カフェ店長シリーズ
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「ナマエは杉元が好きなのかもしれない」
「……はぁ?」
言われた内容を理解したと同時に、自分でも驚くほど低くてドスの聞いた声が出てしまった。およそ会社で上司相手に出して良い声ではない。しかし鯉登さんは全く気にしていないようで、ぶつぶつと何で杉元なんだ、あんな粗野な人間に負けている所なんて見た目も中身も収入も納税額も、何一つないはずだなどと呟いている。そこまでの自信があるくせになんでこの仕上がりなんだ。
昨日、鯉登さんはミョウジさんと水族館へ初デートに行った。今日出勤してきたら自慢話でさぞかしうるさいのだろうと覚悟していたが、デートのことを何も言ってこないばかりか黙々といつも以上のスピードで仕事をこなす鯉登さんが気持ち悪すぎて、何があったのか洗いざらい吐けと詰め寄った結果がこれだ。デートに行けばあとはもう勝手に進展するのみだと思って、俺がどれだけホッとしたと?何故さらに拗れる。
「ミョウジさんがそう言ったんですか?」
「いや……でもずっと杉元の話をしていた」
なんでも怖気づいて答えを聞かなかったらしい。常連の杉元という男は良く知らないが、どう見てもミョウジさんは鯉登さんに気がある。あの水族館に誘われた時の嬉しそうな顔を見れば誰だって分かる。分かってないのは鯉登さんだけだ。大方鯉登さんのキザな言動にパニックになったミョウジさんが共通の知り合いである常連客について話し過ぎてしまったとかそういう感じなんだろう。その場合、ミョウジさんも同じように落ち込んでいることが予想される。面倒くさい。本当になんなんだこの二人は?
「ナマエのことを……応援すべきなのだろうか……」
べたぁっとデスクに突っ伏して鯉登さんらしからぬ小声で言ってきた。応援するも何もあなたたちは両思いですよ。そんなことをしたら更に拗れてしまう。この二人に任せて事が順調に進展すると思わない方が良いのだろう。
さてどうしたものかと考えて、ふと、カフェのカウンター横に貼ってあったポットサービスについてのポップを思い出した。最近始めてみたんです、とこの間ミョウジさんが言っていた。もしかしたら、良い案が浮かんだかもしれない。
*
「うわぁ、すっごいなぁ……」
さすが鯉登郵船。オフィス街の一等地に自社ビルだ。私が以前勤めていた会社なんて比べ物にならない。ガチガチに緊張しながら受付へ向かい、とても丁寧な対応の末にゲスト用のIDを渡された。ドギマギしながらだだっぴろいエレベーターに一人大荷物で乗り込んだ。
「挙動がおかしいので全て吐かせました」
まるで拷問でもしたかのような言い方をする月島さんに縮み上がったのが一昨日のこと。一人で店にやってきて開口一番にそんなことを言うので、ド庶民の分際で鯉登郵船の御曹司に精神的苦痛を与えたことについてどう落とし前をつけてくれるのかという話なのかと思い、心臓を胃ごと吐き出しそうだった。
「い、慰謝料のお話でしょうか?!」
「いえ、違います」
月島さんがカウンター横に貼ってあるポップを指差した。
「ポットサービスのデリバリーをお願いしたいのですが」
会議用にポットで飲み物を貰えたら嬉しいというような要望がちょいちょいあったので、最近試しに始めてみたサービスだ。ちなみにこの店は私一人で回しているので、デリバリーはやっていない。
「あっ、えっと、ポットサービスは店頭でのお渡ししか……」
「デリバリー、やってますよね」
「えぇっ?いや……」
「やってますね」
はい、と月島さんの有無を言わさぬ雰囲気に気圧されて、気づいたら返事をしていた。間を空けずに月島さんが日時、場所、人数を述べ始めたので慌ててメモを取る。
