カフェ店長シリーズ
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氷上の格闘技と呼ばれるアイスホッケー。雪国では有名なスポーツだけど、日本全体での知名度は高いとは言い難い。かく言う私も、お店の常連の杉元さんがアイスホッケー選手だと知るまでは、一度もこの競技について深く考えたことなんてなかった。でも身近な人がやっているスポーツとなれば、折角なので色々聞いてみたいとミーハー心が擽られてしまうもので。最初は試合の勝敗などを聞いていただけだったのに、段々と興味が湧いてきて、最近では自分で調べてルールも軽く覚えるほどになっていた。「試合を見たこともないのにおかしいですよね」とポロッと零したら「明日試合あるけど観に来てみる?」と抹茶ラテを片手に杉元さんがパァッと顔を明るくした。
「いいんですか?」
「うん、興味持ってくれるの嬉しいし。あっ、でも夜からだから、帰りが遅くなっちゃうんだけど……」
「全然大丈夫です!」
じゃああとで地図とか連絡するね、と連絡先を交換して、杉元さんが去って行った。
そして、今日。
「今夜杉元の試合を観に行くんだろう。何時に出るんだ」
「8時くらいかなぁって思ってます、けど……」
鯉登さん何で知ってるんですか、と今日は来られなかった月島さんの分のドリンクも入った紙袋を渡した。
「私も行く」
「えっ?!」
鯉登さんの後ろで静かに注文待ちをしていた杉元さんが、とても良い笑顔で親指を立てていた。
──ハメられた!
なんでそんな余計なことするんですか、いつの間にそんなに仲良くなったんですか、と思念を込めて杉元さんを睨んでも更に笑みが深まるだけで、思わずカウンターの裏で地団駄を踏んだ。
「嫌なのか?」
「いやいやいや、嫌ではないです、けど……!」
「折角だから一緒に夕飯食べたら?」
「杉元さんッ?!」
今まで極限まで存在感を薄めていた杉元さんがずいっと私たちの間に入ってきて、とんでもない提案をしてきた。そんなこと急に言われても心の準備が!と慌てていると、会議があるから食事は時間的に難しい、と鯉登さんが腕時計を確認しながら言った。少しだけ残念だな、と思ってしまった自分が嫌だった。どれだけ受け身で我儘なんだ、私は。
「8時に迎えにくる」
そう手短に言い残して、鯉登さんが去っていった。
*
「わー!ホッケーリンク初めてです!広い!寒い!」
「平日なのに結構人がいるんだな」
鯉登さんと一緒にリンクを見回しながら、すり鉢状の観客席の階段をゆっくりと下りていく。予定より少し押して到着した初めてのホッケーリンクは、ほんのり寒くて、思っていたよりも大きかった。どこに座れば良いのかすら分からなかったので、事前に杉元さんに聞いていたエリアの空いている席に、二人で並んで腰を下ろした。周りではお揃いの赤いTシャツを着ている人たちが、垂れ幕などの準備をしている。赤は杉元さんが所属しているチームのチームカラーだ。向かい側でも青い服の人たちが同じように準備をしているのが見えた。
「鯉登さんはご飯食べられたんですか?」
「ああ、軽く済ませてきた」
それなら良かった。8時をやや過ぎたところで、息を切らしながら鯉登さんがお店にやってきたから、もしかしたら何も食べていないのかと思って少し心配していたのだ。遅くなって申し訳ない、といつもは凛々しい眉をぐっと下げて謝られ、むしろこちらがとても申し訳ない気持ちになった。仕事だし、そんなに待ったわけでもないし、まだ間に合うし、全然良かったのに。まあちょっと、鯉登さんが来るまでそわそわする時間が長かったけど、念入りにメイク直しとかもできたし。でもそんなことよりも、仕事が大変そうなのにここに来て大丈夫なのか心配になってしまった。
「寒くないか?」
「大丈夫です、色々持ってきたので」
カバンからカーディガンと大判のストールを取り出して見せた。寒いと思うから上着とか持ってきた方が良いかも、と杉元さんに言われていたので準備は万端だ。ついでにカイロ代わりにもなるかと思って、お店で作ってきたホットドリンクを紙袋から取り出した。
「こっちがデカフェのカフェオレ、こっちがホットココアです。鯉登さんはどっちがいいですか?」
「……ココアがいい」
視線が私の右手と左手を何度か往復したあとに導き出された答えに、左手に持っていたココアを差し出した。
「一緒に食べようと思ってクッキーとかも持ってきちゃいました」
ドリンクと一緒に紙袋に入れていた物をいくつか渡そうと顔を上げれば、すぐ隣で鯉登さんが嬉しそうに目元を緩ませながら私のことを見ていて、驚いてクッキーをまた紙袋の中にドサドサと落としてしまった。優しすぎるほどの眼差しが直視できなくて、サッと目線を紙袋に落とした。
「えっ、なっ、なんですか……?」
