カフェ店長シリーズ
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「お、大きくなっている……!」
「もう大人と変わらないですね」
「だが可愛い」
「はい、可愛いです」
数ヶ月ぶりに水族館を訪れたら、あの白くて小さかったふわふわの赤ちゃんはすくすくと成長していた。大きさはまだ他の個体よりも一回りほど小さいが、見た目は大人と変わらない灰色のごま模様になっている。でも、ふぁっと大きくあくびをしてからまん丸のお目目でこちらを見てくる姿は、以前見た面影が濃く感じられる。いつの間にこんなに大きくなって……と親心のようなものが芽生えて、じーんと感動してしまった。ご飯後で眠いのか、遊び疲れてしまったのか、またあの赤ちゃんが大きなあくびをした。
「ふふっ、可愛い。見ました鯉登さん?いっぱいあくびしてますね」
声をかけながら横を向けば、鯉登さんが既にこちらを向いていて、バチっと目があった。「見ていなかった」と目元を緩ませながらの正直な返事が右から左へと抜けていく。デジャヴだ。前もそういえばこの水槽の前で同じようなことがあった。違うのは今日の鯉登さんがコートとスーツを着ていることくらいだ。なんでこっちを見てるんだろう。そう思った瞬間、心臓がどくどくと大きく脈打ち始め、脳がそれ以上考えることを拒んだ。
「あ、あっち!あっち行きましょうか!」
そそくさとアザラシたちの前を通り過ぎ、前回見られなかったエリアの方へと移動した。そこは北の海や深海の冷たい海に生息する魚たちのエリアで、照明がより一層落とされている。その上、展示されている生物は皆大人しく岩陰に隠れていたり、目立たない色をしていて中々見つけづらい。また水槽に頭をぶつけないように細心の注意を払いながら観察していった。
「ふっ……」
冷たい海の展示を見終わり、足の向くままに歩いていると、隣から鯉登さんの微かな笑い声が聞こえて来た。ちょうどあの思い出のフードコートを通り過ぎて少しの所だった。
「どうしたんですか?」
「あそこでナマエが豪快に頭をぶつけていたのを思い出した」
「ごっ……!」
笑いながら少し離れた水槽を指さしている鯉登さんに「忘れてくださいよ」と無理やり腕を下げさせた。あの水槽に頭をぶつけたあと、杉元さんの話になってしまって全て台無しにしてしまったから見ないようにしていたのに。鯉登さんにとっては、思い出したくないことじゃないのだろうか。私は思い出したくないのに。因縁のあの場所から遠ざかるように、悶々としながらサンゴ礁の海を再現した鮮やかな色の水槽の前を通り過ぎようとしたら、奥から大きな魚影が近づいてくるのが見えた。
「あ、サメが来ますよ鯉登さん!」
「サメ?」
「ほら!すごい……!迫力ありますね」
右から左へと、広々とした横長の水槽を悠然と泳いでいく姿を目で追っていく。背鰭の先端が黒いのが珍しい。大きさは私と同じくらいはあるだろうか。サメというと定番のあのスリルたっぷりの音楽を思い出してどうしても怖いイメージを持ってしまうけど、こうやってゆったりと泳いでいる姿を見ていると意外と穏やかなのかもしれない。さっきのはツマグロというのか、と水槽の掲示を読んでいたら、右から視線を感じた。ゆっくりと首を回せば、鯉登さんが静かに私の方を見ていた。
「鯉登さん、どうしたんですか?」
実を言うとさっきから何回か、いや、何度も視線を感じることがあった。そのくせすぐに隠れている魚は見つけてしまうから気にしないようにしていたけど、私一人ではしゃいでいる横で鯉登さんはあまり水槽を見ていないようだったから、さすがに気になってしまった。
「あの、もしかして、二回目だからやっぱりつまらなかったですか?」
「あ……いや……」
鯉登さんの瞳が、横をスーッと泳いでいった青い体と黄色い尻尾の見覚えのある魚を追った後、指先まで綺麗な手が口元を隠した。
「ナマエが、可愛くて……」
「へ?!」
「今日は一段と可愛いな、可愛いすぎて伝える機会を失っていた」
「なっ……?!」
ひんやりと涼を感じるはずの水族館で、のぼせそうなくらいに体温が急上昇した。前回は「気合が入っていると思われると恥ずかしい……」なんて思ってたのに、今回は「もう気合が入っていると思われても構わない、なんてったって気合が入っているのだから!」と開き直って準備をしてきたのだ。肌が艶々になるように昨日の夜にちょっとお高いパックもしたし、朝はいつもよりもだいぶ早く起きてそれはそれは丁寧にメイクもした。髪も不器用なりにゆるっとふわっと巻いて、アレンジもした。服だって友達に選んでもらったニットのワンピースを着て、少しヒールのあるブーツを履いてきている。
「狙いすぎてない?」という私の疑問に「狙いすぎてるくらいがちょうど良い」と友達に返されたのは間違っていなかったらしい。少しでも隣に立った時に釣り合うようになりたくて、私にとっての精一杯の背伸びだった。それを真っすぐに褒めてくれたことに、心がまるでその美しい指先で直に触れられたように大きく震えた。
「つまらない訳ではないが、魚よりもナマエをずっと見ていたい」
「な、なに、言って……」
「ナマエをずっと見ていたい」
「わ、分かりましたから!そんな何度もっ、言わなくても……!」
