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※本編開始前、兄が亡くなって少し経ってからのお話です。津山についての捏造があります
「助けてくれ」
男の瞳が私にそう訴えていた。布を咥えさせられ、上半身裸で後ろ手に縛られて床に転がっている男からは、不明瞭な音しか聞こえてこない。それでも瞳が真っすぐ射抜くように私を見て来るのだ。助けてくれと。
夕方、手術用具を一式持ってついてこいと言われた先には、鶴見中尉と月島軍曹と尾形上等兵がいた。異様な空気だった。窓もない薄暗い室内で、三人が男を囲んでジッと見つめているから、私もそれに倣って男を見た。多分今日の昼間に連行されてきた人なのだろう。兵士たちがある男を捕まえたと話しているのを小耳に挟んだ。男は殴られ目が腫れ鼻血の跡もあるが、手術が必要そうな怪我をしているようには見えない。さっき入れ替わりで出ていった宇佐美上等兵の顔に赤い斑点のようなものが見えたから、きっと彼がやったのだろう。
異様なのは雰囲気だけではなかった。男の体には背中まで続く刺青が彫られていた。倶利伽羅紋々とは全く違う、曲線と直線が入り交じったもので、腹の方には丸で囲まれた「地」や「呂」という字が見える。わざわざ体に刻みたい漢字には見えないのに、なぜそんな物を。自分から声を発することが憚れる空気の中、男と目を合わせないようにして、ただ鶴見中尉の言葉を待った。
「津山睦雄」
「はい」
「33人殺した網走監獄の脱獄囚だ」
脱獄囚。あまり馴染みのない言葉を口の中で転がした。33人も殺しているとは言え、はるばる網走から小樽まで逃げおおせたと思ったのに、よりによって鶴見中尉に掴まってしまったこの津山という男に少なからず同情した。一方で、体を廻り込むように彫られているこの奇妙な刺青こそが鶴見中尉が言っていたアイヌの金塊へと繋がる手がかりなのかと、どこか冷静に刺青を観察している自分が居た。一体、どうやって解くのだろう。恐怖や不安を押しのけて、次第に好奇心がムクムクと育っていく。
「この暗号、何か気づくことはないかね」
柔らかい表情で私を見てくる様子は、さながら生徒の回答を待つ教師だ。他の角度からも見るように促され、恐る恐る男の周りを回った。
「あっ……」
模様が正中線で途切れている。それに腕の所も。脳内で途切れた箇所を線で結んだ時、浮かび上がった図にぞわぞわと鳥肌が立っていく。まさか、そんなこと。呼吸が浅くなり、ついに背中を虫が這い回るようなおぞましさにぶるりと体が大きく震えた。これは、この刺青の暗号は──
「皮を、剥ぐことを、前提として彫られています」
男がビクッと顔を上げて私たちを見てきた。その視線から逃れるように顔を背けた。鞄を持つ手に力が入る。どんなことにも対応できるように、手術用具を詰められるだけ詰めてきたからずっしりと重い。私は、手術をするために呼ばれたのではない。全身から体温が引いていき、胃液がせり上がってくる。
「正解だ」
鶴見中尉の拍手と共にバンッと爆竹のような大きな音がして、咄嗟に目を瞑った。硝煙の匂いのあとに、むわっとした血の匂いが鼻をついた。
「ナマエさんにはこの暗号を剥いでほしい」
真っ暗闇の中、鶴見中尉の声が響いた。暗号を剥ぐ。皮を、剥ぐ。人の皮を。予想していた通りの要望だ。それでも実際に言葉にされるとまた残酷さが際立った。この刺青を彫った人間は、きっと鶴見中尉のような人間なのだろう。刺青を彫る人間も、その意図を汲んで解読を実行するような人間も、どちらも狂っている。
「我々がやって下手に傷つけたら折角の暗号が解けなくなってしまうやもしれん。ここはナマエさんの力を借りたい」
ギシギシと床が軋んで、鶴見中尉が近づいてくるのが分かった。
「やってくれるね」
肩に触れられ、弾けるように目を開けた。いつもいつも拒否権なんてないのに、こちらに委ねるような言い方をされるのが嫌だった。今この兵舎にいる兵士たちは色々な汚れ仕事をしてきたのだろう。今度は、私の番なのだ。
「……はい」
