カフェ店長シリーズ
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ルンルンというのは、まさしくこういう状態なのだろうな。軽やかな足取りで、ミョウジさんのカフェへと向かう鯉登さんの後ろ姿を見ながら思った。二人揃ってこうやってカフェへの道を歩くのは久々だ。度重なる仕事の大きな山場に追われているうちに、いつの間にか秋をすっ飛ばして冬がやって来ていた。季節のメニューが変わっている頃だろうか、楽しみだな、と前を行く鯉登さんの独り言にしては嬉しそうな声が聞こえてきて、適当に相槌を打ちながら置いていかれないように歩を進めた。
「月島は毎回同じ物を頼んでいて飽きないのか?」
「飽きませんね。美味しいと分かっている物から乗り換えるのも億劫ですし」
ふうん、とあまり理解していなさそうな返事をしながら、鯉登さんがスマホのインカメラで念入りに髪を整えている。心配しなくても、いつもの鯉登さんと変わりないのに。どんなあなただって、ミョウジさんは嬉しそうに顔を綻ばせるだろうに。
辿り着いたカフェのドアに鯉登さんが手をかけた──と思ったら、グルっと勢いよくUターンしてきて、避けることもできずに体同士が激しくぶつかり合った。うぐっと痛みに呻いて、弾かれるように数歩後ろによろけた鯉登さんの顔は真っ青だった。
「ちょっと、大丈夫ですか?危ないですよ、何なんですか急に」
「し、知らない男がいる……」
冷や汗をダラダラと垂らしながら、店内と俺を交互に見ている鯉登さんの言う通り、いつもミョウジさんが居るカウンターの奥には、ミョウジさんとは似ても似つかない長髪の大男が立っていた。腰まである髪を一つに括ってベージュのエプロンを着けているが、花柄の派手な黒い総柄のシャツがナチュラルなカフェの雰囲気をぶち壊している。捲られた袖から見える腕も筋肉質だ。まるで堅気には見えない男は、小首を傾げてこちらを不思議そうに見ている。
「だ、誰だあの男は!怪しすぎる……立てこもりか?!裏でナマエが捕まっているのでは?!」
腰ほどまでしかないブラックボードに、その長身を隠そうとしながらチラチラと鯉登さんが中を伺っている。どちらかというとあなたの方が怪しいですよ、という言葉は飲み込んだ。
「代理の方なんじゃないですか」
「あんな男を代理にするか……?」
「ほら、今流行りの単発バイトアプリで雇ったとか」
「碌に素性も分からん奴を雇うなんて不用心にもほどがある」
鯉登さんがガタガタと威嚇するようにブラックボードを揺らしている。まあ便利なものにはリスクは付きものだ。この店の経営を任されている店長なのだから、その辺りも理解しながら雇ったりもするだろう。
「とりあえず入りましょう。ミョウジさんはどうしたのか本人から話を聞いてみたら良いのでは?」
「そっ……そうだな、早くナマエを助けないと!」
このままだとブラックボードを破壊しかねない鯉登さんを引き連れてドアを引いた。カランカランといつもの音が響いて、暖かい店内へと足を踏み入れれば、「いらっしゃい」と思ったよりも優しげな声で男に歓迎された。
「いつもの方ではないんですね」
「ああ、今ちょっと出てて……いつも来てくれてるんだ?」
嬉しいなぁ、と男が朗らかで親しみやすい笑顔を見せてくるが、どことなく怪しい雰囲気が拭えない。しかし、鯉登さんが何か変なことを言う前にジャブとして投げかけた質問から、思った以上の収穫があった。どうやらこの男は単発のアルバイトではないらしい。いつも来てくれて嬉しい、と馴れ馴れしく言うからには、この店に普段から何らかの形で関わっている者なのだろう。
「もしかして、ナマエちゃん目当て?」
「ナマエ、ちゃん……?」
「あ、名前言ったの良くなかったかな……ここの店長の──」
「ナマエなら知っている」
鯉登さんのぴしゃりと拒むような声が狭い店内に響いた。
「……随分と馴れ馴れしいな」
「はは、呼び捨てにしてる奴に言われたくないな」
それは最もな指摘である。まだ数ターンしか会話をしていないというのに、もう険悪な雰囲気が漂っている二人にため息が漏れた。バチバチとカウンター越しに火花を散らしている様子を見ながら、そういえばこの男の顔をどこかで見たことがあるような気がして、もう一度顔を良く見てみたがいまいちピンとこない。こんな平均身長よりも頭一つ分以上飛び出た男のことなんて、一度会ったら絶対に忘れそうにないのに。誰だったか……と記憶を掘り返していると、緊迫した店内にカランカランと軽快なドアベルの音が鳴り響いた。
