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※網走脱出~国境越えの白石視点です
「白石さん、予備の舟で待っていてください」
「えっ……ナマエちゃん?」
「アシリパさんをっ……!頼みます」
ナマエちゃんらしからぬ力と勢いで袖を掴まれた。照明弾に照らされて、濡れた睫毛も、俺を力強く射抜く瞳も、頬に一筋走った涙の跡も、小刻みに震える血色の悪い唇も、何もかもがはっきりと見えた。
行っちゃ駄目だ。
轟々と大地を揺らす重火器や建物が崩れる音に負けないくらい、キロちゃんも後ろで制止している。心が、頭が、行かせてはいけないと叫んでいる。混乱を極めたこの監獄内で、生きているかも分からない杉元のために動くのはあまりにも無謀だ。助けに行った先で命を落とすかもしれない。敷地内にうようよ居る第七師団に捕まってしまうかもしれない。行かせたくない。失いたくない。それなのに声が出なかった。
俺は、ナマエちゃんの覚悟に気圧されていた。門倉さんの家で待機となったことについて、昼間に弱々しく「しょうがないですよ」なんて笑っていた子と同一人物だとは思えなかった。呼び止める言葉を発するはずの口は堅く閉ざされて、唇の裏側に歯が突き刺さる。口内にしょっぱい鉄の味が広がっていく。
「きっと、大丈夫です」
俺からアシリパちゃんに視線を移したナマエちゃんは笑っていた。いつもの穏やかな笑みで、ブワッと二の腕に鳥肌が立った。杉元とはまた違った恐ろしさの片鱗を垣間見て、この子も日露戦争帰りなんだとやっと本当の意味で理解した。
「くそっ、ナマエまで……!尾形に何を言われるか……白石ッお前も早く来い!」
キロちゃんの悪態が轟音の合間を縫って後ろから聞こえてくる。杉元も、ナマエちゃんも、なんでそんな風に生きられるんだ。なんで、そんなに俺のことを信用できるんだ。小さくなっていく背中に投げかけても、もう答えは返ってこない。ギュッと袖を握られている感覚だけが、ただはっきりと残っていた。
自慢じゃないが碌な人生を歩んでこなかった。大半は監獄で過ごしていたし、残りはずっと逃げていた。そんな俺を信じる人間なんてどこにいるんだと思っていたのに、ここに来て杉元だけでなく、ナマエちゃんまで俺にアシリパちゃんを託そうとしてきて、正気か?と思わずにはいられなかった。俺は脱獄王だぜ?いつだって逃げることができるのに、二人とも驚くほど真っすぐに俺の目を見てくるから嫌になる。結局この泥舟にも似た状況から逃げることもせず、俺はキロちゃんたちと一緒に樺太を北上していた。
樺太に着いてから暫くはアシリパちゃんの心の整理が出来ていなかったから口数も少なかったし、俺たちの間に流れる空気もどんよりとしていた。わざわざここに居ない奴らのことを話してもまた傷つけるだけになるから、杉元やナマエちゃんの名前が会話に上がることはなかった。俺も極力考えないようにしていたけど、段々と前を向いていくアシリパちゃんに引っ張られて、最近は良くナマエちゃんのことを思い出すようになった。杉元が死んでいるとは思えないが、ナマエちゃんはどうなった?杉元と一緒だったら良いけど、離れ離れになって一人鶴見中尉に捕まってしまっていたら?初めて会った頃から随分と雰囲気が柔らかくなってきたのに、また第七師団に戻されていたらあんまりだ。美味い飯を食って、暖かくして、ぐっすり眠れているだろうか。しっかり者に見えて意外と脆いから、あの可愛い顔が毎日涙に濡れている可能性も十分にある。そのことを考えるとチクチクと針で刺されたように胸が痛む。
