カフェ店長シリーズ
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迎えた水族館デート当日。私は、履き慣れたスニーカーで駅から水族館までの道のりを緊張しながら歩いていた。スニーカーにして良かった。背伸びしてヒールなんて履いていたら、今頃足を捻って水族館にすら辿り着けなかったかもしれない。それくらい緊張していた。前見た立派な黒塗りの車で来られても困るから、送迎は丁重にお断りしたので今日は現地集合、現地解散の予定だ。やっぱりこれはデートではなく、赤ちゃんアザラシとその他水棲生物を見る会と呼んだ方が良いような、そんな気がする。だからそんなに緊張しなくて良いんだと、自分に言い聞かせながら一歩一歩を踏みしめながら歩き続けた。
水族館前に着いて時間を確認すれば集合時間5分前だった。鯉登さんはもう来ているだろうか。辺りをザッと見回したら、道ゆく人々に必ずと言って良いほどチラチラと見られている人が居た。顔を見なくても分かる。あれは鯉登さんだ。ただ立っているだけなのに、周りの視線を奪っている。恐る恐る近づいて声をかけたら、鯉登さんがパッとこちらを見た。
「ナマエ!」
「わっ、すみません、お待たせしました」
「いや、私も今来た所だ」
眩しい笑顔を向けられて、思わず手を翳してしまった。私服の鯉登さんはレア度が高くていつもよりも何倍も眩しく見える。スーツほど堅苦しくないけれど、薄手のジャケットを羽織った上品な雰囲気に、やっぱりヒールの方が良かったのかなと、一瞬後悔した。せめてスカートかワンピースにしておけば良かった。気合が入っていると思われるのも何だか嫌で、友人に評判が良かったパンツスタイルで来てしまった。
行こうか、と鯉登さんが歩きだしたので慌てて後を追った。入り口でチケットを渡して、マップを受け取って館内を歩き進める。平日だからかあまり人が居ない。照明が落とされている非日常感溢れる空間にワクワクが高まっていく。
「わぁ……!」
「凄いな」
最初に私たちを出迎えたのは、この水族館の目玉の天井まである巨大水槽だった。首が痛くなるほど見上げれば、多種多様な魚たちが悠々と泳いでいるのが視界いっぱいに広がった。水面の光が反射して、青白い水影が壁や足元でゆらゆらと揺れている。いつもは上から眺めるだけの海の下に、この水槽よりももっと雄大な世界が広がっていると思うと、自然の偉大さにため息が出る。そういえば、最後に海に行ったのはいつだっただろう。鯉登さんは海行くのかな。褐色の肌は日焼けによるものではなさそうだけど、サーフィンとか似合いそう。仕事でも行くのかな。海運業とはいえ、昔貰った名刺には本部長って書いてあったし、さすがに現場とかには行かないか。すぐ隣にいるのだから本人に聞けば良いのに、なんだか聞きづらくて、色々疑問が浮かんでは自分で処理していくのが続いた。鯉登さんのことをもっと知りたいと思っている自分が居ることに、気づいてしまった。
「アザラシ見に行くか?」
「あっ、行きます!行きましょう!」
二人で館内マップを確認して歩き出した。少し歩いて海獣エリアにつけば、人だかりができていた。みんな赤ちゃんアザラシを目当てに来ていると思うと微笑ましい光景だ。そわそわしながら順番を待ってやっと最前列に出てみれば、ガラスの向こうでふわふわの白い赤ちゃんアザラシが飼育員さんと戯れていた。
「か、可愛いっ……!」
「可愛い……小さい……」
「なんでこんな……可愛すぎませんか……」
「写真で見た数倍可愛いな」
小さくて可愛いものの前では語彙力がゼロになる。さっきから私たちは可愛いしか言えていない。視線は逸らさずにスマホで何枚も写真を撮っていたら、ふぁ、と赤ちゃんアザラシがこちらを見ながら大きなあくびをした。
「こ、鯉登さんっ、今の見ました?!」
興奮しすぎて、すぐそこにあった袖をグイっと引っ張った。