ずいっと長い脚で大きな一歩を詰められて、コートを着たままの服の中でダラダラと滝のような汗が流れ出ているのが分かった。さっきまで適温に感じていたのに、顔も体も熱くて熱くてクラクラしてくる。サウナにでも居るみたいだ。ちょっと外気に触れたい。頭を、体を冷やしたい。私だけじゃなくて、鯉登さんだって少し頭を冷やした方が良いと思う。一人で湯気が出るほど大汗をかきながらひぃひぃと通路を進み、エスカレーターを上がって外へ出ようとしたら、ドア付近にイルカショーの案内が置いてあって足が止まった。
「見るのか?」
「そ、そうですね!見ましょう!」
キラキラと眩しく輝く純粋な瞳で見つめられて、また更に体温が上がったのを悟られないようにズンズンと歩を進めていった。タイミング良く、イルカショーは丁度あと少しで始まるらしい。ドアを押して外に出たら、冷たい風にすぐに出迎えられてぶるりと体が震えた。ここを真っすぐ行った所がイルカショーのステージで、すぐそこが海なのか、ウミネコの声や大きな波の音が壁越しに聞こえてくる。私は目一杯の歩幅で歩いているのに、すぐ隣に鯉登さんがニコニコ顔でついてくるのが憎たらしかった。なんか前もこんなこと思ったな。ふとまた昔の記憶が甦った。
少し歩いてステージに辿り着けば、平日だからか席はまばらに埋まっていた。どこに座ろうかと見渡していると、前から数列目までは水しぶきが飛んでくるという注意書きが目に入ってきた。
「濡れる席にします?」
「絶対に嫌だ」
冗談で言ってみたら、眉間に深い皺を寄せてはっきりと断られてしまった。夏だったらまだ良いかもしれないけど、寒い上に洗濯しづらいコートを着ている季節には前方の席は不人気のようで、お客さんは皆後ろの方に座っていた。私たちも後ろを目指そうとすり鉢状の観客席の階段を上り始め、後ろから三列目の真ん中、絶対に濡れないであろう場所に座ることにした。
「寒くないか?」
「大丈夫です、カイロも持ってきたので」
お洒落はしたいけど防寒についても妥協はしたくなくて、ちゃんと暖かいインナーも着こんできたから寒さ対策はばっちりだ。そのせいでさっきは暑さで死にそうになったけど。コートのポケットからほかほかのカイロを取り出したら、「そうか……」と鯉登さんが少し残念そうな顔をしながら返事をしてきた。
「どうしたんですか?あっ、カイロ貸しましょうか?」
「いや……そ、そうだな」
どうぞと差し出したカイロが、ぐっと私の手ごと掴まれた。
「ちょっ……?!」
「温かいな」
反射的に引っ込めようとした手がぎゅっとしっかりと握られて、カイロが手のひらに押し付けられた。温かいを通り越して最早熱いくらいだった。あっ、そうか。寒いって言っていたら、この間の試合観戦中みたいに何か鯉登さんの物を貸してくれていたってこと……?!可愛い女性たちが冬に薄着なのはお洒落のためだけじゃなく、男性に甘えるためでもあるのか?!と私はこの世の隠された真実に初めて気が付いた。だとしても、私はそちら側にいけるほどの経験も、度胸もない。
「こ、こいとさん……」
「嫌だ」
「まだ何も言ってません」
「離すつもりはない」
再度引っ込めようとした手がやはりというべきか綱引きのように拮抗して、鯉登さんの膝の上に乗せられた。
「わ、分かりましたから……カイロがちょっと熱くて、それだけ取っても良いですか?」
低温火傷をしそうな勢いで押し付けられているので、何とかしてカイロだけは回収したかった。渋々といったように少しだけ緩まった手の間から、私達の手汗で湿ってさっきよりもしっとりとしたカイロを抜き取った。すかさずまた手を握り込まれ、絶対に離す気がないのだと思い知らされた。さっきサンゴ礁の前で見た手はすらっとしていて綺麗だったのに、しっかりと握り込まれるとその手のひらの大きさと分厚さに驚いてしまう。
恋人でもないのに、こんなことをして良いのだろうか。誰かに見られたらどうしよう。知り合いとかいないよねと周りを見渡していると、私たちの後方に座っていた一人の男性がこちらを見ていて、恥ずかしさのあまり思いっきり首をステージへと捻った。このいちゃつきカップルめ、とか思われてるのかな、カップルじゃないんですけど。いやカップルじゃない方が問題か。恥ずかしさと緊張で気を抜いたら大声を上げてしまいそうだ。膨れ上がっていく感情の行き場がない。ムズムズする心と連動して貧乏ゆすりをしそうになっていると、大きな音楽がかかってステージが始まった。ウェットスーツを着たお姉さんとお兄さんたちによる簡単な自己紹介を経て、早速イルカたちがプール内をじゃれ合うように泳いだりジャンプをし始めた。
「イルカは観客や反応の多さでその日のやる気が左右されるらしい」
「そうなんですか?じゃあ沢山応援しなきゃですね」
結構キビキビ動いているように見えるけど、「今日は人少ないっすね」「まあほどほどで行きましょうか」などと今まさに泳ぎながら話し合っていたりするのだろうか。私たちが彼らを見ているだけでなく、私たちも見られているのだと思うと気が引き締まる思いだった。週末の賑わいには敵わないけど、少しでも彼らのやる気を引き出すべく拍手を送ろうとして、自分の片手が塞がっていることにハッと気づいてまた頬が熱を持って行く。
「あっ」
お姉さんたちが投げたボールや輪っかをイルカたちが器用に鼻先で持ってくる姿を見て、ふと杉元さんの言っていたことが過った。見た目に反して本当に可愛いこととか、ロマンチックなこととかが好きな人だ。
「どうした?」
「いえ、昔、えっとー……知り合いが、イルカがプロポーズの指輪を運んでくる話をしていたのを思い出して」
「あぁ、ここはやっていないらしいな」
「へぇ~、そうなんですね」
ん?