「鯉登用にも別で何か適当な物をお願いします」
「えっ、あっ、はい!」
「二人で話せるように少し時間を作っておきますので」
「っ、はい……!」
いつも通りあまり感情の乗っていない言葉だったのに、私達の関係修復のために色々と考えてくれたのだと分かってジワジワと込み上げてくるものがあった。杉元さんにも、月島さんにも助けられてばっかりだ。
「死んだ気になって関係修復してください」
「はい!」
そんなこんなで私は今、天下の鯉登郵船へと乗り込んでいる。早く、鯉登さんと話をしなければ。ほぼ毎日来てくれていたのに、鯉登さんとはあれから一度も会えていない。月島さんがチャンスをくれなかったら、私は関係修復への糸口を見つけられないまま、後悔を抱えて人生を終えていたかもしれない。
── ナマエは杉元のことが好きなのか
悲しそうな鯉登さんの顔が頭から離れなくて、思い出す度ギュッと心が締め付けられる。その少し前に撮ったカメラロールにいる鯉登さんは、あんなにも嬉しそうにしていたのに。私がバカだから、素直じゃなかったから、傷つけてしまった。あの後、微妙な空気のまま早々にお開きになってしまったので鯉登さんの写真もまだ送れていないし、誘ってくれたことに対してお礼の一つも言えていない。
早く鯉登さんに会いたい。会って謝りたい。でも、なんて伝えれば良いのか分からない。杉元さんのことを話しすぎてごめんなさい、は違うし。傷つけてごめんなさい、も絶対に違う。私が悪いことは痛いほど分かっているのに、いざ謝ろうとするとことごとく変な感じになってしまう。正解が分からないまま、今日ここまで来てしまった。
ポーン、とちょっと良いビルのエレベーターの音と共にドアが開いたので、気合を入れて一歩を踏み出した。
「あっ、ミョウジさんですか?」
「あっ、はい、そうです!」
エレベーターを降りたら大きな熊のような人が待ち構えていた。谷垣さんと言うらしい。サイズが合ってないのかシャツのボタンがはち切れそうで少し視線に困る。持っていたポットを引き取られて「こちらです」と促されるまま後ろを着いていけば、大きめの会議室に通された。壁際の長テーブルにポットが置かれたのでその横に持参した紙コップ、紙ナプキンやクッキーなどを並べていく。
「あっ、自分もやります」
「すみません、助かります」
二人で黙々と準備を進めていると、後ろで足音がして何人かが会議室に入って来たようだった。谷垣さんが慌てて二人分のコーヒーを注いで後ろの人たちに渡した。何だかとても恐縮しているようだし、先輩か上司なんだろうか。
「あれ、もしかして君がナマエさん?」
「えっ?!はっ、はい、そうです」
驚いて振り返れば、口元の左右対称のホクロが特徴的な男性が立っていた。鯉登郵船に勤めてるようなエリートに名前を呼ばれて、緊張で体が強張る。
「へぇ……案外普通の感じの人なんだね」
今時の爽やかな好青年といった風貌なのに、上から下まで無遠慮にじっくりと観察するように視線が動いてとても居心地が悪い。
「早く玉の輿になればいいのに」
にやにやと言われた不躾な言葉にたじろいでしまった。しかし同時に玉の輿という言葉がストンと腑に落ちた。そうか、もし鯉登さんと結婚したら所謂玉の輿になるのか。今まで全然考えたことがなかった。鯉登さんは明らかに由緒正しきボンボンではあるけど、家柄とか財産とかを意図的にひけらかしてきたことはなかったし。第一鯉登さんと、けっ、けっこんとか、具体的に、考えたりしたこと、なかったし……少しずつ上がっていく体温をどうにか食い止めようと、ひんやりとした飼育環境で遊んでいた赤ちゃんアザラシを思い浮かべた。
「誰だ?」
「うちのボンボンがテレビで公開プロポーズしてた人」
もう一人、ホクロの人と一緒に入ってきた猫っぽい人が首を傾げた。
