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※金塊争奪戦後少ししてからのお話
謹厳実直という言葉が服を着て歩いているような人だと思った。出される指示は的確で無駄がなく、分かりやすい。自分の役割と責任を理解し、業務をそつなく遂行する。下の名前が基だと知った時は名前まで真面目なのかと驚いた。真面目な基さん。語呂が良くて何度心の中でこっそりと唱えただろう。表情は決して豊かとは言えないし、規律を重んじる故に厳しい言葉をかけることも多々あるが、生来の面倒見の良さと言うのは隠し切れないものらしく、部下たちからは大層慕われているようだった。採用に関わっていたとはいえ、ただの炊事担当の私にでさえ不便や不満はないかと色々と気にかけてくれるのだから、相当お人よしなのだと思う。でもきっとそれを指摘したら、私たちの労働環境について考えるのも業務の範疇だとでも返されてしまうのだろう。
炊事担当として働き始めて数ヶ月、それなりに仕事にも慣れて来た時だった。私が倉庫から炊事場までえっちらおっちら味噌や醤油を運んでいたら、一度通り過ぎた月島さんがわざわざ用事を済ませてから足早に駆け寄ってきたことがあった。私一人でもあと一、二往復すれば終わりますからと断っても「二人でやれば早く終わるでしょう」と返されて、結局ほとんど月島さんが運んでくれたのだ。忙しいのだから放っておけば良いのに、本当にこの人は見た目とは裏腹にお人よしだ。「だから皆さんから好かれるんですね」と思ったままのことを言ったら面食らっていたのが可愛らしかった。
「では、私はこれで」
「あっ……ちょっと待ってください!」
お礼も言わせてくれないくらいすぐに立ち去ろうとする月島さんを咄嗟に呼び止めた。男所帯の中で働いているのだから仕方のないことではあるのだけれど、他の兵隊さんが私を手伝ってくれる時は無意識的でも意識的でもあれ、何か見返りを求めていそうというか、その好意が純粋な善意でないことも多かった。しかし月島さんからは一度だってそんな雰囲気を感じ取ったことはない。人間とは不思議なもので、そうなってくるとこちらから距離を詰めたいと思ってしまう。もっと話したい。もっとあなたを知りたい。もっと鯉登さんに見せるような、色んな顔を見たい。
「今お時間ありますか?お礼にお茶だけでもいかがですか」
少し迷うように視線が揺れた末に「10分だけなら」と返ってきたので、慌てて隅から椅子を二脚引っ張ってきて、お茶を淹れるためにバタバタと動き始めた。
「お待たせしました」
湯飲みを渡すついでに、自分用のおやつとして持ってきていたお饅頭も一緒に渡した。ちょうど私の手のひらに乗るほどの大きさなのに、節々が大きい武骨な月島さんの手に乗っているととても小さく見える。
「うちの実家のなんです」
「ああ、街で人気だそうですね」
「おかげさまで」
何だか自分が褒められているような感じがしてむず痒い。いただきますと月島さんが一言呟いてから大きな口で齧りついて、何度かもぐもぐと咀嚼していくのをのをぼうっと見ていた。残りの半分もまた口の中に入って、あっという間にお饅頭がなくなってしまった。
「美味しいですね」
最後にお茶で流し込んでから紡がれた言葉が、ドッと大きく心臓を打った。常連さんたちから言われ慣れていることなのに、何故だか月島さんの声に乗ったら随分と特別な響きに聞こえた。ドキドキと、未だに胸がうるさく高鳴っている。こんなことは初めてで、訪れてしまった沈黙を埋めるための言葉が何も出てこない。お饅頭と同じように湯飲みも数口で飲み干しそうな勢いで傾けていたので、もう少し月島さんをこの場に繋ぎとめるための話題は何かないかと、必死に頭を回転させた。
「あっ!あの、実は皆さんから食堂に何か甘い物を置いてほしいという要望があるのですが、うちのお饅頭を販売しても良いですか?」
「まあ……それくらいなら。もし問題になるようでしたらすぐに取りやめてもらいます」
「はい!」
案外あっさりと許可されて驚いていると、最後にまたグイっと湯呑みが傾けられ、コンっと小気味の良い音を立てて作業台の上に置かれた。「ごちそうさまでした」と立ち上がった月島さんは、ここに来てまだ10分も経っていないのに帰ってしまうつもりらしい。
「あの……」
「はい」
「お饅頭、良かったら買いに来てくださいね」
「考えておきます」
そう言い残して、月島さんは炊事場から出ていってしまった。
食堂で販売し始めたお饅頭の売れ行きは好調だった。意外だったのは、月島さんが良くうちのお饅頭を買っていくことだった。それも二つ。不定期に週一回、昼食時間を過ぎて私たちの手が空く時間帯に必ずやってきた。都合が合えば前の時のようにお茶も出して食堂で一緒にお饅頭を食べていたから、月島さんが現れると同僚たちは「倉庫に備蓄品の確認を……」「洗い物があったような……」などと白々しいことを口にしながら、私たちを二人きりにしてくるようになってしまった。「そういうのじゃないです」と言っても笑いながら適当にあしらわれるだけで、きっと私の心の奥なんて皆さんには丸見えなんだろう。月島さんにはバレていないようなのが唯一の救いだった。
週に一回、お饅頭一つを平らげて、湯飲みを空にする10分にも満たない短い時間で、月島さんとその日にあったことや業務について話すのがささやかな楽しみになっていた。
「いつも二つ買ってますけど、甘い物がお好きなんですか?」