”ここは”やってないってなんだ?まるで調べたような言い方に、ショーのことも忘れて思わず斜め上を見つめて考え込んでしまった。調べたんですか?どうして?なんてことを聞けるはずもなく。その後もそのことが頭を離れなくて、あまり集中できないまま、盛大な水しぶきを伴う大迫力のジャンプでショーは終わってしまった。
手を繋いだまま気もそぞろに階段を下りていくと、前方の列は注意書き通りベンチも足元もびしょびしょになっていた。夏とかだったら気持ち良いんだろうけど、鯉登さんは嫌がるだろうな。無意識にまた一緒に来ることを考えている自分に気づいて、慌てて夏の日の鯉登さんを頭から掻き消した。
「もうこんな時間か。ランチにするか?」
「そうですね。折角だからこの間とは違う所にしましょうか」
「いや、あのフードコートが良い」
フードコートという言葉がこれほどまでに似合わない人がいるんだな、と鯉登さんの返事を聞いて思った。
もと来た道を戻り、懐かしのフードコートへとたどり着いて、前回同様メニューを二人で見上げた。違うのは、私たちが手を繋いでいることだ。ずっと繋ぎっぱなしだったから、片手が塞がれていることにも段々と慣れてきた。
「どれにする?」
「そうですね……」
アザラシのコラボメニューは終わってしまっていたので、迷った末に真ん中に盛られたライスがペンギンの形になっているビーフカレーと、カフェラテにしようと決めた。鯉登さんはこの間私が頼んだシーフードパスタを頼むらしい。
「ナマエは座っていてくれ」
「えっ、でも」
「デートだからな!」
パッと手が離されたのが少し寂しかった。離すつもりはない、って言ってたのに。でも、一人で喜々としてレジへと向かっていく鯉登さんが可愛くて、お言葉に甘えて私は席で待つことにした。やっぱりデートなんだ、これ。じわっと頬と耳が熱くなり、口角が上がっていくのが自分でも分かった。手汗で湿った手のひらがひんやりと気持ちいい。デートだと思っているのは私だけじゃなかった。月島さんとの電話で、嬉しそうな鯉登さんの声がひっきりなしに漏れていたのを思い出して、益々口角が上がっていく。
好き、です。
もどかしく鳩尾の辺りで引っかかっている気持ちをどうやって伝えようか考えながら、人生二度目のフードコートにはしゃぐ背中を飽きることなく見つめていた。
*
「あっ、もうそろそろ時間ですよね」
少し遅めのお昼をゆっくりと食べ終え、また展示を見て回っている時に、ふと壁に掛けられた時計が目に入った。時刻は2時45分を過ぎたところだった。鯉登さんは今日は夕方から仕事で、移動時間も考えたら3時頃には水族館を出ないといけないと言っていた。
「ナマエは残るか?来たかったんだろう」
「いえ、大丈夫です。もう見たいものは見れたので」
デートに誘う時、鯉登さんが行かなくても私一人で行くつもりなんで、という予防線を張ってしまったことを少し後悔した。本当は、ただ鯉登さんと思い出作りをしたかった。いつものあの狭いカフェから飛び出して、二人でデートをしたかった。そう伝えたらどんな反応をするのだろう。好きだと言ったら、どんな顔をするんだろう。知りたい。言わなきゃ。でもどうやって。怖い。眩暈がするほどに目まぐるしく気持ちが変わっていく。いっそここで大きな声で言ってしまおうか。ムードもへったくれもない、みっともない告白だ。いや、でも、さすがにそれは他のお客さんにも迷惑だし……と結局何も言えないまま、出口へと向かった。
「タクシーを呼んでおいた。家まで送っていく」
「ありがとうございます」
今までだったら絶対に断っていただろうに、もう少し一緒に居たくて気づいた時には頷いていた。タクシーが来るまであと少し。さすがに運転手さんがいる車内で告白なんてできないから、言うなら今しかない。ドキドキと忙しなく震え始めた心臓を落ち着かせるためにふーっと息を吐いて、鞄の中に入れっぱなしだった物を取り出した。
「あの、鯉登さん、これ……」
恐る恐る声をかけて、水族館のロゴが入った紙袋を渡した。外にはギフト用のシールを貼ってもらった。どこからどう見てもプレゼントですという物を目の前にして、鯉登さんの瞳が見開かれて、一気に煌めいた。
「いっ、いいのか?」
「いつも頂いてばかりなので」
違う。いい加減素直になれ。ただ渡したかっただけだ。ゴマフアザラシのワンポイント刺繍がしてある紺色の紳士物のハンカチは、鯉登さんが普段使っている物の1000分の1とかの値段だろう。それでも渡したかった。今日買う時間やチャンスなんてないかもしれないと思ったから、数日前に水族館のお土産物屋さんに立ち寄って購入した物だ。プレゼントは渡せた。あとは好きだと、たった二文字を言うだけだ。すーっと息を吐き出して、その延長線でなんとか伝えようとしていると、鯉登さんが難しい顔で何やらぶつぶつと呟き始めた。
「実家の床の間に……いやそれだと毎日見られない!そうだ、額に入れて部屋に飾り毎日手を合わせよう!」
「え?!あっ、いや、普通に使ってもらえた方が嬉しいです」
「それだと汚してしまう……!」