兄の隣で座っていた時と一緒で、断る選択肢なんてなかった。すーっと息を吸って、鞄を床に置いた。血の匂いが粘膜にこびりついてそのうち麻痺して分からなくなった。持参していた手袋と割烹着を装着して、膝をつき、男へと向き合った。側頭部を撃たれている。きっと痛みも何も感じずに死んだのだろう。そう願いたかった。ごめんなさい。ごめんなさい。手を合わせて心の中で繰り返してから、握ったメスを胸骨柄の辺りに下ろした。
まだ温かい。普通に手術をする時のようにするするとメスが皮膚を引き裂いて、真っ赤な血が溢れ出してくる。腹の方まで開いたら、今度は脇腹のほうへと一直線に動かした。
「さすが……上手だ。迷いがない」
泣きそうになったのを唇を噛んで必死に堪えた。こんなことをするために私は医学を学んだわけではないのに。
「尾形上等兵、手伝ってあげなさい。私は少し出てくる」
津山の頭の周辺にできていた黒々とした血溜まりを乗り越えて、鶴見中尉が月島軍曹を連れて部屋から出ていった。きっと明日になったら床ごと張り替えて何も無かったことにされるのだろう。兄の時のように。兄は、いつの間にか街での不慮の事故で亡くなったことになっていた。
「……っ、はぁ」
皮を剥ぐというのはこうも大変なのか。四苦八苦しながら皮膚と皮下組織の間に刃を入れていくが、中々進まない。ぬるぬると血と脂で滑るから何度も拭わないとすぐに刃が切れなくなってしまうし、暗号を傷つけないようにと気持ち深く抉ってしまうと脂肪を越えて筋肉まで取れてしまうから塩梅が難しい。あとでちゃんとこそげ落とさないときっと腐ってしまう。皮膚も全て剥いだとして、その後の処理をどうすれば良いのかも分からない。こういうのは医者よりも多分革職人の方が詳しいはずだ。色々と考えながらやっと左半身を半分ほど剥がしたところで一息ついていると、「おい」と低い声が部屋に響いた。
「医者のくせにもっと早くできんのか、このままだと夜明けまでかかるぞ」
「医者は普通皮を剥ぎません」
苛立ちから思わずつっけんどんな物言いで返してしまったが、尾形上等兵は顔色一つ変えずに私を見つめ返してきた。でも彼が言うようにこのままでは何時間もかかってしまい、死後硬直も始まってどんどん皮を剥がすのが難しくなってしまう。メスのような小さな刃では広範囲の皮膚を剥がすのには不向きだ。包丁か、山刀か、そういうものがあれば、と思った所で尾形上等兵の腰に下がっている物がふと目に入った。
「尾形上等兵、銃剣を貸していただけますか」
返事はなかったが、すぐにずっしりと重いそれを手渡された。先ほどと同様に皮膚の下に少しずつ刃を入れて、皮下組織を断ち切っていく。こっちの方がメスよりも刀身があって剥がしやすい。左手で剥がれた皮膚を持ち上げて、穴を開けないように注意しながらただひたすらにザクザクと刃を差し入れていく。刃を入れるごとに感情が鈍化して、まるで獣の皮を剥いでいるような気分になってきた。
「すみませんが、うつ伏せにするのを手伝ってください」
一度立ち上がって男を見下ろした。胸部は観音開きになっていて、皮膚がべろんっと開いた所から赤黒い筋肉や白っぽい筋が露出している。これを私がしたのだと、目に焼き付けた。結局私も一緒だ。狂っている。二人で剥がした皮膚を傷つけないよう気を付けながら津山の体をひっくり返して、そのあとは正面と同じ要領で背後の皮膚を剥いでいった。
皮を剥ぎ終わって、裏面の余分な脂肪や肉をこそげ落とした頃にはそれなりの時間が経っていたと思う。持ち上げて刺青の入った人皮の表と裏を確認して、尾形上等兵を見た。
「終わりました」
人の肌の重さを初めて知った。皮だけでもずっしりと重い。毛がないから身から剥がされるとゴムのようだ。刺青人皮を手に持ったまま返事を待っていると、「報告してくる」と端的な言葉を残して尾形上等兵が去って行った。
部屋に残されたのは私と、上半身を剥かれた津山だけになってしまった。血だらけになっていた割烹着を脱ぎ、そっと津山の体にかけた。ごめんなさい。こんな風に人生を終えるなんて思っていなかっただろうに。
