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「春だねぇ」
グイっとお猪口を傾けながら右隣の門倉さんが呟いた。奥のマンスールさんも静かにお酒を飲み進めている。二人の視線は上の方、頭上から大きく延びる満開の桜へと注がれていた。そう、季節はまさに春である。ぽかぽかとした陽気が続き、初々しい緑が芽吹き、色とりどりの花がぽつぽつと顔を覗かせ始めたと思ったら、あたり一面銀世界だったのが嘘のように景色があっという間に色を取り戻していった。今日はようやく訪れた春を満喫しようと仕事はそこそこにして、コタンのみんなと軽食とお酒を持ち寄って、近くの桜の群生地でお花見をしていた。
「もうアイツに言ったのか?」
「何をですか?」
「夏太郎の牧場手伝いに行くって話」
「あー……」
返す言葉がすぐに見つからなくて、私もお猪口に口をつけた。色々ありすぎた金塊争奪戦が終わったあとのこの一年間、特に行く当てがなかった門倉さんとマンスールさんと私は、三人一緒にキラウシさんのコタンにお世話になっていた。蝗害の被害からコタンを立て直すためにも人手があった方が嬉しいという言葉に三人とも甘えてしまった形だ。
土方さんからもらっていたお給料に加えて日雇い労働などでもお金を稼ぎ、チセを直し、食料を蓄え、どうにか厳しい冬を迎える前に蝗害の被害からコタンを立て直すことができた。コタンがすっかり元通りになったことは喜ばしいことだけど、それは同時にもう私がいる意味がないということで。元々ただの料理番として土方さんに雇われていた身なので、私ができることと言えば日雇いで少しばかりのお金を稼いだり、ご飯を作ったり、チセの手入れや掃除をしたり、下手な刺繍をしたりと限られている。ここはとても居心地が良かったけれど、部外者の私がずっと居座るのも何だか違う気がして。そろそろここを出ていかなければ、と思っていた矢先に夏太郎君から牧場を始めるという手紙をもらったので、今度はそっちに住み込みで働かせてもらうつもりだと門倉さんとマンスールさんには伝えていたのだけれど、キラウシさんにだけは中々切り出すことができないでいた。
「なんだか……言い出しづらくて……」
「別にまだここに居たって良いんじゃないの?出てけって言われてから出ていけばいいんだよこういうのは」
「うーん……でも……」
「アイツは喜ぶと思うけどね、ナマエちゃんが居てくれるなら」
そうですかねぇ、と少し離れた所でキャッキャッと楽しそうな声を上げながら子供たちと何かを追いかけているキラウシさんへと視線を移した。さっきまで日本酒とトノトの両方を飲んでいたから、ふらふらしながらあっちこっち行っている姿は今にも転んでしまいそうで冷や冷やしてしまう。
ずっとここに居ていい。そう言われたこともあるけど、その言葉を真に受けられるほど私は子供ではないし、門倉さんほど図太くはない。それに、自分の中で日に日に大きく、輪郭を伴っていくキラウシさんへの気持ちに気づいてしまってからは、取り返しがつかなくなる前に距離を取った方が良いと思うようにもなってきた。旅をしている時はそれどころではなかったけれど、コタンで一緒に過ごしていくうちにいつの間にか隣にいるのが当たり前になっていた。「ナマエ」といつも朗らかに私のことを呼んでくれる声も、キラキラと輝く大きな瞳も、今ならまだ大切な一つの思い出としてしまっておくことが出来るはずだ。時間が経てば経つほど、別れる時の傷が深くなってしまう。今が引き際なのだと自分に言い聞かせながら、春の陽気の中子供たちと戯れるキラウシさんを眺め続けた。
「捕まえたぞ!」
酔いが回って加減が分かってないのか、いつもよりも大きな声でキラウシさんが叫んだ。その両手はぴったりと重なっていて、中に何かが入っているようだった。「すごい!」「やったね!」と子供たちがわらわらとキラウシさんに群がっていく。一体何を掴まえたんだろうと観察していると、急にパッとキラウシさんが顔を上げ視線が交わり、持っていたお猪口が震えて水面が揺れた。
「ナマエ!」
手の中に何かを閉じ込めたまま、懐っこい笑顔のキラウシさんがドタドタとこちらへと駆け寄ってきた。
