短編
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
物心ついた時から私の世界は磨 硝子越しだった。人も物も輪郭が朧げで、特に文字を読むには手元まで近づけないと読めやしない。不便ではあるけど、ずっとこんな世界で生きてきたので、まあこういうものだろうと思っていた。でもそれは、周りの人たちがどんな世界を見ているのかを知らなかったからだった。
「目が悪いのか」
目を細めて、掛け時計の時間を読み取ろうとしていたら、ちょうど通りかかった土方さんに声をかけられた。
「あっ、はい……すみません」
「謝ることではない。そのままでは何かと不便だろう」
そう言って連れてこられたのは、人生で初めての眼鏡店だった。洋装の連れと「どれでも好きな物を選びなさい」と言った土方さんの様子から羽振りが良いと判断されたのか、店主によって強制的に椅子に座らせられた。今はこういう眼鏡が流行りだとか、顔立ち的にはこういった縁の方が似合うだとか色々と勧めてくるのだが、私は内心ダラダラと冷や汗をかいていた。
目が悪くなくても伊達眼鏡を掛けるのが最近の流行り、らしい。そんな流行が生まれるくらいにはひと昔前よりも随分と手が届く代物になったとはいえ、今私の顔に勝手に掛けられている鼈甲の眼鏡が一体いくらするのか想像もつかなくて、体がカチコチに固まってしまう。
「どうですか、職人が丹精込めて作ったものなんですよ」
「それはちと派手すぎるな。折角の嬢ちゃんの可愛らしさを打ち消してる」
「もっと素朴で主張しない物はないのかしら。ナマエさんにはそういった物が似合うはずですわ」
「そうですか……ではこちらのセルロイドのはいかがでしょう?最近作られ始めた珍しい物なんですよ」
「せる、ど……?え、えっと……良く分からなくて……」
店主がニッコリとした笑顔でまた新しい眼鏡を差し出してきて、椅子の上で仰け反ってしまった。いかがでしょうか、と言われても。今まで何本も試着をさせられたけれど、目の前の鏡の中の私は何を掛けてもぼんやりとしていて違いが分からない。しかも最近作られ始めた珍しい物なんて、高いに決まっている。
「えっと、すみません、初めて眼鏡を買うので、まずは無難で一番手ごろなのが良いのですが……」
「それならこちらはいかがでしょう?」
今特に売れている商品らしい。渡された眼鏡は金属の縁が細く、軽かった。”手頃”と言われた通り、ツルについた値札には、思っていたよりも安い金額が書かれていた。しかしそれはあくまで思ったより、である。自腹では到底買おうと思わない値段だ。しかし土方さんは「それで良いのか?」と聞いてくるし、牛山さんと家永さんも似合うと言ってくるしで、半ば流されるようにこの眼鏡を買うことが決定し、そのまま視力検査が始まった。
数日後、出来上がった眼鏡を取りに行ってから、私の世界は一変した。
「すごい……!」
「これで時計も見えるか?」
「はい、見えすぎて怖いです」
あの掛け時計に存在することすら知らなかった秒針がカチカチカチと時を刻んでいるのがはっきりと見える。こんなにも鮮明に物を見たのは初めてだった。視界から得られる情報量が一気に増えて、少しばかりの恐怖さえ感じた。時計や皆さんのお顔だけでなく、部屋の隅に溜まった埃や、自分の着物の裾の泥跳ね……見えなくて良いものまで見えて困ってしまう。
脳に流れ込んでくる情報量に頭と目も痛くなるから、眼鏡はたまに掛けるくらいがちょうど良いと思っていたのに、人間の適応力とは凄まじいものだ。すぐに私はこのくっきりと鮮やかな世界を受け入れることとなり、元のぼやけた世界に戻ることができなくなった。寝る直前まで眼鏡をかけ、起きたらすかさず眼鏡をかける。いつしかそれが私の日課になり、裸眼で過ごすことが不安で不安で仕方がなくなった。