すぐに戻ってくるかと思って床に広げた刺青人皮と睨めっこしながら大人しく待機していたのに、待てど待てど尾形上等兵は戻ってこなかった。こんな風に一人にされたのは初めてだった。まだ信用されていないからか、診察室から出る時はいつも尾形上等兵や二階堂兄弟や他の兵士が私と一緒に行動していた。試しに扉を開けてこわごわ外を覗いてみても誰もいなかった。
今なら逃げられる。
耳を澄ましても、話し声も足音も聞こえないし、近くに誰かいるように思えなかった。今を逃したらきっともう逃げられない。最後に床に広げたままだった刺青を凝視して、脳裏にその暗号を焼き付けてからゆっくりと部屋を出た。
廊下を進んで、しばらくしたら声が聞こえた。こっちに近づいて来る。二人組のようだが誰なのかまでは分からなかった。慌てて引き返した所に階段があって、二階へと上がった。靴を脱ぎ、大きく軋む三段目の階段を飛び越えて、できるだけ早く身を隠せる場所を目指した。そういえば、二階の部屋の鉄格子が老朽化して危険だから取り外したと誰かが言っていた。確か普段は使われていない奥から二番目の部屋だ。迷わずその部屋へと向かったら、予想通り窓には鉄格子がなく、とっぷりと日が暮れた空が遮られずに広がっていた。
音を立てないように細心の注意を払って窓を開けて、久々の外気を目一杯吸い込んだ。月が細い。秋の気配がする。さっきまで嗅いでいたあの新鮮な血と肉の匂いのせいで鼻はおかしいままだけれど、今までで一番美味しく感じた。
肺の中の淀んだ空気を全て吐き出すために何度か大きな息を繰り返していると、段々と階下が騒がしくなってきた。きっと私が居ないことに気づいたのだろう。敷地内から出るには兵士の居る正門と、普段使われていない小さな裏門がある。今ならまだ裏門に誰も配備されていないはずだ。靴を履き直して、窓の下を覗いた。
二階だが下には植え込みがあった。あそこに落ちればきっと大丈夫だ。でもこんな高さから飛び降りたことなんてなくて、手汗がぶわっと吹き出してくる。暗い。怖い。でも、ここはもっと怖い。震える手で窓枠を掴み、壁に足をかけて乗り越えようとしたら、診察室の引き出しにしまいっぱなしだった兄の拳銃が浮かんだ。もう取りに戻ることはできない。兄を置いて行くのか、一人で。ドッドッドッと心臓の音が耳元でする。早く行かないと、早く逃げないと。
──逃げると言っても、どこへ?
ここから逃げてどこへ行くと言うのだろう。帰る家もない。家族もいない。仕事もない。私は一人だ。さっき人の皮まで剥いだ。手袋をしていたのに、窓枠を掴む自分の両手がべっとりと血で濡れているように錯覚した。窓枠から少しだけ身を乗り出した変な態勢のまま固まっていたら、ふわっと一筋の向かい風が頬を撫でて、誘われるように振り返った。
「悪い子だね」
首に、手がかかったような気がした。暗闇の中、貼り付けたような笑みで佇む鶴見中尉にひゅっと喉が鳴った。震えることすらできなかった。体が全ての活動を停止したように動かない。ぼんやりとした月明かりに照らされて目元は暗く窪み、口元だけが異常に弧を描いていた。
「こんな所から落ちたら大変だ」
距離を詰められ腹に腕が回されて、ぐいっと窓から引き剥がされた。よろけた私の体がぶつかってもびくともしない。私を抱え込んだまま窓の下を覗いた鶴見中尉の額当てが、月光を浴びて青白く光っていた。
「あの植え込みを狙っていたのかな?お転婆なのは結構だが、体は大切にしないといけないよ」
伝わってくる体温も、子供へ言い聞かせるような優しい声も、何もかもが不快だった。鶴見中尉が纏っている得体の知れない何かに体が浸食されていく。触れている面が多い分、兄が死んだ時よりも早く、深く、その何かが入り込んでくる。一刻も早く抜け出したいのに、体は震えるだけで言うことを聞いてくれない。
「ナマエさんが怪我をしたら皆悲しむ」
ガタンと音を立てながら無慈悲に窓が下ろされ、鍵が掛けられた。外界と断絶されて、途端に息苦しさが増した。
「今のは見なかったことにしよう」