コケモモの塩漬けとか、名前は忘れたけどロシアの赤い汁物とか、美味いものを食べると決まってナマエちゃんの顔が思い浮かぶ。見た目よりもパクパクと良く食べる姿はこっちも幸せな気分にさせてくれるから、網走までの旅の間どれだけ癒されたか。あの姿がまた見たい。アシリパちゃんも同じようなことを考えているようで、たまに食事中に「ナマエにも教えてあげたい」と寂しそうに呟いたりもする。
ナマエちゃんと出会った時、こんな可愛い子ちゃんと一緒に旅ができるなんて人生捨てたもんじゃねえなと思っていた。こんな育ちが良さそうな女の子と同じ空気を吸ったことなんてなかったし、しかも看護婦だから献身的で優しくて、何かあれば体に触れながら怪我はないかと心配してくれる。こんなの、好きにならない男なんていないだろ。俺が森で足を滑らせて転んだ時だって、「白石さん!大丈夫ですか!?」と真っ先に駆け寄ってきてくれた。「大丈夫だろ」なんて俺の方を見向きもせずに言い放った杉元達とは大違いだ。
手を差し伸べてきたナマエちゃんに抱き着いて、あわよくばこのまま一揉み……と思っていたのに、目が合うとそんな気もどこかに吹っ飛んでしまう。綺麗な瞳だ。女の子らしく柔らかな曲線で出来ている瞳は、長いまつ毛で縁取られている。まるで今まで綺麗なものだけを映してきたような瞳は、下心も悪だくみも何もかも見透かされているような気になるから、真っ向から見るのは少し苦手だった。もっと違う人生を歩んできていたら、その瞳をちゃんと拝むことができたのか。正直良く分からないし、考えるだけ無駄だ。俺とは住む世界が違うんだから。
それに、俺はナマエちゃんと別にどうこうなりたいわけじゃねぇ……と言ったら嘘になるけど、どうなりたいのか?と言われるとそれはそれで困る。今まで金を払ってでしか女の子と接してこなかったし、「王様になって家族をたくさん作りたい」なんて雑居房で意気揚々と語っていたアイツのような夢もない。大体、家族がなんなのか俺には良く分からない。でも、ずっと笑っていてほしいと思う。恋だったかもしれない気持ちは、いつしかただナマエちゃんの幸せを願う気持ちに変化していた。そんなナマエちゃんにアシリパちゃんを託されたんだから、国境を越えることになってもキロちゃんたちと一緒についていこうと思っていた。他人のために動くなんて俺らしくもないのに。
「これ……キロランケニシパか?」
なのに、襲ってきた国境守備隊が持っていたのはキロちゃんとウイルクの手配書だった。15の時にウイルクとロシアの皇帝を暗殺したと、淡々と過去を語るキロちゃんは、俺たちの知らない人間のようだった。ウイルクが何のためにアイヌの軍資金を使おうとしていたか、キロちゃんは知らないと言っていたのに。小樽を出た時からずっと仲間だと思っていた人間が嘘をついていた。その事実でガツンと頭を殴られたみたいだった。ここまで来る間に尾形ちゃんともこそこそ話していたこともあって、二人への不信感が一気に上昇した。今回は何とか切り抜けられたけど、俺たちの行動が把握されていることも分かった。こんなの、命がいくつあっても足りやしねぇ。俺は託されたんだ。アシリパちゃんを守らないといけない。これ以上この二人と一緒に行動するのは危険すぎる。だからこっそり逃げようって提案したのに、アシリパちゃんから返ってきたのは「私は残る」という意外な返事だった。真っすぐに見つめてくる目は、ナマエちゃんに似ていた。
「私はもっと知りたい。アチャがどういう人か、どうしてのっぺら坊になったのか……」
そんなこと知らなくったって良いだろ。咄嗟に口から出そうになった言葉をグッと飲み込んだ。どいつもこいつも、本当になんでそんな風に生きられるんだ。
夜が明けて、尾形ちゃんの体調も良くなり、俺たちは世話になったウイルタの村から出ていくことにした。二人への不信感は拭えないけど、アシリパちゃんが残ると言うなら俺はついて行くまでだ。覚悟を決めたその矢先、キロちゃんが俺に向き直った。