頑張って絞り出した声に、リンクから突然聞こえてきた掛け声が重なった。円陣を組み終えた選手達が配置につき、審判がリンクの真ん中でパックを持っている。試合が始まる。慌ててカーディガンを羽織って、ストールを膝にかけてリンクに向き直った。周りからの歓声も徐々に落ち着いてきて、緊張感がぐんっと高まっていく。鳥肌が立ってこちらまで息を呑んでしまうほどだった。向き合った二人の選手の間にパックが落とされ、止まっていた時が一気に加速した。
「すっごい迫力ですね!」
「や、野蛮だ!」
「野蛮は失礼ですよ」
「む……」
「ひっ、あー危ない!」
パックを奪い合う激しいぶつかり合いは、見ているだけでハラハラドキドキする。野蛮は言い過ぎだと思うが、氷上の格闘技という名は伊達じゃないんだなと手に汗を握りながら思った。動画とかで観るのとはわけが違う。生で観ると重さと速さとパワーがひしひしと伝わってくる。選手が入れ替わり立ち代わりにリンクに入ってくるスピード感もすごい。
「何故あんなに選手が入れ替わるんだ?何かタイミングがあるのか?」
「休憩のためですね。タイミングは疲れて動けなくなったら、らしいです」
「……大雑把だな」
「面白いですよね、公式ルールなのに」
そんなざっくりした感じで良いのか、と私も最初に思ったことを思い出して笑ってしまった。スポーツってもっとこう、ルールがちゃんと決められているものだと思い込んでいたから、アイスホッケーのそういった所も新鮮で面白いなと興味が引かれる理由になったのだ。
「どれが杉元だ?」
「31番です。佐一だから31番なんですかね?」
「さ、佐一……?!」
「わっ!あぁー、惜しい!」
丁度話していた31番こと杉元さんの鋭く放ったシュートが、ゴーリーによって止められてしまった。その後も度々杉元さんチームにとって惜しい場面が訪れるが、中々点に繋がらないじれったい状況が続いたまま、第一ピリオドが終わろうとしていた。
いつの間にか前のめりになっていた体を背もたれに預けたが、やっぱり落ち着かなくてまた座り直した。先ほどからそわそわしてしまうのは、点が入らないからだけではなかった。プラスチック製の椅子に体温を奪われるのか、時間が経つにつれて段々と体が冷えてきて、つらくなってきた。もうすっかり冷めきってしまったカフェラテをぐいっと飲み切った。他の観客を盗み見たら水筒を持ってきている人が多くて、今度来るときは絶対に水筒に温かい飲み物を入れてこようと固く決意した。リンクの寒さを舐めてたな、もっと厚めの上着を持ってきた方が良かったな、と無意識に腕をさすっていたら、急にふわりと温もりに包まれた。見慣れた濃いグレーのジャケットが、私の肩に掛かっていた。
「寒いんだろう」
「えっ、えっ、でも鯉登さんは?」
「私は大丈夫だ」
防寒具がひとつ増えただけでなく、違う意味でも体温が上昇していく。身じろいだ拍子にほのかに良い匂いも漂って来て、うかつに動けない。全身で鯉登さんの温もりと匂いを感じてしまうこの状況は、まるで抱きしめられているみたいで──一瞬よぎった変態的な考えを散らすために、思いっきり首をブンブンと振った。
「ん?あのボール……?は手で触れても良いのか」
「えっ?あっ、ああ、パックですね、すぐリンクに落とせば反則じゃないんです」
「……さっきからなんでそんなに詳しいんだ」
「色々読んだり、杉元さんに教えてもらったので……あっ!杉元さんだ!」
31番が空いたスペースへと素早く躍り出て、力強くスティックを振りかぶった。ゴーリーとの一騎打ちだ。入れ、と空になったカフェオレのカップを両手でぎゅっと握って祈ったと同時に、ゴールネットが強く揺れた。
「やった!すご──」
キャー!!という大きな黄色い声援に私の声が掻き消され、びくりと肩が跳ねて鯉登さんのジャケットがずり落ちた。杉元さんのファンだろうか。自分で調べている時に知ったのだけど、杉元さんはその腕前と顔立ちからアイスホッケー界でちょっとした有名人なようで、広告塔のような役割もしているらしかった。女性ファンも多いのだとか。平日の夜なのに人が多いのも、多分杉元さん目当ての人が多いからだ。そんな凄い人が私のカフェの常連さんだなんて誇らしい。
「杉元のくせに……」
大喜びのファンの人達に手を振っている杉元さんを睨みながら、鯉登さんがギリギリと歯を食いしばって悔しそうにしている。こんな所で張り合わなくても、鯉登さんだって十分凄い人なのに。いつの間に私たちに気づいていたのか、杉元さんがブンブンと私達にも大きく手を振ってきた。高揚した気分のまま、私も大きく振り返したら、鯉登さんに突然右手を掴まれて無理やり下ろされた。
「……なんで?」
「なんでもだ」
「せっかくだから鯉登さんも手振りましょうよ」
