閉店後にも訪れてきた鯉登さんに、いきなりゆるふわ水棲動物写真集を見せられている。普段会うのは昼間の一度っきりだから、こうやってわざわざ退勤後に寄ってくれたのには何か理由があると思うのだけど、鯉登さんの言動からは意図が全く汲み取れなかった。
「あの、どうしたんですか?あっ、もしかして新作のアイデアとかですか?」
トナカイとアザラシのココアプリントが変わらず好評だという話を少し前にした気がする。新しい動物を追加したらどうかということだろうか。メモをすべくエプロンに差していたアザラシのペンをノックしたら、鯉登さんが「違う」とスマホをスーツの内ポケットに仕舞った。
「昼間会った時に元気がないようだったから」
「えっ」
「色々考えたのだが花束は月島に禁止されているし、すぐにできることと言えばこういうものしか思いつかなかった」
何か欲しいものや行きたい所でもあったら教えてくれと鯉登さんが言うので、慌てて大丈夫だと手と首を振った。
「すみません、大したことないんです。本当にそういうつもりなかったんですけど、私そんなに顔に出てましたか?」
「ああ。いつもよりもいらっしゃいませと出迎える声が半音ほど低く伸びがなく、瞳に反射する光の粒が少ない。笑った時の目尻の下がり方や口角の上がり方が緩やかで──」
「いや怖い怖い怖い!!」
スラスラと私のいつもと違う点を伝えてくる鯉登さんに驚いて後ろに飛びのいた。それが本当なら洞察力がすごい。もはや驚きや恐怖を通り越して感心の領域だ。探偵にでもなれるんじゃないだろうか。
「何かあったのなら力になる」
ずいっとカウンターから身を乗り出してきた鯉登さんの圧に屈し、また一歩後退したらすぐに背中が壁にぶつかった。
「いや、本当に、大したことないんですよ」
「なんでもいい。私で良ければ話を聞かせてほしい」
艶やかな瞳で、真っ直ぐに鯉登さんが私を見てくる。こんなにも前のめりに誰かに手を差し伸べられたことがなくて、戸惑いと恥ずかしさと嬉しさが混ざったような複雑な気持ちがもこもこと雲のように体の中で大きくなっていく。
どうにもならないことで落ち込んでいたのは事実だ。でもそこまで引きずっていたつもりはなかったし、普段通りにしていたつもりだった。いや、きっと、鯉登さん以外には普段通りに見えていたのだと思う。だって声が半音低いとか、普通の人は気づかない。自分でだって気づかない。光の粒、とかも言ってたっけ。良く分からないけど、そんなことまで気づいてくる人に隠し事をするのは難しい。迷った末に、ためらいがちに口を開いた。
「……自分でも、戸惑ってるんですけどね」
昨日、高校の同級生からグループ宛に連絡があった。久々に会おうとかそういうのかな?と心を弾ませながら開いたら、そこには「結婚」の二文字があった。
「それを機にほかのみんなも結婚とか、出産とか、昇進して海外駐在が決まったとか、色々報告し始めて……全部おめでたいことなのに、なんだかちゃんと心の底からお祝いできない自分がいて、嫌になったんです」
おめでとうのスタンプは送ったけど、盛り上がるみんなの輪にどんな風に入っていけば良いのか分からなかった。妬ましいというよりは、ただ寂しかった。みんなちゃんとした大人になっているのに、私はどうなんだろうとスマホのキーボードの上で親指が止まった。