「白石由竹……お前ともここで別れよう。白石が言う通り俺はロシアではお尋ね者で、一緒に居ればこれまでになく危険が伴うはずだ」
俺から逃げる必要なんてねえんだぜ、とキロちゃんがポンっと肩を叩いてきた。俺の刺青は鶴見中尉も土方歳三も写しを持っているから、今更俺がどこに行こうと何も変わらない。命あっての物種だ。実の父親がのっぺら坊だったアシリパちゃんと俺では背負っている物が違う。そう、保身のためにもお別れするのは合理的だ。それに杉元とナマエちゃんに頼まれたって言っても、俺は一度だって返事をしてないんだ。ただ一方的に、あいつらが俺に押し付けてきただけで。今しがた決めたはずの覚悟が、グラグラと大きく揺らいでいく。
「お前には色々助けられた。シライシありがとう。元気でな。変な奴に捕まるなよ」
そう言いながら見上げてくるアシリパちゃんの顔は清々しくて、益々心がグラつく。お別れするんだったらもっとしんみりしたって良いんじゃないの?なんて思ったけど、結局何も言えずに手を振って別れることになった。数々の死線を潜り抜けて、網走監獄まで侵入したっていうのに、随分とあっさりとしたお別れだ。
「こういう時はな、上手く立ち回らなきゃ駄目なんだぜ」
急に話し始めた俺に、隣のウイルタの息子がビクッと肩を揺らした。
「俯瞰で見て、誰がこの金塊争奪戦を勝ち残るのか見極め……勝ち馬にダニのようにしがみついて美味しいとこを頂く……分かるかい?」
日本語が通じるわけもなく、ポカンとした顔が俺を見つめ返してくる。
「さて……北海道に戻って鶴見中尉にでもうまく擦り寄るかなぁ」
ニタりと上げた口角はいつもよりも重く感じた。俺はカネが欲しい。じゃなきゃこんな命懸けの争奪戦に首なんて突っ込まねぇ。キロちゃんが言う極東の少数民族の独立とか、土方歳三の描く蝦夷共和国とか、何でみんなそんな面倒なことをやりたがるのか理解ができねぇ。人生、出来るだけ苦労せずにふらふら生きている方が楽しいに決まってる。それが勝ち組っていうもんだ。杉元も、ナマエちゃんも、俺みたいに生きれば良いのに。だってそうだろ?汗水垂らしてもがき苦しんで、結局全部徒労に終わって最悪死んじまうなんて馬鹿みたいだ。なのに、ああ袖が重い。ナマエちゃんに掴まれた袖だ。
──アシリパさんをっ……!頼みます。
──アシリパさんを頼むぞッ、白石!!
気づいたら走り出していた。足も腕も、脱獄した直後みたいに一心不乱に振り上げて小さくなってしまった三人を追いかけていく。ふぅ、ふぅと大きく呼吸を繰り返す度に、北海道よりも凍てつく空気が気道と肺を痛めつけてくる。痛い。苦しい。なんでこんな思いしなきゃいけねぇんだよ!
「待ってくれッ」
雪に足を取られて、次の瞬間には頭からどてッと無様に転がっていた。アシリパちゃん達はまだ気づいてない。少し縮まった距離がまた開いていく。ドッドッドッドッと地鳴りのような心音が体中に響いている。
「まって!」
裏返った情けない声を上げながら、もつれる足でどたどたと追いかけているとやっとアシリパちゃんが振り返って、三人が止まった。
「なんだ?気が変わったのか?」
「ロシア側には……金髪のおネエちゃんと遊べるところが……きっとたくさんあるんだろ?『白石由竹世界を股にかける』なんつって」
「か~え~れ~。ったく……またチンポ痛くなっても知らないぞ!!」
「これあるから大丈夫ッ」
首から下がったウイルタのチンポのお守りを見せつければ「ほどほどにしろよ」とみんなから呆れた表情が返ってきた。
「ねぇそのトナカイ俺も乗れない?走って疲れちゃった」
「も~しょうがない奴だな」
アシリパちゃんが少しだけ前に移動して空いた場所に俺もよじ登った。歩き方が違うのか、馬よりも不安定だから、思いのほか座っているのが難しい。落ちないように咄嗟に目の前のアシリパちゃんが纏っているふわふわとした毛皮に掴まった。
