短編
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「それって、好きってことだろ?」
あぐらをかいた赤ら顔の亀蔵が俺を指さしてきた。
「は?」
「ナマエちゃんのこと。バレバレだ」
「んなわけねぇだろ」
酒が入っているせいか、ハハハっとらしくなく大層愉快そうに笑っているのがムカついて、すぐそこにあった座布団を亀蔵に投げつけた。「あぶねぇ」と何でもないように受け止めて笑っている顔が憎たらしい。何なんだよ本当に。笑い上戸って訳でもないだろお前は。
「幼馴染との恋なんて御伽話みたいだよなぁ」
「だからアイツはそういうんじゃない。ほっとけって」
「良いなぁ。俺にもナマエちゃんみたいな幼馴染が居たらなぁ」
「聞けよ」
勝手に一人で話し続ける亀蔵に苛々が募るばかりで、手元の湯飲みへと視線を落とした。俺が静かになっても亀蔵の一人語りは止まらない。折角親父の目を盗んでくすねてきたというのに、これじゃあ折角の酒が不味くなる。酒器なんて借りてきたらバレちまうと亀蔵が持ってきた小ぶりな湯のみの底には、薄っすらと酒の残りが残っている。もう一杯飲もうと思っていたのに、亀蔵の戯言のせいですっかりと酔いが醒めてしまった。新しく注ぐ気も起きなくて、湯飲みを回してごく少量の酒がゆっくりと、ミミズみたいに底を這うように動く様を見つめ続けた。
「でも故郷で待ってろってのも無責任だよな、きっと縁談の話とかもあるだろうに」
えんだん──縁談?一人で話し続けていたと思ったら、突然聞きなれない単語が聞こえてきて、勢い良く顔を上げた。
「なんだよ、ずっと故郷でナマエちゃんがお前のことを待ってくれるとでも思ってたのか?」
「いや……」
「しかも親が死んで親戚の家に住んでたんなら尚更だろ」
バカだなぁとまた笑った亀蔵を睨みつけた。もう投げつけられそうな物は湯飲み以外近くにない。
縁談って、なんだよ。
ナマエが誰かに貰われていくなんて一度も考えたことがなかった。夏太郎、夏太郎といつも俺の後ろをついて回っていたから、これからもずっとそうだと何の根拠もなしに思っていた。嫁ぎ先なんてどこに、と考えて何人か未婚の同年代の男の顔が浮かんだ。ナマエがあんな冴えない奴らに嫁ぐなんて考えられない。それよりも、親戚が営んでいる商店の得意先の方が可能性が高い。それなりの生活ができそうだが、ナマエと一緒になるにはどいつもこいつも年を食っているようにしか思えず、食あたりにでもなったみたいに、鳩尾の辺りに強烈な不快感が渦巻いた。
「そんな顔するなって。あったかもしれないもしもの話だ。まあ今追い返したら現実になるかもしれねぇが」
私帰らないからね、と真っすぐに言ってきたナマエの顔が浮かんだ。もしかして、そういう事情もあったのだろうか。だとしても、こんなならず者の巣窟みたいな所から一刻も早く去って欲しい気持ちも強かった。親父が妾以外にも手を出している、なんて虫唾が走る噂も良く耳にする。でもあいつの強情さは良く知ってる。ずっと一緒に居たんだ。こうなったら梃子でも動かない。はぁぁっと、どうしたものかと肺の中の空気を全て吐き出したら、亀蔵がパシッと膝を叩いた。
「あれだな、今すぐ結婚したら良いんじゃないか。少しは安心だろ」
「意味が分かんねぇよ。俺は別に……別に結婚したいとか、そういうんじゃ……」
「じゃあ何なんだよ」
「何って……」
「ほかの男には嫁いでほしくないんだろ」
否定できなかった。言葉がつっかえて、ずっと喉の奥に留まっている。「お前はここで待ってろ」俺はなんであんなことをナマエに言ったんだ。この辺りはお世辞にも治安が良いとは言えないから、ナマエは連れていけないと思った。こっちに来てからは馬吉のこともあって抗争も増えてきたから、尚のこと置いてきて正解だったと思った。でもそれだけじゃない。