手を付けないもう一つの饅頭はいつも持ち帰えられる。夜食にでも食べているのだろうか。意外と甘いものに目がないのだろうか。ついに気になって聞いてみたら「いや……これは……」と言葉を濁された。
「鯉登少尉の分です。ここの饅頭を買ってこいと言われているので」
「あ、そうなんですね……」
なんだ月島さんのじゃないのかと酷くがっかりした。てっきり月島さんがうちのお饅頭を好いてくれていると思っていたのに、ただ上官の分を買うついでに自分の分を買っていただけだったのだ。その時の落胆たるや、私自身びっくりしてしまうほどだった。まるで失恋だ。私は、月島さんに「美味しい」と言われて、まるで自分が好きだと言われたように錯覚してしまっていたのだ。いくら生まれた時から常に一緒だったとは言え、饅頭と自分の境界が曖昧になるなんてなんとも愚かで、情けない話だ。
まあでも、鯉登さんがうちのお饅頭を好きだと言ってくれているのは素直に嬉しい。それに、上官の分を買うついでに、自分も一つ食べようと思うくらいには月島さんにも好いてもらえているのは良いことだ。無理やりそう思うようにして、その日一日をやり過ごした。
そんな複雑な記憶がまだ薄れないうちに、鯉登さんとばったりと廊下で出くわした。普段は軽く会釈をする程度で済ますのだけど、お饅頭についてのお礼を言う良い機会だと思って呼び止めてしまった。今日は月島さんはお休みだから、代わりの兵隊さんを連れていた。
「いつもうちのお饅頭を贔屓にしてくださってありがとうございます」
「……私が?」
いつもは切れ長で、やや威圧感のある瞳がきょとんと丸く見開かれていた。
「ええ、いつも月島さんに頼んでらっしゃるんですよね?」
「月島に?」
「はい。違うんですか?」
「いや、確かに饅頭は美味いが……月島が買ってくるから食べているだけだ」
「え?」
いまいち会話がかみ合わない。何かがおかしい。二人で首を傾げて、順を追って話をすり合わせることにした。まず、鯉登さんによれば、月島さんは誰に言われるわけでもなく、自らうちのお饅頭を買いに行っているのだという。月島さんが食べたいから食堂へ寄って、ついでに鯉登さんの分も買って帰ってくる。そんなことは新兵にでも頼めば良いのに、頑なに自分で買いに行くのだと。でも、月島さんは、鯉登さんがうちのお饅頭が好きだから買っていると言っていた。
「なるほど。つまり……どういうことですか?」
「分からん」
「もしかして、恥ずかしかったんでしょうか?」
今思い返せば、甘い物が好きなのかと聞いた時に妙な間があったし、月島さんらしからぬ歯切れの悪さだった。
「手鏡も持っておらん奴だからな」
ふん、と鯉登さんが鼻で笑った。そんな硬派な人だ。甘い物を男性が一人で買いに来るのは確かに恥ずかしいのかもしれない。お饅頭が好きなことくらい別に言ってくれてもいいのに。何度も一緒に食べた仲なのだから、そんなよそよそしくしなくても。なんだかまた月島さんとの距離を感じてしまった。
「……あっ、すみませんお忙しいのに引き止めてしまって」
失礼しますと会釈をした時、鯉登さんの隣で月島さんの代理の方が妙に居心地悪そうな顔をしていた。
もやもやとしたわだかまりを抱えたまま鯉登さんと別れたら、しばらくして「キェエエエ!」と鯉登さんたちが消えていった曲がり角の先から大きな叫び声が聞こえて来た。
「つ、つまり月島は──」
「声が大きいです少尉殿ッ!!」
鯉登さんの声にも負けないほどの大声で注意されてからは何も聞こえなくなってしまった。
月島さんは次いつ来るのだろう。次会ったら今日のことを聞いても良いだろうか。そんなことを思いながら、持ち場へと戻って行った。
*
瞳に海を閉じ込めたような人だと思った。話しながら刻々と変わる表情と一緒に、穏やかで透き通っている瞳は水面のように太陽を反射して、いくつもの光を放っていた。
簡単な面接を経て兵舎での炊事や掃除担当として採用した数十人の中に、ナマエさんがいた。実家は小樽の街の饅頭屋らしい。そこそこな有名店なようで、採用直後には食堂であの饅頭屋の看板娘が働いているらしいと少し話題になったほどだ。ずっと客商売をしていたからか人当たりが良く、受け答えもしっかりとしている。働き者なようで、いつも見かける時は小走りで、その細い体のどこにそんな力があるのか、一人で野菜や米などを抱えてきびきびと動いていた。
一度、倉庫の方から味噌の樽を抱えて歩いているのを見かけた。その時は済ますべき業務があったから通り過ぎたが、帰り道にも同じように醤油の瓶を二本抱えている姿を見つけてしまった。重そうに瓶を抱えている顔にはうっすらと汗が滲んでいて、さっきから何度か炊事場と倉庫を往復していることが伺えた。いくらそれが彼女の仕事とは言え、さすがに放っておけなくて手伝うことにしたら、何がおかしかったのかナマエさんが小さく笑って目を細めた。
「だから月島さんは皆さんから好かれるんですね」
「す……俺が?」
遠い昔の記憶とは真逆のことを言われて思わず足が止まった。ナマエさんはそれを見てクスクスと笑っている。
「面倒見が良くて、優しくて」
「優しい?」
立場上、下の者に対して厳しくすることもままあるし、あの鬼軍曹とか筋肉髭達磨とか、陰で色々言われているのは知っている。それに、俺が今までしてきたことはおよそ優しいという言葉からはかけ離れている。
「俺は優しさとは対極にいる人間だと思うのですが」
「そうですか?私には愛があって優しい人間にしか見えませんよ」