「っ……!?」
バチっと、音でもするみたいに視線が交わった。近い。屈んでいた鯉登さんの顔が、思ったよりも近くにあった。お互いに息を呑んで、次の瞬間にはまた前方へと視線を戻した。あんなにも釘付けになっていた赤ちゃんアザラシが目に入らないほど緊張していた。ドッドッドッと心臓がうるさい。至近距離で整った顔と目が合ってしまった。カウンター越しの距離とは比べ物にならないくらい近かった。それに、気のせいだろうか。鯉登さんは、私が声をかける前からこちらを見ていたようだった。バカみたいにはしゃいでいたのを見られていた恥ずかしさが込み上げてくる。そもそもなんでこっち見てたんだ。
「そ、そろそろ行きましょうか……」
「あ、あぁ、そうだな……」
名残惜しいがあまり前列を占領し続けるのも悪いので、そそくさとガラスの前から移動した。ぼちぼちと会話をしつつ、足が赴くまま館内を歩き進めて色々な展示を見て回る。ホッキョクグマのダイブに圧倒されたり、巨大なサメが頭上を通るトンネルをドキドキしながら抜けたり、クラゲが揺蕩う水槽をぼーっと眺めたりと、久々の水族館を二人でまるで子供のように楽しんだ。鯉登さんは意外と潔癖らしくて、私がふれあいコーナーで夢中になってナマコやヒトデを触っている間中とても渋い顔をしていた。そんな表情もするんだ。「早く手を洗ってこい」と急かされてお手洗いに行けば、ニコニコと緩み切った自分の顔が鏡に映っていてびっくりしてしまった。
あまりにも楽しみすぎて、気づいたらお昼をとっくに過ぎた時間になっていた。バッグに入れていた館内マップを開いて、休憩できる場所を探し始めた。
「あ、フードコートでアザラシのコラボメニューやってますね」
「折角だからそこにするか」
「……鯉登さんってフードコート分かるんですか?」
「馬鹿にするな。ウェイターが居ない所だろう」
うん、いやそうなんだけど。その言い方は初めて聞いた。歩き出した鯉登さんを慌てて追いかけた。
フードコートに辿り着き、二人して頭上に掲げられたメニューを見上げた。アザラシのコラボドリンクは絶対に頼むとして、食べ物は何にしよう。鯉登さんは何にするんだろう。顎に手を当ててじっくりと考える姿に、あの日のことを思い出した。
「端から端までオーダーしちゃダメですよ?」
「あっ、あれは忘れろ……!」
鯉登さんが焦ったようにこちらを向いた。前代未聞な頼み方をした自覚はあるんだ。
「忘れられるわけないじゃないですか」
鮮烈な出会いを思い出して笑ったら、鯉登さんが見る見るうちに赤くなった。「そうか」となんだか嬉しそうに言っている姿に、急に私も恥ずかしくなる。「忘れられるわけない」ってそういう意味で言ったわけではないのに。メニューを見てももう何も入ってこない。適当に頼んでしまおうと先に注文していたら、鯉登さんも決まったのか一緒に注文し始めた。そして私に財布を出す隙も与えずに、当たり前のようにカードを切ってしまった。受け取った呼び出しベルを鯉登さんが興味津々に眺めている。これが鳴ったら取りに行くんですよ、と説明しながら空いていた席に着いた。
「さっきは立て替えてもらってすみません。これ、私の分です」
細かいのが無かったので多めに鯉登さんに渡せば直ぐに突き返されてしまった。
「現金は持たない主義だ」
「えっ?一円も?」
確かにカフェでもいつもカード払いだ。でもカードやアプリでの電子決済が主流になってきたとはいえ、まだまだ現金が必要な時もあると思うのだけれど。
「買い物先でカードとか使えなくて困ったりしたことないんですか?」
「買い物先……?」
鯉登さんが不思議そうに少し考え込んだ。
「家に来るから特にないな」
「家に、来る……?」
何が?買い物先が?一瞬、物理的にスーパーが移動してくるイメージが浮かんだ。もしかして外商の話してる?鯉登家という由緒正しきセレブに格の違いを見せつけられて頭が混乱する。