「あっ、こんにちは!お二人ともいらしてたんですね」
「……ナマエッ!無事だったのか!!」
「え、無事……?ちょっと買い物に行ってただけですよ?」
振り返れば、そこには変わらず元気そうなミョウジさんがいた。コートは着ずに、大きめの白いマフラーを肩に掛けたミョウジさんの鼻先と耳は寒さで赤くなっている。軽そうなエコバッグを片手に店の端からカウンターに入ったミョウジさんは、隣の大男のせいでいつもよりもかなり小さく華奢に見えた。
「いや~寒くなりましたね」
「だから言ったろ、コート着ていきなって」
「へへ、近くだからって舐めてました」
マフラーを取り、親しげに男と談笑しながらエコバッグから買った物を早速取り出しているようだ。近くの100円均一の店のロゴが入ったS字フックのパッケージがカウンター越しにチラリと見えて、パキパキと封を開ける音が聞こえてきた。
「ん?」
会話が途切れて、シンと静まり返った店内に違和感を覚えたのか、ミョウジさんが手元から顔を上げた。
「どうしたんですか?あれ?注文は?」
「いや、まだだ」
「えっ、ごめんなさい!月島さんはいつものですよね。鯉登さんは何にされますか?これ、新しい季節のメニューなんですけど……」
綺麗に整えられた指先がカウンタートップに貼られたメニューに伸ばされたが、鯉登さんはジッとミョウジさんの顔を見つめたままだ。横顔でも分かる程にふにゃりと目元が緩んでいて、咄嗟にメニューに視線を落とした。季節のドリンクはホワイトチョコのロイヤルミルクティーか。甘そうなメニューの名前と二人の雰囲気に胸やけを起こしそうだった。
「鯉登さん?」
「……耳が、赤くなっている」
「え?」
可愛いな、と伸ばされた指先はしかしミョウジさんに触れることはなかった。
「うちの従業員ナンパするのはやめてもらえますかね」
男がミョウジさんの肩を掴んで、その大きな図体の後ろへと隠したからだ。「そういう店じゃないんだよ」と敵意を隠そうとせずに見下ろしてくる男は、やはり堅気には見えない。いつ手が出るのか分からない焦りから、こちらも鯉登さんの肩を掴んで少し後ろへと下がらせようとしたが、男を睨み上げたまま頑なに動こうとしない。
「なぁ、お前誰だ?」
「オーナー!お客様です!」
ずいっと身を乗り出してきた男とカウンターの間に、ぐいぐいとミョウジさんが慌てて割り込んで来て、男を後ろへと追いやった。
「オーナー?!こんなに馴れ馴れしいのがか?!」
「家族だからな」
「……ナマエに兄弟は居ないはずだが?」
「なんで知ってるんですか?」
ミョウジさんがギョッとしたように鯉登さんと俺を見てきたので「すみません」と口だけを動かして軽く頭を下げた。鯉登さんが私的にミョウジさんについて知りたいと思っていたとは気づかずに、住所、氏名、年齢、電話番号、家族構成、卒業校……鯉登郵船のネットワークを駆使して色々と調べてしまったのは本当に申し訳ないと思っている。印刷したものは全てシュレッダーにかけ、俺のパソコンからもデータは消したが、鯉登さんに送ってしまったデータが本当に削除されたのかは定かではない。それに、削除されていたとしても、全部頭の中に入っていたら意味がない。
「やっぱりこいつストーカーなの?」
「あっ、いやっ、違います」
「家まで押しかけられてない?」
「お……」
押しかけました。風邪を引いた時に、一人暮らしなのだから倒れていたら大変だと鯉登さんが騒ぐので、医者を引き連れて押しかけたことを思い出して眉間を押さえた。ミョウジさんも完全に否定はできないと思っているのか、言葉に詰まってしまっている。
「押しかけたのは風邪を引いた時の一度だけだ!この間は夜遅かったから部屋に入るまで見届けただけで、押しかけてなどいない!」
「こっ、鯉登さんちょっと黙ってて……!」
「ストーカーじゃねぇか。引越し費用全額出すから今すぐ引っ越しな」
馬鹿正直に全てを離す鯉登さんに頭を抱えた。これは訴えられたら負けるぞ。
「迷惑だって俺がハッキリ言ってやるよ」