学生時代は脳と口が直結したみたいに何でもかんでも包み隠さず話し合えていたのに。暫く疎遠になっていたのもあるけど、みんなが急に知らない人たちになったように見えた。ああでもないこうでもないと一人で考えているうちに、雨上がりの増水した川のようにどんどん流れていくメッセージの中に入ることができず、最後はグループチャットをミュートにして閉じてしまった。
オーナーに拾ってもらってカフェを開いて、鯉登さんと杉元さんのような常連さんもついてくれて、毎日この上なく充実した日々を過ごしていた、つもりだった。昨日の件で人生に対する漠然とした不安を自分が持っていることに気付かされて、勝手に落ち込んでいた。それを情けなく、鯉登さんに吐露している。
「きっとそれぞれにつらいこともあるのに、みんな順風満帆な人生を送っているように錯覚してしまって、自分と比べてしまって」
ジタバタ無様に足掻いている所を他人に見せる人は少ない。頭では分かっているのに、立派に広げられた帆で風を受けて、スイスイと煌めく水面を切って進んでいくみんなを見ながら、私だけがまだ不恰好なイカダを作っているような、そんな気分だった。
「すみません、こんなこと鯉登さんに話してしまって。忘れてください」
鯉登さんは話の腰を折ることもせずに、時折り相槌を打ちながら真剣に私の話を聞いてくれた。言葉に乗って不安も一緒に吐き出されたのか、さっきよりも体が軽くなった気がした。でも私はスッキリしたけど、鯉登さんはどう考えても私のお悩み相談係にして良いような人ではない。こんなありふれた面白みのない悩みや愚痴を聞くよりも、もっと世界を動かすような仕事が合う人だ。
「良かったらこれ貰ってください」
本当は温かいコーヒーでもと思ったけど、もう片付けをした後だから作れない。せめてものお礼にとカウンター横に置いてあったフィナンシェを手渡したら、鯉登さんの両手が私の両手をフィナンシェごと包んできた。
「ちょっ……!」
「船の航海ルートはその時々によって違う」
「なっ、えっ……船?」
反射的に引っ込めようとした手は、それよりも強い力で握られて、鯉登さんの手の中に留まった。
「最低限の燃料を積んで目的地まで最短距離で行けるのが理想だが、天候や世界情勢によっては遠回りする方が安全で早く着くことがある」
鯉登さんは私たちの手のことなんて全く気にしていないように、船の航海ルートについて話し続けている。何度か抜け出そうとしても阻まれて、その度に少しずつ強く掴まれて、じわりじわりと私の手汗がフィナンシェの外装を濡らしていく。
「要するに、何が最適かはその船や荷や、私たちにはどうにもならない天候などによる。人間も同じで、ナマエにはナマエの進み方があるのではないか」
ここまで言われて、やっと鯉登さんなりに私を励まそうとしてくれているのだと理解した。こういう悩みとは無縁そうな人だから、気にしすぎだとか言われると思ったのに。
私には私の進み方がある。鯉登さんの落ち着いた言葉が、温もりとともにすっと体に馴染んでポカポカと体を巡っていく。
「それに私は今、この場所で、ナマエがこのカフェを開いてくれているのが嬉しい。月島や杉元や、そう思っている人間はこの辺りにたくさん居るはずだ」
「う、あ、待ってください、そんなこと言われたら泣いちゃう……!」
しっかりと向き合ったまま伝えられて、想像以上に心が揺さぶられた。じわっと視界が滲んで、目尻が濡れる。涙を拭うために手を引こうとしても相変わらず鯉登さんは私の手を捕らえたままで──というか、段々と力が強くなってきている?