さっきからなんなのだ。優しいとか、愛があるとか、今まで言われたことのないことを次々と浴びせられて困惑した。俺を見つめてくる瞳は、晴れた日の海のようにキラキラとしている。おちょくってやろうとか、世辞を言って持ち上げようとしているようには見えないから尚のこと混乱した。その綺麗な瞳には、俺は一体どう映っているのだろう。
全て運び終えた後、別に見返りなんて求めていなかったのに、礼をしたいとどこか不安そうにこちらを見てくる姿に気づいたら「10分だけなら」と返事をしていた。少しして渡されたのは湯気が上る湯呑みと饅頭だった。
「うちの饅頭なんです」
「ああ、街で人気だそうですね」
饅頭も、あなたも。そんなことを飲み込むように齧り付いた。茶色い薄皮の下には、きめの細かい餡がぎっしりと詰まっていた。それでいて甘さも控えめで食べやすい。他の店との違いは良く分からないが、確かにうまい。気づいたら残りも口に運んでいた。
「あっ!あの、実は皆さんから食堂に何か甘い物を置いてほしいという要望があるのですが、うちのお饅頭を販売しても良いですか?」
「まあ……それくらいなら。もし問題になるようでしたらすぐに取りやめてもらいます」
「はい!」
輝く瞳で嬉しそうに笑うナマエさんは少女のようだった。しかし、採用されて間もない職場で実家の商品を売ろうなんて商魂たくましい人だなと、そのしたたかさに口角が上がりそうになった。本当に、面白い人だ。
きっとその日からだ。より一層彼女の瞳を忘れられなくなったのは。「月島さん」とその瞳で見つめられると嬉しく思うのに、すぐに後ろめたさのような罪悪感のような気持ちで心がかき乱されて、目を逸らしてしまう。そして後悔する。もっと見ていたかったのに、と。
踏み込む勇気も身を引く潔さもなく、「良かったら買いに来てくださいね」という社交辞令を真に受けて、饅頭を買うために毎週食堂に通っていた。わざわざナマエさんの手が空く昼過ぎの時間帯を狙って、鯉登少尉がこの饅頭を気に入っているだなんて出まかせを言ってまでして、ナマエさんとの時間を過ごしたかった。誰も海を手に入れたいなんて大それたことを思わないのと同じで、ただ見ているだけで良かった。最近あったなんでもないことを楽しそうに話すナマエさんを見るのが、いつしか心の拠り所になっていた。
今日もこの業務を終えたらナマエさんに会いに行こう、そう思いながら鯉登少尉へ変わり映えのしない定期報告を行っていた──はずだった。
「そろそろ身を固めるつもりはないのか?」
最近あった演習での事故についての報告を終え、次の報告事項へと進もうとしたら鯉登少尉が唐突に口を挟んできた。
「なんですか急に。今はそんな場合じゃないでしょう」
やることが山積みで到底そんなことを考えられる状況にない。大体自分が結婚をするなんて考えたこともなかった。藪から棒に変なことを言い始めた鯉登少尉を無視して報告に戻ろうとしたのに、目の前の自由奔放な男は構わず話し続ける。
「食堂のあの饅頭屋のはどうだ?」
「何を言っているんです。大体、俺にはもったいない人です。もういいですか、報告に──」
「なら、私が貰っても良いか」
「……は?」
貰う?ナマエさんを?食堂の饅頭屋の、と名前ですら呼んでいないくせに?冗談も大概にしろと書類を持つ手に思わず力が入った。鯉登少尉はそれに気づいているのかいないのか、はぁと一つため息をついてからまた話し始めた。
「家のためにも、今後の出世のためにも、いつか妻を迎えねばと思っていた。知らない女と結婚するよりも知っている女の方が私も良い」
気だるげに頬杖をつきながら、くるくると万年筆を器用に回している鯉登少尉は、まるで夕飯に何を食べるか決めかねているような様子だった。それが、無性に腹立たしかった。
「本気で言っているんですか」
「貴様こそ、本気で言っていたのか」
鋭い目がこちらを見てきて、体をぐさりと軍刀で貫かれたような気がした。俺はいい。俺にはもったいない人だ。散々言い聞かせてきたことなのに、いざ誰かに取られると思うと、例えそれが鯉登少尉でも面白くないと思う自分がいることに気づいて愕然とした。
「私を使って饅頭を買いに行っているらしいではないか」
「はっ!?」
「私が贔屓にしているからだと?良くもまあそんなことを……」
苦虫を嚙み潰したように言われてドッと冷や汗が噴き出してきた。鯉登少尉を理由にして饅頭を買いに行っていることがバレている。ではナマエさんは?どこまで知られている?一瞬で頭が真っ白になって何も言えずにいると、「ナマエさんには何も言っていない」と見かねた鯉登少尉が言ったことで、肩の力が一気に抜けた。
「そこまで好いているのに何故身を引くのか私には理解できん」
「でも……今私が、私たちが優先すべきことは、それではないでしょう。それに俺では不釣り合いです」
「なら私が貰っても良いのか」
嫌です。出かかった言葉をぐっと堪えて飲み込んだ。ぎりぎりと奥歯に圧力がかかって嫌な音を立てている。
「報告は良いからナマエさんと話をしてこい」
「なんなんですか、あなたには関係ないでしょう」
「猶予は一日だ。それが出来ないなら私が貰う。それとも横から掻っ攫われるのを黙って見ているような腑抜けなのか貴様は?」
ぐしゃぐしゃになっていた書類を手から奪われ、良いから早く行けと部屋から追い出されてしまった。
──私が貰う。
鯉登少尉の声がこだまして、鳩尾のあたりが捻れるような不快感が込み上げてきた。でも俺にどうしろというんだ。話をしてこいって、一体何を話せばいい?