鯉登さんが顔の目の前にハンカチを掲げて百面相している。床の間や額に飾られるなんて一介のお土産屋さんのハンカチには荷が重すぎる。それに、仕事の時とかに使ってくれたらいいな、私ももらったアザラシのペンをお店で使っているし……なんてことを考えながら選んだものだったから、どうにかして普通に使ってほしかった。
「あ!よ、汚れたら、また新しいの渡しますから……」
使ってほしい一心で絞り出した言葉だった。鯉登さんがぽかんと一瞬私を見たあと、目尻を下げて今まで見たことがないほど嬉しそうに笑った。
「約束だぞ」
こくっと頷いたら、最後に一度だけ大事そうにハンカチを眺めたあと、鯉登さんがスーツの内ポケットに仕舞った。直後、タクシーが到着したので告白のタイミングを完全に逃してしまった。どうしようどうしようと、車内で考えているうちに、あっという間に私の家についてしまって更に焦りが加速した。ドアが開け放たれているのに降りないのも変だから仕方なく降りてみたものの、まったく家に帰りたいと思えなかった。鯉登さんのことだから、もしかして今日も部屋まで送ってくれるのでは。そんな期待を持って振り返ってみても、鯉登さんはタクシーから降りる気配がなくて、無言の時間が少しの間流れた。これが普通の別れ方なのに、降りないんだって思ってしまった自分が恥ずかしかった。もしかして、オーナーに言われたことを気にしているのかな。
「じゃあ、また」
鯉登さんの顔も見ずに、手を振ってエントランスまで一人でとぼとぼと歩きはじめた。ごめんんなさい月島さん、私はやっぱりダメでした。背伸びして自分の見た目を取り繕っても、中身が伴っていない。自分の情けなさがほとほと嫌になる。喉がきゅっと締まって、目頭と鼻が熱くなった。まだ泣くな。せめて部屋に着くまで我慢しろ。溢れてきそうな涙を堪えていると、後ろでドアが閉まるのが聞こえてきた。
「……やっぱり、部屋まで送る」
慌ただしい足音のあとに聞こえてきたのは、いつもよりも随分と小さい声だった。すっと掬うように取られた左手からじんわりと鯉登さんの体温が広がってきて、さらに目頭が熱くなっていく。泣きそうになってるなんて知られたくなかったからそのまま何でもないようにエントランスをくぐっていったけど、来てくれたのが嬉しくて、離したくなくて、私からもその見かけよりも大きな手を握り返した。
「今日は本当にありがとうございました。またアザラシも見れて楽しかったです」
「そうだな」
2階までの道のりは一瞬だった。もうこのまま扉を閉めて、会話を終えるべきところだ。が、しかし、鯉登さんはまだしっかりと私の手を握っている。
「えっと……」
鯉登さんの視線は、私たちの繋がれた手に落ちている。それはちょうど、私の部屋と廊下の境界線の上に位置していた。私は手を離したのに、鯉登さんは私の手を掴んだままで、一向に離される気配もない。
「……もっと、一緒にいたい」
眉を下げ、目も伏せがちで、まるで子供のように寂しげに呟いた鯉登さんに心が大きく揺さぶられた。どく、どく、と耳元で大きく心臓の音が響き渡り、ほかの全ての音が掻き消されていく。
この手を引いてしまおうか。
ふと過った考えに私自身驚いていた。でも、私ももっと一緒にいたい。あとちょっとだけ、ほんの少しで良いから、もう少しだけ隣にいてほしかった。
「私も、もっと一緒にいたい、です……」
言わないと。今言わないと後悔する。前回の水族館でのことが蘇り、ぶわっと二の腕から背中までの毛が逆立った。喉がつかえたように言葉が引っかかる。
──好きだと伝えられる相手がいるのは、幸せなことですよ
言え、言ってしまえ、たったの二文字がどうしてこんなにも喉に張り付いてしまうのだろう。悔しくて目頭が熱くなって、目の前の鯉登さんが滲んでいく。
「わ、私っ……!」
思った以上に大きく出た私の声に反応してぴくっと動いた手を、僅かに引いた。振り払われるかと思ったのに、鯉登さんが一歩を踏み出そうと重心が動いたのが分かった。靴底が床を離れ、足が踏み出され──
「あっ……」
どこからか振動音が聞こえてきて、鯉登さんの動きが中途半端な所で止まった。スマホのようだった。少し震えては止まり、また少し震えては止まっているから着信のようだ。鞄の中から振動は感じないから、私のスマホは静かなままだ。
「……出た方が、良いんじゃないですか?」
きっと仕事の大事な連絡のはずだ。そうする、と渋々といった風に私の手が離された。消えていった温もりが、どうしようもなく恋しかった。
「……じゃあ、また」
「ああ、また」
鯉登さんがスマホを取り出したのを見ながら扉を閉め、素早く鍵を閉めた。私が良く知っている声よりも低くて、落ち着いた話し声がドア越しに聞こえてくる。自分の情けなさについに右の目尻から一滴涙がこぼれ出て、それを皮切りにボロボロと両頬を熱いものが伝っていった。
「……っ、すきです」
遠ざかっていく足音に言っても、意味がないのに。
2025.05.25
「もう大人と変わらないですね」
「だが可愛い」
「はい、可愛いです」
数ヶ月ぶりに水族館を訪れたら、あの白くて小さかったふわふわの赤ちゃんはすくすくと成長していた。大きさはまだ他の個体よりも一回りほど小さいが、見た目は大人と変わらない灰色のごま模様になっている。でも、ふぁっと大きくあくびをしてからまん丸のお目目でこちらを見てくる姿は、以前見た面影が濃く感じられる。いつの間にこんなに大きくなって……と親心のようなものが芽生えて、じーんと感動してしまった。ご飯後で眠いのか、遊び疲れてしまったのか、またあの赤ちゃんが大きなあくびをした。