暫くして、夕張へと移動した先でアシリパさんたちと手を組むことになった。牛山さんたちが爆発事故のあった坑内から見つかった遺体についての聞き込みをしている最中、私たちは江渡貝邸に残って残された手がかりを探していた。すると、突然ガラスが割れる大きな音がして、すぐに焦げ臭い匂いが充満した。鶴見中尉達によって火炎瓶が投げ込まれたのだと理解するには、そう時間はかからなかった。一階はあっと言う間に火の海になり、建物周辺も第七師団に囲まれて絶体絶命かと思われたが、駆けつけてきた牛山さんたちによって形勢が逆転しつつあった。しかし、その最中の混乱で私は眼鏡を落とし、あろうことか自分で踏んづけてしまった。
見えない。今すぐ逃げなければならないのに、メラメラと燃え盛る炎との距離感が全く掴めない。突然のことに戸惑って身動きできずにいると、杉元さんが私を担いで助け出してくれた。そして大勢で固まっていると目立つからと、そのまま私は杉元さんやアシリパさん達と行動することとなり、土方さん達とは月形で落ち合うこととなった。
「眼鏡が……」
命があるだけ良かった。けど、命があるからこそ色々なことを考えてしまう。手元の眼鏡の縁は大きくひしゃげ、レンズも亀裂が入ってしまってもう使い物にならない。どうにもならないことは分かっているのに、捨てられなくて懐にしまっては時間があると取り出して、ため息をつくのが新しい日課になってしまった。
「壊れちまったのは残念だけど、あんまり気にしない方がいいんじゃない?土方たちと合流した時にまた新しいの買ってもらおうぜ。俺もついでに買ってもらいたいものあるし」
「……はい」
「ごめんね、ナマエさん。俺たちに金があったらすぐに作り直せたんだけど……」
「いえ、そんな!そもそも土方さんに買ってもらったのも変な話ですし……」
私には分不相応な物だったのかもしれない。だってこういうのは、自分のお金で買うべき物だ。少しの間だったけど、みんなが見ている世界を見ることができて良かったと自分に言い聞かせて、眼鏡を懐にしまった。また元の生活に戻るだけだ。つい数ヶ月前まで眼鏡なしで生きてきたのだから、どうということはない。
しかし、眼鏡を初めて掛けた時の適応力はどこにいってしまったのか、数日経っても私はこのぼやけた視界に慣れることがなかった。余程眼鏡に依存していたらしい。視界に入るもの全てが朧げだから距離感も地形も掴めず、障害物の多い森の中では基本的に牛山さんや杉元さんにおぶってもらっていた。まったく足手纏い甚だしい。尾形さんなんて私が動けずにいると明らかに面倒そうにしていた。顔が見えなくても、纏っている空気で分かるものだ。尾形さんは特に目が良いから、私のことがどうしようもなく哀れで滑稽に見えるのだろう。
その一方で、杉元さんは過保護なくらいに私の側にいて、手を差し伸べてくれた。外でも室内でも、私が移動する時は杉元さんがほぼ常に横にいた。常に、というのは大袈裟でもなんでもなく、私が腰を上げるとすかさず杉元さんも立ち上がって横へとついてくる。さすがに厠にまでついてこようとした時はアシリパさんに怒られていたけれど、それくらいいつもすぐそばに居て、私の目となってくれていた。それは良いのだけど、段差があるとかだけでなく、綺麗な色の鳥がいるとか周りの景色のことまで逐一言葉にして教えてくれるその優しさがむず痒かった。私は、優しさを向けられて飛び跳ねる心臓がいつバレてしまうのか気が気でなかった。向こうは純然たる親切心から私のことを助けてくれているというのに。
「おっ……と」
今夜泊まることになった宿の廊下を歩いていると、何かに足を取られて体がふらついた。足裏で床を撫でてみれば、この辺りだけボコボコと波打っているようだった。足元を見下ろしてもその凸凹は目視できない。気をつけないと。指先を壁につけて、また一歩踏み出した。
初めての場所は緊張する。間取りや物の配置、段差が把握できていないから歩を進めるのが少し怖くて、壁伝いに移動するのが癖になっていた。先を行くアシリパさんたちが角を曲がって一人また一人と姿が見えなくなっていく。慌てて追いかけようとしたらドタドタと足音が聞こえてきて、ひょっこりと杉元さんの顔らしき肌色が角から覗いた。