「あ、じゃあ送金するんでどのアプリ使ってるか教えてください」
「いらない」
「さすがに全部奢りは申し訳ないです」
「……私が良いと言っているんだから良いだろう」
「じゃあ私の払いたい気持ちはどうなるんですか」
鯉登さんが言葉に詰まったと思ったら、急に耳まで真っ赤にして私をチラリと見て、視線をテーブルの上の呼び出しベルに落とした。
「で、デートなのだから奢られてはくれないか……」
鯉登さんの熱が、一瞬で私にも伝染した。緊張感のある沈黙が訪れる。鯉登さんは、これをデートだと認識している。にやけそうになる唇を噛んで堪える。どうしよう、なんて返せば良いのか分からない。口を開いたら心臓が飛び出そうだった。この沈黙の破り方を、私たちは知らない。
ドギマギとした沈黙が続く中、突然、けたたましい音が鳴り響いた。
「キェッ……!」
「びっくりした……!よ、用意できたみたいですね」
「と、取ってくるっ!」
大音量で鳴り続ける呼び出しベルを持って、鯉登さんが嬉しそうに席を立ち上がった。知っているとは言ってたけど、フードコートに来たのは初めてなんだろうな。はしゃいじゃって可愛い。すぐに二つのトレーを器用に持って鯉登さんが戻ってきた。
「すごい、可愛い……!」
「食べるのが勿体無いな」
私はアザラシの形をした白玉が乗ったチョコレートドリンクとシーフードパスタ、鯉登さんはコーヒーとイルカの形をしたハンバーグだ。
「あっ、食べる前に写真撮って良いですか」
鞄からスマホを取り出して前を向き直れば、鯉登さんがお皿を持ってこちらを見ていた。
「ふっ……」
本当は食べ物だけを撮りたかったんだけどな。食べ物と一緒に撮られる気満々の鯉登さんが面白くて、可愛くて、何も言わずに写真を撮った。私のカメラロールに鯉登さんが……こっそりとお気に入りに追加しておいた。
「あとで送りますね」
「ナマエも撮ろうか」
「ふふっ、良いですよ、大丈夫です」
そうか、と言いながら鯉登さんがフォークとナイフを手に取った。私もさっそくくるくるとパスタを巻いて一口頬張った。
「美味しい!」
「悪くないな」
「盛り付けも凝ってるし良いですね。うちもなんかこういう可愛いのやってみたいです」
顔まで描かれているアザラシの白玉は自作しているのだろうか。雪を模したふわふわのホイップクリームの上に、手描きの少しまぬけな表情で横たわっているのがとても可愛らしい。
「一人だと難しいんじゃないか」
「うーん、もうちょっと工程減らしたり工夫したらいけそうです」
なんだか視察みたいな会話である。
「ナマエは自分のサービスを安売りする傾向がある。良い所でもあるが悪い所でもあるから気をつけた方が良い」
鯉登さんが美しい所作でハンバーグを食べ進めていく。財布を拾った日にも似たようなことを指摘されたことを思い出した。何だかんだちゃんとしている人なんだよな。
「じゃあ……ココアステンシルとかはどうでしょう?」
良いんじゃないか、と同意を得られたので今度試作してみよう。まずはトナカイとアザラシで作ってみようか。お腹が減っていたから二人で黙々と食べ進めて、あっという間に平らげてしまった。ご馳走様でした、と最後に鯉登さんに言えば満足そうな笑顔が返ってきた。
フードコートを出て、またふらふらと歩き始めた。デートなんだ、これ。本当に。水族館に誘われたと伝えた時にはしゃいでいた杉元さんの顔が浮かんだ。このことを伝えたら「だからデートだって最初から言ってたじゃん!」ってまたバシバシ叩いてきそうだ。いや、なんで私は杉元さんにありのまま今日のことを報告する前提で考えてるんだろう。報告待ってるよ、とグッと親指を立てていた姿を消すためにブンブンと頭を振ったらすぐ横の空っぽの水槽に目が行った。
「この水槽何も居なくないですか?」
「いや、あそこに居る。あの奥の所」
「どっ……」