「ふふっ、可愛い。見ました鯉登さん?いっぱいあくびしてますね」
声をかけながら横を向けば、鯉登さんが既にこちらを向いていて、バチっと目があった。「見ていなかった」と目元を緩ませながらの正直な返事が右から左へと抜けていく。デジャヴだ。前もそういえばこの水槽の前で同じようなことがあった。違うのは今日の鯉登さんがコートとスーツを着ていることくらいだ。なんでこっちを見てるんだろう。そう思った瞬間、心臓がどくどくと大きく脈打ち始め、脳がそれ以上考えることを拒んだ。
「あ、あっち!あっち行きましょうか!」
そそくさとアザラシたちの前を通り過ぎ、前回見られなかったエリアの方へと移動した。そこは北の海や深海の冷たい海に生息する魚たちのエリアで、照明がより一層落とされている。その上、展示されている生物は皆大人しく岩陰に隠れていたり、目立たない色をしていて中々見つけづらい。また水槽に頭をぶつけないように細心の注意を払いながら観察していった。
「ふっ……」
冷たい海の展示を見終わり、足の向くままに歩いていると、隣から鯉登さんの微かな笑い声が聞こえて来た。ちょうどあの思い出のフードコートを通り過ぎて少しの所だった。
「どうしたんですか?」
「あそこでナマエが豪快に頭をぶつけていたのを思い出した」
「ごっ……!」
笑いながら少し離れた水槽を指さしている鯉登さんに「忘れてくださいよ」と無理やり腕を下げさせた。あの水槽に頭をぶつけたあと、杉元さんの話になってしまって全て台無しにしてしまったから見ないようにしていたのに。鯉登さんにとっては、思い出したくないことじゃないのだろうか。私は思い出したくないのに。因縁のあの場所から遠ざかるように、悶々としながらサンゴ礁の海を再現した鮮やかな色の水槽の前を通り過ぎようとしたら、奥から大きな魚影が近づいてくるのが見えた。
「あ、サメが来ますよ鯉登さん!」
「サメ?」
「ほら!すごい……!迫力ありますね」
右から左へと、広々とした横長の水槽を悠然と泳いでいく姿を目で追っていく。背鰭の先端が黒いのが珍しい。大きさは私と同じくらいはあるだろうか。サメというと定番のあのスリルたっぷりの音楽を思い出してどうしても怖いイメージを持ってしまうけど、こうやってゆったりと泳いでいる姿を見ていると意外と穏やかなのかもしれない。さっきのはツマグロというのか、と水槽の掲示を読んでいたら、右から視線を感じた。ゆっくりと首を回せば、鯉登さんが静かに私の方を見ていた。
「鯉登さん、どうしたんですか?」
実を言うとさっきから何回か、いや、何度も視線を感じることがあった。そのくせすぐに隠れている魚は見つけてしまうから気にしないようにしていたけど、私一人ではしゃいでいる横で鯉登さんはあまり水槽を見ていないようだったから、さすがに気になってしまった。
「あの、もしかして、二回目だからやっぱりつまらなかったですか?」
「あ……いや……」
鯉登さんの瞳が、横をスーッと泳いでいった青い体と黄色い尻尾の見覚えのある魚を追った後、指先まで綺麗な手が口元を隠した。
「ナマエが、可愛くて……」
「へ?!」
「今日は一段と可愛いな、可愛いすぎて伝える機会を失っていた」
「なっ……?!」
ひんやりと涼を感じるはずの水族館で、のぼせそうなくらいに体温が急上昇した。前回は「気合が入っていると思われると恥ずかしい……」なんて思ってたのに、今回は「もう気合が入っていると思われても構わない、なんてったって気合が入っているのだから!」と開き直って準備をしてきたのだ。肌が艶々になるように昨日の夜にちょっとお高いパックもしたし、朝はいつもよりもだいぶ早く起きてそれはそれは丁寧にメイクもした。髪も不器用なりにゆるっとふわっと巻いて、アレンジもした。服だって友達に選んでもらったニットのワンピースを着て、少しヒールのあるブーツを履いてきている。
「狙いすぎてない?」という私の疑問に「狙いすぎてるくらいがちょうど良い」と友達に返されたのは間違っていなかったらしい。少しでも隣に立った時に釣り合うようになりたくて、私にとっての精一杯の背伸びだった。それを真っすぐに褒めてくれたことに、心がまるでその美しい指先で直に触れられたように大きく震えた。
「つまらない訳ではないが、魚よりもナマエをずっと見ていたい」
「な、なに、言って……」
「ナマエをずっと見ていたい」
「わ、分かりましたから!そんな何度もっ、言わなくても……!」
ずいっと長い脚で大きな一歩を詰められて、コートを着たままの服の中でダラダラと滝のような汗が流れ出ているのが分かった。さっきまで適温に感じていたのに、顔も体も熱くて熱くてクラクラしてくる。サウナにでも居るみたいだ。ちょっと外気に触れたい。頭を、体を冷やしたい。私だけじゃなくて、鯉登さんだって少し頭を冷やした方が良いと思う。一人で湯気が出るほど大汗をかきながらひぃひぃと通路を進み、エスカレーターを上がって外へ出ようとしたら、ドア付近にイルカショーの案内が置いてあって足が止まった。