「まさか知らないの?」
「知らない」
猫っぽい人は全く興味なさそうにドカっと椅子に座って、足を組んでスマホを触り出した。
「あれだけ話題になってたのに?広報もなんか出してただろ。情弱かよ」
「お前と違って暇じゃないんでね」
「ア゛ァ?」
喧嘩だろうか、オロオロとしていたら谷垣さんが「いつものことなんで気にしないでください」と小声で耳打ちしてきた。この人たちの後輩ってめちゃくちゃ大変そうだな。
「谷垣さん、アザラシとトナカイどっちが好きですか?」
「えっ……トナカイ?」
「これ、まだ試作品なんですけど、ココアパウダーでステンシルしてみたカフェラテなので良かったらどうぞ」
鯉登さんと水族館で話した新商品だ。私の技術不足でステンシルが少し滲んでしまっているので改良の余地がまだまだ大幅にあるけど、今日渡したくて作ってきたのだ。本当は鯉登さんにどちらか選んでもらおうと思っていたけど、大きな体で小さなコップの中を嬉しそうに覗いている谷垣さんが可愛らしかったので良しとしよう。未だにバチバチに口論している先輩二人を横目に、少しはストレスが軽減されたら良いのだけどと願わずにいられなかった。
「ミョウジさん、そろそろ良いですか」
「あっ、はい!」
それまでうるさかった二人の声がピタリと止んだと思ったら、月島さんが入り口に立っていた。谷垣さんと、まるで何事もなかったかのように静かにしている先輩二人に会釈をして、会議室を後にした。先生が来た時の教室みたいだなと、失礼ながら思って頬が緩んだ。
月島さんとまたエレベーターを乗ってさらに上の階層に行く。あまり良く分からないけど上層階って偉い人の階だよなぁ、鯉登さんって凄い人なんだなぁ、と今更すぎることを本当の意味で理解して緊張が高まっていく。何で私、こんなに凄い人と知り合いなんだろう。
月島さんの後をついていけば、鯉登さんのネームプレートがついた個室に辿り着いた。ノックをしてドアが開かれる。広々とした室内で、これまた広々としたデスクに座った鯉登さんがポカンとした顔でこちらを見ていた。
「し、失礼します……」
「では、私はこれで」
「おいっ!聞いてないぞ月島ァ!」
何も聞こえないといった風に月島さんが出ていってしまった。ぎこちなくデスクに近づいて、だいぶ温くなってしまったコップを差し出した。
「こちらカフェラテです……」
「あ、ありがとう……」
ココアステンシルしてみたんです、とおずおずと伝えれば鯉登さんが蓋をカポッと開けた。
「可愛い……」
少しだけ緩んだ表情に、今しかないと急いで口を開いた。
「鯉登さん、あのっ……!先日は、お世話になりました!」
「あ、ああ……こちらこそ……?」
勢いに任せて話し始めたけど言葉が続かない。なんて言おう。どうしよう。何も思いつかない。
「あ!アザラシ、可愛かったですね」
「そっ、そうだな」
コロコロと飼育員さんと戯れる赤ちゃんアザラシを二人で思い出して、ぎこちなかった空気がちょっとだけ軽くなった。するとハッとした様子で、鯉登さんがデスク横の引き出しを開けた。
「実は……これをあの日、渡し損ねた」
気まずそうに引き出しから出されたのは、小ぶりの縦長の紙袋だった。水族館のロゴが入っている。お土産屋さんのだろうか、いつの間に寄ってたんだ。恐る恐る受け取って、中身を確認すればペンだった。クリップの所にアザラシがついていて、軸にもアザラシモチーフの可愛い絵があしらわれている。
「おっおい、泣くな!!」
「だっ、だってぇ……」