「絶対に嫌だ」
ムッと唇を尖らせて前を見続けている横顔は、いつもよりも子供っぽく見えた。
「……あの、鯉登さん」
「絶対に振らないぞ」
「いや、えっと……て、手を、離してほしいのですが……」
「……嫌だ」
引っ込めようとした右手が、綱引きのように拮抗した後にぐぐっと反対側に引っ張られて鯉登さんの膝の上に置かれた。褐色の大きくて温かい左手が重ねられ、すっぽりと私の手を包んでいる。暑い。さっきまであんなに寒かったのに、もう鯉登さんのジャケットを返したいくらい暑かった。服の下が汗びっしょりになっているのが分かって恥ずかしい。耳もジンジンしていて、顔が真っ赤になっているのが鏡を見なくても分かった。結局、最終ピリオドまで手は離されないままで、試合よりも繋がれた右手が気になって俯きがちだったせいで、どっちが勝ったのかすら私は暫く分かっていなかった。結果は杉元さんチームが僅差で勝ったようだった。
「あの……杉元さんに挨拶したいんですけど、鯉登さんは先に帰りますか?」
「いや、家まで送っていく」
「いいですって、そんな。一人で帰れますよ」
昼間に月島さんが居なかったこと、店での会話もいつもより少なめだったこと、さっき遅れて来たこと……仕事が忙しいのだと推察する材料は十分すぎるほどにあった。なんで鯉登さんに試合のこと話したんですか、と昼間に杉元さんを問い詰めたら「だって夜遅くなるから心配で……」と返ってきたから、多分鯉登さんはアイスホッケーが観たくてここにいる訳でもないのだろう。大変な時にわざわざ私についてきてくれて、申し訳ない気持ちがずっと心の片隅を占領していた。杉元さんも鯉登さんも変な気を遣わなくて良いのに。
「今日忙しかったんですよね」
「……そうでもない」
「無理してついてこなくても良かったんですよ、遅いって言ってもまだ10時台なのに」
前の会社で働いていた時なんて、終電ギリギリに帰ることだってあった。遅いと言えば遅いけど、まだそんなに心配されるほどの時間帯ではないと思うのだ。
「私がついてきたかったんだ」
「……アイスホッケーに興味ないのに?」
じいっと見つめれば、鯉登さんが分かりやすく言葉に詰まった。久々にじっくりと直視したその顔は、いつもよりも少し疲れているように見えた。本当に、無理しないで良かったのに。一緒にいられて嬉しかったけど、試合観戦をするよりも、仕事を片付けたり、早く家に帰って休んだほうがよっぽど鯉登さんのためになったんじゃないだろうか。しかもこれから私を家まで送るなんて、鯉登さんの負担が大きすぎる。というかすっかり忘れていたけれど、鯉登さんは天下の鯉登郵船の御曹司なのだ。送迎される側の人間に送迎させるなんて、私はなんて罰当たりなことをしているのだろう。
「杉元さんから頼まれて断れなかったんですか?遅い時間に私を一人で帰すのかって」
「それは違う」
「じゃあなんで……」
鯉登さんがバツが悪そうに目線を逸らし、空いている手で口元を覆った。
「ナマエと、またデートがしたかった」
どくっと勢いよく跳ねた心臓が口から飛び出そうになって、慌てて口を閉ざした。重なった手に力が込められて、落ち着いていた体温がまた急上昇していく。
「ナマエのことを……ナマエの好きな物を、もっと知りたかった」
「なっ……」
何を言ってるんですか、もう。ちゃんと言えていたのか分からないくらい、言葉をモゴモゴと口の中で転がした。重なった手が熱くて、リンクの氷だって溶かせそうだった。
「……今度は、鯉登さんが好きなものにしましょうね」
言いながら恥ずかしくなってしまって、一瞬緩んだ手の中から逃げ出して、リンク際に居た杉元さん目掛けて階段を駆け下りた。私に気づいてヘルメットを取った杉元さんは、前髪がしっとりと額にかかっていて、普段と全然雰囲気が違った。
「杉元さん!今日はありがとうございました!すごくワクワクしました!生で観るとやっぱり臨場感が違いますね!」
緊張の余韻から早口で捲し立てる私に「そりゃあ良かった」と杉元さんが嬉しそうにリンクから上がってきて、少し声を落として話し始めた。
「それより二人とも良い感じじゃん」
「そ、そんなこと……」
「あいつのジャケット着ちゃって、手まで繋いじゃってさ、それが良い感じじゃなければ何が良い感じになるんだい?」
手を繋いでいた所も見られていたのか。目ざとすぎる。言い返せなくて、肩に掛かったジャケットの前裾を握って黙りこめば、それはそれは楽しそうに杉元さんが笑った。
「ミョウジさんのこと、ちゃんと送ってやれよ」
「言われなくてもそうする」
階段の途中で待っていた鯉登さんが腕組みをしながら答えた。じゃあ気を付けてね、と杉元さんがチームの方たちと去って行ったので、私たちも忘れ物がないことを確認してから外へ出た。
「えっと駅は……」