「見るのか?」
「そ、そうですね!見ましょう!」
キラキラと眩しく輝く純粋な瞳で見つめられて、また更に体温が上がったのを悟られないようにズンズンと歩を進めていった。タイミング良く、イルカショーは丁度あと少しで始まるらしい。ドアを押して外に出たら、冷たい風にすぐに出迎えられてぶるりと体が震えた。ここを真っすぐ行った所がイルカショーのステージで、すぐそこが海なのか、ウミネコの声や大きな波の音が壁越しに聞こえてくる。私は目一杯の歩幅で歩いているのに、すぐ隣に鯉登さんがニコニコ顔でついてくるのが憎たらしかった。なんか前もこんなこと思ったな。ふとまた昔の記憶が甦った。
少し歩いてステージに辿り着けば、平日だからか席はまばらに埋まっていた。どこに座ろうかと見渡していると、前から数列目までは水しぶきが飛んでくるという注意書きが目に入ってきた。
「濡れる席にします?」
「絶対に嫌だ」
冗談で言ってみたら、眉間に深い皺を寄せてはっきりと断られてしまった。夏だったらまだ良いかもしれないけど、寒い上に洗濯しづらいコートを着ている季節には前方の席は不人気のようで、お客さんは皆後ろの方に座っていた。私たちも後ろを目指そうとすり鉢状の観客席の階段を上り始め、後ろから三列目の真ん中、絶対に濡れないであろう場所に座ることにした。
「寒くないか?」
「大丈夫です、カイロも持ってきたので」
お洒落はしたいけど防寒についても妥協はしたくなくて、ちゃんと暖かいインナーも着こんできたから寒さ対策はばっちりだ。そのせいでさっきは暑さで死にそうになったけど。コートのポケットからほかほかのカイロを取り出したら、「そうか……」と鯉登さんが少し残念そうな顔をしながら返事をしてきた。
「どうしたんですか?あっ、カイロ貸しましょうか?」
「いや……そ、そうだな」
どうぞと差し出したカイロが、ぐっと私の手ごと掴まれた。
「ちょっ……?!」
「温かいな」
反射的に引っ込めようとした手がぎゅっとしっかりと握られて、カイロが手のひらに押し付けられた。温かいを通り越して最早熱いくらいだった。あっ、そうか。寒いって言っていたら、この間の試合観戦中みたいに何か鯉登さんの物を貸してくれていたってこと……?!可愛い女性たちが冬に薄着なのはお洒落のためだけじゃなく、男性に甘えるためでもあるのか?!と私はこの世の隠された真実に初めて気が付いた。だとしても、私はそちら側にいけるほどの経験も、度胸もない。
「こ、こいとさん……」
「嫌だ」
「まだ何も言ってません」
「離すつもりはない」
再度引っ込めようとした手がやはりというべきか綱引きのように拮抗して、鯉登さんの膝の上に乗せられた。
「わ、分かりましたから……カイロがちょっと熱くて、それだけ取っても良いですか?」
低温火傷をしそうな勢いで押し付けられているので、何とかしてカイロだけは回収したかった。渋々といったように少しだけ緩まった手の間から、私達の手汗で湿ってさっきよりもしっとりとしたカイロを抜き取った。すかさずまた手を握り込まれ、絶対に離す気がないのだと思い知らされた。さっきサンゴ礁の前で見た手はすらっとしていて綺麗だったのに、しっかりと握り込まれるとその手のひらの大きさと分厚さに驚いてしまう。
恋人でもないのに、こんなことをして良いのだろうか。誰かに見られたらどうしよう。知り合いとかいないよねと周りを見渡していると、私たちの後方に座っていた一人の男性がこちらを見ていて、恥ずかしさのあまり思いっきり首をステージへと捻った。このいちゃつきカップルめ、とか思われてるのかな、カップルじゃないんですけど。いやカップルじゃない方が問題か。恥ずかしさと緊張で気を抜いたら大声を上げてしまいそうだ。膨れ上がっていく感情の行き場がない。ムズムズする心と連動して貧乏ゆすりをしそうになっていると、大きな音楽がかかってステージが始まった。ウェットスーツを着たお姉さんとお兄さんたちによる簡単な自己紹介を経て、早速イルカたちがプール内をじゃれ合うように泳いだりジャンプをし始めた。
「イルカは観客や反応の多さでその日のやる気が左右されるらしい」
「そうなんですか?じゃあ沢山応援しなきゃですね」
結構キビキビ動いているように見えるけど、「今日は人少ないっすね」「まあほどほどで行きましょうか」などと今まさに泳ぎながら話し合っていたりするのだろうか。私たちが彼らを見ているだけでなく、私たちも見られているのだと思うと気が引き締まる思いだった。週末の賑わいには敵わないけど、少しでも彼らのやる気を引き出すべく拍手を送ろうとして、自分の片手が塞がっていることにハッと気づいてまた頬が熱を持って行く。
「あっ」
お姉さんたちが投げたボールや輪っかをイルカたちが器用に鼻先で持ってくる姿を見て、ふと杉元さんの言っていたことが過った。見た目に反して本当に可愛いこととか、ロマンチックなこととかが好きな人だ。
「どうした?」
「いえ、昔、えっとー……知り合いが、イルカがプロポーズの指輪を運んでくる話をしていたのを思い出して」
「あぁ、ここはやっていないらしいな」
「へぇ~、そうなんですね」
ん?