俺は、この子を託された。急にその事実がズンっと腹に落ちてきた。荷が重いぜ、本当に。やっぱり逃げ出したくなってきた。今なら「やっぱり帰る!」って言ってもまだ間に合うんじゃねぇか。あーでも、すっかり忘れてたけど──
「ナマエちゃんに抱きしめてもらう約束だしなぁ……」
「……抱きしめてもらう?」
声に出していたつもりはなかったから自分でも驚いた。振り返ってきたアシリパちゃんはじとりとした瞳で俺を見ていた。
「あっ……いや、そういう約束してたんだよ、網走監獄から無事に帰ってきたら抱きしめてもらうって」
「ナマエに変な約束をさせるな」
「違ぇって!ナマエちゃんから言ってきたんだって!」
「私は許可しないぞ白石」
アシリパちゃんにぴしゃりと言われた上に、隣の尾形ちゃんの視線がめちゃめちゃ怖い。でも脳裏に浮かぶのは潜入前に不安そうに袖を掴んできたナマエちゃんの顔で、少しだけ心が浮足立っていた。
──ちゃんと三人一緒に、無事に帰ってきてくださいね。約束ですよ。
三人で無事に帰ってきたら抱きしめてくれるという約束はまだ有効だと願いたい。俺の人生史上一番素敵な子に抱きしめてもらえるんだから、アシリパちゃんを託された報酬としては十分だ。ついでにいつものように飴ちゃんと、おいしい手料理でも付いてきたら万々歳だ。きっと柔らかいんだろうなぁ、いい匂いもするんだろう。杉元とアシリパちゃんが居ない間に存分に抱きしめてもらいたい。
でもナマエちゃんのことだ。再会したら泣いてしまうだろうから、まずは俺たちで抱きしめてあげような、アシリパちゃん。
あとがき
2025.10.05
「白石さん、予備の舟で待っていてください」
「えっ……ナマエちゃん?」
「アシリパさんをっ……!頼みます」
ナマエちゃんらしからぬ力と勢いで袖を掴まれた。照明弾に照らされて、濡れた睫毛も、俺を力強く射抜く瞳も、頬に一筋走った涙の跡も、小刻みに震える血色の悪い唇も、何もかもがはっきりと見えた。
行っちゃ駄目だ。
轟々と大地を揺らす重火器や建物が崩れる音に負けないくらい、キロちゃんも後ろで制止している。心が、頭が、行かせてはいけないと叫んでいる。混乱を極めたこの監獄内で、生きているかも分からない杉元のために動くのはあまりにも無謀だ。助けに行った先で命を落とすかもしれない。敷地内にうようよ居る第七師団に捕まってしまうかもしれない。行かせたくない。失いたくない。それなのに声が出なかった。
俺は、ナマエちゃんの覚悟に気圧されていた。門倉さんの家で待機となったことについて、昼間に弱々しく「しょうがないですよ」なんて笑っていた子と同一人物だとは思えなかった。呼び止める言葉を発するはずの口は堅く閉ざされて、唇の裏側に歯が突き刺さる。口内にしょっぱい鉄の味が広がっていく。
「きっと、大丈夫です」
俺からアシリパちゃんに視線を移したナマエちゃんは笑っていた。いつもの穏やかな笑みで、ブワッと二の腕に鳥肌が立った。杉元とはまた違った恐ろしさの片鱗を垣間見て、この子も日露戦争帰りなんだとやっと本当の意味で理解した。
「くそっ、ナマエまで……!尾形に何を言われるか……白石ッお前も早く来い!」
キロちゃんの悪態が轟音の合間を縫って後ろから聞こえてくる。杉元も、ナマエちゃんも、なんでそんな風に生きられるんだ。なんで、そんなに俺のことを信用できるんだ。小さくなっていく背中に投げかけても、もう答えは返ってこない。ギュッと袖を握られている感覚だけが、ただはっきりと残っていた。