「ちがっ、違うんです本当に!この間は一緒にアイスホッケーの試合を観に行って、夜遅かったから送ってもらったんです!」
「部屋までいく必要ある?」
「……な、い、です、けど」
全く持って同感だ。部屋まで送るなんてちょっとやりすぎだと思うが、鯉登さんの場合は本当に良かれと思って行動しているので余計に質が悪い。
「なんのためにオートロックの所借りたと思ってるの」
「待て、あの部屋はもしかして社宅なのか?もっとセキュリティがしっかりした所に住まわせた方が良い」
「……ストーカーに防犯について進言されるなんてな」
「だからストーカーではない」
トントントンと苛立ったようにカウンターを人差し指で叩きながら鯉登さんが答えた。ミョウジさんの前だというのにすこぶる目つきが悪くなって、今にでも噛みつきそうで冷や冷やしてしまう。まだ血の気が多かった青年時代の面影が見え隠れしている。こんな態度の悪いところを取引先にでも見られたら大変だ。トントントンと苛立ちを代弁する音が店に響いて緊迫感が増していく。
「じゃあお前、ナマエちゃんの何なの?」
「私は……」
ピタッと、音が止まった。少しだけ視線が彷徨って、鯉登さんの声も途切れた。唐突に訪れた静けさに耳が痛くなるようだった。言葉が見つからずにそのまま空いていた口が閉ざされれば、ミョウジさんがキュッと口を結んで俯いたのが見えた。一瞬だけ見えたその顔は、少し悲しそうだった。
何なのか、と聞かれるとピッタリの言葉が見つからない。常連ではある。でも、ただの常連として片付けるにはあまりにも勿体無い。鯉登さんの一目惚れと一方的な求婚から始まった関係だが、水族館とアイスホッケー観戦と2回もデートに行って、今やそこそこ良い感じになりつつある。しかし、それを風呂敷のように全て余すことなく包んで相手に渡せるような言葉を、俺たちは誰も知らない。強いて言えば「友達以上恋人未満」というありきたりなフレーズがしっくりくるが、「友達」というのもまた違うからお手上げだ。気まずい沈黙を破ったのは、ミョウジさんだった。
「鯉登さんと月島さんは、とても良くしてもらってる常連さんです。本当にストーカーとかじゃないんですよ」
「……ナマエちゃんがそう言うなら信じるよ」
悪かったな、とオーナーが両手を上げて降参のポーズをしたが、鯉登さんはまだこの話は終わっていないと鋭い目つきのまま話し始めた。
「私よりも、家族を騙る奴の方が危ないのでは?大体、距離感が雇用主と従業員にしては近すぎる」
「社員は家族みたいなものって意味ですよね?あれです、アットホームな社風なんです」
「俺は本当にナマエちゃんのこと家族だと思ってるけど」
「オーナー、誤解を生むのでそういう冗談はやめましょう」
ミョウジさんが真顔で指摘したので、本当にただのでまかせのようだが、なんだかさっきから喧嘩を売られているような気がしてならない。当たり前のようにミョウジさんの肩に置かれた手のせいかもしれない。大体家族ってなんだ。兄か?父か?それとも……
「もう出会った時みたいに房太郎さんって呼んでくれないの?」
間違いない。喧嘩を売られている。鯉登さんの肩がピクッと動いた。
「もう何言って……仕事中に不適切じゃないですか」
「じゃあプライベートでは呼んでくれるってこと?」
にっこりと良い笑顔で、どこまでが本心なのか分からないことをオーナーが言った。「プライベートで会うことなんてないじゃないですか」と呆れ顔で返事をしたミョウジさんに、鯉登さんが分かりやすく安心したように胸を撫で下ろしていた。
「ん?房太郎……?」
「どうした月島?」
「あっ……大沢房太郎です。ほら、各業界に新規参入して荒らしていく実業家です」
「荒らすだなんて酷いな」
法の抜け穴をついたグレーな戦略や、業界の暗黙のルールなどを無視して好き勝手やって利益を掻っ攫っていく。横並び体質が染み付いている古い業界なんかは大打撃を受けたらしい。新しい風を吹かせる、と言えば聞こえは良いが、元からいる者からすれば突然嵐のようにやってきて、縄張りを荒らしていくのだからたまったものではないだろう。付いたあだ名が海賊房太郎。とは言え、最近はそういう荒業は封印しているらしく、あまり良くない噂を聞くことはなくなっている。