「それに、私ならっ……!」
「あ、あの、鯉登さん、お菓子が、潰れちゃ──」
「私なら、結婚の準備はできている!!」
「え!?」
「私とならいつでも結婚できるぞッ!!」
ギュッと力強く手を握られて、ついにフィナンシェがぺしゃんこになった感覚がした。
「うぇ!?いや、あの、すみません、私はいま結婚したいとかではなくて、その……!」
「分かっている。でもいつでも結婚できる相手がここにいると思うと不安になった時に少しは安心するだろう」
朗らかに笑いながら凄いことを言ってきた鯉登さんに二の句が継げなかった。そ、そういうものなのかな?しかもそんな大企業の御曹司をキープしているみたいな……と、ダラダラと冷や汗が背中を伝っていく。が、鯉登さんは青ざめる私に気づくことなく「ああ、そうだ」と何かを思い出したように言った。
「駐在もできるぞ。その際はカフェの海外進出も視野に入れてみるのも良いのでは?」
「ちゅ、駐在?な、なんでですか?」
「兄さあ……兄、がアメリカ支社にいる。勉強のために私も兄と交代する形で支社の業務を継いだら良いのではと父たちが話していた。ただナマエと離れることになるので断っていて──」
「待ってください、お兄さんいらっしゃるんですか?」
駐在?アメリカ支社?お兄さん?初出しの情報が多過ぎて処理が追いつかない。っていうか、私を理由に普通の人が喉から手が出るほど羨むような栄転の話を断ってるんですか?嘘でしょ??血の気が引いてクラクラとしてきた時、目の前の鯉登さんが「自慢の兄だ」と嬉しそうに笑って、ついに心臓が止まったように錯覚した。
切れ長で涼しげな目元が、いつもよりも下がっている。はにかむようにお兄さんのことを話す鯉登さんは、初めて見る”弟”の顔をしていた。
「いつかナマエにも会わせたい」
鯉登さんにそんな顔をさせるなんて、一体どんな人なのだろう。歳はいくつくらい離れているのだろう。顔は似ているのかな。色々な疑問が湧き上がってくる。ただ一つ分かっていることは、きっと、絶対、素敵な人なんだろうな。
「私も、会ってみたいです」
「まこち!?兄さあに連絡せんと!今度父と母にも紹介して……ああ場所は実家で良いか!?いや、ホテルやレストランでナマエのご両親も交えて食事をするのも良い!!」
「待ってくださいそれはちょっと……!」
ブンブンと手を握られながら上下に思いっきり振られて体と視界が大きく揺れる。舌を噛み切りそうで口を閉ざした私とは逆に、時折り聞き取れない言葉を発しながら鯉登さんは早口で話し続けている。
「前々から母はナマエに会いたいと言っていたのだ!」
「前々から!?私のこと話してるんですか!?」
「当たり前だ!両親も兄も皆ナマエなら安心だと言っている!」
「何が!?」
その後も鯉登さんの話はとどまることを知らず、私の手が解放された時にはフィナンシェがカバンの底から見つかったおにぎりのような薄さになっていた。
「ふっ……」
ぽとっとカウンターの上に落っこちた悲壮感溢れるフィナンシェを見て、二人で同時に吹き出した。鯉登さんが来てから表情筋を目一杯動かしていたせいで顔中が痛い。
今日鯉登さんが来てくれて良かった。鯉登さんがいてくれて、良かった。真っ直ぐで、少し……いや、結構ズレているけど、やっぱりこの人が好きだ。あまり想像ができないけど、いつか鯉登さんが落ち込むことがあったら私も側にいたい。そのためにも早く一歩を踏み出さないと。未だに両手に残る鯉登さんの温もりを感じながら、強く思った。
あとがき
2025.12.05
小休憩から帰社し、エレベーターを待っているとポツリと鯉登さんが隣で呟いた。
「そうですか?気のせいでは?」
「気のせいなわけがあるか。明らかに何かあった様子だ」
まるで俺の目が節穴かのように見てくるが、ついさっき会ったミョウジさんのことを思い出しても、いつもと変わらない様子だった。「いらっしゃいませ!」と元気よく出迎えてくれて、穏やかな笑顔で注文を聞いてくれたのに、鯉登さんは何かを考えるように手の中のブレンドコーヒーの蓋を見つめている。
「考えすぎでしょう。私には落ち込んでいるようには見えませんでしたよ」
「月島は一度でも私が髪を切ったり、新しいスーツを下ろしたりして気づいたことがあるか?」
「いえ、ないですけど」
「それが答えだろう」
上司のスーツを把握している方が気持ちが悪いのでは?