「さっきタクシーを呼んでおいた」
地図アプリを確認しながら歩き始めようとしていた私を鯉登さんが引き留めた。あれだ、と状況が理解できる前に、少し先で止まっているタクシーに向かって鯉登さんが歩き始めた。ここから私の家まではそこそこの距離だ。いくらかかるのかも見当がつかない。それに、お店からここに来るまでの移動もタクシーで、お金も払わせてもらえなかった。あの時は電車だとギリギリの時間になってしまうから仕方ないかなと思ってたけど、もしかして鯉登さんって常に車で移動してるんだろうか。確かに吊り革に捕まっている鯉登さんは想像できないけど。いつか見た立派な黒塗りの車を思い出しているうちにタクシーのドアが開いて、ドア横で私のことを待つ鯉登さんに慌てて小走りで駆け寄った。
「鯉登さんって電車乗ったことあります?」
「それくらいある」
「あっ、ですよね」
「大阪には出張でたまに行くからな」
それは新幹線です、と乗り込もうとしたタクシーに頭をぶつけながら思った。
借りたままだった上着も返し、会話らしい会話もない中、どんどん上がっていくメーターに冷や汗をかきながら2、30分ほどタクシーに乗ってやっと辿り着いた我が家は、いつもよりも心休まる佇まいをしてるように見えた。私がお金を出そうとモタモタしている間に、運転手さんに少し待つように告げた鯉登さんが車を降りてしまったので、急いで後を追った。鯉登さんは迷わずマンションのエントランスへと歩いて行く。私の家なんですが。お金を渡そうとしても取りつく島もなくて、渋々お札をまた財布にしまった。
「えっと……ありがとうございました」
もうここまでで大丈夫ですよ、と暗に伝えてみたが鯉登さんが帰る気配はない。ぎこちなく暗証番号を押してエントランスが開けば、鯉登さんが私と一緒に入って来た。ど、どこまでついてくるんだろう。エレベーターにも先に乗られて、2階のボタンを押されてしまった。気まずい空気のまま、点々と明かりがついた薄暗い外廊下を歩いて、部屋のドアの前まで辿り着いた。
「あの、本当にありがとうございました」
「気にするな」
いや気にしますって。流石に杉元さんだってここまで送ったとは絶対に思ってないだろう。タクシーも待たせているし、じゃあまた、と手短に挨拶を済ませて、音を立てないようにゆっくりとドアを閉めた。
「早く鍵を閉めろ」
「ふふっ、鯉登さん前もそれ言ってましたね」
私が風邪を引いた時にも、同じようなことを扉の向こうで言っていた。意外とせっかちなんだなと思ったことを懐かしく思い出していたら、手の中のドアノブが大きく動いて、勢いよくドアが開いた。ぐんっと外に引き摺り出されて、バランスを崩した体が鯉登さんにぶつかった。
「ちょっ、こ、鯉登さん?」
「……これが私じゃなかったらどうするんだ」
「え?」
「低層階でセキュリティも甘い。押し入られたらどうする」
セキュリティが甘いって、一応オートロックなのに。庶民にとってはこれがちゃんとしたセキュリティなんですよ、と言い返そうと思った。鯉登さんの目を見るまでは。
真剣で、少し怒っている目だった。いつもの雰囲気とはまるで違う。掴まれた肩に力が入っている。天地がひっくり返っても力で敵わないのだと、本能的に察知した。真上にある鯉登さんの顔を見上げているせいで首が痛いのに、体が固まってしまって、視線を逸らせられなかった。逆光なのも相まって、少し怖かった。これが鯉登さんじゃなかったら。そんなこと、考えたくもなかった。
「分かったら部屋に入ったらすぐに鍵を閉めろ」
「は、はい」
「……ナマエはもっと警戒した方が良い」
鯉登さんが今度は私の肩をぐいぐいと押し戻して、ドアを閉めた。また何か言われる前に急いでガチャっと鍵を閉めて、鯉登さんに聞こえるようにドアガードも大げさな音を立てて掛けた。
「暖かくして早く寝ろ」
「はい、鯉登さんも。おやすみなさい」
短い返事のあとに、コツコツと革靴の音が遠ざかってやがて聞こえなくなった。ドア越しのくぐもった声での会話はちょっぴり切なくて、しばらく玄関で立ち尽くしてしまった。
2024.10.31
「いいんですか?」
「うん、興味持ってくれるの嬉しいし。あっ、でも夜からだから、帰りが遅くなっちゃうんだけど……」
「全然大丈夫です!」
じゃああとで地図とか連絡するね、と連絡先を交換して、杉元さんが去って行った。
そして、今日。
「今夜杉元の試合を観に行くんだろう。何時に出るんだ」
「8時くらいかなぁって思ってます、けど……」
鯉登さん何で知ってるんですか、と今日は来られなかった月島さんの分のドリンクも入った紙袋を渡した。
「私も行く」
「えっ?!」
鯉登さんの後ろで静かに注文待ちをしていた杉元さんが、とても良い笑顔で親指を立てていた。
──ハメられた!