「そんなに走らないでください、酔ってるんですから危ないですよ」
「見せたいものがあるんだ」
片膝をついて差し出された両手がゆっくりと開いていく。見せたいものって、今捕まえたもの?えっ、まさか虫?!森が近いコタンでの暮らしをするうちに徐々に慣れてきたとはいえ、こんな至近距離で虫を見せられるのはいくらなんでも無理かもしれない。ひぃいっと恐怖に震えながら隣の門倉さんを楯にしようとした時、開いた手の中から現れたのは一枚の桜の花びらだった。
「やる」
ニッと笑って、手のひらを傾けてきたのでちゃんと受け取れるように慌てて私もお猪口を置いて両手を伸ばした。はらりと重力に従って私の手の中に落ちてきたのは、汚れひとつない綺麗な花びらだ。花の中心に繋がっていた一か所だけポッと薄紅色に色づいて、切れ目の入った先端に行くにつれて淡く、白くなっていく。これだけで春を十分に感じられるひとひらだった。
「さっき飛んでたのを捕まえたんだ」
お酒が入っていつもよりも無邪気にニコニコと笑うキラウシさんにつられて、私も頬が緩んでいく。
「飛んでるのを捕まえると願いが叶うらしい。子供達が言ってた」
「いいんですか、私が貰っちゃっても?」
「ああ、ナマエに渡したくて捕まえた」
「あ、りがとう、ございます……」
ニコニコ。ニコニコ。桜色の頬で私を見つめてくるキラウシさんはとても嬉しそうで、直視できなくて手のひらの花びらへと目を落とした。舞っている桜の花びらを捕まえると願いが叶うというのは初めて聞いた。春の空と風だけを知る美しいこのひとひらに、キラウシさんはどんな願いを込めたのだろう。
「キラウシさんは何をお願いしたんですか?」
「……秘密だ」
さっきよりも幾分か小さな、落ち着いた声だった。ちらっと盗み見れば、キラウシさんも私と同様に花びらを見つめているようだった。
「ナマエだったら何を願うんだ?」
「うーん……ありきたりですけど、このまま皆さんが平穏に暮らせますように、ですかね」
「俺は久々にイカが食べたいな、刺身で」
「門倉には聞いてない」
どけ門倉、と門倉さんを強引に押しのけて、キラウシさんが私の隣へと腰を下ろした。必然的にその隣にいたマンスールさんも押しのけられて、二人して決して広くはないゴザの端っこに追いやられていく。人一人分もない空間に無理矢理割り込んできたので、肩と腕が触れ合うほどに近い。キラウシさんのこうやって距離感が近すぎる所にいつもドキドキさせられてしまう。危ないからと山道や森を歩くときはいつも手を取られるし、下手なりに針仕事をしていると体が触れ合うくらい近くから手元を覗き込んでくる。夕飯の味見をしてほしいと言えば「あ」と口を開けて待っていたこともあった。末っ子らしく気ままな言動は可愛いらしいのに、たまに触れる体はゴツゴツと男らしくて毎回どきりと大きく心臓が跳ねてしまう。そして最近自分の気持ちを認識してからは、キラウシさんの自由奔放な言動に私の心臓はいつ爆発してもおかしくないくらいに負荷がかかっていた。
「ったく、もっと年上を敬えってんだ」
「無駄に尻の穴ほじってた奴の何を敬うんだ」
居場所を追われた門倉さんたちが私たちの背後へと移動したことで、キラウシさんが少しだけ私から離れてくれたけど、未だに距離が近い。もう少し距離を取るため、崩していた足に力を入れた時、目の前を白い影がサッと通り過ぎて桜の花が丸ごとゴザの上に落ちて来た。
「あれ……?」
花が丸ごと落ちる椿とは違って桜は散るものだ。しかし何があったのか、花から枝へと繋がっていたはずの花柄が短くぷつっと切れてしまっていた。
「アマメチカッポだ」
「あま……?」
「アマメチカッポ」
ほら、と肩を引き寄せられながら指をさされた先には茶色い良く見知った小鳥がいた。スズメだ。よく見れば頭上には同じように何羽か点々と枝に止まっている。が、しかし、私はそれどころではなかった。近い。近すぎる。大きな手で触れられている左肩に、すぐそこにあるキラウシさんの顔に面した右頬に、すべての意識が持っていかれる。
「見えるか?」
