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※付き合う前のお話です
最初はちょっと感じが悪い普通のお客さんだと思っていた。中肉中背で見た目も小綺麗で、ほかのサラリーマンと大差ないその人は、初めて来店した時に普段利用している決済方法がうちで利用できないことにイラついていた。それなりに強い口調で非難され、頭を下げた際、カウンターの上に置かれていた左手が目に入った。薬指には指輪が光っていて、こんな人でも結婚しているんだなと意外に思ったものだった。
その後もメニューに新規性がないだとか、毎回小言や文句を言いながら何故かうちに通ってくるのだから、最近はいつあの人が来るのか気が気でなくて憂鬱だった。そんなに文句があるのなら来なければ良いのに、どうしてあの人はうちに通い続けるのだろう。接客業をしているからにはこういったことはいつか起きるだろうと思っていたけど、この辺りはオフィス街、しかも名だたる企業がひしめき合っているエリアだけあって、客層もそれなりに良い。だから所謂クレーマーというような面倒なお客さんに私はまだ出会っていなかった。しかしその運もついに尽きてしまったらしい。
「はぁ……」
「大丈夫?最近元気ないよね」
「あっ!すみません杉元さん……!」
無意識のうちについていた重い溜息に気がついて、慌てて吐き出した分を取り戻すように大きく息を吸った。数坪の狭い店内は溜息ですぐに埋まってしまう。気を付けないと、と気を引き締めながらホイップをたっぷりと絞ったアイスココアを杉元さんへと手渡した。
「何かあった?あ、鯉登が何かしたとか?」
「いえ、鯉登さんは関係ないです。ただ……」
そこまで言って、こんなことを杉元さんに話して良いのかとブレーキがかかった。ほかのお客さんの愚痴なんて聞いても良い気分はしないだろう。でも溜息を量産するほどに心が蝕まれつつあるので、少し相談してみたい。チラッと顔色を伺ってみれば、杉元さんは受け取ったアイスココアに口をつけることなく私の次の言葉を待ってくれていた。少しの沈黙の後、話す決心がついて再度口を開いた。
「……最近、変なお客さんがいるんです」
「変なって、どんな?」
「決済方法増やせとか、メニューに新規性がないとか、照明器具が良くないとか……毎回何かしら要求とか小言を言ってくるんです……」
「うわ何そいつ、クレーマー?」
杉元さんが言い終わったとほぼ同時に、カランカランとドアベルが鳴った。噂をすれば、というところだろうか。今まさに話していた面倒なお客さんが入ってきて、ズクッと強く心臓が痛んだ。
「……い、らっしゃいませ」
普段通りの対応を心掛けていたのに、思っていたよりも緊張が滲み出た声になってしまった。杉元さんが壁際に避け、「この人?」と口パクで聞いてきたのでこっそりと頷いた。
「……ブレンド」
「はい、ブレンドコーヒーですね」
今日は何を言われるのだろう。ズズッとたまに杉元さんがアイスココアを啜る音が響く中、緊張しながら会計を済ませ注文の品を用意したのに、男は一言も話さずに退店してしまった。何も言われなかったのは良いことなのに、いつものねちっこさからは考えられないその呆気なさに拍子抜けしてしまった。
「今のが例のクレーマー?」
「そうなんです、けど……」
「何も言わなかったね」
きっと杉元さんが居たから。待っている間、男は時折壁際の方を気にしていた。いつもはもっと横柄な態度でカウンターに凭れかかったり、買わない焼き菓子をベタベタと触って待っているのに。もちろん、既に商品を受け取っている杉元さんが何故店内に居座り続けているのかという疑問もあっただろうけど、それにしては委縮しているように見えた。つまり、あの男は相手や状況を選んでわざと嫌な態度を取っているのだと分かって、怒りと悲しみと恐怖が混ざった感情が渦巻いた。
「……最低だな」
出入り口の方を睨みつけ、ぽつりと杉元さんが呟いた。
「大体なんだよ『……ブレンド』って、ブレンドコーヒーひとつお願いしますだろうが!」
「まあ、そういう人も居ますよ」
「あークソっ、腹立ってきた。テメェの頭をブレンドしてやろうか」
「落ち着いて」