なんでそんな余計なことするんですか、いつの間にそんなに仲良くなったんですか、と思念を込めて杉元さんを睨んでも更に笑みが深まるだけで、思わずカウンターの裏で地団駄を踏んだ。
「嫌なのか?」
「いやいやいや、嫌ではないです、けど……!」
「折角だから一緒に夕飯食べたら?」
「杉元さんッ?!」
今まで極限まで存在感を薄めていた杉元さんがずいっと私たちの間に入ってきて、とんでもない提案をしてきた。そんなこと急に言われても心の準備が!と慌てていると、会議があるから食事は時間的に難しい、と鯉登さんが腕時計を確認しながら言った。少しだけ残念だな、と思ってしまった自分が嫌だった。どれだけ受け身で我儘なんだ、私は。
「8時に迎えにくる」
そう手短に言い残して、鯉登さんが去っていった。
*
「わー!ホッケーリンク初めてです!広い!寒い!」
「平日なのに結構人がいるんだな」
鯉登さんと一緒にリンクを見回しながら、すり鉢状の観客席の階段をゆっくりと下りていく。予定より少し押して到着した初めてのホッケーリンクは、ほんのり寒くて、思っていたよりも大きかった。どこに座れば良いのかすら分からなかったので、事前に杉元さんに聞いていたエリアの空いている席に、二人で並んで腰を下ろした。周りではお揃いの赤いTシャツを着ている人たちが、垂れ幕などの準備をしている。赤は杉元さんが所属しているチームのチームカラーだ。向かい側でも青い服の人たちが同じように準備をしているのが見えた。
「鯉登さんはご飯食べられたんですか?」
「ああ、軽く済ませてきた」
それなら良かった。8時をやや過ぎたところで、息を切らしながら鯉登さんがお店にやってきたから、もしかしたら何も食べていないのかと思って少し心配していたのだ。遅くなって申し訳ない、といつもは凛々しい眉をぐっと下げて謝られ、むしろこちらがとても申し訳ない気持ちになった。仕事だし、そんなに待ったわけでもないし、まだ間に合うし、全然良かったのに。まあちょっと、鯉登さんが来るまでそわそわする時間が長かったけど、念入りにメイク直しとかもできたし。でもそんなことよりも、仕事が大変そうなのにここに来て大丈夫なのか心配になってしまった。
「寒くないか?」
「大丈夫です、色々持ってきたので」
カバンからカーディガンと大判のストールを取り出して見せた。寒いと思うから上着とか持ってきた方が良いかも、と杉元さんに言われていたので準備は万端だ。ついでにカイロ代わりにもなるかと思って、お店で作ってきたホットドリンクを紙袋から取り出した。
「こっちがデカフェのカフェオレ、こっちがホットココアです。鯉登さんはどっちがいいですか?」
「……ココアがいい」
視線が私の右手と左手を何度か往復したあとに導き出された答えに、左手に持っていたココアを差し出した。
「一緒に食べようと思ってクッキーとかも持ってきちゃいました」
ドリンクと一緒に紙袋に入れていた物をいくつか渡そうと顔を上げれば、すぐ隣で鯉登さんが嬉しそうに目元を緩ませながら私のことを見ていて、驚いてクッキーをまた紙袋の中にドサドサと落としてしまった。優しすぎるほどの眼差しが直視できなくて、サッと目線を紙袋に落とした。
「えっ、なっ、なんですか……?」
頑張って絞り出した声に、リンクから突然聞こえてきた掛け声が重なった。円陣を組み終えた選手達が配置につき、審判がリンクの真ん中でパックを持っている。試合が始まる。慌ててカーディガンを羽織って、ストールを膝にかけてリンクに向き直った。周りからの歓声も徐々に落ち着いてきて、緊張感がぐんっと高まっていく。鳥肌が立ってこちらまで息を呑んでしまうほどだった。向き合った二人の選手の間にパックが落とされ、止まっていた時が一気に加速した。
「すっごい迫力ですね!」
「や、野蛮だ!」
「野蛮は失礼ですよ」
「む……」
「ひっ、あー危ない!」
パックを奪い合う激しいぶつかり合いは、見ているだけでハラハラドキドキする。野蛮は言い過ぎだと思うが、氷上の格闘技という名は伊達じゃないんだなと手に汗を握りながら思った。動画とかで観るのとはわけが違う。生で観ると重さと速さとパワーがひしひしと伝わってくる。選手が入れ替わり立ち代わりにリンクに入ってくるスピード感もすごい。