「ごめんナマエさん、白石と話してて先行っちゃってた。俺に掴まって」
「大丈夫です」
「ちゃんと見えてないんでしょ、危ないから」
「見えてないって言うほどではないんですけど……」
全ての物体が朧げなだけで、目が見えていないわけではない。それでも駆け寄ってきた杉元さんは「いいから」といつものように肘を差し出してくる。
「すみません。では、失礼します……」
襷掛けされた着物の袖と、シャツの境目のあたりに控えめに手を添えた。じんわりと伝わってくる熱が、私の心臓を少しずつ早めて、体温が上がっていく。
「歩きにくくない?大丈夫?」
「は、はい」
しっかりと歩幅を合わせてくれているから、いつもの調子で歩くことができている。むしろ杉元さんの方が歩きにくいのでは。そう言ってもきっと「俺も大丈夫」と優しい声で返してきそうだ。
「もうすぐ曲がり角だよ」
「ありがとうございます。でももうこの視界にも結構慣れてきたので、本当に大丈夫ですよ」
「でも怪我したら大変だから。土方たちにも申し訳ないし」
「見えないとその分、他の感覚が強くなって、音とか匂いとか、意外といろんな情報が入ってくるんです。だから──」
「うん」
知ってる、と小さい声がした。横顔を盗み見れば唇をきゅっと噛み締めて、まっすぐ前を向いている杉元さんがいた。杉元さんはたまに、こうやって泣きそうな顔をする。ごく最近気づいたことだ。ぼやっとしていても手に取るように分かるのは、きっと杉元さんが纏っている空気の匂いが変わるから。
あなたは一体、誰を重ねているの?
言葉にすることも、杉元さんの腕に添えた手を引くこともできないまま、アシリパさんたちの待つ部屋へと歩き続けた。
*
「どうしたの?」
中庭を見下ろせる縁側で、一人手すりに寄りかかっていたら襖が開く気配がして、ギシッと床板が軋んだ。音の方へと首を捻れば、杉元さんが隣に来た。いつもの軍帽を被っていないせいで、額が晒されているのが珍しい。
「寝られない?」
「はい、なんだか目が覚めちゃったのもあるんですけど……」
「けど?」
「星を、見たいなって思って」
「星?」
「もう何も見えないんですけどね」
眼鏡が壊れてしまったから。手で握っていた眼鏡を一瞥した杉元さんが「あぁ」とも「うん」とも言えない曖昧な返事をした。
「ずっと、星を見てみたかったんです」
夜空は私にはただの真っ暗闇だった。月があることは流石に分かるが、輪郭が滲んで、丸いか欠けているかくらいにしか形を把握できない。そんな調子だから、私は星という単語を知っているのに、それが一体どんな物なのか、数ヶ月前に初めて知った。ただの墨を広げたような空間だと思っていた頭上に、大小様々な白っぽい点が無数に輝いているのを見てそれはそれは驚いた。五稜星のようなものが空に浮かんでいると思っていたのに、実物はあまりにも小さく、眼鏡を掛けた私でもその形を正確に捉えられないほどに遠くで瞬いていた。よく見ると青味がかっていたり黄味がかっていたり、星にも色があるのだということに気づいてからは、夜空を見上げるのが楽しくてしょうがなかった。
「皆さんこんなキラキラと輝く世界を見ていたんだなぁって。短い間でしたけど、私も見ることができて本当に嬉しかった」
何もない空を見上げた。きっと頭上には、初めて星を見た時のように無数の光が瞬いているのだろう。今日は月が出ていないようだから、きっと星たちが普段よりも見やすいだろうに。そこにあるはずなのに、私にとっては何もない。不思議な感覚だ。
「また見ようよ」
頭の重みで首の後ろが痛み始めた頃、杉元さんが口を開いた。
「眼鏡作り直してさ。その方が安全だし、わざと壊したわけじゃないんだから、土方だって怒ったりしないと思うし」
そう、土方さんは怒らないだろう。きっとまた新しいのを作りなさいと言ってくれる。でも決して安くはない物を二度も買い与えてもらうのは気が引けるというもので。せめて給料から天引きしてくれたら良いのだけど、結局気にしなくて良いと言われそうだ。