ゴンッ!と額をガラスに強めにぶつけてしまった。恥ずかしい。鯉登さんがふいっと向こうを向いた。肩が震えている。
「そんな笑わなくても……!」
「あ、あまりにも……ご、豪快にぶつけたからっ……」
「ごっ……?!豪快とかそういうことは言わないで良いんですよ!」
痛くないか、と今度は心配そうに指先で額を触られて感情が追いつかない。触れられた所が熱い。痛みと熱でジンジンする。優しくて、大切そうに私を見つめる眼差しに当てられる。カァアっと一気に熱を帯びた顔を見られたくなくて、足早に廊下を歩き出した。それなのに鯉登さんは難なくついてきてどんだけ脚が長いんだと悔しさが芽生える。
「そ、そういえば今日、杉元さんの試合があるらしいんですよ」
パニックになった頭で必死になって話題を探した結果、さっき掻き消した杉元さんの顔が浮かんだ。
「あっ、知ってます?杉元さんってアイスホッケーの選手で、結構凄い人で──」
自分でも何を話しているのか良く分からない。さっきからずっと杉元さんの話ばかりしている気がする。鯉登さんの顔も見ずに、水槽にも脇目も振らずに。殴ってでも良いから誰か私を止めて欲しかった。
「この間杉元さんが──」
「……杉元の話は聞きたくない」
鯉登さんが立ち止まった。まるで本当に殴られたような衝撃に振り返れば、鯉登さんがグッと唇を噛んでいた。眉間には深い皺が刻まれている。
「ナマエは杉元が好きなのか」
聞きたくないと言ったばかりなのに、ひどく傷ついたような顔をしながら、自ら杉元さんについて聞いてきた。
「あ……いや、すまない……忘れてくれ」
「あっ……こ、鯉登さん、あの……」
「ナマエ」
寂しげな瞳で名前を呼ばれた。
「好きだ」
まるで鯉登さん自身に言い聞かせるように紡がれた言葉に、ドクっと心臓が痛んだ。「好きだ」なんて、もう飽きるほど聞いたはずだ。それなのに、ひどく心が揺さぶられた。
無意識のうちに鼻から大きく息を吸って、口を開けていた。すぐそこまで出かかっている言葉に、ざわざわと全身の毛が逆立っていく。言え、言ってしまえ。なのに鯉登さんが歩き出してしまった。行き場を失って喉元で膨れ上がる感情に窒息しそうだった。もう飲み込めない。でも吐き出せない。苦しくて、悲しくて、じわじわと視界が歪んでいく。
私も、鯉登さんが好きです。
2024.06.06
水族館前に着いて時間を確認すれば集合時間5分前だった。鯉登さんはもう来ているだろうか。辺りをザッと見回したら、道ゆく人々に必ずと言って良いほどチラチラと見られている人が居た。顔を見なくても分かる。あれは鯉登さんだ。ただ立っているだけなのに、周りの視線を奪っている。恐る恐る近づいて声をかけたら、鯉登さんがパッとこちらを見た。
「ナマエ!」
「わっ、すみません、お待たせしました」
「いや、私も今来た所だ」
眩しい笑顔を向けられて、思わず手を翳してしまった。私服の鯉登さんはレア度が高くていつもよりも何倍も眩しく見える。スーツほど堅苦しくないけれど、薄手のジャケットを羽織った上品な雰囲気に、やっぱりヒールの方が良かったのかなと、一瞬後悔した。せめてスカートかワンピースにしておけば良かった。気合が入っていると思われるのも何だか嫌で、友人に評判が良かったパンツスタイルで来てしまった。
行こうか、と鯉登さんが歩きだしたので慌てて後を追った。入り口でチケットを渡して、マップを受け取って館内を歩き進める。平日だからかあまり人が居ない。照明が落とされている非日常感溢れる空間にワクワクが高まっていく。
「わぁ……!」
「凄いな」