自慢じゃないが碌な人生を歩んでこなかった。大半は監獄で過ごしていたし、残りはずっと逃げていた。そんな俺を信じる人間なんてどこにいるんだと思っていたのに、ここに来て杉元だけでなく、ナマエちゃんまで俺にアシリパちゃんを託そうとしてきて、正気か?と思わずにはいられなかった。俺は脱獄王だぜ?いつだって逃げることができるのに、二人とも驚くほど真っすぐに俺の目を見てくるから嫌になる。結局この泥舟にも似た状況から逃げることもせず、俺はキロちゃんたちと一緒に樺太を北上していた。
樺太に着いてから暫くはアシリパちゃんの心の整理が出来ていなかったから口数も少なかったし、俺たちの間に流れる空気もどんよりとしていた。わざわざここに居ない奴らのことを話してもまた傷つけるだけになるから、杉元やナマエちゃんの名前が会話に上がることはなかった。俺も極力考えないようにしていたけど、段々と前を向いていくアシリパちゃんに引っ張られて、最近は良くナマエちゃんのことを思い出すようになった。杉元が死んでいるとは思えないが、ナマエちゃんはどうなった?杉元と一緒だったら良いけど、離れ離れになって一人鶴見中尉に捕まってしまっていたら?初めて会った頃から随分と雰囲気が柔らかくなってきたのに、また第七師団に戻されていたらあんまりだ。美味い飯を食って、暖かくして、ぐっすり眠れているだろうか。しっかり者に見えて意外と脆いから、あの可愛い顔が毎日涙に濡れている可能性も十分にある。そのことを考えるとチクチクと針で刺されたように胸が痛む。
コケモモの塩漬けとか、名前は忘れたけどロシアの赤い汁物とか、美味いものを食べると決まってナマエちゃんの顔が思い浮かぶ。見た目よりもパクパクと良く食べる姿はこっちも幸せな気分にさせてくれるから、網走までの旅の間どれだけ癒されたか。あの姿がまた見たい。アシリパちゃんも同じようなことを考えているようで、たまに食事中に「ナマエにも教えてあげたい」と寂しそうに呟いたりもする。
ナマエちゃんと出会った時、こんな可愛い子ちゃんと一緒に旅ができるなんて人生捨てたもんじゃねえなと思っていた。こんな育ちが良さそうな女の子と同じ空気を吸ったことなんてなかったし、しかも看護婦だから献身的で優しくて、何かあれば体に触れながら怪我はないかと心配してくれる。こんなの、好きにならない男なんていないだろ。俺が森で足を滑らせて転んだ時だって、「白石さん!大丈夫ですか!?」と真っ先に駆け寄ってきてくれた。「大丈夫だろ」なんて俺の方を見向きもせずに言い放った杉元達とは大違いだ。
手を差し伸べてきたナマエちゃんに抱き着いて、あわよくばこのまま一揉み……と思っていたのに、目が合うとそんな気もどこかに吹っ飛んでしまう。綺麗な瞳だ。女の子らしく柔らかな曲線で出来ている瞳は、長いまつ毛で縁取られている。まるで今まで綺麗なものだけを映してきたような瞳は、下心も悪だくみも何もかも見透かされているような気になるから、真っ向から見るのは少し苦手だった。もっと違う人生を歩んできていたら、その瞳をちゃんと拝むことができたのか。正直良く分からないし、考えるだけ無駄だ。俺とは住む世界が違うんだから。
それに、俺はナマエちゃんと別にどうこうなりたいわけじゃねぇ……と言ったら嘘になるけど、どうなりたいのか?と言われるとそれはそれで困る。今まで金を払ってでしか女の子と接してこなかったし、「王様になって家族をたくさん作りたい」なんて雑居房で意気揚々と語っていたアイツのような夢もない。大体、家族がなんなのか俺には良く分からない。でも、ずっと笑っていてほしいと思う。恋だったかもしれない気持ちは、いつしかただナマエちゃんの幸せを願う気持ちに変化していた。そんなナマエちゃんにアシリパちゃんを託されたんだから、国境を越えることになってもキロちゃんたちと一緒についていこうと思っていた。他人のために動くなんて俺らしくもないのに。
「これ……キロランケニシパか?」