「ナマエさんはさ、どれくらい見えてるの?この手すりがあるのは分かる?」
なんて返そうか言葉を整理しているうちに、杉元さんが先に話題を変えてしまった。ぺちぺちと、手のひらで手すりを叩く控えめな音が聞こえてくる。
「細部が見えないだけで、物自体は見えてますよ。輪郭がぼやっとしていて、朧げというか、磨硝子越しのような……」
言葉にしようとすると意外と説明が難しい。へぇ、と不思議そうな声が隣から聞こえてきて、私が見ている世界は杉元さんが見ている世界と全く違うのだと突き付けられる。
「俺の顔は分かる?」
「ええ、はっきりとは分かりませんけど、目があることとか、傷があることは分かりますよ」
「目があることって……この距離でもぼんやりしてるなら、普段人を見分けるの大変じゃない?」
「うーん、でも服装などでも誰かは大体分かりますし……それに声とか、匂いとか、雰囲気とかは、そんなに変わらないですからね」
体一つ分と少しの身長差。それだけの距離でも、私は隣にいる杉元さんの顔を正確に捉えることができない。でも、見分けられないかと言われるとちょっと違う。例え変装してたとしても、内から滲み出るその人の根っこのような部分までは、中々変えることはできない。できるとしたらそれは天性の才能だ。細部に囚われず、そういう変えることができない人の本質のようなものに基づいて判断できるから、顔が見えない方がむしろ人を見分けやすい……というのが私の持論だ。
「分からなくなるほど、人間って変わるものなのかな」
「え?」
「その人の中で、何かが根本的に変わってしまって、それで……」
声が段々と小さくなっていって、やがて聞こえなくなった。見た目はそのままに、見分けがつかなくなることなんてあるのだろうか。不死身の杉元として戦っている時の杉元さんでさえ、私には同じ人に見えるのに。
「ナマエさんに俺はどう見えてる?」
「どうって……」
「俺は、怖くない?」
抑えているようだけど、いつもよりも言葉が僅かに震えていた。呼吸も不規則だ。恐れと不安と悲しみと、僅かな怒り。顔は良く見えなくても、杉元さんの感情が痛いほどに伝わってきた。
「そんな泣きそうになっている人が怖いわけないじゃないですか」
「えっ!?べっ、別にそんなこと、ないけど……え?見えてる?」
「いいえ、全く。それに、杉元さんには今まで沢山助けてもらったから、怖いなんて思うわけないです」
「そうなら、嬉しいけど……」
杉元さんの手が不自然に額の方に上がった。それが軍帽の鍔を探していたのだと気づいたのは、杉元さんが小さく「あっ」と言って尾形さんのように髪を撫でつけた時だった。恥ずかしそうに俯いているその姿が可愛らしくて、口角がゆるりと上がっていく。
「俺が思ってるよりも、ナマエさんは色んなことが見えてるんだね」
「見えてないものも多いですけどね」
「どれくらい近づいたら見えるようになるの?」
「そうですね……」
手招きしたら、杉元さんが素直に近づいて屈んできた。さっきよりも鮮明に見える。大きな傷が、鼻骨を通って左右の頬に橋のように架かっている。その両端で交差するように縦にも傷が走り、向かって右側のは唇まで皮膚が裂かれている。抉られて、盛り上がって、痛々しくて、生々しい。今にでも血が噴き出しそうだ。こういう傷が、多分杉元さんの体中にある。怖くない?と言っていた意味が少しだけ理解できた。根本的に変わってしまったら、というのも。きっと、この傷ができる前と後で、杉元さんは変わってしまったと思っている。点と点が、星座をなぞるように繋がっていく。
「……もっと?」
「もっと」
鼻先と鼻先が、拳二つ分の距離で止まった。戸惑う杉元さんの衿を掴んで、ぐいっと引き寄せた。
「──このくらい」
唇が触れあうほどに近づいたことで、杉元さんはまたぼやけてしまった。それでも、どんな顔をしているのかが分かるのがおかしくて、愛おしかった。