「な、んで……」
「私にはナマエさんが必要だからだ」
そうやって、優しい瞳と甘い言葉で人を誑かす。顔色一つ変えずに兄を撃つように命令していたくせに、いま私を見る目はどこまでも穏やかだ。
「あの戦争で何を得た?地獄のような苦しみの中死んでいった同胞たち、残された家族、未だ薄れぬロシアの脅威……無能な上層部にこれ以上付き合う必要はない。この国を守るために我々は立ち上がるのだ」
「でもっ……」
「今後も戦争は起きる。もっと大きな戦争だ。その時にモルヒネがあれば、先の戦争のような思いをしなくて済む。痛みに苦しむ者たちを救うことができる」
すべてナマエさんが言っていたことだ、と言われてカッと体が熱くなった。兄の隣で喜々として夢を語っていた愚かな自分を思い出してしまった。同時に、その夢を諦めきれない自分がいることも突き付けられた。ここに居れば、モルヒネの国産化を進めることができる。もう誰も苦しまないで良い世界を目指すことができる。
「それは、ナマエさんにしかできないことだ」
耳元で囁かれて、ついに涙が溢れ出た。誑かされているのは分かっている。それでも独りぼっちの世界で私が必要だと言ってくれるのが嬉しかった。あの日兄の隣で語っていたことをたかが小娘の戯言と一蹴されなかったことが、いつの間にか心の支えになっていた。認められて嬉しかった。耳を傾けてくれるのが嬉しかった。いつも私のことを煩わしそうにしていた兄とは真逆だった。
「我々が突き進むことが、死んでいった戦友やミョウジ少佐の最大の弔いになる」
石鹸と糊の匂いのするハンカチでそっと目元を拭われた。目元から溢れる涙が真っ白な生地に吸い込まれていく度、少しずつ心が落ち着いていく。
「共に往こう」
死神に抱きすくめられながら地獄への誘いを断れるほど、私は強くなかった。
あとがき
2025.08.19
「助けてくれ」
男の瞳が私にそう訴えていた。布を咥えさせられ、上半身裸で後ろ手に縛られて床に転がっている男からは、不明瞭な音しか聞こえてこない。それでも瞳が真っすぐ射抜くように私を見て来るのだ。助けてくれと。
夕方、手術用具を一式持ってついてこいと言われた先には、鶴見中尉と月島軍曹と尾形上等兵がいた。異様な空気だった。窓もない薄暗い室内で、三人が男を囲んでジッと見つめているから、私もそれに倣って男を見た。多分今日の昼間に連行されてきた人なのだろう。兵士たちがある男を捕まえたと話しているのを小耳に挟んだ。男は殴られ目が腫れ鼻血の跡もあるが、手術が必要そうな怪我をしているようには見えない。さっき入れ替わりで出ていった宇佐美上等兵の顔に赤い斑点のようなものが見えたから、きっと彼がやったのだろう。
異様なのは雰囲気だけではなかった。男の体には背中まで続く刺青が彫られていた。倶利伽羅紋々とは全く違う、曲線と直線が入り交じったもので、腹の方には丸で囲まれた「地」や「呂」という字が見える。わざわざ体に刻みたい漢字には見えないのに、なぜそんな物を。自分から声を発することが憚れる空気の中、男と目を合わせないようにして、ただ鶴見中尉の言葉を待った。
「津山睦雄」
「はい」
「33人殺した網走監獄の脱獄囚だ」
脱獄囚。あまり馴染みのない言葉を口の中で転がした。33人も殺しているとは言え、はるばる網走から小樽まで逃げおおせたと思ったのに、よりによって鶴見中尉に掴まってしまったこの津山という男に少なからず同情した。一方で、体を廻り込むように彫られているこの奇妙な刺青こそが鶴見中尉が言っていたアイヌの金塊へと繋がる手がかりなのかと、どこか冷静に刺青を観察している自分が居た。一体、どうやって解くのだろう。恐怖や不安を押しのけて、次第に好奇心がムクムクと育っていく。
「この暗号、何か気づくことはないかね」
柔らかい表情で私を見てくる様子は、さながら生徒の回答を待つ教師だ。他の角度からも見るように促され、恐る恐る男の周りを回った。
「あっ……」