グルグルと威嚇する大型犬のように怒る杉元さんを見て、私の中の気持ちが少しだけ軽くなっていく。まるで自分のことのように怒ってくれるのが嬉しかった。
「アイツまた来るかもしれないしさ、ヘルプで誰かに来てもらうとか、代わりの人に頼んだりとかできないの?」
「ええっと、オーナーに話してみないと分からなくて……」
「そっか。俺もなるべく来るようにするし、何かあったらすぐ連絡して」
「すみません、ありがとうございます」
気を付けてね、と最後まで心配そうな顔をしながら杉元さんが仕事へと戻っていった。
それから暫く、あの男は来なかった。たまたまかもしれないけど、店の顧客に杉元さんのような屈強な男性がいるというのが抑止力になったのでは、となんとなく思っていた。杉元さんはとても乙女チックで可愛らしい人だけど、シャツの上からでも分かる筋肉質な体や、顔に走った傷のせいで中々に近づきがたい風貌をしている。「テメェの頭をブレンドしてやろうか」なんて実際に面と向かって言われたら、キュッと縮み上がってガタガタと震えてしまうだろう。
念のためオーナーにも話をしておいて、いつでも応援を呼べるようにしてもらったけど、もうその必要もないかもしれない──と油断していたのがまずかった。
「これ、前もっと入ってたよね?今日少ないんだけど」
「容量は以前と変わっていないはずですが……」
「何?俺が間違ってるって言うの?」
久々に来店した男が、苛立ちながらホットドリンク用の紙コップの中身を指さした。上から数センチを残してコーヒーが注がれている。適量だ。自動で規定量が注がれるようにしているから変わりようがないし、私が手動で注ぐよりも正確な分量で販売しているのに、さっきから少ないと主張されて困っていた。暫く来店していない間に怒りのゲージが溜まったのか、今までよりも明らかに攻撃性が増した態度で、先ほどから鳩尾の辺りが捻じれるように痛かった。
「よ、よろしければ追加でお好みの分量をお注ぎしましょうか」
釈然としないが、一刻も早く帰ってもらうためにここは下手に出た方が良い。そう思って提案したら、はあ……と酷く呆れかえった顔が返ってきた。
「当たり前だろ。で、足りなかった分は何か貰えないの?」
「えっと……何かっていうのは……」
「はあ?それくらい自分で考えろよ!」
強い口調に動悸が激しくなっていく。呼吸も浅くなって、満足に酸素が身体に行き渡らない。
「も、申し訳ありません。あの、こちらのお代は返金しますので」
「そういう問題じゃないんだよ、金返せば良いと思ってんだろ」
バンッと、カウンターを叩かれて肩が大きく跳ねた。何を考えているのか分からない瞳で男が見下ろしてくる。怖い。ここで泣いてはいけないと思っているのに、段々と目頭が熱くなっていく。震え始めた手を抑えるためにぎゅうっと握り込んで、手のひらに突き刺さる爪の痛みでなんとか耐えていた。
「なあ、泣いたら済むと思ってんの?」
バンッ、バンッとカウンターが何度も叩かれて、コーヒーがびちゃびちゃと飛び散っていく。張り詰めていく空気に呼吸が苦しくなって、頭が回らない。怖い。苦しい。ダンッ!と一際大きな音がして、反射的に目を瞑った。誰か、誰でもいいから、誰か──
「何をしている」
突然響いた第三者の声に、弾けるように目を開けた。鯉登さんと月島さんが、いつの間にか店の中に入って来ていた。
「……何をしているのかと聞いている」
カウンター前の男へ向けた声は低く、眼光も鋭い。鯉登さんとは思えない威圧感がビリビリと店内の空気を揺らしていた。さっきまでの威勢の良さはどこに行ってしまったのか、男が「いや……その……」と下を向きながらモゴモゴと何かを言っているのが聞こえてくる。コツコツと革靴の音を立てて二人が近づいてきたら、ついに男が脱兎のごとく店を飛び出した。
「月島」
「はい」
閉じかけていたドアをするりと通り抜けて、まるで猟犬のように月島さんが男を追っていった。鯉登さんがそれを見届けてからこちらへと向かってきた。
「あ、ありがとう、ございました……あっ、サービス、します!何が良いですか?なんでも良いです、月島さんはいつもので良いですよね」
「ナマエ」
「すみません鯉登さんと月島さんに迷惑かけちゃって。あとでオーナーに連絡して誰か来てもら──」
「ナマエっ!」