「……なんて、嘘ですよ」
少しは私のこともちゃんと、見てくれたら嬉しいのだけど。私は、今のあなたが好きですよ。真っ赤になった杉元さんを置いて一人部屋へと戻った。
2025.12.20
「目が悪いのか」
目を細めて、掛け時計の時間を読み取ろうとしていたら、ちょうど通りかかった土方さんに声をかけられた。
「あっ、はい……すみません」
「謝ることではない。そのままでは何かと不便だろう」
そう言って連れてこられたのは、人生で初めての眼鏡店だった。洋装の連れと「どれでも好きな物を選びなさい」と言った土方さんの様子から羽振りが良いと判断されたのか、店主によって強制的に椅子に座らせられた。今はこういう眼鏡が流行りだとか、顔立ち的にはこういった縁の方が似合うだとか色々と勧めてくるのだが、私は内心ダラダラと冷や汗をかいていた。
目が悪くなくても伊達眼鏡を掛けるのが最近の流行り、らしい。そんな流行が生まれるくらいにはひと昔前よりも随分と手が届く代物になったとはいえ、今私の顔に勝手に掛けられている鼈甲の眼鏡が一体いくらするのか想像もつかなくて、体がカチコチに固まってしまう。
「どうですか、職人が丹精込めて作ったものなんですよ」
「それはちと派手すぎるな。折角の嬢ちゃんの可愛らしさを打ち消してる」
「もっと素朴で主張しない物はないのかしら。ナマエさんにはそういった物が似合うはずですわ」
「そうですか……ではこちらのセルロイドのはいかがでしょう?最近作られ始めた珍しい物なんですよ」
「せる、ど……?え、えっと……良く分からなくて……」
店主がニッコリとした笑顔でまた新しい眼鏡を差し出してきて、椅子の上で仰け反ってしまった。いかがでしょうか、と言われても。今まで何本も試着をさせられたけれど、目の前の鏡の中の私は何を掛けてもぼんやりとしていて違いが分からない。しかも最近作られ始めた珍しい物なんて、高いに決まっている。
「えっと、すみません、初めて眼鏡を買うので、まずは無難で一番手ごろなのが良いのですが……」
「それならこちらはいかがでしょう?」
今特に売れている商品らしい。渡された眼鏡は金属の縁が細く、軽かった。”手頃”と言われた通り、ツルについた値札には、思っていたよりも安い金額が書かれていた。しかしそれはあくまで思ったより、である。自腹では到底買おうと思わない値段だ。しかし土方さんは「それで良いのか?」と聞いてくるし、牛山さんと家永さんも似合うと言ってくるしで、半ば流されるようにこの眼鏡を買うことが決定し、そのまま視力検査が始まった。
数日後、出来上がった眼鏡を取りに行ってから、私の世界は一変した。
「すごい……!」
「これで時計も見えるか?」
「はい、見えすぎて怖いです」
あの掛け時計に存在することすら知らなかった秒針がカチカチカチと時を刻んでいるのがはっきりと見える。こんなにも鮮明に物を見たのは初めてだった。視界から得られる情報量が一気に増えて、少しばかりの恐怖さえ感じた。時計や皆さんのお顔だけでなく、部屋の隅に溜まった埃や、自分の着物の裾の泥跳ね……見えなくて良いものまで見えて困ってしまう。
脳に流れ込んでくる情報量に頭と目も痛くなるから、眼鏡はたまに掛けるくらいがちょうど良いと思っていたのに、人間の適応力とは凄まじいものだ。すぐに私はこのくっきりと鮮やかな世界を受け入れることとなり、元のぼやけた世界に戻ることができなくなった。寝る直前まで眼鏡をかけ、起きたらすかさず眼鏡をかける。いつしかそれが私の日課になり、裸眼で過ごすことが不安で不安で仕方がなくなった。
暫くして、夕張へと移動した先でアシリパさんたちと手を組むことになった。牛山さんたちが爆発事故のあった坑内から見つかった遺体についての聞き込みをしている最中、私たちは江渡貝邸に残って残された手がかりを探していた。すると、突然ガラスが割れる大きな音がして、すぐに焦げ臭い匂いが充満した。鶴見中尉達によって火炎瓶が投げ込まれたのだと理解するには、そう時間はかからなかった。一階はあっと言う間に火の海になり、建物周辺も第七師団に囲まれて絶体絶命かと思われたが、駆けつけてきた牛山さんたちによって形勢が逆転しつつあった。しかし、その最中の混乱で私は眼鏡を落とし、あろうことか自分で踏んづけてしまった。