最初に私たちを出迎えたのは、この水族館の目玉の天井まである巨大水槽だった。首が痛くなるほど見上げれば、多種多様な魚たちが悠々と泳いでいるのが視界いっぱいに広がった。水面の光が反射して、青白い水影が壁や足元でゆらゆらと揺れている。いつもは上から眺めるだけの海の下に、この水槽よりももっと雄大な世界が広がっていると思うと、自然の偉大さにため息が出る。そういえば、最後に海に行ったのはいつだっただろう。鯉登さんは海行くのかな。褐色の肌は日焼けによるものではなさそうだけど、サーフィンとか似合いそう。仕事でも行くのかな。海運業とはいえ、昔貰った名刺には本部長って書いてあったし、さすがに現場とかには行かないか。すぐ隣にいるのだから本人に聞けば良いのに、なんだか聞きづらくて、色々疑問が浮かんでは自分で処理していくのが続いた。鯉登さんのことをもっと知りたいと思っている自分が居ることに、気づいてしまった。
「アザラシ見に行くか?」
「あっ、行きます!行きましょう!」
二人で館内マップを確認して歩き出した。少し歩いて海獣エリアにつけば、人だかりができていた。みんな赤ちゃんアザラシを目当てに来ていると思うと微笑ましい光景だ。そわそわしながら順番を待ってやっと最前列に出てみれば、ガラスの向こうでふわふわの白い赤ちゃんアザラシが飼育員さんと戯れていた。
「か、可愛いっ……!」
「可愛い……小さい……」
「なんでこんな……可愛すぎませんか……」
「写真で見た数倍可愛いな」
小さくて可愛いものの前では語彙力がゼロになる。さっきから私たちは可愛いしか言えていない。視線は逸らさずにスマホで何枚も写真を撮っていたら、ふぁ、と赤ちゃんアザラシがこちらを見ながら大きなあくびをした。
「こ、鯉登さんっ、今の見ました?!」
興奮しすぎて、すぐそこにあった袖をグイっと引っ張った。
「っ……!?」
バチっと、音でもするみたいに視線が交わった。近い。屈んでいた鯉登さんの顔が、思ったよりも近くにあった。お互いに息を呑んで、次の瞬間にはまた前方へと視線を戻した。あんなにも釘付けになっていた赤ちゃんアザラシが目に入らないほど緊張していた。ドッドッドッと心臓がうるさい。至近距離で整った顔と目が合ってしまった。カウンター越しの距離とは比べ物にならないくらい近かった。それに、気のせいだろうか。鯉登さんは、私が声をかける前からこちらを見ていたようだった。バカみたいにはしゃいでいたのを見られていた恥ずかしさが込み上げてくる。そもそもなんでこっち見てたんだ。
「そ、そろそろ行きましょうか……」
「あ、あぁ、そうだな……」
名残惜しいがあまり前列を占領し続けるのも悪いので、そそくさとガラスの前から移動した。ぼちぼちと会話をしつつ、足が赴くまま館内を歩き進めて色々な展示を見て回る。ホッキョクグマのダイブに圧倒されたり、巨大なサメが頭上を通るトンネルをドキドキしながら抜けたり、クラゲが揺蕩う水槽をぼーっと眺めたりと、久々の水族館を二人でまるで子供のように楽しんだ。鯉登さんは意外と潔癖らしくて、私がふれあいコーナーで夢中になってナマコやヒトデを触っている間中とても渋い顔をしていた。そんな表情もするんだ。「早く手を洗ってこい」と急かされてお手洗いに行けば、ニコニコと緩み切った自分の顔が鏡に映っていてびっくりしてしまった。
あまりにも楽しみすぎて、気づいたらお昼をとっくに過ぎた時間になっていた。バッグに入れていた館内マップを開いて、休憩できる場所を探し始めた。
「あ、フードコートでアザラシのコラボメニューやってますね」
「折角だからそこにするか」
「……鯉登さんってフードコート分かるんですか?」
「馬鹿にするな。ウェイターが居ない所だろう」
うん、いやそうなんだけど。その言い方は初めて聞いた。歩き出した鯉登さんを慌てて追いかけた。
フードコートに辿り着き、二人して頭上に掲げられたメニューを見上げた。アザラシのコラボドリンクは絶対に頼むとして、食べ物は何にしよう。鯉登さんは何にするんだろう。顎に手を当ててじっくりと考える姿に、あの日のことを思い出した。
「端から端までオーダーしちゃダメですよ?」
「あっ、あれは忘れろ……!」