至近距離でこちらを向いてきたキラウシさんに、いよいよ脈拍が増えて血液が勢いよく体を巡り始めた。視界の端でこちらを見ているキラウシさんはいつもと変わらないように見えるのに、私だけが変に意識しているのがバレてしまうのが怖くて、一度すうっと息を吸い、極力いつも通りに話せるようにと願いながらゆっくりと口を開いた。
「あっ、えっと、スズメですね。アマメチカッポって言うんですか」
「穀物 を食べる 小鳥 だ。でも今は蜜を吸ってる」
「本当だ」
咲いた桜の花の付け根を咥えて、少ししてからポイっと捨てて、また新しい花を毟って咥えている。その小さな体には桜の花も大きく見えて、顔が全部隠れてしまってとても可愛らしく見える。よく見れば地面にはそうやって捨てられたらしい花がいくつも落ちていた。桜をこんな風に味わうなんて、なんとも贅沢な鳥だ。
「そういえば桜ってアイヌ語でなんて言うんですか?」
「桜の木はカリンパニ、桜の皮 の木 という意味だ」
「皮?花じゃないんですか?」
桜と言ったらまず連想するのは花だろう。聞き間違えだったのではと思ってしまったが、皮なのだとキラウシさんが頷いた。
「アイヌは桜の皮をマキリとかイカヨ プとか弓に巻いて使う」
言いながら、キラウシさんが自身のマキリを取り出した。「俺のは使ってないけど、この鞘の部分に使うんだ」とお父さんから貰ったと言っていたマキリの鞘を指差した。鞘は一本の木をくり抜いて作ることもあれば、二枚に割った木を張り合わせて作ることもあるらしい。二枚から作る時、糊で接着したあとに剥がれないように桜の皮を巻くのだという。弓にもぐるぐる巻いて、良くしなって折れないように強度を上げる大切な役割を持っているのだとか。
「俺たちの日常生活に欠かせないから、花よりも皮の方が重要なんだ」
「じゃあ花より団子ならぬ皮ですね」
「団子も好きだ」
マキリをしまいながらキラウシさんがははっと笑った。
「でも、俺は……」
ふと笑顔が消えて、キラウシさんが私を見てきた。「俺は……」「その……」と目を泳がせがらごにょごにょ口ごもっているのが珍しくて、不思議に思いながら続きを待った。
「か、カリンパニよりも、団子よりも、俺は──」
真剣に何かを伝えようとしてくるキラウシさんを見つめていたら、ぽとっと何か軽い物が頭の上に落ちてきた気がした。雨?と思わず見上げてしまったけれど、頭上は満開の桜で埋め尽くされていて、その隙間からは相変わらず青々とした空が覗いていた。
「花だ」
キラウシさんの言葉と目線でスズメが落とした桜が私の頭のてっぺんに落ちて来たのだと理解した。
「可愛いな」
目じりに小じわを寄せてくしゃっと笑ったキラウシさんのまばゆい笑顔に、忘れかけていた熱がぶりかえしてきて、隠しきれないほどに頬が火照っていく。
「ヌフレ ヌレタラ ワ シレトッコロ」
「えっと……?」
「なんでもない」
私の頭上へと伸びた手が桜の花を摘んで、花びらと同じように大事そうに私の手のひらへと乗せてきた。
「あ、ごめんなさい。何の話でしたっけ?」
「……桜の皮は水に浸してから鞘に巻く。乾くとギュッと締まって、二つの板がずっと離れなくなるんだ」
「へぇ、そんな性質が。すごいですね」
そんな話をしていたっけ?ふと疑問が浮かんだけれど、いつか役に立つかもしれないアイヌの知恵を頭の引き出しにしまった。
「だから、その……ずっと……」
ずっと、とキラウシさんがゆっくりとまた同じ言葉を繰り返したが、そのあとが続かずに沈黙が訪れた。お酒が入っているから?でもいつもの酔い方とも少し違う。いつもはもっと陽気になる人だ。どうしたのだろうとキラウシさんを伺っても、その目は私の手のひらを見つめていて、唇はきゅっと固く結ばれてしまっていた。
「……なるほどねぇ、つまりそれくらいずっと一緒に居て欲しいってことか」
「えっ?」
「門倉ッ!!」
キラウシさんがバッと勢いよく背中合わせに座っていた門倉さんへと振り返った。顔は見えないけれど、そのアイヌらしい大きく分厚い耳は真っ赤になっている。
「お前がうだうだしてるから助けてやったんだろうが。貧乏な上に意気地もないのはどうかと思うね俺は」
「お、俺には俺の都合があるんだっ」
「一年もあったくせに何言ってんだ、ただ振られるのが怖くて言い出せなかっただけだろ」