「あっ!どこかで見たことあると思ったら、お前鯉登郵船の……テレビでプロポーズするなんて面白いやつだなって気に入ってたのに」
あれナマエちゃんだったんだ、と話を振られたミョウジさんが困ったように笑った。
「じゃあ本気なんだな?」
「当たり前だ」
「そうか、遊びなら許さないと思ってたんだ。本気なら野暮なことはしたくない」
今度は心からそう思っているように「悪かったよ、本当に」と胡散臭い笑顔を封印して大沢房太郎が謝罪してきた。しかし、おもむろに脱いだばかりのエプロンをミョウジさんに着せたことで、落ち着きを取り戻した心がまたザワザワと波立った。背後に回って腰の紐を結ぶ姿はまるで恋人にネックレスを着けてあげるような仕草で、見ていてむず痒くなるし、最後に何か耳打ちまでしている。
「うめっ……?!」
何を言われたのか、ミョウジさんが目を真ん丸にして、ハッと口を両手で押さえた。
「梅?」
「いっ、いや、なんでもないです……」
「じゃあな、頑張れよ鯉登郵船」
後ろの扉を開けて、コートを取った大沢房太郎がカウンターの外に出てきた。体格に見合った大きな手をひらひらとミョウジさんに振って、ドアベルの音と共に店を後にした背中を、しばらく鯉登さんがギリギリと睨みつけていた。
「ええっと……そうだ、すみません。月島さんのまだでしたね」
ミョウジさんが手を洗ってから、注文したことさえ忘れていた俺の飲み物をテキパキと用意し始めた。
「あー……急ぎで処理しないといけないことがあったのを思い出しました。先に戻りますね」
「……分かった」
すぐに手渡された物を受け取って、会計を済ませながら鯉登さんに伝えれば、しおらしい返事が返ってきた。
「えっ、あっ、オーナーがすみませんでした!ありがとうございました!」
今は二人で話した方が良いだろう。幸い、今日はそこまで忙しくない。ごゆっくり、と心の中で呟いて踵を返した。
*
「急ぎで処理しないといけないことがあったのを思い出しました。先に戻りますね」
スマホのICカードでお会計を済ませた月島さんが、言い終わるなりすぐに踵を返した。慌ててお礼を言ってから残された鯉登さんの顔を伺ったら、唇を真っ直ぐに結んで不満そうに私の方を見ていたので、その圧にちょっと怯んでしまった。沈黙が気まずい。オーナーが変なこと言うから。カウンターの上で手持ち無沙汰な手をにぎにぎと遊ばせた。
──じゃあお前、ナマエちゃんの何なの?
さっきオーナーに言った通り、鯉登さんは常連さんである。でも、ただの常連さんと一括りにするのは違う。友達、と言うのもあまりしっくりこない。家族ではない。知り合いというのもよそよそしい。何なのか、と聞かれて納得する答えを返せなかったのがもどかしかった。いや、嫌だと思ってしまった。あの時、最適な言葉が見つからずに口を閉ざした鯉登さんを見て、すごく寂しかった。この関係に、名前が欲しいと願ってしまった。のらりくらりと躱してきたのは自分の癖に。
「オーナーはあんな人なんですけど、良い人なんです。私が前職で人間関係で色々あったから多分心配してて……」
沈黙に耐えきれずに聞かれてもないことをぽつりぽつりと話し始めたら、「ナマエ」と静かに呼ばれて背筋が伸びた。
「あっ、はい、すみません」
「私と、結婚してほしい」
急に両手を取られたと思ったらギュッと力強く握りこまれて、ボッと一瞬で顔が発火した。油断していた。久々に直球勝負を仕掛けられて言葉が全然出てこなかった。いつもは笑顔と輝く瞳でこういうことを言ってくるのに、今日の鯉登さんの瞳は真剣で、少しだけ寂しそうで、水族館の時を思い出した。私が、そうさせている。
「ナマエにとって私は、ただの常連か?」
「あっ……」
「ナマエが好きだ、出会った時からずっと」
あとは私が一歩を踏み出すだけなんだ。遊びなんかじゃない。ここから逃げてはいけない。鯉登さんはちゃんと向き合ってくれている。鯉登さんの人となりを具現化したような澄んだ瞳に吸い込まれるように、自分でも気づかないうちに最初の言葉を口に出していた。
「私──」
「寒ぃ〜おっ、鯉登じゃん。久しぶ……ごめん」
カランカランカラン、とドアが開く音がして入ってきたのはマフラーをぐるぐると巻いて鼻先を真っ赤にした杉元さんだった。首がもげそうなほどに物凄い勢いで鯉登さんが振り返ると「ひゃあっ!!」と叫び声を上げて、一目散に店から飛び出した。その後を間髪入れずに追いかけた鯉登さんのフォームがあまりにも綺麗で、一人残された店内で暫く笑いが止まらなかった。