鯉登さんが焦ったようにこちらを向いた。前代未聞な頼み方をした自覚はあるんだ。
「忘れられるわけないじゃないですか」
鮮烈な出会いを思い出して笑ったら、鯉登さんが見る見るうちに赤くなった。「そうか」となんだか嬉しそうに言っている姿に、急に私も恥ずかしくなる。「忘れられるわけない」ってそういう意味で言ったわけではないのに。メニューを見てももう何も入ってこない。適当に頼んでしまおうと先に注文していたら、鯉登さんも決まったのか一緒に注文し始めた。そして私に財布を出す隙も与えずに、当たり前のようにカードを切ってしまった。受け取った呼び出しベルを鯉登さんが興味津々に眺めている。これが鳴ったら取りに行くんですよ、と説明しながら空いていた席に着いた。
「さっきは立て替えてもらってすみません。これ、私の分です」
細かいのが無かったので多めに鯉登さんに渡せば直ぐに突き返されてしまった。
「現金は持たない主義だ」
「えっ?一円も?」
確かにカフェでもいつもカード払いだ。でもカードやアプリでの電子決済が主流になってきたとはいえ、まだまだ現金が必要な時もあると思うのだけれど。
「買い物先でカードとか使えなくて困ったりしたことないんですか?」
「買い物先……?」
鯉登さんが不思議そうに少し考え込んだ。
「家に来るから特にないな」
「家に、来る……?」
何が?買い物先が?一瞬、物理的にスーパーが移動してくるイメージが浮かんだ。もしかして外商の話してる?鯉登家という由緒正しきセレブに格の違いを見せつけられて頭が混乱する。
「あ、じゃあ送金するんでどのアプリ使ってるか教えてください」
「いらない」
「さすがに全部奢りは申し訳ないです」
「……私が良いと言っているんだから良いだろう」
「じゃあ私の払いたい気持ちはどうなるんですか」
鯉登さんが言葉に詰まったと思ったら、急に耳まで真っ赤にして私をチラリと見て、視線をテーブルの上の呼び出しベルに落とした。
「で、デートなのだから奢られてはくれないか……」
鯉登さんの熱が、一瞬で私にも伝染した。緊張感のある沈黙が訪れる。鯉登さんは、これをデートだと認識している。にやけそうになる唇を噛んで堪える。どうしよう、なんて返せば良いのか分からない。口を開いたら心臓が飛び出そうだった。この沈黙の破り方を、私たちは知らない。
ドギマギとした沈黙が続く中、突然、けたたましい音が鳴り響いた。
「キェッ……!」
「びっくりした……!よ、用意できたみたいですね」
「と、取ってくるっ!」
大音量で鳴り続ける呼び出しベルを持って、鯉登さんが嬉しそうに席を立ち上がった。知っているとは言ってたけど、フードコートに来たのは初めてなんだろうな。はしゃいじゃって可愛い。すぐに二つのトレーを器用に持って鯉登さんが戻ってきた。
「すごい、可愛い……!」
「食べるのが勿体無いな」
私はアザラシの形をした白玉が乗ったチョコレートドリンクとシーフードパスタ、鯉登さんはコーヒーとイルカの形をしたハンバーグだ。
「あっ、食べる前に写真撮って良いですか」
鞄からスマホを取り出して前を向き直れば、鯉登さんがお皿を持ってこちらを見ていた。
「ふっ……」
本当は食べ物だけを撮りたかったんだけどな。食べ物と一緒に撮られる気満々の鯉登さんが面白くて、可愛くて、何も言わずに写真を撮った。私のカメラロールに鯉登さんが……こっそりとお気に入りに追加しておいた。
「あとで送りますね」
「ナマエも撮ろうか」
「ふふっ、良いですよ、大丈夫です」
そうか、と言いながら鯉登さんがフォークとナイフを手に取った。私もさっそくくるくるとパスタを巻いて一口頬張った。
「美味しい!」
「悪くないな」
「盛り付けも凝ってるし良いですね。うちもなんかこういう可愛いのやってみたいです」