出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。しかし確かに俺は誰かの髪型が変わったりしても全く気付かないタイプの人間だ。何か変わったと思わないか?と聞かれた日には、何が正解か分からず一生沈黙してしまう自信がある。鯉登さんの言い分も一理あると、何も言い返せずいつもの一杯を啜ったら、外の気温のせいか既にぬるくなっていた。
「何かしてやれることはないだろうか」
「何も言われていないのなら、普通に接してあげるのが良いのでは」
仮に本当にミョウジさんが落ち込んでいるとして、踏み込んでもらいたいかは本人にしか分からない。まだ自分の中で消化したい段階かもしれないし、女性ならではの言いづらい悩みなんかもあるだろう。小さな親切大きなお世話という言葉があるように、あまりこちらが世話を焼きすぎるのは良くない。そのことを分かっているのか分かっていないのか、鯉登さんは相槌のような、ため息のようなものを返してくるだけだ。
「月島は落ち込んだ時に何があれば嬉しいと思う?」
ポーン、とエレベーターが到着した音がして、目の前の空っぽの箱の中に颯爽と乗り込んでいく鯉登さんを追いかけた。
「そうですね……私は熱い風呂とホカホカの白米があればそれで」
「やはり夜景か、クルージングか……」
「聞いてますか」
*
「ラッコだ」
「……はい」
「これはペンギン」
「はぁ……」
「可愛いだろう」
「ええ、可愛いです」
私のよりもグレードの良いスマホ画面で見せられる動物たちはとびっきり可愛いのだけど、何故見せられているのか分からないので困惑ばかりが募ってしまって、あまり集中できない。今、私は、昼間に一度月島さんと一緒に来てくれたと思ったら閉店後にも訪れてきた鯉登さんに、いきなりゆるふわ水棲動物写真集を見せられている。普段会うのは昼間の一度っきりだから、こうやってわざわざ退勤後に寄ってくれたのには何か理由があると思うのだけど、鯉登さんの言動からは意図が全く汲み取れなかった。
「あの、どうしたんですか?あっ、もしかして新作のアイデアとかですか?」
トナカイとアザラシのココアプリントが変わらず好評だという話を少し前にした気がする。新しい動物を追加したらどうかということだろうか。メモをすべくエプロンに差していたアザラシのペンをノックしたら、鯉登さんが「違う」とスマホをスーツの内ポケットに仕舞った。
「昼間会った時に元気がないようだったから」
「えっ」
「色々考えたのだが花束は月島に禁止されているし、すぐにできることと言えばこういうものしか思いつかなかった」
何か欲しいものや行きたい所でもあったら教えてくれと鯉登さんが言うので、慌てて大丈夫だと手と首を振った。
「すみません、大したことないんです。本当にそういうつもりなかったんですけど、私そんなに顔に出てましたか?」
「ああ。いつもよりもいらっしゃいませと出迎える声が半音ほど低く伸びがなく、瞳に反射する光の粒が少ない。笑った時の目尻の下がり方や口角の上がり方が緩やかで──」
「いや怖い怖い怖い!!」
スラスラと私のいつもと違う点を伝えてくる鯉登さんに驚いて後ろに飛びのいた。それが本当なら洞察力がすごい。もはや驚きや恐怖を通り越して感心の領域だ。探偵にでもなれるんじゃないだろうか。
「何かあったのなら力になる」
ずいっとカウンターから身を乗り出してきた鯉登さんの圧に屈し、また一歩後退したらすぐに背中が壁にぶつかった。
「いや、本当に、大したことないんですよ」
「なんでもいい。私で良ければ話を聞かせてほしい」
艶やかな瞳で、真っ直ぐに鯉登さんが私を見てくる。こんなにも前のめりに誰かに手を差し伸べられたことがなくて、戸惑いと恥ずかしさと嬉しさが混ざったような複雑な気持ちがもこもこと雲のように体の中で大きくなっていく。
どうにもならないことで落ち込んでいたのは事実だ。でもそこまで引きずっていたつもりはなかったし、普段通りにしていたつもりだった。いや、きっと、鯉登さん以外には普段通りに見えていたのだと思う。だって声が半音低いとか、普通の人は気づかない。自分でだって気づかない。光の粒、とかも言ってたっけ。良く分からないけど、そんなことまで気づいてくる人に隠し事をするのは難しい。迷った末に、ためらいがちに口を開いた。