見えない。今すぐ逃げなければならないのに、メラメラと燃え盛る炎との距離感が全く掴めない。突然のことに戸惑って身動きできずにいると、杉元さんが私を担いで助け出してくれた。そして大勢で固まっていると目立つからと、そのまま私は杉元さんやアシリパさん達と行動することとなり、土方さん達とは月形で落ち合うこととなった。
「眼鏡が……」
命があるだけ良かった。けど、命があるからこそ色々なことを考えてしまう。手元の眼鏡の縁は大きくひしゃげ、レンズも亀裂が入ってしまってもう使い物にならない。どうにもならないことは分かっているのに、捨てられなくて懐にしまっては時間があると取り出して、ため息をつくのが新しい日課になってしまった。
「壊れちまったのは残念だけど、あんまり気にしない方がいいんじゃない?土方たちと合流した時にまた新しいの買ってもらおうぜ。俺もついでに買ってもらいたいものあるし」
「……はい」
「ごめんね、ナマエさん。俺たちに金があったらすぐに作り直せたんだけど……」
「いえ、そんな!そもそも土方さんに買ってもらったのも変な話ですし……」
私には分不相応な物だったのかもしれない。だってこういうのは、自分のお金で買うべき物だ。少しの間だったけど、みんなが見ている世界を見ることができて良かったと自分に言い聞かせて、眼鏡を懐にしまった。また元の生活に戻るだけだ。つい数ヶ月前まで眼鏡なしで生きてきたのだから、どうということはない。
しかし、眼鏡を初めて掛けた時の適応力はどこにいってしまったのか、数日経っても私はこのぼやけた視界に慣れることがなかった。余程眼鏡に依存していたらしい。視界に入るもの全てが朧げだから距離感も地形も掴めず、障害物の多い森の中では基本的に牛山さんや杉元さんにおぶってもらっていた。まったく足手纏い甚だしい。尾形さんなんて私が動けずにいると明らかに面倒そうにしていた。顔が見えなくても、纏っている空気で分かるものだ。尾形さんは特に目が良いから、私のことがどうしようもなく哀れで滑稽に見えるのだろう。
その一方で、杉元さんは過保護なくらいに私の側にいて、手を差し伸べてくれた。外でも室内でも、私が移動する時は杉元さんがほぼ常に横にいた。常に、というのは大袈裟でもなんでもなく、私が腰を上げるとすかさず杉元さんも立ち上がって横へとついてくる。さすがに厠にまでついてこようとした時はアシリパさんに怒られていたけれど、それくらいいつもすぐそばに居て、私の目となってくれていた。それは良いのだけど、段差があるとかだけでなく、綺麗な色の鳥がいるとか周りの景色のことまで逐一言葉にして教えてくれるその優しさがむず痒かった。私は、優しさを向けられて飛び跳ねる心臓がいつバレてしまうのか気が気でなかった。向こうは純然たる親切心から私のことを助けてくれているというのに。
「おっ……と」
今夜泊まることになった宿の廊下を歩いていると、何かに足を取られて体がふらついた。足裏で床を撫でてみれば、この辺りだけボコボコと波打っているようだった。足元を見下ろしてもその凸凹は目視できない。気をつけないと。指先を壁につけて、また一歩踏み出した。
初めての場所は緊張する。間取りや物の配置、段差が把握できていないから歩を進めるのが少し怖くて、壁伝いに移動するのが癖になっていた。先を行くアシリパさんたちが角を曲がって一人また一人と姿が見えなくなっていく。慌てて追いかけようとしたらドタドタと足音が聞こえてきて、ひょっこりと杉元さんの顔らしき肌色が角から覗いた。
「ごめんナマエさん、白石と話してて先行っちゃってた。俺に掴まって」
「大丈夫です」
「ちゃんと見えてないんでしょ、危ないから」