あの日、本当に酷いことをしてしまった。ボロボロと、自分でもびっくりするくらい涙が溢れ出てきた。プレゼントまで用意していてくれたのに、私がバカで、意気地なしだったから、鯉登さんのことを傷つけてしまった。あんなに楽しかったデートを台無しにしてしまった。もっと一緒に過ごしたかった。エプロンのポケットに入れていたハンカチを引っ張り出して、もうこれ以上涙が出てこないようにグッと目頭を押さえた。その間、鯉登さんはゴールラインとか何だかよく分からないことを口走りながら、私の周りをウロウロ、オロオロと長い脚で歩いて回っていた。
「大切にします。この間、すごく楽しかったです」
目を見て伝えれば、鯉登さんの目元が緩んで口がきゅっと結ばれた。なんだか泣きそうになっているようにも見える。
「……また、どこかに行くか」
「いっ、いいんですか?」
「ナマエとなら、どこへでも行こう」
だから、そういうこと言わないでください。ポロッと左目から零れた涙を、鯉登さんが指の背で掬った。どくどくと心臓が勢いよく動き出して、顔に熱が集まる。目の前の鯉登さんと目があった。真っ直ぐで、優しくて、ちょっと──いや、かなりズレているけど、いつの間にか私はこの人のことが大好きになってしまった。涙がまたじわっと滲み出てきた。
「こ、鯉登さん、私──」
ヴヴっとデスクの上の鯉登さんのスマホが鳴り、ここが会社であることを思い出して一気に現実に引き戻された。鯉登さんが少し迷ってスマホを確認しに私から離れた。人の会社でこんなことをしている場合じゃない。忙しいのに、あまり長居するのも申し訳ない。
「すっ、すみません、私はこれで……」
「あぁ。また、今度」
また今度。その言葉の響きだけでまた鼻の奥がツンとした。いそいそと部屋から一歩出た時だった。一つ、伝えられていないことがあることに気づいた。
「あっ、あの……」
顔だけをドアの隙間から出して、中の鯉登さんと目を合わせた。私が杉元さんのことが好きだと思っているのなら、それだけは誤解を解いておきたかった。杉元さんじゃないのに。あの時、気持ちを自覚した瞬間を思い出して、バクバクと心臓が胸を突き破って飛び出しそうだった。心の中で言いたいことを反芻する。私は杉元さんのこと好きじゃないです。私は杉元さんのこと好きじゃないです。勇気を振り絞って、声に出した。
「私が好きなのは、杉元さんじゃないです」
間違えた。
「月島ァア!ナマエが好きなのは杉元ではないらしい!」
「……はぁ?」
2024.07.12
「……はぁ?」
言われた内容を理解したと同時に、自分でも驚くほど低くてドスの聞いた声が出てしまった。およそ会社で上司相手に出して良い声ではない。しかし鯉登さんは全く気にしていないようで、ぶつぶつと何で杉元なんだ、あんな粗野な人間に負けている所なんて見た目も中身も収入も納税額も、何一つないはずだなどと呟いている。そこまでの自信があるくせになんでこの仕上がりなんだ。
昨日、鯉登さんはミョウジさんと水族館へ初デートに行った。今日出勤してきたら自慢話でさぞかしうるさいのだろうと覚悟していたが、デートのことを何も言ってこないばかりか黙々といつも以上のスピードで仕事をこなす鯉登さんが気持ち悪すぎて、何があったのか洗いざらい吐けと詰め寄った結果がこれだ。デートに行けばあとはもう勝手に進展するのみだと思って、俺がどれだけホッとしたと?何故さらに拗れる。
「ミョウジさんがそう言ったんですか?」
「いや……でもずっと杉元の話をしていた」
なんでも怖気づいて答えを聞かなかったらしい。常連の杉元という男は良く知らないが、どう見てもミョウジさんは鯉登さんに気がある。あの水族館に誘われた時の嬉しそうな顔を見れば誰だって分かる。分かってないのは鯉登さんだけだ。大方鯉登さんのキザな言動にパニックになったミョウジさんが共通の知り合いである常連客について話し過ぎてしまったとかそういう感じなんだろう。その場合、ミョウジさんも同じように落ち込んでいることが予想される。面倒くさい。本当になんなんだこの二人は?