模様が正中線で途切れている。それに腕の所も。脳内で途切れた箇所を線で結んだ時、浮かび上がった図にぞわぞわと鳥肌が立っていく。まさか、そんなこと。呼吸が浅くなり、ついに背中を虫が這い回るようなおぞましさにぶるりと体が大きく震えた。これは、この刺青の暗号は──
「皮を、剥ぐことを、前提として彫られています」
男がビクッと顔を上げて私たちを見てきた。その視線から逃れるように顔を背けた。鞄を持つ手に力が入る。どんなことにも対応できるように、手術用具を詰められるだけ詰めてきたからずっしりと重い。私は、手術をするために呼ばれたのではない。全身から体温が引いていき、胃液がせり上がってくる。
「正解だ」
鶴見中尉の拍手と共にバンッと爆竹のような大きな音がして、咄嗟に目を瞑った。硝煙の匂いのあとに、むわっとした血の匂いが鼻をついた。
「ナマエさんにはこの暗号を剥いでほしい」
真っ暗闇の中、鶴見中尉の声が響いた。暗号を剥ぐ。皮を、剥ぐ。人の皮を。予想していた通りの要望だ。それでも実際に言葉にされるとまた残酷さが際立った。この刺青を彫った人間は、きっと鶴見中尉のような人間なのだろう。刺青を彫る人間も、その意図を汲んで解読を実行するような人間も、どちらも狂っている。
「我々がやって下手に傷つけたら折角の暗号が解けなくなってしまうやもしれん。ここはナマエさんの力を借りたい」
ギシギシと床が軋んで、鶴見中尉が近づいてくるのが分かった。
「やってくれるね」
肩に触れられ、弾けるように目を開けた。いつもいつも拒否権なんてないのに、こちらに委ねるような言い方をされるのが嫌だった。今この兵舎にいる兵士たちは色々な汚れ仕事をしてきたのだろう。今度は、私の番なのだ。
「……はい」
兄の隣で座っていた時と一緒で、断る選択肢なんてなかった。すーっと息を吸って、鞄を床に置いた。血の匂いが粘膜にこびりついてそのうち麻痺して分からなくなった。持参していた手袋と割烹着を装着して、膝をつき、男へと向き合った。側頭部を撃たれている。きっと痛みも何も感じずに死んだのだろう。そう願いたかった。ごめんなさい。ごめんなさい。手を合わせて心の中で繰り返してから、握ったメスを胸骨柄の辺りに下ろした。
まだ温かい。普通に手術をする時のようにするするとメスが皮膚を引き裂いて、真っ赤な血が溢れ出してくる。腹の方まで開いたら、今度は脇腹のほうへと一直線に動かした。
「さすが……上手だ。迷いがない」
泣きそうになったのを唇を噛んで必死に堪えた。こんなことをするために私は医学を学んだわけではないのに。
「尾形上等兵、手伝ってあげなさい。私は少し出てくる」
津山の頭の周辺にできていた黒々とした血溜まりを乗り越えて、鶴見中尉が月島軍曹を連れて部屋から出ていった。きっと明日になったら床ごと張り替えて何も無かったことにされるのだろう。兄の時のように。兄は、いつの間にか街での不慮の事故で亡くなったことになっていた。
「……っ、はぁ」
皮を剥ぐというのはこうも大変なのか。四苦八苦しながら皮膚と皮下組織の間に刃を入れていくが、中々進まない。ぬるぬると血と脂で滑るから何度も拭わないとすぐに刃が切れなくなってしまうし、暗号を傷つけないようにと気持ち深く抉ってしまうと脂肪を越えて筋肉まで取れてしまうから塩梅が難しい。あとでちゃんとこそげ落とさないときっと腐ってしまう。皮膚も全て剥いだとして、その後の処理をどうすれば良いのかも分からない。こういうのは医者よりも多分革職人の方が詳しいはずだ。色々と考えながらやっと左半身を半分ほど剥がしたところで一息ついていると、「おい」と低い声が部屋に響いた。
「医者のくせにもっと早くできんのか、このままだと夜明けまでかかるぞ」
「医者は普通皮を剥ぎません」
苛立ちから思わずつっけんどんな物言いで返してしまったが、尾形上等兵は顔色一つ変えずに私を見つめ返してきた。でも彼が言うようにこのままでは何時間もかかってしまい、死後硬直も始まってどんどん皮を剥がすのが難しくなってしまう。メスのような小さな刃では広範囲の皮膚を剥がすのには不向きだ。包丁か、山刀か、そういうものがあれば、と思った所で尾形上等兵の腰に下がっている物がふと目に入った。