男が置いて行ったコーヒーを片付けようと伸ばした手を握られて、ハッと顔を上げた。私の震えを止めるように、鯉登さんの大きな手が私の手を強く握り込んでくる。顔を上げたら、心配そうに揺れる瞳が私を見つめていた。
「無理をするな」
握られた手から鯉登さんの温かさが流れ込んできて、ぶわっと涙が一瞬で溢れ出た。とめどなく溢れ続ける涙で歪んだ世界で、鯉登さんがワタワタと慌てているのだけは分かったけど、この涙の止め方を私は知らない。鯉登さんが何度か後ろを振り返っては私を見てを繰り返して、悩んだ末に大股で出入口へと向かっていった。一人にされるのかと思って咄嗟に呼び止めようとしたら、看板をCLOSEDにひっくり返してまたすぐにズンズンと戻ってきた。
「もっと早く来られなくてすまなかった」
「こいと、さっ……」
鯉登さんがカウンターの中にまで入ってきて、ぷつりと音がするように張り詰めていた緊張の糸が切れた。腰が抜けて床に座り込んだ私を鯉登さんが追いかけてきて、綺麗なスーツで床に膝をついた。一応毎日掃除をしているとはいえ高級そうなスーツを汚してしまうのではないかと気が気でないのに、鯉登さんは構わず私の背中をさすりながら「もう大丈夫だ」と繰り返している。ピシッと折られたハンカチが目元に当てられて、涙が吸われていく。
「ごめ、んなさい……っ、わたし……」
「謝るな。ナマエは悪くない」
「でも……」
「いい。私にできることはあるか」
背中に添えられた手が温かくて、離れがたかった。ハンカチを自分で目に押し付けながら、顔が見えないのを良いことに思ったままのことを吐き出した。
「すこしだけ、いっしょにいてもらっても、いいですか……」
「少しだけとは言わずずっとでも良い」
「ずっとって……」
お仕事もあるのに、と笑ったつもりが痰や鼻水が詰まって変な掠れた吐息しか出てこなかった。
「私はナマエとなら死ぬまで一緒に居たいと思っている」
そういうことを今言わないでほしい。ただでさえ感情が不安定なのに、鯉登さんの言葉でまた心が乱されていく。さっきとは違う感情でじわっとまた涙がハンカチを濡らした。
床に座り込んだままなのに、文句の一つも言わずに鯉登さんは私が落ち着くまで一緒に居てくれた。カウンターの裏、二人だけの小さな世界は温かくて、心地良くて、本当にずっとこのまま居られれば良いのにと思ってしまった。涙も鼻水も引いた頃、酷い顔を晒していたことに気づいて、もう手遅れなのに俯きがちにお礼を言った。
「ごめんなさい、あの……もう大丈夫です、すみません……」
「気にするな」
「えっと……良かったら飲み物か何かいかがですか?」
今の私にできるお礼なんてそれくらいしかない。それなのに「いや、いい」と断ってきた鯉登さんが私の手を取って立ち上がった。
「それよりも監視カメラの映像が欲しい」
私たちの頭上にあるカメラへと視線をやりながら鯉登さんが言ったが、上手く咀嚼できなかった。
「えっ……?カメラの……?何に使うつもりなんですか」
「……何にも使わないが欲しい」
絶対嘘だ。わざとらしく視線を逸らしながら返事をした鯉登さんは、どう見ても嘘をついている。警察にでも持っていくつもりだろうか。でもそれだったら普通、私が被害届と一緒に出すのでは……?そもそもそんなに大事にしたくないから被害届なんて出すつもりはないのだけど。
「念のため、監視カメラの映像がほしい」
「えぇ……??」
念のためってなんのため?用途が分からないので何度か断ったものの、結局鯉登さんの押しに負けてデータを渡してしまった。
この一件以来、あの男はパッタリと店に来なくなった。監視カメラの映像が何に使われたのか、あの男はどうなったのか、私が知る由はなかった。
「あの野郎また来たりするかな」
「それなら大丈夫だ」
「はあ?なんでそんな言い切れるんだよ」
「二度と来られないようにした」
「やだぁ、鯉登郵船こわぁい」
あとがき
2025.09.02
最初はちょっと感じが悪い普通のお客さんだと思っていた。中肉中背で見た目も小綺麗で、ほかのサラリーマンと大差ないその人は、初めて来店した時に普段利用している決済方法がうちで利用できないことにイラついていた。それなりに強い口調で非難され、頭を下げた際、カウンターの上に置かれていた左手が目に入った。薬指には指輪が光っていて、こんな人でも結婚しているんだなと意外に思ったものだった。