「ナマエのことを……応援すべきなのだろうか……」
べたぁっとデスクに突っ伏して鯉登さんらしからぬ小声で言ってきた。応援するも何もあなたたちは両思いですよ。そんなことをしたら更に拗れてしまう。この二人に任せて事が順調に進展すると思わない方が良いのだろう。
さてどうしたものかと考えて、ふと、カフェのカウンター横に貼ってあったポットサービスについてのポップを思い出した。最近始めてみたんです、とこの間ミョウジさんが言っていた。もしかしたら、良い案が浮かんだかもしれない。
*
「うわぁ、すっごいなぁ……」
さすが鯉登郵船。オフィス街の一等地に自社ビルだ。私が以前勤めていた会社なんて比べ物にならない。ガチガチに緊張しながら受付へ向かい、とても丁寧な対応の末にゲスト用のIDを渡された。ドギマギしながらだだっぴろいエレベーターに一人大荷物で乗り込んだ。
「挙動がおかしいので全て吐かせました」
まるで拷問でもしたかのような言い方をする月島さんに縮み上がったのが一昨日のこと。一人で店にやってきて開口一番にそんなことを言うので、ド庶民の分際で鯉登郵船の御曹司に精神的苦痛を与えたことについてどう落とし前をつけてくれるのかという話なのかと思い、心臓を胃ごと吐き出しそうだった。
「い、慰謝料のお話でしょうか?!」
「いえ、違います」
月島さんがカウンター横に貼ってあるポップを指差した。
「ポットサービスのデリバリーをお願いしたいのですが」
会議用にポットで飲み物を貰えたら嬉しいというような要望がちょいちょいあったので、最近試しに始めてみたサービスだ。ちなみにこの店は私一人で回しているので、デリバリーはやっていない。
「あっ、えっと、ポットサービスは店頭でのお渡ししか……」
「デリバリー、やってますよね」
「えぇっ?いや……」
「やってますね」
はい、と月島さんの有無を言わさぬ雰囲気に気圧されて、気づいたら返事をしていた。間を空けずに月島さんが日時、場所、人数を述べ始めたので慌ててメモを取る。
「鯉登用にも別で何か適当な物をお願いします」
「えっ、あっ、はい!」
「二人で話せるように少し時間を作っておきますので」
「っ、はい……!」
いつも通りあまり感情の乗っていない言葉だったのに、私達の関係修復のために色々と考えてくれたのだと分かってジワジワと込み上げてくるものがあった。杉元さんにも、月島さんにも助けられてばっかりだ。
「死んだ気になって関係修復してください」
「はい!」
そんなこんなで私は今、天下の鯉登郵船へと乗り込んでいる。早く、鯉登さんと話をしなければ。ほぼ毎日来てくれていたのに、鯉登さんとはあれから一度も会えていない。月島さんがチャンスをくれなかったら、私は関係修復への糸口を見つけられないまま、後悔を抱えて人生を終えていたかもしれない。
── ナマエは杉元のことが好きなのか
悲しそうな鯉登さんの顔が頭から離れなくて、思い出す度ギュッと心が締め付けられる。その少し前に撮ったカメラロールにいる鯉登さんは、あんなにも嬉しそうにしていたのに。私がバカだから、素直じゃなかったから、傷つけてしまった。あの後、微妙な空気のまま早々にお開きになってしまったので鯉登さんの写真もまだ送れていないし、誘ってくれたことに対してお礼の一つも言えていない。
早く鯉登さんに会いたい。会って謝りたい。でも、なんて伝えれば良いのか分からない。杉元さんのことを話しすぎてごめんなさい、は違うし。傷つけてごめんなさい、も絶対に違う。私が悪いことは痛いほど分かっているのに、いざ謝ろうとするとことごとく変な感じになってしまう。正解が分からないまま、今日ここまで来てしまった。
ポーン、とちょっと良いビルのエレベーターの音と共にドアが開いたので、気合を入れて一歩を踏み出した。
「あっ、ミョウジさんですか?」
「あっ、はい、そうです!」