「……自分でも、戸惑ってるんですけどね」
昨日、高校の同級生からグループ宛に連絡があった。久々に会おうとかそういうのかな?と心を弾ませながら開いたら、そこには「結婚」の二文字があった。
「それを機にほかのみんなも結婚とか、出産とか、昇進して海外駐在が決まったとか、色々報告し始めて……全部おめでたいことなのに、なんだかちゃんと心の底からお祝いできない自分がいて、嫌になったんです」
おめでとうのスタンプは送ったけど、盛り上がるみんなの輪にどんな風に入っていけば良いのか分からなかった。妬ましいというよりは、ただ寂しかった。みんなちゃんとした大人になっているのに、私はどうなんだろうとスマホのキーボードの上で親指が止まった。
学生時代は脳と口が直結したみたいに何でもかんでも包み隠さず話し合えていたのに。暫く疎遠になっていたのもあるけど、みんなが急に知らない人たちになったように見えた。ああでもないこうでもないと一人で考えているうちに、雨上がりの増水した川のようにどんどん流れていくメッセージの中に入ることができず、最後はグループチャットをミュートにして閉じてしまった。
オーナーに拾ってもらってカフェを開いて、鯉登さんと杉元さんのような常連さんもついてくれて、毎日この上なく充実した日々を過ごしていた、つもりだった。昨日の件で人生に対する漠然とした不安を自分が持っていることに気付かされて、勝手に落ち込んでいた。それを情けなく、鯉登さんに吐露している。
「きっとそれぞれにつらいこともあるのに、みんな順風満帆な人生を送っているように錯覚してしまって、自分と比べてしまって」
ジタバタ無様に足掻いている所を他人に見せる人は少ない。頭では分かっているのに、立派に広げられた帆で風を受けて、スイスイと煌めく水面を切って進んでいくみんなを見ながら、私だけがまだ不恰好なイカダを作っているような、そんな気分だった。
「すみません、こんなこと鯉登さんに話してしまって。忘れてください」
鯉登さんは話の腰を折ることもせずに、時折り相槌を打ちながら真剣に私の話を聞いてくれた。言葉に乗って不安も一緒に吐き出されたのか、さっきよりも体が軽くなった気がした。でも私はスッキリしたけど、鯉登さんはどう考えても私のお悩み相談係にして良いような人ではない。こんなありふれた面白みのない悩みや愚痴を聞くよりも、もっと世界を動かすような仕事が合う人だ。
「良かったらこれ貰ってください」
本当は温かいコーヒーでもと思ったけど、もう片付けをした後だから作れない。せめてものお礼にとカウンター横に置いてあったフィナンシェを手渡したら、鯉登さんの両手が私の両手をフィナンシェごと包んできた。
「ちょっ……!」
「船の航海ルートはその時々によって違う」
「なっ、えっ……船?」
反射的に引っ込めようとした手は、それよりも強い力で握られて、鯉登さんの手の中に留まった。
「最低限の燃料を積んで目的地まで最短距離で行けるのが理想だが、天候や世界情勢によっては遠回りする方が安全で早く着くことがある」
鯉登さんは私たちの手のことなんて全く気にしていないように、船の航海ルートについて話し続けている。何度か抜け出そうとしても阻まれて、その度に少しずつ強く掴まれて、じわりじわりと私の手汗がフィナンシェの外装を濡らしていく。
「要するに、何が最適かはその船や荷や、私たちにはどうにもならない天候などによる。人間も同じで、ナマエにはナマエの進み方があるのではないか」
ここまで言われて、やっと鯉登さんなりに私を励まそうとしてくれているのだと理解した。こういう悩みとは無縁そうな人だから、気にしすぎだとか言われると思ったのに。
私には私の進み方がある。鯉登さんの落ち着いた言葉が、温もりとともにすっと体に馴染んでポカポカと体を巡っていく。
「それに私は今、この場所で、ナマエがこのカフェを開いてくれているのが嬉しい。月島や杉元や、そう思っている人間はこの辺りにたくさん居るはずだ」
「う、あ、待ってください、そんなこと言われたら泣いちゃう……!」
しっかりと向き合ったまま伝えられて、想像以上に心が揺さぶられた。じわっと視界が滲んで、目尻が濡れる。涙を拭うために手を引こうとしても相変わらず鯉登さんは私の手を捕らえたままで──というか、段々と力が強くなってきている?