その後もメニューに新規性がないだとか、毎回小言や文句を言いながら何故かうちに通ってくるのだから、最近はいつあの人が来るのか気が気でなくて憂鬱だった。そんなに文句があるのなら来なければ良いのに、どうしてあの人はうちに通い続けるのだろう。接客業をしているからにはこういったことはいつか起きるだろうと思っていたけど、この辺りはオフィス街、しかも名だたる企業がひしめき合っているエリアだけあって、客層もそれなりに良い。だから所謂クレーマーというような面倒なお客さんに私はまだ出会っていなかった。しかしその運もついに尽きてしまったらしい。
「はぁ……」
「大丈夫?最近元気ないよね」
「あっ!すみません杉元さん……!」
無意識のうちについていた重い溜息に気がついて、慌てて吐き出した分を取り戻すように大きく息を吸った。数坪の狭い店内は溜息ですぐに埋まってしまう。気を付けないと、と気を引き締めながらホイップをたっぷりと絞ったアイスココアを杉元さんへと手渡した。
「何かあった?あ、鯉登が何かしたとか?」
「いえ、鯉登さんは関係ないです。ただ……」
そこまで言って、こんなことを杉元さんに話して良いのかとブレーキがかかった。ほかのお客さんの愚痴なんて聞いても良い気分はしないだろう。でも溜息を量産するほどに心が蝕まれつつあるので、少し相談してみたい。チラッと顔色を伺ってみれば、杉元さんは受け取ったアイスココアに口をつけることなく私の次の言葉を待ってくれていた。少しの沈黙の後、話す決心がついて再度口を開いた。
「……最近、変なお客さんがいるんです」
「変なって、どんな?」
「決済方法増やせとか、メニューに新規性がないとか、照明器具が良くないとか……毎回何かしら要求とか小言を言ってくるんです……」
「うわ何そいつ、クレーマー?」
杉元さんが言い終わったとほぼ同時に、カランカランとドアベルが鳴った。噂をすれば、というところだろうか。今まさに話していた面倒なお客さんが入ってきて、ズクッと強く心臓が痛んだ。
「……い、らっしゃいませ」
普段通りの対応を心掛けていたのに、思っていたよりも緊張が滲み出た声になってしまった。杉元さんが壁際に避け、「この人?」と口パクで聞いてきたのでこっそりと頷いた。
「……ブレンド」
「はい、ブレンドコーヒーですね」
今日は何を言われるのだろう。ズズッとたまに杉元さんがアイスココアを啜る音が響く中、緊張しながら会計を済ませ注文の品を用意したのに、男は一言も話さずに退店してしまった。何も言われなかったのは良いことなのに、いつものねちっこさからは考えられないその呆気なさに拍子抜けしてしまった。
「今のが例のクレーマー?」
「そうなんです、けど……」
「何も言わなかったね」
きっと杉元さんが居たから。待っている間、男は時折壁際の方を気にしていた。いつもはもっと横柄な態度でカウンターに凭れかかったり、買わない焼き菓子をベタベタと触って待っているのに。もちろん、既に商品を受け取っている杉元さんが何故店内に居座り続けているのかという疑問もあっただろうけど、それにしては委縮しているように見えた。つまり、あの男は相手や状況を選んでわざと嫌な態度を取っているのだと分かって、怒りと悲しみと恐怖が混ざった感情が渦巻いた。
「……最低だな」
出入り口の方を睨みつけ、ぽつりと杉元さんが呟いた。
「大体なんだよ『……ブレンド』って、ブレンドコーヒーひとつお願いしますだろうが!」
「まあ、そういう人も居ますよ」
「あークソっ、腹立ってきた。テメェの頭をブレンドしてやろうか」
「落ち着いて」
グルグルと威嚇する大型犬のように怒る杉元さんを見て、私の中の気持ちが少しだけ軽くなっていく。まるで自分のことのように怒ってくれるのが嬉しかった。
「アイツまた来るかもしれないしさ、ヘルプで誰かに来てもらうとか、代わりの人に頼んだりとかできないの?」
「ええっと、オーナーに話してみないと分からなくて……」
「そっか。俺もなるべく来るようにするし、何かあったらすぐ連絡して」
「すみません、ありがとうございます」
気を付けてね、と最後まで心配そうな顔をしながら杉元さんが仕事へと戻っていった。