「あーあ……」
言えなかったな。私も好きだって。
「嫌なことされたらいつでも言いな、俺が山に埋めてやるから」
2025.01.01
「月島は毎回同じ物を頼んでいて飽きないのか?」
「飽きませんね。美味しいと分かっている物から乗り換えるのも億劫ですし」
ふうん、とあまり理解していなさそうな返事をしながら、鯉登さんがスマホのインカメラで念入りに髪を整えている。心配しなくても、いつもの鯉登さんと変わりないのに。どんなあなただって、ミョウジさんは嬉しそうに顔を綻ばせるだろうに。
辿り着いたカフェのドアに鯉登さんが手をかけた──と思ったら、グルっと勢いよくUターンしてきて、避けることもできずに体同士が激しくぶつかり合った。うぐっと痛みに呻いて、弾かれるように数歩後ろによろけた鯉登さんの顔は真っ青だった。
「ちょっと、大丈夫ですか?危ないですよ、何なんですか急に」
「し、知らない男がいる……」
冷や汗をダラダラと垂らしながら、店内と俺を交互に見ている鯉登さんの言う通り、いつもミョウジさんが居るカウンターの奥には、ミョウジさんとは似ても似つかない長髪の大男が立っていた。腰まである髪を一つに括ってベージュのエプロンを着けているが、花柄の派手な黒い総柄のシャツがナチュラルなカフェの雰囲気をぶち壊している。捲られた袖から見える腕も筋肉質だ。まるで堅気には見えない男は、小首を傾げてこちらを不思議そうに見ている。
「だ、誰だあの男は!怪しすぎる……立てこもりか?!裏でナマエが捕まっているのでは?!」
腰ほどまでしかないブラックボードに、その長身を隠そうとしながらチラチラと鯉登さんが中を伺っている。どちらかというとあなたの方が怪しいですよ、という言葉は飲み込んだ。
「代理の方なんじゃないですか」
「あんな男を代理にするか……?」
「ほら、今流行りの単発バイトアプリで雇ったとか」
「碌に素性も分からん奴を雇うなんて不用心にもほどがある」
鯉登さんがガタガタと威嚇するようにブラックボードを揺らしている。まあ便利なものにはリスクは付きものだ。この店の経営を任されている店長なのだから、その辺りも理解しながら雇ったりもするだろう。
「とりあえず入りましょう。ミョウジさんはどうしたのか本人から話を聞いてみたら良いのでは?」
「そっ……そうだな、早くナマエを助けないと!」
このままだとブラックボードを破壊しかねない鯉登さんを引き連れてドアを引いた。カランカランといつもの音が響いて、暖かい店内へと足を踏み入れれば、「いらっしゃい」と思ったよりも優しげな声で男に歓迎された。
「いつもの方ではないんですね」
「ああ、今ちょっと出てて……いつも来てくれてるんだ?」
嬉しいなぁ、と男が朗らかで親しみやすい笑顔を見せてくるが、どことなく怪しい雰囲気が拭えない。しかし、鯉登さんが何か変なことを言う前にジャブとして投げかけた質問から、思った以上の収穫があった。どうやらこの男は単発のアルバイトではないらしい。いつも来てくれて嬉しい、と馴れ馴れしく言うからには、この店に普段から何らかの形で関わっている者なのだろう。
「もしかして、ナマエちゃん目当て?」
「ナマエ、ちゃん……?」
「あ、名前言ったの良くなかったかな……ここの店長の──」
「ナマエなら知っている」
鯉登さんのぴしゃりと拒むような声が狭い店内に響いた。
「……随分と馴れ馴れしいな」
「はは、呼び捨てにしてる奴に言われたくないな」
それは最もな指摘である。まだ数ターンしか会話をしていないというのに、もう険悪な雰囲気が漂っている二人にため息が漏れた。バチバチとカウンター越しに火花を散らしている様子を見ながら、そういえばこの男の顔をどこかで見たことがあるような気がして、もう一度顔を良く見てみたがいまいちピンとこない。こんな平均身長よりも頭一つ分以上飛び出た男のことなんて、一度会ったら絶対に忘れそうにないのに。誰だったか……と記憶を掘り返していると、緊迫した店内にカランカランと軽快なドアベルの音が鳴り響いた。
「あっ、こんにちは!お二人ともいらしてたんですね」