悶々としながら歩き続けて、気づいたら食堂の前に立っていた。まだ頭も心も整理ができていない状態で何も話せる気がしなくて、ナマエさんに出くわす前に立ち去ろうとした。
「あっ月島さん!おつかれさまです!」
こんな時に限って「饅頭完売」と書かれている札を外に貼り出しに来たナマエさんと鉢合わせてしまった。「お疲れ様です」とやっとの思いで返事をしたら、ナマエさんが手招きをして食堂の中へと入って行った。
「あとでいらっしゃるかなと思って、こっそり取っておいたんです」
裏から饅頭が二つ乗った皿を持ってきたナマエさんは、まるで悪戯が成功したように目を細めていた。
「……俺が来なかったらどうするつもりだったんですか」
「そのときは私が食べようかなって」
「二つも?」
「はい」
恥ずかしそうに口元を覆って笑うその瞳は、やはり水面のようだった。夏の、暖かい海だ。
「良かったら一つどうですか」
「いいんですか?鯉登さんの分は?」
「大丈夫です」
「じゃあお茶淹れてきますね」
適当な席に座って待っていると、すぐにナマエさんが湯飲みを二つ持って戻ってきた。
「月島さん、本当は鯉登さんのためにお饅頭を買っていないんでしょう?」
何も言っていないんじゃなかったのか。話が違う、とついさっきまで話していた上官の顔が浮かんだ。きっと真っ青になっている俺とは対照的に、ナマエさんは「恥ずかしがらなくても良いのに」とニコニコと笑顔を絶やさずに話し続けた。
「男性だって甘い物は好きですよね」
「……えっ?」
「好きなものは好きって胸を張って言っても良いと思います。笑う方が失礼なんですから」
「……そう、ですね」
どうやら勘違いをしている様子にホッとしたと同時に、言われたことが胸を打った。好きな物は好きと言って良い。気づいた時にはポロッと言葉が口から転がり出ていた。
「好きです」
「ふふ、嬉しいです。そんなにうちのお饅頭を好いてくれるなんて」
「いえ、あなたが」
「……私?」
湯飲みへと手を伸ばそうとしていた動きがピタッと止まった。
「ナマエさん、あなたが好きです」
「月島さんも冗談を──」
言うんですね、と続けられるはずだっただろう言葉は、ナマエさんのもごもごと動く口の中に留まり、俺に届くことはなかった。口ごもらせてしまうほど、俺はいま酷い顔をしているのだろうか。鯉登少尉のように手鏡があれば確認できたのに。いや、こんな状況で自分の顔を確認するバカはいないから、結局俺がどんな顔をしているのかは分からず仕舞いだ。
「……別に、どうこうなりたいわけではなかったんです」
「えっと……」
「ただ、あなたのそばに居られればそれで」
でも他の誰かに取られるなら、いっそどこかに閉じ込めておきたい。
湯呑みへと伸ばされるはずだった手に、俺の手を重ねた。散々汚れ仕事をしてきた手で触れていい人じゃない。穢してしまうのが怖かった。でも、いざ触れてみたら、何故だか自分が少しだけマシになったようなそんな気がした。心の中の澱が少しだけ浄化されてふっと軽くなったような、不思議な感覚に身体が包まれた。
「あなたを、好きでいても良いですか」
どこかに閉じ込めることができないなら、少しでもナマエさんの心に俺を住まわせてほしかった。狡いことを言っているのは分かっている。しんと静まり返った食堂で、じっとナマエさんの返答を待っていたら、長い沈黙の末に可愛らしい唇がおずおずと開いた。
「あの、前に言ったこと、覚えていますか……?」
「前、とは」
「えっと……お醤油を運ぶのを手伝ってもらった時……月島さんが、皆さんから好かれているって話です」
ああ、と頷いたが、今思い返してもその内容には賛同しかねるなと思っていた。
「えっと、その、みんなって言うのは……」
重なった手に視線を落としながらナマエさんが言い淀んだ。その耳が、みるみるうちに赤くなっていく。よく見れば首筋まで赤く染まっていて、体温が伝染するように俺にもうつっていく。
「……みんなって言うのは、私も含まれてるんですよ」
細波立つ瞳を捉えて、思わず重ねた手に力が入った。
あとがき
2025.07.30
謹厳実直という言葉が服を着て歩いているような人だと思った。出される指示は的確で無駄がなく、分かりやすい。自分の役割と責任を理解し、業務をそつなく遂行する。下の名前が基だと知った時は名前まで真面目なのかと驚いた。真面目な基さん。語呂が良くて何度心の中でこっそりと唱えただろう。表情は決して豊かとは言えないし、規律を重んじる故に厳しい言葉をかけることも多々あるが、生来の面倒見の良さと言うのは隠し切れないものらしく、部下たちからは大層慕われているようだった。採用に関わっていたとはいえ、ただの炊事担当の私にでさえ不便や不満はないかと色々と気にかけてくれるのだから、相当お人よしなのだと思う。でもきっとそれを指摘したら、私たちの労働環境について考えるのも業務の範疇だとでも返されてしまうのだろう。