それから暫く、あの男は来なかった。たまたまかもしれないけど、店の顧客に杉元さんのような屈強な男性がいるというのが抑止力になったのでは、となんとなく思っていた。杉元さんはとても乙女チックで可愛らしい人だけど、シャツの上からでも分かる筋肉質な体や、顔に走った傷のせいで中々に近づきがたい風貌をしている。「テメェの頭をブレンドしてやろうか」なんて実際に面と向かって言われたら、キュッと縮み上がってガタガタと震えてしまうだろう。
念のためオーナーにも話をしておいて、いつでも応援を呼べるようにしてもらったけど、もうその必要もないかもしれない──と油断していたのがまずかった。
「これ、前もっと入ってたよね?今日少ないんだけど」
「容量は以前と変わっていないはずですが……」
「何?俺が間違ってるって言うの?」
久々に来店した男が、苛立ちながらホットドリンク用の紙コップの中身を指さした。上から数センチを残してコーヒーが注がれている。適量だ。自動で規定量が注がれるようにしているから変わりようがないし、私が手動で注ぐよりも正確な分量で販売しているのに、さっきから少ないと主張されて困っていた。暫く来店していない間に怒りのゲージが溜まったのか、今までよりも明らかに攻撃性が増した態度で、先ほどから鳩尾の辺りが捻じれるように痛かった。
「よ、よろしければ追加でお好みの分量をお注ぎしましょうか」
釈然としないが、一刻も早く帰ってもらうためにここは下手に出た方が良い。そう思って提案したら、はあ……と酷く呆れかえった顔が返ってきた。
「当たり前だろ。で、足りなかった分は何か貰えないの?」
「えっと……何かっていうのは……」
「はあ?それくらい自分で考えろよ!」
強い口調に動悸が激しくなっていく。呼吸も浅くなって、満足に酸素が身体に行き渡らない。
「も、申し訳ありません。あの、こちらのお代は返金しますので」
「そういう問題じゃないんだよ、金返せば良いと思ってんだろ」
バンッと、カウンターを叩かれて肩が大きく跳ねた。何を考えているのか分からない瞳で男が見下ろしてくる。怖い。ここで泣いてはいけないと思っているのに、段々と目頭が熱くなっていく。震え始めた手を抑えるためにぎゅうっと握り込んで、手のひらに突き刺さる爪の痛みでなんとか耐えていた。
「なあ、泣いたら済むと思ってんの?」
バンッ、バンッとカウンターが何度も叩かれて、コーヒーがびちゃびちゃと飛び散っていく。張り詰めていく空気に呼吸が苦しくなって、頭が回らない。怖い。苦しい。ダンッ!と一際大きな音がして、反射的に目を瞑った。誰か、誰でもいいから、誰か──
「何をしている」
突然響いた第三者の声に、弾けるように目を開けた。鯉登さんと月島さんが、いつの間にか店の中に入って来ていた。
「……何をしているのかと聞いている」
カウンター前の男へ向けた声は低く、眼光も鋭い。鯉登さんとは思えない威圧感がビリビリと店内の空気を揺らしていた。さっきまでの威勢の良さはどこに行ってしまったのか、男が「いや……その……」と下を向きながらモゴモゴと何かを言っているのが聞こえてくる。コツコツと革靴の音を立てて二人が近づいてきたら、ついに男が脱兎のごとく店を飛び出した。
「月島」
「はい」
閉じかけていたドアをするりと通り抜けて、まるで猟犬のように月島さんが男を追っていった。鯉登さんがそれを見届けてからこちらへと向かってきた。
「あ、ありがとう、ございました……あっ、サービス、します!何が良いですか?なんでも良いです、月島さんはいつもので良いですよね」
「ナマエ」
「すみません鯉登さんと月島さんに迷惑かけちゃって。あとでオーナーに連絡して誰か来てもら──」
「ナマエっ!」
男が置いて行ったコーヒーを片付けようと伸ばした手を握られて、ハッと顔を上げた。私の震えを止めるように、鯉登さんの大きな手が私の手を強く握り込んでくる。顔を上げたら、心配そうに揺れる瞳が私を見つめていた。
「無理をするな」