ずっと一緒に居て欲しい?振られるのが怖い?言われたことが上手く飲み込めないうちにキラウシさんと門倉さんがいつものように言い争いを始めたせいで、余計に私の混乱は深まっていく。
「ナマエちゃん、夏太郎の牧場手伝いに近々ここを出て行くんだとよ」
「え……えっ?!」
元々大きな瞳をまん丸にして、キラウシさんが今度は私の方へと勢いよく振り返ってきた。「何でだ、ここで嫌なことでもあったか?!」と私の両肩をガシッと力強く掴んで来たので、慌ててぶんぶんと首を大きく横に振って否定した。
「まさか、そんなことはないです!でもずっとここにはいられないし……夏太郎君はこれから色々大変だし、力仕事だし、せめてご飯だけはちゃんと食べてもらいたいなって……」
「待ってくれ、ずっとここには居られないってどういうことだ?」
「だって、私、アイヌじゃないし……ずっとお世話になるのは迷惑だと思うから……」
「そんなこと気にしなくて良い」
元々強めに掴まれていた肩にさらに力が込められて少し痛いくらいだった。こんな風に触れられることも、こんなに焦っているキラウシさんを見るのも初めてで、混乱と驚きで門倉さんに助けを求めようとしても肩をがっしりと掴まれていて体が思うように動かせない。
「ずっとここに居て良いって言ったはずだ」
「でも……」
「俺はナマエにずっと居て欲しい」
「ずっとって、そんなこ……っ?!」
話している最中に体が大きく揺れて、危うく舌を噛みそうになった。視界の端で手の中から花がこぼれ落ち、あっと思った時には体がキラウシさんにぶつかっていた。全身が、キラウシさんの温もりに包まれている。背中には逞しい腕がしっかりと回されているようだった。抱き込まれすぎて、もう上半身は接していない面がないのではというくらいに体が密着していて、慌てて手のひらでぐいぐいと硬い胸板を押し返した。
「き、キラウシさん離し──」
「ナマエが好きだ」
どこにも行かないでくれ。耳元で聞こえた声はいつもよりも掠れて、不安定だった。周りにいるはずのみんなの声も、鳥の囀りも、木々のざわめきも、何も聞こえない。まるで世界に私たちだけになってしまったように静まり返っていた。聞こえてくるのは私とキラウシさんのが合わさったバクバクと轟く特大の心音だけだ。
好き?キラウシさんが、私を……?
ようやくこの状況を咀嚼できた所で現実が一気に襲い掛かってきた。喜びと恥ずかしさと緊張にドッと冷や汗が噴き出て、鳥肌が立っていく。聞いたことのない音を立てながら激しく収縮し続ける自分の心臓に、耐えられるほどの負荷をとうに超えていることを察した。このままだと心臓が木っ端微塵になって死んでしまう。どうにか窮屈な腕の中から逃げ出そうともがき続けていると、大きな手のひらが背中を滑り、キラウシさんが一層強く私のことを抱き込んできた。
「く、くるし、きらうしさっ……!」
「俺の願いは、これから先もナマエが一緒に居てくれることだ」
さっき手からこぼれ落ちてしまったあの花びらが脳裏に浮かんだ。きっともう他の花びらと一緒に地面に落ちて、見分けがつかなくなってしまっている。あれは、私と一緒にいたいと願いながら捕まえてくれたひとひらだったのだ。
「かっ、考えておいてくれ!」
今までぎゅうぎゅうに抱きしめられていたのが嘘のように、キラウシさんが一瞬で離れていき、さっきよりもしっかりとした足取りで駆けていった。桜の花びらを巻き上げ、春の嵐のように去っていった後ろ姿を呆然と見つめていると、周りのみんなの視線がキラウシさんと私と、半々に注がれていることに気がついた。全部、見られていた。もうこれ以上赤くなることはないと思っていたのに、また耳まで燃えるように熱くなっていく。ジンジンと痛痒くなってきた耳に「キラウシニシパ願い叶った?」「まだ分からない」と遠くから子供達とキラウシさんの声が届き、顔を両手で覆った。
「あーあ、春だねぇ」
さっきよりも楽しそうな門倉さんの声が、背後から聞こえてきた。
──
ヌフレ ヌレタラ ワ シレトッコロ 桜色の美しい人
あとがき
2025.04.13