なのに、襲ってきた国境守備隊が持っていたのはキロちゃんとウイルクの手配書だった。15の時にウイルクとロシアの皇帝を暗殺したと、淡々と過去を語るキロちゃんは、俺たちの知らない人間のようだった。ウイルクが何のためにアイヌの軍資金を使おうとしていたか、キロちゃんは知らないと言っていたのに。小樽を出た時からずっと仲間だと思っていた人間が嘘をついていた。その事実でガツンと頭を殴られたみたいだった。ここまで来る間に尾形ちゃんともこそこそ話していたこともあって、二人への不信感が一気に上昇した。今回は何とか切り抜けられたけど、俺たちの行動が把握されていることも分かった。こんなの、命がいくつあっても足りやしねぇ。俺は託されたんだ。アシリパちゃんを守らないといけない。これ以上この二人と一緒に行動するのは危険すぎる。だからこっそり逃げようって提案したのに、アシリパちゃんから返ってきたのは「私は残る」という意外な返事だった。真っすぐに見つめてくる目は、ナマエちゃんに似ていた。
「私はもっと知りたい。アチャがどういう人か、どうしてのっぺら坊になったのか……」
そんなこと知らなくったって良いだろ。咄嗟に口から出そうになった言葉をグッと飲み込んだ。どいつもこいつも、本当になんでそんな風に生きられるんだ。
夜が明けて、尾形ちゃんの体調も良くなり、俺たちは世話になったウイルタの村から出ていくことにした。二人への不信感は拭えないけど、アシリパちゃんが残ると言うなら俺はついて行くまでだ。覚悟を決めたその矢先、キロちゃんが俺に向き直った。
「白石由竹……お前ともここで別れよう。白石が言う通り俺はロシアではお尋ね者で、一緒に居ればこれまでになく危険が伴うはずだ」
俺から逃げる必要なんてねえんだぜ、とキロちゃんがポンっと肩を叩いてきた。俺の刺青は鶴見中尉も土方歳三も写しを持っているから、今更俺がどこに行こうと何も変わらない。命あっての物種だ。実の父親がのっぺら坊だったアシリパちゃんと俺では背負っている物が違う。そう、保身のためにもお別れするのは合理的だ。それに杉元とナマエちゃんに頼まれたって言っても、俺は一度だって返事をしてないんだ。ただ一方的に、あいつらが俺に押し付けてきただけで。今しがた決めたはずの覚悟が、グラグラと大きく揺らいでいく。
「お前には色々助けられた。シライシありがとう。元気でな。変な奴に捕まるなよ」
そう言いながら見上げてくるアシリパちゃんの顔は清々しくて、益々心がグラつく。お別れするんだったらもっとしんみりしたって良いんじゃないの?なんて思ったけど、結局何も言えずに手を振って別れることになった。数々の死線を潜り抜けて、網走監獄まで侵入したっていうのに、随分とあっさりとしたお別れだ。
「こういう時はな、上手く立ち回らなきゃ駄目なんだぜ」
急に話し始めた俺に、隣のウイルタの息子がビクッと肩を揺らした。
「俯瞰で見て、誰がこの金塊争奪戦を勝ち残るのか見極め……勝ち馬にダニのようにしがみついて美味しいとこを頂く……分かるかい?」
日本語が通じるわけもなく、ポカンとした顔が俺を見つめ返してくる。
「さて……北海道に戻って鶴見中尉にでもうまく擦り寄るかなぁ」
ニタりと上げた口角はいつもよりも重く感じた。俺はカネが欲しい。じゃなきゃこんな命懸けの争奪戦に首なんて突っ込まねぇ。キロちゃんが言う極東の少数民族の独立とか、土方歳三の描く蝦夷共和国とか、何でみんなそんな面倒なことをやりたがるのか理解ができねぇ。人生、出来るだけ苦労せずにふらふら生きている方が楽しいに決まってる。それが勝ち組っていうもんだ。杉元も、ナマエちゃんも、俺みたいに生きれば良いのに。だってそうだろ?汗水垂らしてもがき苦しんで、結局全部徒労に終わって最悪死んじまうなんて馬鹿みたいだ。なのに、ああ袖が重い。ナマエちゃんに掴まれた袖だ。
──アシリパさんをっ……!頼みます。
──アシリパさんを頼むぞッ、白石!!