炊事担当として働き始めて数ヶ月、それなりに仕事にも慣れて来た時だった。私が倉庫から炊事場までえっちらおっちら味噌や醤油を運んでいたら、一度通り過ぎた月島さんがわざわざ用事を済ませてから足早に駆け寄ってきたことがあった。私一人でもあと一、二往復すれば終わりますからと断っても「二人でやれば早く終わるでしょう」と返されて、結局ほとんど月島さんが運んでくれたのだ。忙しいのだから放っておけば良いのに、本当にこの人は見た目とは裏腹にお人よしだ。「だから皆さんから好かれるんですね」と思ったままのことを言ったら面食らっていたのが可愛らしかった。
「では、私はこれで」
「あっ……ちょっと待ってください!」
お礼も言わせてくれないくらいすぐに立ち去ろうとする月島さんを咄嗟に呼び止めた。男所帯の中で働いているのだから仕方のないことではあるのだけれど、他の兵隊さんが私を手伝ってくれる時は無意識的でも意識的でもあれ、何か見返りを求めていそうというか、その好意が純粋な善意でないことも多かった。しかし月島さんからは一度だってそんな雰囲気を感じ取ったことはない。人間とは不思議なもので、そうなってくるとこちらから距離を詰めたいと思ってしまう。もっと話したい。もっとあなたを知りたい。もっと鯉登さんに見せるような、色んな顔を見たい。
「今お時間ありますか?お礼にお茶だけでもいかがですか」
少し迷うように視線が揺れた末に「10分だけなら」と返ってきたので、慌てて隅から椅子を二脚引っ張ってきて、お茶を淹れるためにバタバタと動き始めた。
「お待たせしました」
湯飲みを渡すついでに、自分用のおやつとして持ってきていたお饅頭も一緒に渡した。ちょうど私の手のひらに乗るほどの大きさなのに、節々が大きい武骨な月島さんの手に乗っているととても小さく見える。
「うちの実家のなんです」
「ああ、街で人気だそうですね」
「おかげさまで」
何だか自分が褒められているような感じがしてむず痒い。いただきますと月島さんが一言呟いてから大きな口で齧りついて、何度かもぐもぐと咀嚼していくのをのをぼうっと見ていた。残りの半分もまた口の中に入って、あっという間にお饅頭がなくなってしまった。
「美味しいですね」
最後にお茶で流し込んでから紡がれた言葉が、ドッと大きく心臓を打った。常連さんたちから言われ慣れていることなのに、何故だか月島さんの声に乗ったら随分と特別な響きに聞こえた。ドキドキと、未だに胸がうるさく高鳴っている。こんなことは初めてで、訪れてしまった沈黙を埋めるための言葉が何も出てこない。お饅頭と同じように湯飲みも数口で飲み干しそうな勢いで傾けていたので、もう少し月島さんをこの場に繋ぎとめるための話題は何かないかと、必死に頭を回転させた。
「あっ!あの、実は皆さんから食堂に何か甘い物を置いてほしいという要望があるのですが、うちのお饅頭を販売しても良いですか?」
「まあ……それくらいなら。もし問題になるようでしたらすぐに取りやめてもらいます」
「はい!」
案外あっさりと許可されて驚いていると、最後にまたグイっと湯呑みが傾けられ、コンっと小気味の良い音を立てて作業台の上に置かれた。「ごちそうさまでした」と立ち上がった月島さんは、ここに来てまだ10分も経っていないのに帰ってしまうつもりらしい。
「あの……」
「はい」
「お饅頭、良かったら買いに来てくださいね」
「考えておきます」
そう言い残して、月島さんは炊事場から出ていってしまった。
食堂で販売し始めたお饅頭の売れ行きは好調だった。意外だったのは、月島さんが良くうちのお饅頭を買っていくことだった。それも二つ。不定期に週一回、昼食時間を過ぎて私たちの手が空く時間帯に必ずやってきた。都合が合えば前の時のようにお茶も出して食堂で一緒にお饅頭を食べていたから、月島さんが現れると同僚たちは「倉庫に備蓄品の確認を……」「洗い物があったような……」などと白々しいことを口にしながら、私たちを二人きりにしてくるようになってしまった。「そういうのじゃないです」と言っても笑いながら適当にあしらわれるだけで、きっと私の心の奥なんて皆さんには丸見えなんだろう。月島さんにはバレていないようなのが唯一の救いだった。
週に一回、お饅頭一つを平らげて、湯飲みを空にする10分にも満たない短い時間で、月島さんとその日にあったことや業務について話すのがささやかな楽しみになっていた。
「いつも二つ買ってますけど、甘い物がお好きなんですか?」
手を付けないもう一つの饅頭はいつも持ち帰えられる。夜食にでも食べているのだろうか。意外と甘いものに目がないのだろうか。ついに気になって聞いてみたら「いや……これは……」と言葉を濁された。
「鯉登少尉の分です。ここの饅頭を買ってこいと言われているので」
「あ、そうなんですね……」
なんだ月島さんのじゃないのかと酷くがっかりした。てっきり月島さんがうちのお饅頭を好いてくれていると思っていたのに、ただ上官の分を買うついでに自分の分を買っていただけだったのだ。その時の落胆たるや、私自身びっくりしてしまうほどだった。まるで失恋だ。私は、月島さんに「美味しい」と言われて、まるで自分が好きだと言われたように錯覚してしまっていたのだ。いくら生まれた時から常に一緒だったとは言え、饅頭と自分の境界が曖昧になるなんてなんとも愚かで、情けない話だ。
