カフェ店長シリーズ
名前変換
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「好きだ、結婚してほしい」
目の前の男が、私の両手を握りながら言った。信じられない、という顔で隣の坊主頭の人が口をあんぐりと開けたまま固まった。
カウンター越しの男はとても真剣な眼差しをしている。「結婚してくれ」というのも冗談ではないのかもしれない。顔は良い。身長も高い。身なりも綺麗で、どこか品がある。とりたてて秀でた所もなく、平々凡々な日々を送ってきた私がこんな人に結婚を申し込まれるなんて、人生捨てたものじゃないとさえ思う。しかし問題は、私がこの男の名前すら知らないということである。
「い、嫌です」
「なぜだ」
「いや、だって、名前も知らない人と結婚はちょっと……」
「鯉登音之進だ」
「あっ、はい。コイトさん、って言うんですね」
「ああ、結婚してくれ」
会話が!噛み合わないッ……!確かに名前も知らない人と結婚はできないと言ったけど、名前を知ったとて、だ。「コイトさんって言うんですね。結婚しましょう!」なんて私が返すと思っているのだろうか。正気の沙汰ではない。なんなんだこの人。掴まれたままの手を引っ張ってもびくともしない。本当になんなんだこの人。警察呼んだ方が良い?でもそんなことをしたらオーナーに迷惑がかかるし、第一両手が塞がっているのにどうやって警察を呼べば良いのだろう。助けを求めるように隣にいる男性へと視線を向けたら、ハッとしたようにコイトさんの手を私から引っぺがした。
「すみません、急に失礼なことを」
「ムっ、失礼とはなんだ月島」
常識人の方は月島さんと言うらしい。物事には順序があるんです、とコイトさんを窘めている。
「私達はこういうものです」
「はぁ……ありがとうございます、頂戴します」
ビジネス書のお手本のように丁寧に目の間に差し出された名刺を受け取れば、"鯉登郵船"というロゴが目に入った。コイト……ってこの鯉登⁉ 思わず鯉登さんの顔を見れば、キラキラとした目で見つめ返されてしまい、すぐに視線を名刺に戻した。
私でも知っている大企業の名前と同じ名字のこの男はつまり、社長の息子か何かなのだろう。どことなく品を感じるのは育ちが良いからか。いや、それならなぜ私に結婚を申し込むのか。こっちは庶民オブ庶民のしがない雇われカフェ店長だというのに。
「実は以前、うちの鯉登が財布を落としまして、その時に財布をミョウジさんに拾っていただいたんです」
「あー……」
なんとなく、覚えている。けど、まだあまり思い出せない。ただ財布を拾っただけで、大したことをした覚えはないのに、どうして鯉登さんは私のことをこんなにも輝く瞳で見てくるのだろう。
「あの時は財布を拾ってもらっただけでなく、コーヒーまで貰ってしまった」
「遅くなってしまったのですが、本日はそのお礼にと参りました」
スッと月島さんから紙袋が渡された。並ばないと買えないやつだ……!最近話題のお菓子の登場に、庶民の私は内心小躍りしそうなくらい嬉しかった。が、すぐに手が伸びそうになるのをぐっと堪えて「そんな、いいですよ」「いえ、そう言わずに」と月島さんと大人なやりとりを一回してから受け取った。
情けは人のためにあらずとはまさにこのことか。二人が帰ったら早速一つ食べよう。残りは毎日一個、仕事終わりに大切に食べよう。受け取った紙袋を覗いていた顔を上げたら、バチっと音がするように鯉登さんと目があった。
「な、なんでしょうか?」
絞り出した声は上擦っていて、なよなよしかった。圧がすごい。目力もあるが、単純に顔が良いので無言で見つめられるとかなり圧倒される。
「好きだ」
「えっ?」
「財布を拾ってくれた優しさと、持ち主が見つかって良かったと温かいコーヒーを渡してくれた時の笑顔が忘れられない」
ほぼ息継ぎもせずに伝えられたことを理解するのに時間がかかった。優しさ?笑顔?忘れられない?何を言われたのか理解できたと同時に、カッと顔が熱くなった。鯉登さんの言葉はなおも止まらない。