顔まで描かれているアザラシの白玉は自作しているのだろうか。雪を模したふわふわのホイップクリームの上に、手描きの少しまぬけな表情で横たわっているのがとても可愛らしい。
「一人だと難しいんじゃないか」
「うーん、もうちょっと工程減らしたり工夫したらいけそうです」
なんだか視察みたいな会話である。
「ナマエは自分のサービスを安売りする傾向がある。良い所でもあるが悪い所でもあるから気をつけた方が良い」
鯉登さんが美しい所作でハンバーグを食べ進めていく。財布を拾った日にも似たようなことを指摘されたことを思い出した。何だかんだちゃんとしている人なんだよな。
「じゃあ……ココアステンシルとかはどうでしょう?」
良いんじゃないか、と同意を得られたので今度試作してみよう。まずはトナカイとアザラシで作ってみようか。お腹が減っていたから二人で黙々と食べ進めて、あっという間に平らげてしまった。ご馳走様でした、と最後に鯉登さんに言えば満足そうな笑顔が返ってきた。
フードコートを出て、またふらふらと歩き始めた。デートなんだ、これ。本当に。水族館に誘われたと伝えた時にはしゃいでいた杉元さんの顔が浮かんだ。このことを伝えたら「だからデートだって最初から言ってたじゃん!」ってまたバシバシ叩いてきそうだ。いや、なんで私は杉元さんにありのまま今日のことを報告する前提で考えてるんだろう。報告待ってるよ、とグッと親指を立てていた姿を消すためにブンブンと頭を振ったらすぐ横の空っぽの水槽に目が行った。
「この水槽何も居なくないですか?」
「いや、あそこに居る。あの奥の所」
「どっ……」
ゴンッ!と額をガラスに強めにぶつけてしまった。恥ずかしい。鯉登さんがふいっと向こうを向いた。肩が震えている。
「そんな笑わなくても……!」
「あ、あまりにも……ご、豪快にぶつけたからっ……」
「ごっ……?!豪快とかそういうことは言わないで良いんですよ!」
痛くないか、と今度は心配そうに指先で額を触られて感情が追いつかない。触れられた所が熱い。痛みと熱でジンジンする。優しくて、大切そうに私を見つめる眼差しに当てられる。カァアっと一気に熱を帯びた顔を見られたくなくて、足早に廊下を歩き出した。それなのに鯉登さんは難なくついてきてどんだけ脚が長いんだと悔しさが芽生える。
「そ、そういえば今日、杉元さんの試合があるらしいんですよ」
パニックになった頭で必死になって話題を探した結果、さっき掻き消した杉元さんの顔が浮かんだ。
「あっ、知ってます?杉元さんってアイスホッケーの選手で、結構凄い人で──」
自分でも何を話しているのか良く分からない。さっきからずっと杉元さんの話ばかりしている気がする。鯉登さんの顔も見ずに、水槽にも脇目も振らずに。殴ってでも良いから誰か私を止めて欲しかった。
「この間杉元さんが──」
「……杉元の話は聞きたくない」
鯉登さんが立ち止まった。まるで本当に殴られたような衝撃に振り返れば、鯉登さんがグッと唇を噛んでいた。眉間には深い皺が刻まれている。
「ナマエは杉元が好きなのか」
聞きたくないと言ったばかりなのに、ひどく傷ついたような顔をしながら、自ら杉元さんについて聞いてきた。
「あ……いや、すまない……忘れてくれ」
「あっ……こ、鯉登さん、あの……」
「ナマエ」
寂しげな瞳で名前を呼ばれた。
「好きだ」
まるで鯉登さん自身に言い聞かせるように紡がれた言葉に、ドクっと心臓が痛んだ。「好きだ」なんて、もう飽きるほど聞いたはずだ。それなのに、ひどく心が揺さぶられた。
無意識のうちに鼻から大きく息を吸って、口を開けていた。すぐそこまで出かかっている言葉に、ざわざわと全身の毛が逆立っていく。言え、言ってしまえ。なのに鯉登さんが歩き出してしまった。行き場を失って喉元で膨れ上がる感情に窒息しそうだった。もう飲み込めない。でも吐き出せない。苦しくて、悲しくて、じわじわと視界が歪んでいく。
私も、鯉登さんが好きです。
2024.06.06