「尾形上等兵、銃剣を貸していただけますか」
返事はなかったが、すぐにずっしりと重いそれを手渡された。先ほどと同様に皮膚の下に少しずつ刃を入れて、皮下組織を断ち切っていく。こっちの方がメスよりも刀身があって剥がしやすい。左手で剥がれた皮膚を持ち上げて、穴を開けないように注意しながらただひたすらにザクザクと刃を差し入れていく。刃を入れるごとに感情が鈍化して、まるで獣の皮を剥いでいるような気分になってきた。
「すみませんが、うつ伏せにするのを手伝ってください」
一度立ち上がって男を見下ろした。胸部は観音開きになっていて、皮膚がべろんっと開いた所から赤黒い筋肉や白っぽい筋が露出している。これを私がしたのだと、目に焼き付けた。結局私も一緒だ。狂っている。二人で剥がした皮膚を傷つけないよう気を付けながら津山の体をひっくり返して、そのあとは正面と同じ要領で背後の皮膚を剥いでいった。
皮を剥ぎ終わって、裏面の余分な脂肪や肉をこそげ落とした頃にはそれなりの時間が経っていたと思う。持ち上げて刺青の入った人皮の表と裏を確認して、尾形上等兵を見た。
「終わりました」
人の肌の重さを初めて知った。皮だけでもずっしりと重い。毛がないから身から剥がされるとゴムのようだ。刺青人皮を手に持ったまま返事を待っていると、「報告してくる」と端的な言葉を残して尾形上等兵が去って行った。
部屋に残されたのは私と、上半身を剥かれた津山だけになってしまった。血だらけになっていた割烹着を脱ぎ、そっと津山の体にかけた。ごめんなさい。こんな風に人生を終えるなんて思っていなかっただろうに。
すぐに戻ってくるかと思って床に広げた刺青人皮と睨めっこしながら大人しく待機していたのに、待てど待てど尾形上等兵は戻ってこなかった。こんな風に一人にされたのは初めてだった。まだ信用されていないからか、診察室から出る時はいつも尾形上等兵や二階堂兄弟や他の兵士が私と一緒に行動していた。試しに扉を開けてこわごわ外を覗いてみても誰もいなかった。
今なら逃げられる。
耳を澄ましても、話し声も足音も聞こえないし、近くに誰かいるように思えなかった。今を逃したらきっともう逃げられない。最後に床に広げたままだった刺青を凝視して、脳裏にその暗号を焼き付けてからゆっくりと部屋を出た。
廊下を進んで、しばらくしたら声が聞こえた。こっちに近づいて来る。二人組のようだが誰なのかまでは分からなかった。慌てて引き返した所に階段があって、二階へと上がった。靴を脱ぎ、大きく軋む三段目の階段を飛び越えて、できるだけ早く身を隠せる場所を目指した。そういえば、二階の部屋の鉄格子が老朽化して危険だから取り外したと誰かが言っていた。確か普段は使われていない奥から二番目の部屋だ。迷わずその部屋へと向かったら、予想通り窓には鉄格子がなく、とっぷりと日が暮れた空が遮られずに広がっていた。
音を立てないように細心の注意を払って窓を開けて、久々の外気を目一杯吸い込んだ。月が細い。秋の気配がする。さっきまで嗅いでいたあの新鮮な血と肉の匂いのせいで鼻はおかしいままだけれど、今までで一番美味しく感じた。
肺の中の淀んだ空気を全て吐き出すために何度か大きな息を繰り返していると、段々と階下が騒がしくなってきた。きっと私が居ないことに気づいたのだろう。敷地内から出るには兵士の居る正門と、普段使われていない小さな裏門がある。今ならまだ裏門に誰も配備されていないはずだ。靴を履き直して、窓の下を覗いた。
二階だが下には植え込みがあった。あそこに落ちればきっと大丈夫だ。でもこんな高さから飛び降りたことなんてなくて、手汗がぶわっと吹き出してくる。暗い。怖い。でも、ここはもっと怖い。震える手で窓枠を掴み、壁に足をかけて乗り越えようとしたら、診察室の引き出しにしまいっぱなしだった兄の拳銃が浮かんだ。もう取りに戻ることはできない。兄を置いて行くのか、一人で。ドッドッドッと心臓の音が耳元でする。早く行かないと、早く逃げないと。
──逃げると言っても、どこへ?