「採算度外視ですぐにサービスするようなところも、外の看板を営業中に変えるのを忘れて手持無沙汰にしているところも、それを常連に指摘されて恥ずかしそうに笑うところも、そこのカウンターの角によく体をぶつけているところも、レジ締めが苦手なところも…… ナマエの全てが好きだ!」
私の間抜けな日常が筒抜けである。公開処刑も甚だしい。違う意味でも恥ずかしくて死にそうになる。というか鯉登さんは何故私の名前を知っているのだろう。私自己紹介したっけ?そういえば月島さんにも名字を呼ばれた気がする。やだ、なに、鯉登郵船怖い。
「私は、ナマエから良い返事を聞けるまで通い続けるつもりだ!」
「それは威力業務妨害に当たる可能性があるのでやめてください」
今まで静かだった月島さんが急に口を開いた。そのまま鯉登さんを止めてくれるのかと思いきや、では今まで通り外で……まあそれなら……などと声を落とした二人の会話が聞こえてきた。怖いって。法に触れないなら何でもありなのか。それは企業のコンプラ的にどうなんだ。
「まあ、でも、その……コーヒーとか買いに来るくらいなら、良いですけど」
「良いのかっ!?」
鯉登さんの瞳が今までで一番生き生きと輝いた。知らないうちに外で監視されるよりも、少しでも売り上げに貢献してくれた方がまだマシだ。迷惑という気持ちと売り上げを上げたいという気持ちを天秤にかけたら、大きく売上の方に傾いてしまった。まだ開店して半年も経っていないから、固定客がついてくれるのはありがたい。例えそれがちょっと変な人でも。
早速注文を伺えば、鯉登さんの視線がカウンタートップに貼ってあるメニューに落ちた。何気ない日常の一コマのはずなのに、切れ長の目が伏せられて考え込んでいる姿はまるで絵画のようで、目を奪われる。私の記憶が正しければ、この間はサービスでブラックコーヒーに砂糖を付けたものを一方的に渡してしまったけど、鯉登さんの好みだったのだろうか。少しドキドキしながらオーダーを待っていると、鯉登さんの綺麗な指がするりとメニューを滑った。
「端から端まで全部もらおう」
もしかしたら私は、想像以上にとんでもない太客を手に入れてしまったのかもしれない。前代未聞のオーダーと、キリっとした顔つきで差し出されたブラックカードを受け取る手が、大きく震えた。
2025.12.14加筆修正
目の前の男が、私の両手を握りながら言った。信じられない、という顔で隣の坊主頭の人が口をあんぐりと開けたまま固まった。
カウンター越しの男はとても真剣な眼差しをしている。「結婚してくれ」というのも冗談ではないのかもしれない。顔は良い。身長も高い。身なりも綺麗で、どこか品がある。とりたてて秀でた所もなく、平々凡々な日々を送ってきた私がこんな人に結婚を申し込まれるなんて、人生捨てたものじゃないとさえ思う。しかし問題は、私がこの男の名前すら知らないということである。
「い、嫌です」
「なぜだ」
「いや、だって、名前も知らない人と結婚はちょっと……」
「鯉登音之進だ」
「あっ、はい。コイトさん、って言うんですね」
「ああ、結婚してくれ」
会話が!噛み合わないッ……!確かに名前も知らない人と結婚はできないと言ったけど、名前を知ったとて、だ。「コイトさんって言うんですね。結婚しましょう!」なんて私が返すと思っているのだろうか。正気の沙汰ではない。なんなんだこの人。掴まれたままの手を引っ張ってもびくともしない。本当になんなんだこの人。警察呼んだ方が良い?でもそんなことをしたらオーナーに迷惑がかかるし、第一両手が塞がっているのにどうやって警察を呼べば良いのだろう。助けを求めるように隣にいる男性へと視線を向けたら、ハッとしたようにコイトさんの手を私から引っぺがした。
「すみません、急に失礼なことを」
「ムっ、失礼とはなんだ月島」
常識人の方は月島さんと言うらしい。物事には順序があるんです、とコイトさんを窘めている。
「私達はこういうものです」
「はぁ……ありがとうございます、頂戴します」
ビジネス書のお手本のように丁寧に目の間に差し出された名刺を受け取れば、"鯉登郵船"というロゴが目に入った。コイト……ってこの鯉登⁉ 思わず鯉登さんの顔を見れば、キラキラとした目で見つめ返されてしまい、すぐに視線を名刺に戻した。