気づいたら走り出していた。足も腕も、脱獄した直後みたいに一心不乱に振り上げて小さくなってしまった三人を追いかけていく。ふぅ、ふぅと大きく呼吸を繰り返す度に、北海道よりも凍てつく空気が気道と肺を痛めつけてくる。痛い。苦しい。なんでこんな思いしなきゃいけねぇんだよ!
「待ってくれッ」
雪に足を取られて、次の瞬間には頭からどてッと無様に転がっていた。アシリパちゃん達はまだ気づいてない。少し縮まった距離がまた開いていく。ドッドッドッドッと地鳴りのような心音が体中に響いている。
「まって!」
裏返った情けない声を上げながら、もつれる足でどたどたと追いかけているとやっとアシリパちゃんが振り返って、三人が止まった。
「なんだ?気が変わったのか?」
「ロシア側には……金髪のおネエちゃんと遊べるところが……きっとたくさんあるんだろ?『白石由竹世界を股にかける』なんつって」
「か~え~れ~。ったく……またチンポ痛くなっても知らないぞ!!」
「これあるから大丈夫ッ」
首から下がったウイルタのチンポのお守りを見せつければ「ほどほどにしろよ」とみんなから呆れた表情が返ってきた。
「ねぇそのトナカイ俺も乗れない?走って疲れちゃった」
「も~しょうがない奴だな」
アシリパちゃんが少しだけ前に移動して空いた場所に俺もよじ登った。歩き方が違うのか、馬よりも不安定だから、思いのほか座っているのが難しい。落ちないように咄嗟に目の前のアシリパちゃんが纏っているふわふわとした毛皮に掴まった。
俺は、この子を託された。急にその事実がズンっと腹に落ちてきた。荷が重いぜ、本当に。やっぱり逃げ出したくなってきた。今なら「やっぱり帰る!」って言ってもまだ間に合うんじゃねぇか。あーでも、すっかり忘れてたけど──
「ナマエちゃんに抱きしめてもらう約束だしなぁ……」
「……抱きしめてもらう?」
声に出していたつもりはなかったから自分でも驚いた。振り返ってきたアシリパちゃんはじとりとした瞳で俺を見ていた。
「あっ……いや、そういう約束してたんだよ、網走監獄から無事に帰ってきたら抱きしめてもらうって」
「ナマエに変な約束をさせるな」
「違ぇって!ナマエちゃんから言ってきたんだって!」
「私は許可しないぞ白石」
アシリパちゃんにぴしゃりと言われた上に、隣の尾形ちゃんの視線がめちゃめちゃ怖い。でも脳裏に浮かぶのは潜入前に不安そうに袖を掴んできたナマエちゃんの顔で、少しだけ心が浮足立っていた。
──ちゃんと三人一緒に、無事に帰ってきてくださいね。約束ですよ。
三人で無事に帰ってきたら抱きしめてくれるという約束はまだ有効だと願いたい。俺の人生史上一番素敵な子に抱きしめてもらえるんだから、アシリパちゃんを託された報酬としては十分だ。ついでにいつものように飴ちゃんと、おいしい手料理でも付いてきたら万々歳だ。きっと柔らかいんだろうなぁ、いい匂いもするんだろう。杉元とアシリパちゃんが居ない間に存分に抱きしめてもらいたい。
でもナマエちゃんのことだ。再会したら泣いてしまうだろうから、まずは俺たちで抱きしめてあげような、アシリパちゃん。
あとがき
夢主に思いを寄せている白石が夢主のことを大事に想っているお話というリクエストでした!ifとしてがっつり恋愛感情を向けているお話も良かったのですが、最終的に「思い」を拡大解釈して「恋」ではなく「愛」にさせていただきました。話の内容がとっ散らかってしまうため削った箇所などもあったので、また本編の方でいつか書けたらいいなと思っています。しかし白石難しい~~!!白石って本気になった子ほど距離を置きたがるというか逃げてしまうと思うんですよね…金カムには難儀な男が多いですがそんな中でもtop3に入るんじゃないかと勝手に思っています。
おいなり様、素敵なリクエストありがとうございました!お気に召していただけたら幸いです!
おいなり様、素敵なリクエストありがとうございました!お気に召していただけたら幸いです!
2025.10.05