まあでも、鯉登さんがうちのお饅頭を好きだと言ってくれているのは素直に嬉しい。それに、上官の分を買うついでに、自分も一つ食べようと思うくらいには月島さんにも好いてもらえているのは良いことだ。無理やりそう思うようにして、その日一日をやり過ごした。
そんな複雑な記憶がまだ薄れないうちに、鯉登さんとばったりと廊下で出くわした。普段は軽く会釈をする程度で済ますのだけど、お饅頭についてのお礼を言う良い機会だと思って呼び止めてしまった。今日は月島さんはお休みだから、代わりの兵隊さんを連れていた。
「いつもうちのお饅頭を贔屓にしてくださってありがとうございます」
「……私が?」
いつもは切れ長で、やや威圧感のある瞳がきょとんと丸く見開かれていた。
「ええ、いつも月島さんに頼んでらっしゃるんですよね?」
「月島に?」
「はい。違うんですか?」
「いや、確かに饅頭は美味いが……月島が買ってくるから食べているだけだ」
「え?」
いまいち会話がかみ合わない。何かがおかしい。二人で首を傾げて、順を追って話をすり合わせることにした。まず、鯉登さんによれば、月島さんは誰に言われるわけでもなく、自らうちのお饅頭を買いに行っているのだという。月島さんが食べたいから食堂へ寄って、ついでに鯉登さんの分も買って帰ってくる。そんなことは新兵にでも頼めば良いのに、頑なに自分で買いに行くのだと。でも、月島さんは、鯉登さんがうちのお饅頭が好きだから買っていると言っていた。
「なるほど。つまり……どういうことですか?」
「分からん」
「もしかして、恥ずかしかったんでしょうか?」
今思い返せば、甘い物が好きなのかと聞いた時に妙な間があったし、月島さんらしからぬ歯切れの悪さだった。
「手鏡も持っておらん奴だからな」
ふん、と鯉登さんが鼻で笑った。そんな硬派な人だ。甘い物を男性が一人で買いに来るのは確かに恥ずかしいのかもしれない。お饅頭が好きなことくらい別に言ってくれてもいいのに。何度も一緒に食べた仲なのだから、そんなよそよそしくしなくても。なんだかまた月島さんとの距離を感じてしまった。
「……あっ、すみませんお忙しいのに引き止めてしまって」
失礼しますと会釈をした時、鯉登さんの隣で月島さんの代理の方が妙に居心地悪そうな顔をしていた。
もやもやとしたわだかまりを抱えたまま鯉登さんと別れたら、しばらくして「キェエエエ!」と鯉登さんたちが消えていった曲がり角の先から大きな叫び声が聞こえて来た。
「つ、つまり月島は──」
「声が大きいです少尉殿ッ!!」
鯉登さんの声にも負けないほどの大声で注意されてからは何も聞こえなくなってしまった。
月島さんは次いつ来るのだろう。次会ったら今日のことを聞いても良いだろうか。そんなことを思いながら、持ち場へと戻って行った。
*
瞳に海を閉じ込めたような人だと思った。話しながら刻々と変わる表情と一緒に、穏やかで透き通っている瞳は水面のように太陽を反射して、いくつもの光を放っていた。
簡単な面接を経て兵舎での炊事や掃除担当として採用した数十人の中に、ナマエさんがいた。実家は小樽の街の饅頭屋らしい。そこそこな有名店なようで、採用直後には食堂であの饅頭屋の看板娘が働いているらしいと少し話題になったほどだ。ずっと客商売をしていたからか人当たりが良く、受け答えもしっかりとしている。働き者なようで、いつも見かける時は小走りで、その細い体のどこにそんな力があるのか、一人で野菜や米などを抱えてきびきびと動いていた。
一度、倉庫の方から味噌の樽を抱えて歩いているのを見かけた。その時は済ますべき業務があったから通り過ぎたが、帰り道にも同じように醤油の瓶を二本抱えている姿を見つけてしまった。重そうに瓶を抱えている顔にはうっすらと汗が滲んでいて、さっきから何度か炊事場と倉庫を往復していることが伺えた。いくらそれが彼女の仕事とは言え、さすがに放っておけなくて手伝うことにしたら、何がおかしかったのかナマエさんが小さく笑って目を細めた。
「だから月島さんは皆さんから好かれるんですね」
「す……俺が?」
遠い昔の記憶とは真逆のことを言われて思わず足が止まった。ナマエさんはそれを見てクスクスと笑っている。
「面倒見が良くて、優しくて」
「優しい?」
立場上、下の者に対して厳しくすることもままあるし、あの鬼軍曹とか筋肉髭達磨とか、陰で色々言われているのは知っている。それに、俺が今までしてきたことはおよそ優しいという言葉からはかけ離れている。
「俺は優しさとは対極にいる人間だと思うのですが」
「そうですか?私には愛があって優しい人間にしか見えませんよ」
さっきからなんなのだ。優しいとか、愛があるとか、今まで言われたことのないことを次々と浴びせられて困惑した。俺を見つめてくる瞳は、晴れた日の海のようにキラキラとしている。おちょくってやろうとか、世辞を言って持ち上げようとしているようには見えないから尚のこと混乱した。その綺麗な瞳には、俺は一体どう映っているのだろう。