”ここは”やってないってなんだ?まるで調べたような言い方に、ショーのことも忘れて思わず斜め上を見つめて考え込んでしまった。調べたんですか?どうして?なんてことを聞けるはずもなく。その後もそのことが頭を離れなくて、あまり集中できないまま、盛大な水しぶきを伴う大迫力のジャンプでショーは終わってしまった。
手を繋いだまま気もそぞろに階段を下りていくと、前方の列は注意書き通りベンチも足元もびしょびしょになっていた。夏とかだったら気持ち良いんだろうけど、鯉登さんは嫌がるだろうな。無意識にまた一緒に来ることを考えている自分に気づいて、慌てて夏の日の鯉登さんを頭から掻き消した。
「もうこんな時間か。ランチにするか?」
「そうですね。折角だからこの間とは違う所にしましょうか」
「いや、あのフードコートが良い」
フードコートという言葉がこれほどまでに似合わない人がいるんだな、と鯉登さんの返事を聞いて思った。
もと来た道を戻り、懐かしのフードコートへとたどり着いて、前回同様メニューを二人で見上げた。違うのは、私たちが手を繋いでいることだ。ずっと繋ぎっぱなしだったから、片手が塞がれていることにも段々と慣れてきた。
「どれにする?」
「そうですね……」
アザラシのコラボメニューは終わってしまっていたので、迷った末に真ん中に盛られたライスがペンギンの形になっているビーフカレーと、カフェラテにしようと決めた。鯉登さんはこの間私が頼んだシーフードパスタを頼むらしい。
「ナマエは座っていてくれ」
「えっ、でも」
「デートだからな!」
パッと手が離されたのが少し寂しかった。離すつもりはない、って言ってたのに。でも、一人で喜々としてレジへと向かっていく鯉登さんが可愛くて、お言葉に甘えて私は席で待つことにした。やっぱりデートなんだ、これ。じわっと頬と耳が熱くなり、口角が上がっていくのが自分でも分かった。手汗で湿った手のひらがひんやりと気持ちいい。デートだと思っているのは私だけじゃなかった。月島さんとの電話で、嬉しそうな鯉登さんの声がひっきりなしに漏れていたのを思い出して、益々口角が上がっていく。
好き、です。
もどかしく鳩尾の辺りで引っかかっている気持ちをどうやって伝えようか考えながら、人生二度目のフードコートにはしゃぐ背中を飽きることなく見つめていた。
*
「あっ、もうそろそろ時間ですよね」
少し遅めのお昼をゆっくりと食べ終え、また展示を見て回っている時に、ふと壁に掛けられた時計が目に入った。時刻は2時45分を過ぎたところだった。鯉登さんは今日は夕方から仕事で、移動時間も考えたら3時頃には水族館を出ないといけないと言っていた。
「ナマエは残るか?来たかったんだろう」
「いえ、大丈夫です。もう見たいものは見れたので」
デートに誘う時、鯉登さんが行かなくても私一人で行くつもりなんで、という予防線を張ってしまったことを少し後悔した。本当は、ただ鯉登さんと思い出作りをしたかった。いつものあの狭いカフェから飛び出して、二人でデートをしたかった。そう伝えたらどんな反応をするのだろう。好きだと言ったら、どんな顔をするんだろう。知りたい。言わなきゃ。でもどうやって。怖い。眩暈がするほどに目まぐるしく気持ちが変わっていく。いっそここで大きな声で言ってしまおうか。ムードもへったくれもない、みっともない告白だ。いや、でも、さすがにそれは他のお客さんにも迷惑だし……と結局何も言えないまま、出口へと向かった。
「タクシーを呼んでおいた。家まで送っていく」
「ありがとうございます」
今までだったら絶対に断っていただろうに、もう少し一緒に居たくて気づいた時には頷いていた。タクシーが来るまであと少し。さすがに運転手さんがいる車内で告白なんてできないから、言うなら今しかない。ドキドキと忙しなく震え始めた心臓を落ち着かせるためにふーっと息を吐いて、鞄の中に入れっぱなしだった物を取り出した。
「あの、鯉登さん、これ……」
恐る恐る声をかけて、水族館のロゴが入った紙袋を渡した。外にはギフト用のシールを貼ってもらった。どこからどう見てもプレゼントですという物を目の前にして、鯉登さんの瞳が見開かれて、一気に煌めいた。
「いっ、いいのか?」
「いつも頂いてばかりなので」
違う。いい加減素直になれ。ただ渡したかっただけだ。ゴマフアザラシのワンポイント刺繍がしてある紺色の紳士物のハンカチは、鯉登さんが普段使っている物の1000分の1とかの値段だろう。それでも渡したかった。今日買う時間やチャンスなんてないかもしれないと思ったから、数日前に水族館のお土産物屋さんに立ち寄って購入した物だ。プレゼントは渡せた。あとは好きだと、たった二文字を言うだけだ。すーっと息を吐き出して、その延長線でなんとか伝えようとしていると、鯉登さんが難しい顔で何やらぶつぶつと呟き始めた。
「実家の床の間に……いやそれだと毎日見られない!そうだ、額に入れて部屋に飾り毎日手を合わせよう!」
「え?!あっ、いや、普通に使ってもらえた方が嬉しいです」