エレベーターを降りたら大きな熊のような人が待ち構えていた。谷垣さんと言うらしい。サイズが合ってないのかシャツのボタンがはち切れそうで少し視線に困る。持っていたポットを引き取られて「こちらです」と促されるまま後ろを着いていけば、大きめの会議室に通された。壁際の長テーブルにポットが置かれたのでその横に持参した紙コップ、紙ナプキンやクッキーなどを並べていく。
「あっ、自分もやります」
「すみません、助かります」
二人で黙々と準備を進めていると、後ろで足音がして何人かが会議室に入って来たようだった。谷垣さんが慌てて二人分のコーヒーを注いで後ろの人たちに渡した。何だかとても恐縮しているようだし、先輩か上司なんだろうか。
「あれ、もしかして君がナマエさん?」
「えっ?!はっ、はい、そうです」
驚いて振り返れば、口元の左右対称のホクロが特徴的な男性が立っていた。鯉登郵船に勤めてるようなエリートに名前を呼ばれて、緊張で体が強張る。
「へぇ……案外普通の感じの人なんだね」
今時の爽やかな好青年といった風貌なのに、上から下まで無遠慮にじっくりと観察するように視線が動いてとても居心地が悪い。
「早く玉の輿になればいいのに」
にやにやと言われた不躾な言葉にたじろいでしまった。しかし同時に玉の輿という言葉がストンと腑に落ちた。そうか、もし鯉登さんと結婚したら所謂玉の輿になるのか。今まで全然考えたことがなかった。鯉登さんは明らかに由緒正しきボンボンではあるけど、家柄とか財産とかを意図的にひけらかしてきたことはなかったし。第一鯉登さんと、けっ、けっこんとか、具体的に、考えたりしたこと、なかったし……少しずつ上がっていく体温をどうにか食い止めようと、ひんやりとした飼育環境で遊んでいた赤ちゃんアザラシを思い浮かべた。
「誰だ?」
「うちのボンボンがテレビで公開プロポーズしてた人」
もう一人、ホクロの人と一緒に入ってきた猫っぽい人が首を傾げた。
「まさか知らないの?」
「知らない」
猫っぽい人は全く興味なさそうにドカっと椅子に座って、足を組んでスマホを触り出した。
「あれだけ話題になってたのに?広報もなんか出してただろ。情弱かよ」
「お前と違って暇じゃないんでね」
「ア゛ァ?」
喧嘩だろうか、オロオロとしていたら谷垣さんが「いつものことなんで気にしないでください」と小声で耳打ちしてきた。この人たちの後輩ってめちゃくちゃ大変そうだな。
「谷垣さん、アザラシとトナカイどっちが好きですか?」
「えっ……トナカイ?」
「これ、まだ試作品なんですけど、ココアパウダーでステンシルしてみたカフェラテなので良かったらどうぞ」
鯉登さんと水族館で話した新商品だ。私の技術不足でステンシルが少し滲んでしまっているので改良の余地がまだまだ大幅にあるけど、今日渡したくて作ってきたのだ。本当は鯉登さんにどちらか選んでもらおうと思っていたけど、大きな体で小さなコップの中を嬉しそうに覗いている谷垣さんが可愛らしかったので良しとしよう。未だにバチバチに口論している先輩二人を横目に、少しはストレスが軽減されたら良いのだけどと願わずにいられなかった。
「ミョウジさん、そろそろ良いですか」
「あっ、はい!」
それまでうるさかった二人の声がピタリと止んだと思ったら、月島さんが入り口に立っていた。谷垣さんと、まるで何事もなかったかのように静かにしている先輩二人に会釈をして、会議室を後にした。先生が来た時の教室みたいだなと、失礼ながら思って頬が緩んだ。
月島さんとまたエレベーターを乗ってさらに上の階層に行く。あまり良く分からないけど上層階って偉い人の階だよなぁ、鯉登さんって凄い人なんだなぁ、と今更すぎることを本当の意味で理解して緊張が高まっていく。何で私、こんなに凄い人と知り合いなんだろう。
月島さんの後をついていけば、鯉登さんのネームプレートがついた個室に辿り着いた。ノックをしてドアが開かれる。広々とした室内で、これまた広々としたデスクに座った鯉登さんがポカンとした顔でこちらを見ていた。