「何故あんなに選手が入れ替わるんだ?何かタイミングがあるのか?」
「休憩のためですね。タイミングは疲れて動けなくなったら、らしいです」
「……大雑把だな」
「面白いですよね、公式ルールなのに」
そんなざっくりした感じで良いのか、と私も最初に思ったことを思い出して笑ってしまった。スポーツってもっとこう、ルールがちゃんと決められているものだと思い込んでいたから、アイスホッケーのそういった所も新鮮で面白いなと興味が引かれる理由になったのだ。
「どれが杉元だ?」
「31番です。佐一だから31番なんですかね?」
「さ、佐一……?!」
「わっ!あぁー、惜しい!」
丁度話していた31番こと杉元さんの鋭く放ったシュートが、ゴーリーによって止められてしまった。その後も度々杉元さんチームにとって惜しい場面が訪れるが、中々点に繋がらないじれったい状況が続いたまま、第一ピリオドが終わろうとしていた。
いつの間にか前のめりになっていた体を背もたれに預けたが、やっぱり落ち着かなくてまた座り直した。先ほどからそわそわしてしまうのは、点が入らないからだけではなかった。プラスチック製の椅子に体温を奪われるのか、時間が経つにつれて段々と体が冷えてきて、つらくなってきた。もうすっかり冷めきってしまったカフェラテをぐいっと飲み切った。他の観客を盗み見たら水筒を持ってきている人が多くて、今度来るときは絶対に水筒に温かい飲み物を入れてこようと固く決意した。リンクの寒さを舐めてたな、もっと厚めの上着を持ってきた方が良かったな、と無意識に腕をさすっていたら、急にふわりと温もりに包まれた。見慣れた濃いグレーのジャケットが、私の肩に掛かっていた。
「寒いんだろう」
「えっ、えっ、でも鯉登さんは?」
「私は大丈夫だ」
防寒具がひとつ増えただけでなく、違う意味でも体温が上昇していく。身じろいだ拍子にほのかに良い匂いも漂って来て、うかつに動けない。全身で鯉登さんの温もりと匂いを感じてしまうこの状況は、まるで抱きしめられているみたいで──一瞬よぎった変態的な考えを散らすために、思いっきり首をブンブンと振った。
「ん?あのボール……?は手で触れても良いのか」
「えっ?あっ、ああ、パックですね、すぐリンクに落とせば反則じゃないんです」
「……さっきからなんでそんなに詳しいんだ」
「色々読んだり、杉元さんに教えてもらったので……あっ!杉元さんだ!」
31番が空いたスペースへと素早く躍り出て、力強くスティックを振りかぶった。ゴーリーとの一騎打ちだ。入れ、と空になったカフェオレのカップを両手でぎゅっと握って祈ったと同時に、ゴールネットが強く揺れた。
「やった!すご──」
キャー!!という大きな黄色い声援に私の声が掻き消され、びくりと肩が跳ねて鯉登さんのジャケットがずり落ちた。杉元さんのファンだろうか。自分で調べている時に知ったのだけど、杉元さんはその腕前と顔立ちからアイスホッケー界でちょっとした有名人なようで、広告塔のような役割もしているらしかった。女性ファンも多いのだとか。平日の夜なのに人が多いのも、多分杉元さん目当ての人が多いからだ。そんな凄い人が私のカフェの常連さんだなんて誇らしい。
「杉元のくせに……」
大喜びのファンの人達に手を振っている杉元さんを睨みながら、鯉登さんがギリギリと歯を食いしばって悔しそうにしている。こんな所で張り合わなくても、鯉登さんだって十分凄い人なのに。いつの間に私たちに気づいていたのか、杉元さんがブンブンと私達にも大きく手を振ってきた。高揚した気分のまま、私も大きく振り返したら、鯉登さんに突然右手を掴まれて無理やり下ろされた。
「……なんで?」
「なんでもだ」
「せっかくだから鯉登さんも手振りましょうよ」
「絶対に嫌だ」
ムッと唇を尖らせて前を見続けている横顔は、いつもよりも子供っぽく見えた。
「……あの、鯉登さん」
「絶対に振らないぞ」
「いや、えっと……て、手を、離してほしいのですが……」
「……嫌だ」