「それだと汚してしまう……!」
鯉登さんが顔の目の前にハンカチを掲げて百面相している。床の間や額に飾られるなんて一介のお土産屋さんのハンカチには荷が重すぎる。それに、仕事の時とかに使ってくれたらいいな、私ももらったアザラシのペンをお店で使っているし……なんてことを考えながら選んだものだったから、どうにかして普通に使ってほしかった。
「あ!よ、汚れたら、また新しいの渡しますから……」
使ってほしい一心で絞り出した言葉だった。鯉登さんがぽかんと一瞬私を見たあと、目尻を下げて今まで見たことがないほど嬉しそうに笑った。
「約束だぞ」
こくっと頷いたら、最後に一度だけ大事そうにハンカチを眺めたあと、鯉登さんがスーツの内ポケットに仕舞った。直後、タクシーが到着したので告白のタイミングを完全に逃してしまった。どうしようどうしようと、車内で考えているうちに、あっという間に私の家についてしまって更に焦りが加速した。ドアが開け放たれているのに降りないのも変だから仕方なく降りてみたものの、まったく家に帰りたいと思えなかった。鯉登さんのことだから、もしかして今日も部屋まで送ってくれるのでは。そんな期待を持って振り返ってみても、鯉登さんはタクシーから降りる気配がなくて、無言の時間が少しの間流れた。これが普通の別れ方なのに、降りないんだって思ってしまった自分が恥ずかしかった。もしかして、オーナーに言われたことを気にしているのかな。
「じゃあ、また」
鯉登さんの顔も見ずに、手を振ってエントランスまで一人でとぼとぼと歩きはじめた。ごめんんなさい月島さん、私はやっぱりダメでした。背伸びして自分の見た目を取り繕っても、中身が伴っていない。自分の情けなさがほとほと嫌になる。喉がきゅっと締まって、目頭と鼻が熱くなった。まだ泣くな。せめて部屋に着くまで我慢しろ。溢れてきそうな涙を堪えていると、後ろでドアが閉まるのが聞こえてきた。
「……やっぱり、部屋まで送る」
慌ただしい足音のあとに聞こえてきたのは、いつもよりも随分と小さい声だった。すっと掬うように取られた左手からじんわりと鯉登さんの体温が広がってきて、さらに目頭が熱くなっていく。泣きそうになってるなんて知られたくなかったからそのまま何でもないようにエントランスをくぐっていったけど、来てくれたのが嬉しくて、離したくなくて、私からもその見かけよりも大きな手を握り返した。
「今日は本当にありがとうございました。またアザラシも見れて楽しかったです」
「そうだな」
2階までの道のりは一瞬だった。もうこのまま扉を閉めて、会話を終えるべきところだ。が、しかし、鯉登さんはまだしっかりと私の手を握っている。
「えっと……」
鯉登さんの視線は、私たちの繋がれた手に落ちている。それはちょうど、私の部屋と廊下の境界線の上に位置していた。私は手を離したのに、鯉登さんは私の手を掴んだままで、一向に離される気配もない。
「……もっと、一緒にいたい」
眉を下げ、目も伏せがちで、まるで子供のように寂しげに呟いた鯉登さんに心が大きく揺さぶられた。どく、どく、と耳元で大きく心臓の音が響き渡り、ほかの全ての音が掻き消されていく。
この手を引いてしまおうか。
ふと過った考えに私自身驚いていた。でも、私ももっと一緒にいたい。あとちょっとだけ、ほんの少しで良いから、もう少しだけ隣にいてほしかった。
「私も、もっと一緒にいたい、です……」
言わないと。今言わないと後悔する。前回の水族館でのことが蘇り、ぶわっと二の腕から背中までの毛が逆立った。喉がつかえたように言葉が引っかかる。
──好きだと伝えられる相手がいるのは、幸せなことですよ
言え、言ってしまえ、たったの二文字がどうしてこんなにも喉に張り付いてしまうのだろう。悔しくて目頭が熱くなって、目の前の鯉登さんが滲んでいく。
「わ、私っ……!」
思った以上に大きく出た私の声に反応してぴくっと動いた手を、僅かに引いた。振り払われるかと思ったのに、鯉登さんが一歩を踏み出そうと重心が動いたのが分かった。靴底が床を離れ、足が踏み出され──
「あっ……」
どこからか振動音が聞こえてきて、鯉登さんの動きが中途半端な所で止まった。スマホのようだった。少し震えては止まり、また少し震えては止まっているから着信のようだ。鞄の中から振動は感じないから、私のスマホは静かなままだ。
「……出た方が、良いんじゃないですか?」
きっと仕事の大事な連絡のはずだ。そうする、と渋々といった風に私の手が離された。消えていった温もりが、どうしようもなく恋しかった。
「……じゃあ、また」
「ああ、また」
鯉登さんがスマホを取り出したのを見ながら扉を閉め、素早く鍵を閉めた。私が良く知っている声よりも低くて、落ち着いた話し声がドア越しに聞こえてくる。自分の情けなさについに右の目尻から一滴涙がこぼれ出て、それを皮切りにボロボロと両頬を熱いものが伝っていった。
「……っ、すきです」
遠ざかっていく足音に言っても、意味がないのに。
2025.05.25