握られた手から鯉登さんの温かさが流れ込んできて、ぶわっと涙が一瞬で溢れ出た。とめどなく溢れ続ける涙で歪んだ世界で、鯉登さんがワタワタと慌てているのだけは分かったけど、この涙の止め方を私は知らない。鯉登さんが何度か後ろを振り返っては私を見てを繰り返して、悩んだ末に大股で出入口へと向かっていった。一人にされるのかと思って咄嗟に呼び止めようとしたら、看板をCLOSEDにひっくり返してまたすぐにズンズンと戻ってきた。
「もっと早く来られなくてすまなかった」
「こいと、さっ……」
鯉登さんがカウンターの中にまで入ってきて、ぷつりと音がするように張り詰めていた緊張の糸が切れた。腰が抜けて床に座り込んだ私を鯉登さんが追いかけてきて、綺麗なスーツで床に膝をついた。一応毎日掃除をしているとはいえ高級そうなスーツを汚してしまうのではないかと気が気でないのに、鯉登さんは構わず私の背中をさすりながら「もう大丈夫だ」と繰り返している。ピシッと折られたハンカチが目元に当てられて、涙が吸われていく。
「ごめ、んなさい……っ、わたし……」
「謝るな。ナマエは悪くない」
「でも……」
「いい。私にできることはあるか」
背中に添えられた手が温かくて、離れがたかった。ハンカチを自分で目に押し付けながら、顔が見えないのを良いことに思ったままのことを吐き出した。
「すこしだけ、いっしょにいてもらっても、いいですか……」
「少しだけとは言わずずっとでも良い」
「ずっとって……」
お仕事もあるのに、と笑ったつもりが痰や鼻水が詰まって変な掠れた吐息しか出てこなかった。
「私はナマエとなら死ぬまで一緒に居たいと思っている」
そういうことを今言わないでほしい。ただでさえ感情が不安定なのに、鯉登さんの言葉でまた心が乱されていく。さっきとは違う感情でじわっとまた涙がハンカチを濡らした。
床に座り込んだままなのに、文句の一つも言わずに鯉登さんは私が落ち着くまで一緒に居てくれた。カウンターの裏、二人だけの小さな世界は温かくて、心地良くて、本当にずっとこのまま居られれば良いのにと思ってしまった。涙も鼻水も引いた頃、酷い顔を晒していたことに気づいて、もう手遅れなのに俯きがちにお礼を言った。
「ごめんなさい、あの……もう大丈夫です、すみません……」
「気にするな」
「えっと……良かったら飲み物か何かいかがですか?」
今の私にできるお礼なんてそれくらいしかない。それなのに「いや、いい」と断ってきた鯉登さんが私の手を取って立ち上がった。
「それよりも監視カメラの映像が欲しい」
私たちの頭上にあるカメラへと視線をやりながら鯉登さんが言ったが、上手く咀嚼できなかった。
「えっ……?カメラの……?何に使うつもりなんですか」
「……何にも使わないが欲しい」
絶対嘘だ。わざとらしく視線を逸らしながら返事をした鯉登さんは、どう見ても嘘をついている。警察にでも持っていくつもりだろうか。でもそれだったら普通、私が被害届と一緒に出すのでは……?そもそもそんなに大事にしたくないから被害届なんて出すつもりはないのだけど。
「念のため、監視カメラの映像がほしい」
「えぇ……??」
念のためってなんのため?用途が分からないので何度か断ったものの、結局鯉登さんの押しに負けてデータを渡してしまった。
この一件以来、あの男はパッタリと店に来なくなった。監視カメラの映像が何に使われたのか、あの男はどうなったのか、私が知る由はなかった。
「あの野郎また来たりするかな」
「それなら大丈夫だ」
「はあ?なんでそんな言い切れるんだよ」
「二度と来られないようにした」
「やだぁ、鯉登郵船こわぁい」
あとがき
実は変な客に絡まれるネタは本編でやろうかなと思っていたのですが、中々上手くまとめられなくてお蔵入りになっていたので、リクエストを受けた際に「やっぱりこのネタ見たいよね?!」と小躍りしました。みんな俺と同じなのか~!嬉しい~!!今回無事に書き終えることができて良かったです。
きっとあのクレーマー野郎は月島さんに袋小路に追い詰められて死を覚悟したことでしょう…どこまでも追いかけて来る月島さん(ムキムキスーツ姿)絶対怖い。
とみどん様、この度はリクエストありがとうございましたー!!
きっとあのクレーマー野郎は月島さんに袋小路に追い詰められて死を覚悟したことでしょう…どこまでも追いかけて来る月島さん(ムキムキスーツ姿)絶対怖い。
とみどん様、この度はリクエストありがとうございましたー!!
2025.09.02