引っ込めようとした右手が、綱引きのように拮抗した後にぐぐっと反対側に引っ張られて鯉登さんの膝の上に置かれた。褐色の大きくて温かい左手が重ねられ、すっぽりと私の手を包んでいる。暑い。さっきまであんなに寒かったのに、もう鯉登さんのジャケットを返したいくらい暑かった。服の下が汗びっしょりになっているのが分かって恥ずかしい。耳もジンジンしていて、顔が真っ赤になっているのが鏡を見なくても分かった。結局、最終ピリオドまで手は離されないままで、試合よりも繋がれた右手が気になって俯きがちだったせいで、どっちが勝ったのかすら私は暫く分かっていなかった。結果は杉元さんチームが僅差で勝ったようだった。
「あの……杉元さんに挨拶したいんですけど、鯉登さんは先に帰りますか?」
「いや、家まで送っていく」
「いいですって、そんな。一人で帰れますよ」
昼間に月島さんが居なかったこと、店での会話もいつもより少なめだったこと、さっき遅れて来たこと……仕事が忙しいのだと推察する材料は十分すぎるほどにあった。なんで鯉登さんに試合のこと話したんですか、と昼間に杉元さんを問い詰めたら「だって夜遅くなるから心配で……」と返ってきたから、多分鯉登さんはアイスホッケーが観たくてここにいる訳でもないのだろう。大変な時にわざわざ私についてきてくれて、申し訳ない気持ちがずっと心の片隅を占領していた。杉元さんも鯉登さんも変な気を遣わなくて良いのに。
「今日忙しかったんですよね」
「……そうでもない」
「無理してついてこなくても良かったんですよ、遅いって言ってもまだ10時台なのに」
前の会社で働いていた時なんて、終電ギリギリに帰ることだってあった。遅いと言えば遅いけど、まだそんなに心配されるほどの時間帯ではないと思うのだ。
「私がついてきたかったんだ」
「……アイスホッケーに興味ないのに?」
じいっと見つめれば、鯉登さんが分かりやすく言葉に詰まった。久々にじっくりと直視したその顔は、いつもよりも少し疲れているように見えた。本当に、無理しないで良かったのに。一緒にいられて嬉しかったけど、試合観戦をするよりも、仕事を片付けたり、早く家に帰って休んだほうがよっぽど鯉登さんのためになったんじゃないだろうか。しかもこれから私を家まで送るなんて、鯉登さんの負担が大きすぎる。というかすっかり忘れていたけれど、鯉登さんは天下の鯉登郵船の御曹司なのだ。送迎される側の人間に送迎させるなんて、私はなんて罰当たりなことをしているのだろう。
「杉元さんから頼まれて断れなかったんですか?遅い時間に私を一人で帰すのかって」
「それは違う」
「じゃあなんで……」
鯉登さんがバツが悪そうに目線を逸らし、空いている手で口元を覆った。
「ナマエと、またデートがしたかった」
どくっと勢いよく跳ねた心臓が口から飛び出そうになって、慌てて口を閉ざした。重なった手に力が込められて、落ち着いていた体温がまた急上昇していく。
「ナマエのことを……ナマエの好きな物を、もっと知りたかった」
「なっ……」
何を言ってるんですか、もう。ちゃんと言えていたのか分からないくらい、言葉をモゴモゴと口の中で転がした。重なった手が熱くて、リンクの氷だって溶かせそうだった。
「……今度は、鯉登さんが好きなものにしましょうね」
言いながら恥ずかしくなってしまって、一瞬緩んだ手の中から逃げ出して、リンク際に居た杉元さん目掛けて階段を駆け下りた。私に気づいてヘルメットを取った杉元さんは、前髪がしっとりと額にかかっていて、普段と全然雰囲気が違った。
「杉元さん!今日はありがとうございました!すごくワクワクしました!生で観るとやっぱり臨場感が違いますね!」
緊張の余韻から早口で捲し立てる私に「そりゃあ良かった」と杉元さんが嬉しそうにリンクから上がってきて、少し声を落として話し始めた。
「それより二人とも良い感じじゃん」
「そ、そんなこと……」
「あいつのジャケット着ちゃって、手まで繋いじゃってさ、それが良い感じじゃなければ何が良い感じになるんだい?」
手を繋いでいた所も見られていたのか。目ざとすぎる。言い返せなくて、肩に掛かったジャケットの前裾を握って黙りこめば、それはそれは楽しそうに杉元さんが笑った。
「ミョウジさんのこと、ちゃんと送ってやれよ」
「言われなくてもそうする」
階段の途中で待っていた鯉登さんが腕組みをしながら答えた。じゃあ気を付けてね、と杉元さんがチームの方たちと去って行ったので、私たちも忘れ物がないことを確認してから外へ出た。