「それに、私ならっ……!」
「あ、あの、鯉登さん、お菓子が、潰れちゃ──」
「私なら、結婚の準備はできている!!」
「え!?」
「私とならいつでも結婚できるぞッ!!」
ギュッと力強く手を握られて、ついにフィナンシェがぺしゃんこになった感覚がした。
「うぇ!?いや、あの、すみません、私はいま結婚したいとかではなくて、その……!」
「分かっている。でもいつでも結婚できる相手がここにいると思うと不安になった時に少しは安心するだろう」
朗らかに笑いながら凄いことを言ってきた鯉登さんに二の句が継げなかった。そ、そういうものなのかな?しかもそんな大企業の御曹司をキープしているみたいな……と、ダラダラと冷や汗が背中を伝っていく。が、鯉登さんは青ざめる私に気づくことなく「ああ、そうだ」と何かを思い出したように言った。
「駐在もできるぞ。その際はカフェの海外進出も視野に入れてみるのも良いのでは?」
「ちゅ、駐在?な、なんでですか?」
「兄さあ……兄、がアメリカ支社にいる。勉強のために私も兄と交代する形で支社の業務を継いだら良いのではと父たちが話していた。ただナマエと離れることになるので断っていて──」
「待ってください、お兄さんいらっしゃるんですか?」
駐在?アメリカ支社?お兄さん?初出しの情報が多過ぎて処理が追いつかない。っていうか、私を理由に普通の人が喉から手が出るほど羨むような栄転の話を断ってるんですか?嘘でしょ??血の気が引いてクラクラとしてきた時、目の前の鯉登さんが「自慢の兄だ」と嬉しそうに笑って、ついに心臓が止まったように錯覚した。
切れ長で涼しげな目元が、いつもよりも下がっている。はにかむようにお兄さんのことを話す鯉登さんは、初めて見る”弟”の顔をしていた。
「いつかナマエにも会わせたい」
鯉登さんにそんな顔をさせるなんて、一体どんな人なのだろう。歳はいくつくらい離れているのだろう。顔は似ているのかな。色々な疑問が湧き上がってくる。ただ一つ分かっていることは、きっと、絶対、素敵な人なんだろうな。
「私も、会ってみたいです」
「まこち!?兄さあに連絡せんと!今度父と母にも紹介して……ああ場所は実家で良いか!?いや、ホテルやレストランでナマエのご両親も交えて食事をするのも良い!!」
「待ってくださいそれはちょっと……!」
ブンブンと手を握られながら上下に思いっきり振られて体と視界が大きく揺れる。舌を噛み切りそうで口を閉ざした私とは逆に、時折り聞き取れない言葉を発しながら鯉登さんは早口で話し続けている。
「前々から母はナマエに会いたいと言っていたのだ!」
「前々から!?私のこと話してるんですか!?」
「当たり前だ!両親も兄も皆ナマエなら安心だと言っている!」
「何が!?」
その後も鯉登さんの話はとどまることを知らず、私の手が解放された時にはフィナンシェがカバンの底から見つかったおにぎりのような薄さになっていた。
「ふっ……」
ぽとっとカウンターの上に落っこちた悲壮感溢れるフィナンシェを見て、二人で同時に吹き出した。鯉登さんが来てから表情筋を目一杯動かしていたせいで顔中が痛い。
今日鯉登さんが来てくれて良かった。鯉登さんがいてくれて、良かった。真っ直ぐで、少し……いや、結構ズレているけど、やっぱりこの人が好きだ。あまり想像ができないけど、いつか鯉登さんが落ち込むことがあったら私も側にいたい。そのためにも早く一歩を踏み出さないと。未だに両手に残る鯉登さんの温もりを感じながら、強く思った。
あとがき
落ち込んだ夢主を励ます鯉登さんのリクエストでした!きっと鯉登さんはこういう悩みとは無縁だと思うのですが、夢主が悩んでいたらちゃんと向き合ってくれるんだろうなという妄想です。
兄さあの設定も一応考えていたのですが、結局本編で出せずに終わってしまったのでこちらで登場させることができて嬉しかったです。みい様、リクエストありがとうございました~!!
兄さあの設定も一応考えていたのですが、結局本編で出せずに終わってしまったのでこちらで登場させることができて嬉しかったです。みい様、リクエストありがとうございました~!!
2025.12.05