グイっとお猪口を傾けながら右隣の門倉さんが呟いた。奥のマンスールさんも静かにお酒を飲み進めている。二人の視線は上の方、頭上から大きく延びる満開の桜へと注がれていた。そう、季節はまさに春である。ぽかぽかとした陽気が続き、初々しい緑が芽吹き、色とりどりの花がぽつぽつと顔を覗かせ始めたと思ったら、あたり一面銀世界だったのが嘘のように景色があっという間に色を取り戻していった。今日はようやく訪れた春を満喫しようと仕事はそこそこにして、コタンのみんなと軽食とお酒を持ち寄って、近くの桜の群生地でお花見をしていた。
「もうアイツに言ったのか?」
「何をですか?」
「夏太郎の牧場手伝いに行くって話」
「あー……」
返す言葉がすぐに見つからなくて、私もお猪口に口をつけた。色々ありすぎた金塊争奪戦が終わったあとのこの一年間、特に行く当てがなかった門倉さんとマンスールさんと私は、三人一緒にキラウシさんのコタンにお世話になっていた。蝗害の被害からコタンを立て直すためにも人手があった方が嬉しいという言葉に三人とも甘えてしまった形だ。
土方さんからもらっていたお給料に加えて日雇い労働などでもお金を稼ぎ、チセを直し、食料を蓄え、どうにか厳しい冬を迎える前に蝗害の被害からコタンを立て直すことができた。コタンがすっかり元通りになったことは喜ばしいことだけど、それは同時にもう私がいる意味がないということで。元々ただの料理番として土方さんに雇われていた身なので、私ができることと言えば日雇いで少しばかりのお金を稼いだり、ご飯を作ったり、チセの手入れや掃除をしたり、下手な刺繍をしたりと限られている。ここはとても居心地が良かったけれど、部外者の私がずっと居座るのも何だか違う気がして。そろそろここを出ていかなければ、と思っていた矢先に夏太郎君から牧場を始めるという手紙をもらったので、今度はそっちに住み込みで働かせてもらうつもりだと門倉さんとマンスールさんには伝えていたのだけれど、キラウシさんにだけは中々切り出すことができないでいた。
「なんだか……言い出しづらくて……」
「別にまだここに居たって良いんじゃないの?出てけって言われてから出ていけばいいんだよこういうのは」
「うーん……でも……」
「アイツは喜ぶと思うけどね、ナマエちゃんが居てくれるなら」
そうですかねぇ、と少し離れた所でキャッキャッと楽しそうな声を上げながら子供たちと何かを追いかけているキラウシさんへと視線を移した。さっきまで日本酒とトノトの両方を飲んでいたから、ふらふらしながらあっちこっち行っている姿は今にも転んでしまいそうで冷や冷やしてしまう。
ずっとここに居ていい。そう言われたこともあるけど、その言葉を真に受けられるほど私は子供ではないし、門倉さんほど図太くはない。それに、自分の中で日に日に大きく、輪郭を伴っていくキラウシさんへの気持ちに気づいてしまってからは、取り返しがつかなくなる前に距離を取った方が良いと思うようにもなってきた。旅をしている時はそれどころではなかったけれど、コタンで一緒に過ごしていくうちにいつの間にか隣にいるのが当たり前になっていた。「ナマエ」といつも朗らかに私のことを呼んでくれる声も、キラキラと輝く大きな瞳も、今ならまだ大切な一つの思い出としてしまっておくことが出来るはずだ。時間が経てば経つほど、別れる時の傷が深くなってしまう。今が引き際なのだと自分に言い聞かせながら、春の陽気の中子供たちと戯れるキラウシさんを眺め続けた。
「捕まえたぞ!」
酔いが回って加減が分かってないのか、いつもよりも大きな声でキラウシさんが叫んだ。その両手はぴったりと重なっていて、中に何かが入っているようだった。「すごい!」「やったね!」と子供たちがわらわらとキラウシさんに群がっていく。一体何を掴まえたんだろうと観察していると、急にパッとキラウシさんが顔を上げ視線が交わり、持っていたお猪口が震えて水面が揺れた。
「ナマエ!」
手の中に何かを閉じ込めたまま、懐っこい笑顔のキラウシさんがドタドタとこちらへと駆け寄ってきた。
「そんなに走らないでください、酔ってるんですから危ないですよ」
「見せたいものがあるんだ」