「し、失礼します……」
「では、私はこれで」
「おいっ!聞いてないぞ月島ァ!」
何も聞こえないといった風に月島さんが出ていってしまった。ぎこちなくデスクに近づいて、だいぶ温くなってしまったコップを差し出した。
「こちらカフェラテです……」
「あ、ありがとう……」
ココアステンシルしてみたんです、とおずおずと伝えれば鯉登さんが蓋をカポッと開けた。
「可愛い……」
少しだけ緩んだ表情に、今しかないと急いで口を開いた。
「鯉登さん、あのっ……!先日は、お世話になりました!」
「あ、ああ……こちらこそ……?」
勢いに任せて話し始めたけど言葉が続かない。なんて言おう。どうしよう。何も思いつかない。
「あ!アザラシ、可愛かったですね」
「そっ、そうだな」
コロコロと飼育員さんと戯れる赤ちゃんアザラシを二人で思い出して、ぎこちなかった空気がちょっとだけ軽くなった。するとハッとした様子で、鯉登さんがデスク横の引き出しを開けた。
「実は……これをあの日、渡し損ねた」
気まずそうに引き出しから出されたのは、小ぶりの縦長の紙袋だった。水族館のロゴが入っている。お土産屋さんのだろうか、いつの間に寄ってたんだ。恐る恐る受け取って、中身を確認すればペンだった。クリップの所にアザラシがついていて、軸にもアザラシモチーフの可愛い絵があしらわれている。
「おっおい、泣くな!!」
「だっ、だってぇ……」
あの日、本当に酷いことをしてしまった。ボロボロと、自分でもびっくりするくらい涙が溢れ出てきた。プレゼントまで用意していてくれたのに、私がバカで、意気地なしだったから、鯉登さんのことを傷つけてしまった。あんなに楽しかったデートを台無しにしてしまった。もっと一緒に過ごしたかった。エプロンのポケットに入れていたハンカチを引っ張り出して、もうこれ以上涙が出てこないようにグッと目頭を押さえた。その間、鯉登さんはゴールラインとか何だかよく分からないことを口走りながら、私の周りをウロウロ、オロオロと長い脚で歩いて回っていた。
「大切にします。この間、すごく楽しかったです」
目を見て伝えれば、鯉登さんの目元が緩んで口がきゅっと結ばれた。なんだか泣きそうになっているようにも見える。
「……また、どこかに行くか」
「いっ、いいんですか?」
「ナマエとなら、どこへでも行こう」
だから、そういうこと言わないでください。ポロッと左目から零れた涙を、鯉登さんが指の背で掬った。どくどくと心臓が勢いよく動き出して、顔に熱が集まる。目の前の鯉登さんと目があった。真っ直ぐで、優しくて、ちょっと──いや、かなりズレているけど、いつの間にか私はこの人のことが大好きになってしまった。涙がまたじわっと滲み出てきた。
「こ、鯉登さん、私──」
ヴヴっとデスクの上の鯉登さんのスマホが鳴り、ここが会社であることを思い出して一気に現実に引き戻された。鯉登さんが少し迷ってスマホを確認しに私から離れた。人の会社でこんなことをしている場合じゃない。忙しいのに、あまり長居するのも申し訳ない。
「すっ、すみません、私はこれで……」
「あぁ。また、今度」
また今度。その言葉の響きだけでまた鼻の奥がツンとした。いそいそと部屋から一歩出た時だった。一つ、伝えられていないことがあることに気づいた。
「あっ、あの……」
顔だけをドアの隙間から出して、中の鯉登さんと目を合わせた。私が杉元さんのことが好きだと思っているのなら、それだけは誤解を解いておきたかった。杉元さんじゃないのに。あの時、気持ちを自覚した瞬間を思い出して、バクバクと心臓が胸を突き破って飛び出しそうだった。心の中で言いたいことを反芻する。私は杉元さんのこと好きじゃないです。私は杉元さんのこと好きじゃないです。勇気を振り絞って、声に出した。
「私が好きなのは、杉元さんじゃないです」
間違えた。
「月島ァア!ナマエが好きなのは杉元ではないらしい!」
「……はぁ?」
2024.07.12