「……ナマエッ!無事だったのか!!」
「え、無事……?ちょっと買い物に行ってただけですよ?」
振り返れば、そこには変わらず元気そうなミョウジさんがいた。コートは着ずに、大きめの白いマフラーを肩に掛けたミョウジさんの鼻先と耳は寒さで赤くなっている。軽そうなエコバッグを片手に店の端からカウンターに入ったミョウジさんは、隣の大男のせいでいつもよりもかなり小さく華奢に見えた。
「いや~寒くなりましたね」
「だから言ったろ、コート着ていきなって」
「へへ、近くだからって舐めてました」
マフラーを取り、親しげに男と談笑しながらエコバッグから買った物を早速取り出しているようだ。近くの100円均一の店のロゴが入ったS字フックのパッケージがカウンター越しにチラリと見えて、パキパキと封を開ける音が聞こえてきた。
「ん?」
会話が途切れて、シンと静まり返った店内に違和感を覚えたのか、ミョウジさんが手元から顔を上げた。
「どうしたんですか?あれ?注文は?」
「いや、まだだ」
「えっ、ごめんなさい!月島さんはいつものですよね。鯉登さんは何にされますか?これ、新しい季節のメニューなんですけど……」
綺麗に整えられた指先がカウンタートップに貼られたメニューに伸ばされたが、鯉登さんはジッとミョウジさんの顔を見つめたままだ。横顔でも分かる程にふにゃりと目元が緩んでいて、咄嗟にメニューに視線を落とした。季節のドリンクはホワイトチョコのロイヤルミルクティーか。甘そうなメニューの名前と二人の雰囲気に胸やけを起こしそうだった。
「鯉登さん?」
「……耳が、赤くなっている」
「え?」
可愛いな、と伸ばされた指先はしかしミョウジさんに触れることはなかった。
「うちの従業員ナンパするのはやめてもらえますかね」
男がミョウジさんの肩を掴んで、その大きな図体の後ろへと隠したからだ。「そういう店じゃないんだよ」と敵意を隠そうとせずに見下ろしてくる男は、やはり堅気には見えない。いつ手が出るのか分からない焦りから、こちらも鯉登さんの肩を掴んで少し後ろへと下がらせようとしたが、男を睨み上げたまま頑なに動こうとしない。
「なぁ、お前誰だ?」
「オーナー!お客様です!」
ずいっと身を乗り出してきた男とカウンターの間に、ぐいぐいとミョウジさんが慌てて割り込んで来て、男を後ろへと追いやった。
「オーナー?!こんなに馴れ馴れしいのがか?!」
「家族だからな」
「……ナマエに兄弟は居ないはずだが?」
「なんで知ってるんですか?」
ミョウジさんがギョッとしたように鯉登さんと俺を見てきたので「すみません」と口だけを動かして軽く頭を下げた。鯉登さんが私的にミョウジさんについて知りたいと思っていたとは気づかずに、住所、氏名、年齢、電話番号、家族構成、卒業校……鯉登郵船のネットワークを駆使して色々と調べてしまったのは本当に申し訳ないと思っている。印刷したものは全てシュレッダーにかけ、俺のパソコンからもデータは消したが、鯉登さんに送ってしまったデータが本当に削除されたのかは定かではない。それに、削除されていたとしても、全部頭の中に入っていたら意味がない。
「やっぱりこいつストーカーなの?」
「あっ、いやっ、違います」
「家まで押しかけられてない?」
「お……」
押しかけました。風邪を引いた時に、一人暮らしなのだから倒れていたら大変だと鯉登さんが騒ぐので、医者を引き連れて押しかけたことを思い出して眉間を押さえた。ミョウジさんも完全に否定はできないと思っているのか、言葉に詰まってしまっている。
「押しかけたのは風邪を引いた時の一度だけだ!この間は夜遅かったから部屋に入るまで見届けただけで、押しかけてなどいない!」
「こっ、鯉登さんちょっと黙ってて……!」
「ストーカーじゃねぇか。引越し費用全額出すから今すぐ引っ越しな」
馬鹿正直に全てを離す鯉登さんに頭を抱えた。これは訴えられたら負けるぞ。
「迷惑だって俺がハッキリ言ってやるよ」
「ちがっ、違うんです本当に!この間は一緒にアイスホッケーの試合を観に行って、夜遅かったから送ってもらったんです!」
「部屋までいく必要ある?」
「……な、い、です、けど」
全く持って同感だ。部屋まで送るなんてちょっとやりすぎだと思うが、鯉登さんの場合は本当に良かれと思って行動しているので余計に質が悪い。