片膝をついて差し出された両手がゆっくりと開いていく。見せたいものって、今捕まえたもの?えっ、まさか虫?!森が近いコタンでの暮らしをするうちに徐々に慣れてきたとはいえ、こんな至近距離で虫を見せられるのはいくらなんでも無理かもしれない。ひぃいっと恐怖に震えながら隣の門倉さんを楯にしようとした時、開いた手の中から現れたのは一枚の桜の花びらだった。
「やる」
ニッと笑って、手のひらを傾けてきたのでちゃんと受け取れるように慌てて私もお猪口を置いて両手を伸ばした。はらりと重力に従って私の手の中に落ちてきたのは、汚れひとつない綺麗な花びらだ。花の中心に繋がっていた一か所だけポッと薄紅色に色づいて、切れ目の入った先端に行くにつれて淡く、白くなっていく。これだけで春を十分に感じられるひとひらだった。
「さっき飛んでたのを捕まえたんだ」
お酒が入っていつもよりも無邪気にニコニコと笑うキラウシさんにつられて、私も頬が緩んでいく。
「飛んでるのを捕まえると願いが叶うらしい。子供達が言ってた」
「いいんですか、私が貰っちゃっても?」
「ああ、ナマエに渡したくて捕まえた」
「あ、りがとう、ございます……」
ニコニコ。ニコニコ。桜色の頬で私を見つめてくるキラウシさんはとても嬉しそうで、直視できなくて手のひらの花びらへと目を落とした。舞っている桜の花びらを捕まえると願いが叶うというのは初めて聞いた。春の空と風だけを知る美しいこのひとひらに、キラウシさんはどんな願いを込めたのだろう。
「キラウシさんは何をお願いしたんですか?」
「……秘密だ」
さっきよりも幾分か小さな、落ち着いた声だった。ちらっと盗み見れば、キラウシさんも私と同様に花びらを見つめているようだった。
「ナマエだったら何を願うんだ?」
「うーん……ありきたりですけど、このまま皆さんが平穏に暮らせますように、ですかね」
「俺は久々にイカが食べたいな、刺身で」
「門倉には聞いてない」
どけ門倉、と門倉さんを強引に押しのけて、キラウシさんが私の隣へと腰を下ろした。必然的にその隣にいたマンスールさんも押しのけられて、二人して決して広くはないゴザの端っこに追いやられていく。人一人分もない空間に無理矢理割り込んできたので、肩と腕が触れ合うほどに近い。キラウシさんのこうやって距離感が近すぎる所にいつもドキドキさせられてしまう。危ないからと山道や森を歩くときはいつも手を取られるし、下手なりに針仕事をしていると体が触れ合うくらい近くから手元を覗き込んでくる。夕飯の味見をしてほしいと言えば「あ」と口を開けて待っていたこともあった。末っ子らしく気ままな言動は可愛いらしいのに、たまに触れる体はゴツゴツと男らしくて毎回どきりと大きく心臓が跳ねてしまう。そして最近自分の気持ちを認識してからは、キラウシさんの自由奔放な言動に私の心臓はいつ爆発してもおかしくないくらいに負荷がかかっていた。
「ったく、もっと年上を敬えってんだ」
「無駄に尻の穴ほじってた奴の何を敬うんだ」
居場所を追われた門倉さんたちが私たちの背後へと移動したことで、キラウシさんが少しだけ私から離れてくれたけど、未だに距離が近い。もう少し距離を取るため、崩していた足に力を入れた時、目の前を白い影がサッと通り過ぎて桜の花が丸ごとゴザの上に落ちて来た。
「あれ……?」
花が丸ごと落ちる椿とは違って桜は散るものだ。しかし何があったのか、花から枝へと繋がっていたはずの花柄が短くぷつっと切れてしまっていた。
「アマメチカッポだ」
「あま……?」
「アマメチカッポ」
ほら、と肩を引き寄せられながら指をさされた先には茶色い良く見知った小鳥がいた。スズメだ。よく見れば頭上には同じように何羽か点々と枝に止まっている。が、しかし、私はそれどころではなかった。近い。近すぎる。大きな手で触れられている左肩に、すぐそこにあるキラウシさんの顔に面した右頬に、すべての意識が持っていかれる。
「見えるか?」
至近距離でこちらを向いてきたキラウシさんに、いよいよ脈拍が増えて血液が勢いよく体を巡り始めた。視界の端でこちらを見ているキラウシさんはいつもと変わらないように見えるのに、私だけが変に意識しているのがバレてしまうのが怖くて、一度すうっと息を吸い、極力いつも通りに話せるようにと願いながらゆっくりと口を開いた。