「見えてないって言うほどではないんですけど……」
全ての物体が朧げなだけで、目が見えていないわけではない。それでも駆け寄ってきた杉元さんは「いいから」といつものように肘を差し出してくる。
「すみません。では、失礼します……」
襷掛けされた着物の袖と、シャツの境目のあたりに控えめに手を添えた。じんわりと伝わってくる熱が、私の心臓を少しずつ早めて、体温が上がっていく。
「歩きにくくない?大丈夫?」
「は、はい」
しっかりと歩幅を合わせてくれているから、いつもの調子で歩くことができている。むしろ杉元さんの方が歩きにくいのでは。そう言ってもきっと「俺も大丈夫」と優しい声で返してきそうだ。
「もうすぐ曲がり角だよ」
「ありがとうございます。でももうこの視界にも結構慣れてきたので、本当に大丈夫ですよ」
「でも怪我したら大変だから。土方たちにも申し訳ないし」
「見えないとその分、他の感覚が強くなって、音とか匂いとか、意外といろんな情報が入ってくるんです。だから──」
「うん」
知ってる、と小さい声がした。横顔を盗み見れば唇をきゅっと噛み締めて、まっすぐ前を向いている杉元さんがいた。杉元さんはたまに、こうやって泣きそうな顔をする。ごく最近気づいたことだ。ぼやっとしていても手に取るように分かるのは、きっと杉元さんが纏っている空気の匂いが変わるから。
あなたは一体、誰を重ねているの?
言葉にすることも、杉元さんの腕に添えた手を引くこともできないまま、アシリパさんたちの待つ部屋へと歩き続けた。
*
「どうしたの?」
中庭を見下ろせる縁側で、一人手すりに寄りかかっていたら襖が開く気配がして、ギシッと床板が軋んだ。音の方へと首を捻れば、杉元さんが隣に来た。いつもの軍帽を被っていないせいで、額が晒されているのが珍しい。
「寝られない?」
「はい、なんだか目が覚めちゃったのもあるんですけど……」
「けど?」
「星を、見たいなって思って」
「星?」
「もう何も見えないんですけどね」
眼鏡が壊れてしまったから。手で握っていた眼鏡を一瞥した杉元さんが「あぁ」とも「うん」とも言えない曖昧な返事をした。
「ずっと、星を見てみたかったんです」
夜空は私にはただの真っ暗闇だった。月があることは流石に分かるが、輪郭が滲んで、丸いか欠けているかくらいにしか形を把握できない。そんな調子だから、私は星という単語を知っているのに、それが一体どんな物なのか、数ヶ月前に初めて知った。ただの墨を広げたような空間だと思っていた頭上に、大小様々な白っぽい点が無数に輝いているのを見てそれはそれは驚いた。五稜星のようなものが空に浮かんでいると思っていたのに、実物はあまりにも小さく、眼鏡を掛けた私でもその形を正確に捉えられないほどに遠くで瞬いていた。よく見ると青味がかっていたり黄味がかっていたり、星にも色があるのだということに気づいてからは、夜空を見上げるのが楽しくてしょうがなかった。
「皆さんこんなキラキラと輝く世界を見ていたんだなぁって。短い間でしたけど、私も見ることができて本当に嬉しかった」
何もない空を見上げた。きっと頭上には、初めて星を見た時のように無数の光が瞬いているのだろう。今日は月が出ていないようだから、きっと星たちが普段よりも見やすいだろうに。そこにあるはずなのに、私にとっては何もない。不思議な感覚だ。
「また見ようよ」
頭の重みで首の後ろが痛み始めた頃、杉元さんが口を開いた。
「眼鏡作り直してさ。その方が安全だし、わざと壊したわけじゃないんだから、土方だって怒ったりしないと思うし」
そう、土方さんは怒らないだろう。きっとまた新しいのを作りなさいと言ってくれる。でも決して安くはない物を二度も買い与えてもらうのは気が引けるというもので。せめて給料から天引きしてくれたら良いのだけど、結局気にしなくて良いと言われそうだ。
「ナマエさんはさ、どれくらい見えてるの?この手すりがあるのは分かる?」