「なんのためにオートロックの所借りたと思ってるの」
「待て、あの部屋はもしかして社宅なのか?もっとセキュリティがしっかりした所に住まわせた方が良い」
「……ストーカーに防犯について進言されるなんてな」
「だからストーカーではない」
トントントンと苛立ったようにカウンターを人差し指で叩きながら鯉登さんが答えた。ミョウジさんの前だというのにすこぶる目つきが悪くなって、今にでも噛みつきそうで冷や冷やしてしまう。まだ血の気が多かった青年時代の面影が見え隠れしている。こんな態度の悪いところを取引先にでも見られたら大変だ。トントントンと苛立ちを代弁する音が店に響いて緊迫感が増していく。
「じゃあお前、ナマエちゃんの何なの?」
「私は……」
ピタッと、音が止まった。少しだけ視線が彷徨って、鯉登さんの声も途切れた。唐突に訪れた静けさに耳が痛くなるようだった。言葉が見つからずにそのまま空いていた口が閉ざされれば、ミョウジさんがキュッと口を結んで俯いたのが見えた。一瞬だけ見えたその顔は、少し悲しそうだった。
何なのか、と聞かれるとピッタリの言葉が見つからない。常連ではある。でも、ただの常連として片付けるにはあまりにも勿体無い。鯉登さんの一目惚れと一方的な求婚から始まった関係だが、水族館とアイスホッケー観戦と2回もデートに行って、今やそこそこ良い感じになりつつある。しかし、それを風呂敷のように全て余すことなく包んで相手に渡せるような言葉を、俺たちは誰も知らない。強いて言えば「友達以上恋人未満」というありきたりなフレーズがしっくりくるが、「友達」というのもまた違うからお手上げだ。気まずい沈黙を破ったのは、ミョウジさんだった。
「鯉登さんと月島さんは、とても良くしてもらってる常連さんです。本当にストーカーとかじゃないんですよ」
「……ナマエちゃんがそう言うなら信じるよ」
悪かったな、とオーナーが両手を上げて降参のポーズをしたが、鯉登さんはまだこの話は終わっていないと鋭い目つきのまま話し始めた。
「私よりも、家族を騙る奴の方が危ないのでは?大体、距離感が雇用主と従業員にしては近すぎる」
「社員は家族みたいなものって意味ですよね?あれです、アットホームな社風なんです」
「俺は本当にナマエちゃんのこと家族だと思ってるけど」
「オーナー、誤解を生むのでそういう冗談はやめましょう」
ミョウジさんが真顔で指摘したので、本当にただのでまかせのようだが、なんだかさっきから喧嘩を売られているような気がしてならない。当たり前のようにミョウジさんの肩に置かれた手のせいかもしれない。大体家族ってなんだ。兄か?父か?それとも……
「もう出会った時みたいに房太郎さんって呼んでくれないの?」
間違いない。喧嘩を売られている。鯉登さんの肩がピクッと動いた。
「もう何言って……仕事中に不適切じゃないですか」
「じゃあプライベートでは呼んでくれるってこと?」
にっこりと良い笑顔で、どこまでが本心なのか分からないことをオーナーが言った。「プライベートで会うことなんてないじゃないですか」と呆れ顔で返事をしたミョウジさんに、鯉登さんが分かりやすく安心したように胸を撫で下ろしていた。
「ん?房太郎……?」
「どうした月島?」
「あっ……大沢房太郎です。ほら、各業界に新規参入して荒らしていく実業家です」
「荒らすだなんて酷いな」
法の抜け穴をついたグレーな戦略や、業界の暗黙のルールなどを無視して好き勝手やって利益を掻っ攫っていく。横並び体質が染み付いている古い業界なんかは大打撃を受けたらしい。新しい風を吹かせる、と言えば聞こえは良いが、元からいる者からすれば突然嵐のようにやってきて、縄張りを荒らしていくのだからたまったものではないだろう。付いたあだ名が海賊房太郎。とは言え、最近はそういう荒業は封印しているらしく、あまり良くない噂を聞くことはなくなっている。
「あっ!どこかで見たことあると思ったら、お前鯉登郵船の……テレビでプロポーズするなんて面白いやつだなって気に入ってたのに」
あれナマエちゃんだったんだ、と話を振られたミョウジさんが困ったように笑った。
「じゃあ本気なんだな?」
「当たり前だ」
「そうか、遊びなら許さないと思ってたんだ。本気なら野暮なことはしたくない」