「あっ、えっと、スズメですね。アマメチカッポって言うんですか」
「
「本当だ」
咲いた桜の花の付け根を咥えて、少ししてからポイっと捨てて、また新しい花を毟って咥えている。その小さな体には桜の花も大きく見えて、顔が全部隠れてしまってとても可愛らしく見える。よく見れば地面にはそうやって捨てられたらしい花がいくつも落ちていた。桜をこんな風に味わうなんて、なんとも贅沢な鳥だ。
「そういえば桜ってアイヌ語でなんて言うんですか?」
「桜の木はカリンパニ、
「皮?花じゃないんですか?」
桜と言ったらまず連想するのは花だろう。聞き間違えだったのではと思ってしまったが、皮なのだとキラウシさんが頷いた。
「アイヌは桜の皮をマキリとかイ
言いながら、キラウシさんが自身のマキリを取り出した。「俺のは使ってないけど、この鞘の部分に使うんだ」とお父さんから貰ったと言っていたマキリの鞘を指差した。鞘は一本の木をくり抜いて作ることもあれば、二枚に割った木を張り合わせて作ることもあるらしい。二枚から作る時、糊で接着したあとに剥がれないように桜の皮を巻くのだという。弓にもぐるぐる巻いて、良くしなって折れないように強度を上げる大切な役割を持っているのだとか。
「俺たちの日常生活に欠かせないから、花よりも皮の方が重要なんだ」
「じゃあ花より団子ならぬ皮ですね」
「団子も好きだ」
マキリをしまいながらキラウシさんがははっと笑った。
「でも、俺は……」
ふと笑顔が消えて、キラウシさんが私を見てきた。「俺は……」「その……」と目を泳がせがらごにょごにょ口ごもっているのが珍しくて、不思議に思いながら続きを待った。
「か、カリンパニよりも、団子よりも、俺は──」
真剣に何かを伝えようとしてくるキラウシさんを見つめていたら、ぽとっと何か軽い物が頭の上に落ちてきた気がした。雨?と思わず見上げてしまったけれど、頭上は満開の桜で埋め尽くされていて、その隙間からは相変わらず青々とした空が覗いていた。
「花だ」
キラウシさんの言葉と目線でスズメが落とした桜が私の頭のてっぺんに落ちて来たのだと理解した。
「可愛いな」
目じりに小じわを寄せてくしゃっと笑ったキラウシさんのまばゆい笑顔に、忘れかけていた熱がぶりかえしてきて、隠しきれないほどに頬が火照っていく。
「ヌフレ ヌレタラ ワ シレトッコロ」
「えっと……?」
「なんでもない」
私の頭上へと伸びた手が桜の花を摘んで、花びらと同じように大事そうに私の手のひらへと乗せてきた。
「あ、ごめんなさい。何の話でしたっけ?」
「……桜の皮は水に浸してから鞘に巻く。乾くとギュッと締まって、二つの板がずっと離れなくなるんだ」
「へぇ、そんな性質が。すごいですね」
そんな話をしていたっけ?ふと疑問が浮かんだけれど、いつか役に立つかもしれないアイヌの知恵を頭の引き出しにしまった。
「だから、その……ずっと……」
ずっと、とキラウシさんがゆっくりとまた同じ言葉を繰り返したが、そのあとが続かずに沈黙が訪れた。お酒が入っているから?でもいつもの酔い方とも少し違う。いつもはもっと陽気になる人だ。どうしたのだろうとキラウシさんを伺っても、その目は私の手のひらを見つめていて、唇はきゅっと固く結ばれてしまっていた。
「……なるほどねぇ、つまりそれくらいずっと一緒に居て欲しいってことか」
「えっ?」
「門倉ッ!!」
キラウシさんがバッと勢いよく背中合わせに座っていた門倉さんへと振り返った。顔は見えないけれど、そのアイヌらしい大きく分厚い耳は真っ赤になっている。
「お前がうだうだしてるから助けてやったんだろうが。貧乏な上に意気地もないのはどうかと思うね俺は」
「お、俺には俺の都合があるんだっ」
「一年もあったくせに何言ってんだ、ただ振られるのが怖くて言い出せなかっただけだろ」
ずっと一緒に居て欲しい?振られるのが怖い?言われたことが上手く飲み込めないうちにキラウシさんと門倉さんがいつものように言い争いを始めたせいで、余計に私の混乱は深まっていく。
「ナマエちゃん、夏太郎の牧場手伝いに近々ここを出て行くんだとよ」
「え……えっ?!」