全て運び終えた後、別に見返りなんて求めていなかったのに、礼をしたいとどこか不安そうにこちらを見てくる姿に気づいたら「10分だけなら」と返事をしていた。少しして渡されたのは湯気が上る湯呑みと饅頭だった。
「うちの饅頭なんです」
「ああ、街で人気だそうですね」
饅頭も、あなたも。そんなことを飲み込むように齧り付いた。茶色い薄皮の下には、きめの細かい餡がぎっしりと詰まっていた。それでいて甘さも控えめで食べやすい。他の店との違いは良く分からないが、確かにうまい。気づいたら残りも口に運んでいた。
「あっ!あの、実は皆さんから食堂に何か甘い物を置いてほしいという要望があるのですが、うちのお饅頭を販売しても良いですか?」
「まあ……それくらいなら。もし問題になるようでしたらすぐに取りやめてもらいます」
「はい!」
輝く瞳で嬉しそうに笑うナマエさんは少女のようだった。しかし、採用されて間もない職場で実家の商品を売ろうなんて商魂たくましい人だなと、そのしたたかさに口角が上がりそうになった。本当に、面白い人だ。
きっとその日からだ。より一層彼女の瞳を忘れられなくなったのは。「月島さん」とその瞳で見つめられると嬉しく思うのに、すぐに後ろめたさのような罪悪感のような気持ちで心がかき乱されて、目を逸らしてしまう。そして後悔する。もっと見ていたかったのに、と。
踏み込む勇気も身を引く潔さもなく、「良かったら買いに来てくださいね」という社交辞令を真に受けて、饅頭を買うために毎週食堂に通っていた。わざわざナマエさんの手が空く昼過ぎの時間帯を狙って、鯉登少尉がこの饅頭を気に入っているだなんて出まかせを言ってまでして、ナマエさんとの時間を過ごしたかった。誰も海を手に入れたいなんて大それたことを思わないのと同じで、ただ見ているだけで良かった。最近あったなんでもないことを楽しそうに話すナマエさんを見るのが、いつしか心の拠り所になっていた。
今日もこの業務を終えたらナマエさんに会いに行こう、そう思いながら鯉登少尉へ変わり映えのしない定期報告を行っていた──はずだった。
「そろそろ身を固めるつもりはないのか?」
最近あった演習での事故についての報告を終え、次の報告事項へと進もうとしたら鯉登少尉が唐突に口を挟んできた。
「なんですか急に。今はそんな場合じゃないでしょう」
やることが山積みで到底そんなことを考えられる状況にない。大体自分が結婚をするなんて考えたこともなかった。藪から棒に変なことを言い始めた鯉登少尉を無視して報告に戻ろうとしたのに、目の前の自由奔放な男は構わず話し続ける。
「食堂のあの饅頭屋のはどうだ?」
「何を言っているんです。大体、俺にはもったいない人です。もういいですか、報告に──」
「なら、私が貰っても良いか」
「……は?」
貰う?ナマエさんを?食堂の饅頭屋の、と名前ですら呼んでいないくせに?冗談も大概にしろと書類を持つ手に思わず力が入った。鯉登少尉はそれに気づいているのかいないのか、はぁと一つため息をついてからまた話し始めた。
「家のためにも、今後の出世のためにも、いつか妻を迎えねばと思っていた。知らない女と結婚するよりも知っている女の方が私も良い」
気だるげに頬杖をつきながら、くるくると万年筆を器用に回している鯉登少尉は、まるで夕飯に何を食べるか決めかねているような様子だった。それが、無性に腹立たしかった。
「本気で言っているんですか」
「貴様こそ、本気で言っていたのか」
鋭い目がこちらを見てきて、体をぐさりと軍刀で貫かれたような気がした。俺はいい。俺にはもったいない人だ。散々言い聞かせてきたことなのに、いざ誰かに取られると思うと、例えそれが鯉登少尉でも面白くないと思う自分がいることに気づいて愕然とした。
「私を使って饅頭を買いに行っているらしいではないか」
「はっ!?」
「私が贔屓にしているからだと?良くもまあそんなことを……」
苦虫を嚙み潰したように言われてドッと冷や汗が噴き出してきた。鯉登少尉を理由にして饅頭を買いに行っていることがバレている。ではナマエさんは?どこまで知られている?一瞬で頭が真っ白になって何も言えずにいると、「ナマエさんには何も言っていない」と見かねた鯉登少尉が言ったことで、肩の力が一気に抜けた。
「そこまで好いているのに何故身を引くのか私には理解できん」
「でも……今私が、私たちが優先すべきことは、それではないでしょう。それに俺では不釣り合いです」
「なら私が貰っても良いのか」
嫌です。出かかった言葉をぐっと堪えて飲み込んだ。ぎりぎりと奥歯に圧力がかかって嫌な音を立てている。
「報告は良いからナマエさんと話をしてこい」
「なんなんですか、あなたには関係ないでしょう」
「猶予は一日だ。それが出来ないなら私が貰う。それとも横から掻っ攫われるのを黙って見ているような腑抜けなのか貴様は?」
ぐしゃぐしゃになっていた書類を手から奪われ、良いから早く行けと部屋から追い出されてしまった。
──私が貰う。
鯉登少尉の声がこだまして、鳩尾のあたりが捻れるような不快感が込み上げてきた。でも俺にどうしろというんだ。話をしてこいって、一体何を話せばいい?