なんて返そうか言葉を整理しているうちに、杉元さんが先に話題を変えてしまった。ぺちぺちと、手のひらで手すりを叩く控えめな音が聞こえてくる。
「細部が見えないだけで、物自体は見えてますよ。輪郭がぼやっとしていて、朧げというか、磨硝子越しのような……」
言葉にしようとすると意外と説明が難しい。へぇ、と不思議そうな声が隣から聞こえてきて、私が見ている世界は杉元さんが見ている世界と全く違うのだと突き付けられる。
「俺の顔は分かる?」
「ええ、はっきりとは分かりませんけど、目があることとか、傷があることは分かりますよ」
「目があることって……この距離でもぼんやりしてるなら、普段人を見分けるの大変じゃない?」
「うーん、でも服装などでも誰かは大体分かりますし……それに声とか、匂いとか、雰囲気とかは、そんなに変わらないですからね」
体一つ分と少しの身長差。それだけの距離でも、私は隣にいる杉元さんの顔を正確に捉えることができない。でも、見分けられないかと言われるとちょっと違う。例え変装してたとしても、内から滲み出るその人の根っこのような部分までは、中々変えることはできない。できるとしたらそれは天性の才能だ。細部に囚われず、そういう変えることができない人の本質のようなものに基づいて判断できるから、顔が見えない方がむしろ人を見分けやすい……というのが私の持論だ。
「分からなくなるほど、人間って変わるものなのかな」
「え?」
「その人の中で、何かが根本的に変わってしまって、それで……」
声が段々と小さくなっていって、やがて聞こえなくなった。見た目はそのままに、見分けがつかなくなることなんてあるのだろうか。不死身の杉元として戦っている時の杉元さんでさえ、私には同じ人に見えるのに。
「ナマエさんに俺はどう見えてる?」
「どうって……」
「俺は、怖くない?」
抑えているようだけど、いつもよりも言葉が僅かに震えていた。呼吸も不規則だ。恐れと不安と悲しみと、僅かな怒り。顔は良く見えなくても、杉元さんの感情が痛いほどに伝わってきた。
「そんな泣きそうになっている人が怖いわけないじゃないですか」
「えっ!?べっ、別にそんなこと、ないけど……え?見えてる?」
「いいえ、全く。それに、杉元さんには今まで沢山助けてもらったから、怖いなんて思うわけないです」
「そうなら、嬉しいけど……」
杉元さんの手が不自然に額の方に上がった。それが軍帽の鍔を探していたのだと気づいたのは、杉元さんが小さく「あっ」と言って尾形さんのように髪を撫でつけた時だった。恥ずかしそうに俯いているその姿が可愛らしくて、口角がゆるりと上がっていく。
「俺が思ってるよりも、ナマエさんは色んなことが見えてるんだね」
「見えてないものも多いですけどね」
「どれくらい近づいたら見えるようになるの?」
「そうですね……」
手招きしたら、杉元さんが素直に近づいて屈んできた。さっきよりも鮮明に見える。大きな傷が、鼻骨を通って左右の頬に橋のように架かっている。その両端で交差するように縦にも傷が走り、向かって右側のは唇まで皮膚が裂かれている。抉られて、盛り上がって、痛々しくて、生々しい。今にでも血が噴き出しそうだ。こういう傷が、多分杉元さんの体中にある。怖くない?と言っていた意味が少しだけ理解できた。根本的に変わってしまったら、というのも。きっと、この傷ができる前と後で、杉元さんは変わってしまったと思っている。点と点が、星座をなぞるように繋がっていく。
「……もっと?」
「もっと」
鼻先と鼻先が、拳二つ分の距離で止まった。戸惑う杉元さんの衿を掴んで、ぐいっと引き寄せた。
「──このくらい」
唇が触れあうほどに近づいたことで、杉元さんはまたぼやけてしまった。それでも、どんな顔をしているのかが分かるのがおかしくて、愛おしかった。
「……なんて、嘘ですよ」
少しは私のこともちゃんと、見てくれたら嬉しいのだけど。私は、今のあなたが好きですよ。真っ赤になった杉元さんを置いて一人部屋へと戻った。
2025.12.20