元々大きな瞳をまん丸にして、キラウシさんが今度は私の方へと勢いよく振り返ってきた。「何でだ、ここで嫌なことでもあったか?!」と私の両肩をガシッと力強く掴んで来たので、慌ててぶんぶんと首を大きく横に振って否定した。
「まさか、そんなことはないです!でもずっとここにはいられないし……夏太郎君はこれから色々大変だし、力仕事だし、せめてご飯だけはちゃんと食べてもらいたいなって……」
「待ってくれ、ずっとここには居られないってどういうことだ?」
「だって、私、アイヌじゃないし……ずっとお世話になるのは迷惑だと思うから……」
「そんなこと気にしなくて良い」
元々強めに掴まれていた肩にさらに力が込められて少し痛いくらいだった。こんな風に触れられることも、こんなに焦っているキラウシさんを見るのも初めてで、混乱と驚きで門倉さんに助けを求めようとしても肩をがっしりと掴まれていて体が思うように動かせない。
「ずっとここに居て良いって言ったはずだ」
「でも……」
「俺はナマエにずっと居て欲しい」
「ずっとって、そんなこ……っ?!」
話している最中に体が大きく揺れて、危うく舌を噛みそうになった。視界の端で手の中から花がこぼれ落ち、あっと思った時には体がキラウシさんにぶつかっていた。全身が、キラウシさんの温もりに包まれている。背中には逞しい腕がしっかりと回されているようだった。抱き込まれすぎて、もう上半身は接していない面がないのではというくらいに体が密着していて、慌てて手のひらでぐいぐいと硬い胸板を押し返した。
「き、キラウシさん離し──」
「ナマエが好きだ」
どこにも行かないでくれ。耳元で聞こえた声はいつもよりも掠れて、不安定だった。周りにいるはずのみんなの声も、鳥の囀りも、木々のざわめきも、何も聞こえない。まるで世界に私たちだけになってしまったように静まり返っていた。聞こえてくるのは私とキラウシさんのが合わさったバクバクと轟く特大の心音だけだ。
好き?キラウシさんが、私を……?
ようやくこの状況を咀嚼できた所で現実が一気に襲い掛かってきた。喜びと恥ずかしさと緊張にドッと冷や汗が噴き出て、鳥肌が立っていく。聞いたことのない音を立てながら激しく収縮し続ける自分の心臓に、耐えられるほどの負荷をとうに超えていることを察した。このままだと心臓が木っ端微塵になって死んでしまう。どうにか窮屈な腕の中から逃げ出そうともがき続けていると、大きな手のひらが背中を滑り、キラウシさんが一層強く私のことを抱き込んできた。
「く、くるし、きらうしさっ……!」
「俺の願いは、これから先もナマエが一緒に居てくれることだ」
さっき手からこぼれ落ちてしまったあの花びらが脳裏に浮かんだ。きっともう他の花びらと一緒に地面に落ちて、見分けがつかなくなってしまっている。あれは、私と一緒にいたいと願いながら捕まえてくれたひとひらだったのだ。
「かっ、考えておいてくれ!」
今までぎゅうぎゅうに抱きしめられていたのが嘘のように、キラウシさんが一瞬で離れていき、さっきよりもしっかりとした足取りで駆けていった。桜の花びらを巻き上げ、春の嵐のように去っていった後ろ姿を呆然と見つめていると、周りのみんなの視線がキラウシさんと私と、半々に注がれていることに気がついた。全部、見られていた。もうこれ以上赤くなることはないと思っていたのに、また耳まで燃えるように熱くなっていく。ジンジンと痛痒くなってきた耳に「キラウシニシパ願い叶った?」「まだ分からない」と遠くから子供達とキラウシさんの声が届き、顔を両手で覆った。
「あーあ、春だねぇ」
さっきよりも楽しそうな門倉さんの声が、背後から聞こえてきた。
──
ヌフレ ヌレタラ ワ シレトッコロ 桜色の美しい人
あとがき
甘めの明治軸キラウシというリクエストでした!弊サイトのキラウシはプロポーズしがちなのですが、今回も何パターンか書いたのにどう足掻いてもプロポーズしてしまうのでほとほと困りました。これはギリギリしていない判定です。桜の季節にも間に合って良かった…今後は現パロ含め、キラウシ夢のバリエーションをもっと増やせるように頑張ります!!紫苑様、リクエストありがとうございました~!!
2025.04.13