ここから逃げてどこへ行くと言うのだろう。帰る家もない。家族もいない。仕事もない。私は一人だ。さっき人の皮まで剥いだ。手袋をしていたのに、窓枠を掴む自分の両手がべっとりと血で濡れているように錯覚した。窓枠から少しだけ身を乗り出した変な態勢のまま固まっていたら、ふわっと一筋の向かい風が頬を撫でて、誘われるように振り返った。
「悪い子だね」
首に、手がかかったような気がした。暗闇の中、貼り付けたような笑みで佇む鶴見中尉にひゅっと喉が鳴った。震えることすらできなかった。体が全ての活動を停止したように動かない。ぼんやりとした月明かりに照らされて目元は暗く窪み、口元だけが異常に弧を描いていた。
「こんな所から落ちたら大変だ」
距離を詰められ腹に腕が回されて、ぐいっと窓から引き剥がされた。よろけた私の体がぶつかってもびくともしない。私を抱え込んだまま窓の下を覗いた鶴見中尉の額当てが、月光を浴びて青白く光っていた。
「あの植え込みを狙っていたのかな?お転婆なのは結構だが、体は大切にしないといけないよ」
伝わってくる体温も、子供へ言い聞かせるような優しい声も、何もかもが不快だった。鶴見中尉が纏っている得体の知れない何かに体が浸食されていく。触れている面が多い分、兄が死んだ時よりも早く、深く、その何かが入り込んでくる。一刻も早く抜け出したいのに、体は震えるだけで言うことを聞いてくれない。
「ナマエさんが怪我をしたら皆悲しむ」
ガタンと音を立てながら無慈悲に窓が下ろされ、鍵が掛けられた。外界と断絶されて、途端に息苦しさが増した。
「今のは見なかったことにしよう」
「な、んで……」
「私にはナマエさんが必要だからだ」
そうやって、優しい瞳と甘い言葉で人を誑かす。顔色一つ変えずに兄を撃つように命令していたくせに、いま私を見る目はどこまでも穏やかだ。
「あの戦争で何を得た?地獄のような苦しみの中死んでいった同胞たち、残された家族、未だ薄れぬロシアの脅威……無能な上層部にこれ以上付き合う必要はない。この国を守るために我々は立ち上がるのだ」
「でもっ……」
「今後も戦争は起きる。もっと大きな戦争だ。その時にモルヒネがあれば、先の戦争のような思いをしなくて済む。痛みに苦しむ者たちを救うことができる」
すべてナマエさんが言っていたことだ、と言われてカッと体が熱くなった。兄の隣で喜々として夢を語っていた愚かな自分を思い出してしまった。同時に、その夢を諦めきれない自分がいることも突き付けられた。ここに居れば、モルヒネの国産化を進めることができる。もう誰も苦しまないで良い世界を目指すことができる。
「それは、ナマエさんにしかできないことだ」
耳元で囁かれて、ついに涙が溢れ出た。誑かされているのは分かっている。それでも独りぼっちの世界で私が必要だと言ってくれるのが嬉しかった。あの日兄の隣で語っていたことをたかが小娘の戯言と一蹴されなかったことが、いつの間にか心の支えになっていた。認められて嬉しかった。耳を傾けてくれるのが嬉しかった。いつも私のことを煩わしそうにしていた兄とは真逆だった。
「我々が突き進むことが、死んでいった戦友やミョウジ少佐の最大の弔いになる」
石鹸と糊の匂いのするハンカチでそっと目元を拭われた。目元から溢れる涙が真っ白な生地に吸い込まれていく度、少しずつ心が落ち着いていく。
「共に往こう」
死神に抱きすくめられながら地獄への誘いを断れるほど、私は強くなかった。
あとがき
愛が重い(恋愛の愛ではない)鶴見中尉殿にこわーい笑顔で「悪い子だね」と言われる…というリクエストでした!思った以上に暗い感じになってしまいましたがこういうゾッとする感じの鶴見中尉が好きなので、リクエスト頂けて嬉しかったです(個人的にオリガとフィーナがいるので鶴見中尉のイチャラブハッピーエンド系のお話が書きづらくて…)。自分の武器と相手の弱点を明確に理解している鶴見中尉が大好きです。手玉に取られたいな~~!!!
えぞしか様、この度は素敵なリクエストありがとうございました!お気に召していただけたら幸いです。
えぞしか様、この度は素敵なリクエストありがとうございました!お気に召していただけたら幸いです。
2025.08.19