「えっと駅は……」
「さっきタクシーを呼んでおいた」
地図アプリを確認しながら歩き始めようとしていた私を鯉登さんが引き留めた。あれだ、と状況が理解できる前に、少し先で止まっているタクシーに向かって鯉登さんが歩き始めた。ここから私の家まではそこそこの距離だ。いくらかかるのかも見当がつかない。それに、お店からここに来るまでの移動もタクシーで、お金も払わせてもらえなかった。あの時は電車だとギリギリの時間になってしまうから仕方ないかなと思ってたけど、もしかして鯉登さんって常に車で移動してるんだろうか。確かに吊り革に捕まっている鯉登さんは想像できないけど。いつか見た立派な黒塗りの車を思い出しているうちにタクシーのドアが開いて、ドア横で私のことを待つ鯉登さんに慌てて小走りで駆け寄った。
「鯉登さんって電車乗ったことあります?」
「それくらいある」
「あっ、ですよね」
「大阪には出張でたまに行くからな」
それは新幹線です、と乗り込もうとしたタクシーに頭をぶつけながら思った。
借りたままだった上着も返し、会話らしい会話もない中、どんどん上がっていくメーターに冷や汗をかきながら2、30分ほどタクシーに乗ってやっと辿り着いた我が家は、いつもよりも心休まる佇まいをしてるように見えた。私がお金を出そうとモタモタしている間に、運転手さんに少し待つように告げた鯉登さんが車を降りてしまったので、急いで後を追った。鯉登さんは迷わずマンションのエントランスへと歩いて行く。私の家なんですが。お金を渡そうとしても取りつく島もなくて、渋々お札をまた財布にしまった。
「えっと……ありがとうございました」
もうここまでで大丈夫ですよ、と暗に伝えてみたが鯉登さんが帰る気配はない。ぎこちなく暗証番号を押してエントランスが開けば、鯉登さんが私と一緒に入って来た。ど、どこまでついてくるんだろう。エレベーターにも先に乗られて、2階のボタンを押されてしまった。気まずい空気のまま、点々と明かりがついた薄暗い外廊下を歩いて、部屋のドアの前まで辿り着いた。
「あの、本当にありがとうございました」
「気にするな」
いや気にしますって。流石に杉元さんだってここまで送ったとは絶対に思ってないだろう。タクシーも待たせているし、じゃあまた、と手短に挨拶を済ませて、音を立てないようにゆっくりとドアを閉めた。
「早く鍵を閉めろ」
「ふふっ、鯉登さん前もそれ言ってましたね」
私が風邪を引いた時にも、同じようなことを扉の向こうで言っていた。意外とせっかちなんだなと思ったことを懐かしく思い出していたら、手の中のドアノブが大きく動いて、勢いよくドアが開いた。ぐんっと外に引き摺り出されて、バランスを崩した体が鯉登さんにぶつかった。
「ちょっ、こ、鯉登さん?」
「……これが私じゃなかったらどうするんだ」
「え?」
「低層階でセキュリティも甘い。押し入られたらどうする」
セキュリティが甘いって、一応オートロックなのに。庶民にとってはこれがちゃんとしたセキュリティなんですよ、と言い返そうと思った。鯉登さんの目を見るまでは。
真剣で、少し怒っている目だった。いつもの雰囲気とはまるで違う。掴まれた肩に力が入っている。天地がひっくり返っても力で敵わないのだと、本能的に察知した。真上にある鯉登さんの顔を見上げているせいで首が痛いのに、体が固まってしまって、視線を逸らせられなかった。逆光なのも相まって、少し怖かった。これが鯉登さんじゃなかったら。そんなこと、考えたくもなかった。
「分かったら部屋に入ったらすぐに鍵を閉めろ」
「は、はい」
「……ナマエはもっと警戒した方が良い」
鯉登さんが今度は私の肩をぐいぐいと押し戻して、ドアを閉めた。また何か言われる前に急いでガチャっと鍵を閉めて、鯉登さんに聞こえるようにドアガードも大げさな音を立てて掛けた。
「暖かくして早く寝ろ」
「はい、鯉登さんも。おやすみなさい」
短い返事のあとに、コツコツと革靴の音が遠ざかってやがて聞こえなくなった。ドア越しのくぐもった声での会話はちょっぴり切なくて、しばらく玄関で立ち尽くしてしまった。
2024.10.31