悶々としながら歩き続けて、気づいたら食堂の前に立っていた。まだ頭も心も整理ができていない状態で何も話せる気がしなくて、ナマエさんに出くわす前に立ち去ろうとした。
「あっ月島さん!おつかれさまです!」
こんな時に限って「饅頭完売」と書かれている札を外に貼り出しに来たナマエさんと鉢合わせてしまった。「お疲れ様です」とやっとの思いで返事をしたら、ナマエさんが手招きをして食堂の中へと入って行った。
「あとでいらっしゃるかなと思って、こっそり取っておいたんです」
裏から饅頭が二つ乗った皿を持ってきたナマエさんは、まるで悪戯が成功したように目を細めていた。
「……俺が来なかったらどうするつもりだったんですか」
「そのときは私が食べようかなって」
「二つも?」
「はい」
恥ずかしそうに口元を覆って笑うその瞳は、やはり水面のようだった。夏の、暖かい海だ。
「良かったら一つどうですか」
「いいんですか?鯉登さんの分は?」
「大丈夫です」
「じゃあお茶淹れてきますね」
適当な席に座って待っていると、すぐにナマエさんが湯飲みを二つ持って戻ってきた。
「月島さん、本当は鯉登さんのためにお饅頭を買っていないんでしょう?」
何も言っていないんじゃなかったのか。話が違う、とついさっきまで話していた上官の顔が浮かんだ。きっと真っ青になっている俺とは対照的に、ナマエさんは「恥ずかしがらなくても良いのに」とニコニコと笑顔を絶やさずに話し続けた。
「男性だって甘い物は好きですよね」
「……えっ?」
「好きなものは好きって胸を張って言っても良いと思います。笑う方が失礼なんですから」
「……そう、ですね」
どうやら勘違いをしている様子にホッとしたと同時に、言われたことが胸を打った。好きな物は好きと言って良い。気づいた時にはポロッと言葉が口から転がり出ていた。
「好きです」
「ふふ、嬉しいです。そんなにうちのお饅頭を好いてくれるなんて」
「いえ、あなたが」
「……私?」
湯飲みへと手を伸ばそうとしていた動きがピタッと止まった。
「ナマエさん、あなたが好きです」
「月島さんも冗談を──」
言うんですね、と続けられるはずだっただろう言葉は、ナマエさんのもごもごと動く口の中に留まり、俺に届くことはなかった。口ごもらせてしまうほど、俺はいま酷い顔をしているのだろうか。鯉登少尉のように手鏡があれば確認できたのに。いや、こんな状況で自分の顔を確認するバカはいないから、結局俺がどんな顔をしているのかは分からず仕舞いだ。
「……別に、どうこうなりたいわけではなかったんです」
「えっと……」
「ただ、あなたのそばに居られればそれで」
でも他の誰かに取られるなら、いっそどこかに閉じ込めておきたい。
湯呑みへと伸ばされるはずだった手に、俺の手を重ねた。散々汚れ仕事をしてきた手で触れていい人じゃない。穢してしまうのが怖かった。でも、いざ触れてみたら、何故だか自分が少しだけマシになったようなそんな気がした。心の中の澱が少しだけ浄化されてふっと軽くなったような、不思議な感覚に身体が包まれた。
「あなたを、好きでいても良いですか」
どこかに閉じ込めることができないなら、少しでもナマエさんの心に俺を住まわせてほしかった。狡いことを言っているのは分かっている。しんと静まり返った食堂で、じっとナマエさんの返答を待っていたら、長い沈黙の末に可愛らしい唇がおずおずと開いた。
「あの、前に言ったこと、覚えていますか……?」
「前、とは」
「えっと……お醤油を運ぶのを手伝ってもらった時……月島さんが、皆さんから好かれているって話です」
ああ、と頷いたが、今思い返してもその内容には賛同しかねるなと思っていた。
「えっと、その、みんなって言うのは……」
重なった手に視線を落としながらナマエさんが言い淀んだ。その耳が、みるみるうちに赤くなっていく。よく見れば首筋まで赤く染まっていて、体温が伝染するように俺にもうつっていく。
「……みんなって言うのは、私も含まれてるんですよ」
細波立つ瞳を捉えて、思わず重ねた手に力が入った。
あとがき
DTな上官にけしかけられて初めて動ける部下って良いですね!しかし人生二度目の月島夢でしたが本当にこの男は難儀でびっくりしました。行けー!そこだ差せー!みたいな気持ちで書いているのに何故か全然行ってくれない…これが月島マジック…?しかしそこが愛おしい。どれだけの女を沼に沈めれば気が済むんでしょうか。
あやめ様、グイグイというほどグイグイ行けてなくて申し訳ないのですが、素敵なリクエストをありがとうございました!!
あやめ様、グイグイというほどグイグイ行けてなくて申し訳ないのですが、素敵なリクエストをありがとうございました!!
2025.07.30