今度は心からそう思っているように「悪かったよ、本当に」と胡散臭い笑顔を封印して大沢房太郎が謝罪してきた。しかし、おもむろに脱いだばかりのエプロンをミョウジさんに着せたことで、落ち着きを取り戻した心がまたザワザワと波立った。背後に回って腰の紐を結ぶ姿はまるで恋人にネックレスを着けてあげるような仕草で、見ていてむず痒くなるし、最後に何か耳打ちまでしている。
「うめっ……?!」
何を言われたのか、ミョウジさんが目を真ん丸にして、ハッと口を両手で押さえた。
「梅?」
「いっ、いや、なんでもないです……」
「じゃあな、頑張れよ鯉登郵船」
後ろの扉を開けて、コートを取った大沢房太郎がカウンターの外に出てきた。体格に見合った大きな手をひらひらとミョウジさんに振って、ドアベルの音と共に店を後にした背中を、しばらく鯉登さんがギリギリと睨みつけていた。
「ええっと……そうだ、すみません。月島さんのまだでしたね」
ミョウジさんが手を洗ってから、注文したことさえ忘れていた俺の飲み物をテキパキと用意し始めた。
「あー……急ぎで処理しないといけないことがあったのを思い出しました。先に戻りますね」
「……分かった」
すぐに手渡された物を受け取って、会計を済ませながら鯉登さんに伝えれば、しおらしい返事が返ってきた。
「えっ、あっ、オーナーがすみませんでした!ありがとうございました!」
今は二人で話した方が良いだろう。幸い、今日はそこまで忙しくない。ごゆっくり、と心の中で呟いて踵を返した。
*
「急ぎで処理しないといけないことがあったのを思い出しました。先に戻りますね」
スマホのICカードでお会計を済ませた月島さんが、言い終わるなりすぐに踵を返した。慌ててお礼を言ってから残された鯉登さんの顔を伺ったら、唇を真っ直ぐに結んで不満そうに私の方を見ていたので、その圧にちょっと怯んでしまった。沈黙が気まずい。オーナーが変なこと言うから。カウンターの上で手持ち無沙汰な手をにぎにぎと遊ばせた。
──じゃあお前、ナマエちゃんの何なの?
さっきオーナーに言った通り、鯉登さんは常連さんである。でも、ただの常連さんと一括りにするのは違う。友達、と言うのもあまりしっくりこない。家族ではない。知り合いというのもよそよそしい。何なのか、と聞かれて納得する答えを返せなかったのがもどかしかった。いや、嫌だと思ってしまった。あの時、最適な言葉が見つからずに口を閉ざした鯉登さんを見て、すごく寂しかった。この関係に、名前が欲しいと願ってしまった。のらりくらりと躱してきたのは自分の癖に。
「オーナーはあんな人なんですけど、良い人なんです。私が前職で人間関係で色々あったから多分心配してて……」
沈黙に耐えきれずに聞かれてもないことをぽつりぽつりと話し始めたら、「ナマエ」と静かに呼ばれて背筋が伸びた。
「あっ、はい、すみません」
「私と、結婚してほしい」
急に両手を取られたと思ったらギュッと力強く握りこまれて、ボッと一瞬で顔が発火した。油断していた。久々に直球勝負を仕掛けられて言葉が全然出てこなかった。いつもは笑顔と輝く瞳でこういうことを言ってくるのに、今日の鯉登さんの瞳は真剣で、少しだけ寂しそうで、水族館の時を思い出した。私が、そうさせている。
「ナマエにとって私は、ただの常連か?」
「あっ……」
「ナマエが好きだ、出会った時からずっと」
あとは私が一歩を踏み出すだけなんだ。遊びなんかじゃない。ここから逃げてはいけない。鯉登さんはちゃんと向き合ってくれている。鯉登さんの人となりを具現化したような澄んだ瞳に吸い込まれるように、自分でも気づかないうちに最初の言葉を口に出していた。
「私──」
「寒ぃ〜おっ、鯉登じゃん。久しぶ……ごめん」
カランカランカラン、とドアが開く音がして入ってきたのはマフラーをぐるぐると巻いて鼻先を真っ赤にした杉元さんだった。首がもげそうなほどに物凄い勢いで鯉登さんが振り返ると「ひゃあっ!!」と叫び声を上げて、一目散に店から飛び出した。その後を間髪入れずに追いかけた鯉登さんのフォームがあまりにも綺麗で、一人残された店内で暫く笑いが止まらなかった。
「あーあ……」
言えなかったな。私も好きだって。
「嫌なことされたらいつでも言いな、俺が山に埋めてやるから」
2025.01.01