私でも知っている大企業の名前と同じ名字のこの男はつまり、社長の息子か何かなのだろう。どことなく品を感じるのは育ちが良いからか。いや、それならなぜ私に結婚を申し込むのか。こっちは庶民オブ庶民のしがない雇われカフェ店長だというのに。
「実は以前、うちの鯉登が財布を落としまして、その時に財布をミョウジさんに拾っていただいたんです」
「あー……」
なんとなく、覚えている。けど、まだあまり思い出せない。ただ財布を拾っただけで、大したことをした覚えはないのに、どうして鯉登さんは私のことをこんなにも輝く瞳で見てくるのだろう。
「あの時は財布を拾ってもらっただけでなく、コーヒーまで貰ってしまった」
「遅くなってしまったのですが、本日はそのお礼にと参りました」
スッと月島さんから紙袋が渡された。並ばないと買えないやつだ……!最近話題のお菓子の登場に、庶民の私は内心小躍りしそうなくらい嬉しかった。が、すぐに手が伸びそうになるのをぐっと堪えて「そんな、いいですよ」「いえ、そう言わずに」と月島さんと大人なやりとりを一回してから受け取った。
情けは人のためにあらずとはまさにこのことか。二人が帰ったら早速一つ食べよう。残りは毎日一個、仕事終わりに大切に食べよう。受け取った紙袋を覗いていた顔を上げたら、バチっと音がするように鯉登さんと目があった。
「な、なんでしょうか?」
絞り出した声は上擦っていて、なよなよしかった。圧がすごい。目力もあるが、単純に顔が良いので無言で見つめられるとかなり圧倒される。
「好きだ」
「えっ?」
「財布を拾ってくれた優しさと、持ち主が見つかって良かったと温かいコーヒーを渡してくれた時の笑顔が忘れられない」
ほぼ息継ぎもせずに伝えられたことを理解するのに時間がかかった。優しさ?笑顔?忘れられない?何を言われたのか理解できたと同時に、カッと顔が熱くなった。鯉登さんの言葉はなおも止まらない。
「採算度外視ですぐにサービスするようなところも、外の看板を営業中に変えるのを忘れて手持無沙汰にしているところも、それを常連に指摘されて恥ずかしそうに笑うところも、そこのカウンターの角によく体をぶつけているところも、レジ締めが苦手なところも…… ナマエの全てが好きだ!」
私の間抜けな日常が筒抜けである。公開処刑も甚だしい。違う意味でも恥ずかしくて死にそうになる。というか鯉登さんは何故私の名前を知っているのだろう。私自己紹介したっけ?そういえば月島さんにも名字を呼ばれた気がする。やだ、なに、鯉登郵船怖い。
「私は、ナマエから良い返事を聞けるまで通い続けるつもりだ!」
「それは威力業務妨害に当たる可能性があるのでやめてください」
今まで静かだった月島さんが急に口を開いた。そのまま鯉登さんを止めてくれるのかと思いきや、では今まで通り外で……まあそれなら……などと声を落とした二人の会話が聞こえてきた。怖いって。法に触れないなら何でもありなのか。それは企業のコンプラ的にどうなんだ。
「まあ、でも、その……コーヒーとか買いに来るくらいなら、良いですけど」
「良いのかっ!?」
鯉登さんの瞳が今までで一番生き生きと輝いた。知らないうちに外で監視されるよりも、少しでも売り上げに貢献してくれた方がまだマシだ。迷惑という気持ちと売り上げを上げたいという気持ちを天秤にかけたら、大きく売上の方に傾いてしまった。まだ開店して半年も経っていないから、固定客がついてくれるのはありがたい。例えそれがちょっと変な人でも。
早速注文を伺えば、鯉登さんの視線がカウンタートップに貼ってあるメニューに落ちた。何気ない日常の一コマのはずなのに、切れ長の目が伏せられて考え込んでいる姿はまるで絵画のようで、目を奪われる。私の記憶が正しければ、この間はサービスでブラックコーヒーに砂糖を付けたものを一方的に渡してしまったけど、鯉登さんの好みだったのだろうか。少しドキドキしながらオーダーを待っていると、鯉登さんの綺麗な指がするりとメニューを滑った。
「端から端まで全部もらおう」
もしかしたら私は、想像以上にとんでもない太客を手に入れてしまったのかもしれない。前代未聞のオーダーと、キリっとした顔つきで差し出されたブラックカードを受け取る手が、大きく震えた。
2025.12.14加筆修正