「……ただ、待ってて欲しかった」
俺が帰った時に「夏太郎」といつものように名前を呼んで笑ってくれたら。一旗あげて成り上がって、ナマエに今まで起きたことを全部話したかった。きっと文句の三つや四つ言いながら最後まで全部聞いてくれるはずだ。
「だから、それが好きってことだろ」
「……知らねぇよ」
知らねぇよ、そんなの。ずっとナマエに対して持っていた感情に、突然陳腐で浮ついた名前をつけられても困る。湯飲みを畳に置いて、大の字になって寝転んだ。もう何も考えたくない。
「ほら、来週夏祭りあるだろ、俺たちも準備に手伝いに駆り出されるやつ。隙を見て抜け出してナマエちゃんと一緒に回ってこいよ」
本当に今晩は饒舌だな。チラリと目線をやったら、亀蔵は俺が投げつけた座布団を抱きしめながら、心底嬉しそうに笑っていた。
「なんだよ……夢かよ」
気づいたら天井の木目を見ていた。隣では牛山さんやこの間合流した杉元さんたちの寝息が聞こえる。いつもよりも人数が多いから、いびきではないものの騒々しさがある。襖から差し込んでくる光は朧げで、まだ夜明けまで少しかかりそうだ。亀蔵はもう居ない。とうに吹っ切れたと思っていたのに、懐かしい顔と声を思い出して、じわっと目頭が熱を持った。
結局あの祭りの日にナマエが熱を出してしまったから、一緒に祭りには行けなかった。ナマエにどうやって切り出そうか考えているうちに当日になってしまって、ほかの女中に居場所を聞いたら寝込んでいると返ってきて肩透かしを食らった。
「夏風邪なんてバカがひくやつだろ」
上の女中部屋から覗いた赤ら顔に向かって投げた言葉は、跳ね返ってそのまま俺に落ちてきた。口に袖を当てながらつらそうにしているナマエを見ていたくなくて、予定よりも早く番屋を出た。
日も沈み始め人も増え、随分と祭りらしくなってきた時に見回りに行くことになった。見回りと言っても形だけで、その実態は俺たちの息抜きだ。祭りの雰囲気を楽しんでついでに何か飯でも食ってこいという上の計らいだ。焦げ目のついたトウモロコシが美味そうだなとか思いながら出店を横目に見つつブラブラと巡回していると、ふとやけにキラキラと光っている一角に気づいた。簪や櫛や鏡、首飾りなんかがたくさん並んでいたから、色々な所から光を集めて反射していたのだと思う。その中にあった簪に異様に目を奪われた。先端についた水色のガラス玉は、どこまでも透き通って見えた。夏みたいだ。夏の晴れた日の高い空だ。
まずは飯だと一度通り過ぎたのに、それが脳裏に焼きついたように忘れられなくて、落ち着かなくて、慌てて踵を返して買いに戻った。俺の多くはない給料でも買える安物だった。
「簪なんて買ってどうすんだよ……」
自分のために買った、なんて嘘もつけない。間違いなく俺はナマエのためにこの簪を買っていた。祭りに来られなかったナマエに土産として渡したかった、というのとはまた少し違う。ただ、この簪がナマエの綺麗な髪に良く合うと思った。アイツがこれを着けているのを見たいと思った。雪が降りしきるどんよりとした低い空よりも、カラッとした夏空の下で笑っているのがよく似合うから。
俺の名前をどう書くのか知った時から、短い夏が来ると「夏太郎の夏だね」なんてたまに言っていた。夏に生まれたから夏太郎。安直にもほどがある。さして思い入れのある名前ではなかったけど、ナマエに言われてからは夏が来ると俺の季節が来たのかとなんとなく思うようになっていた。そんな夏の色の簪を、俺はナマエに贈ろうとしている。
──それが好きってことだろ
うるせぇな。もう日が沈んでいて良かった。暗がりで火照った顔を鎮めてから、また飯を探しに戻ったのは今でも強烈に覚えている。
あれから2年経とうとしているのに、ナマエは相変わらずあの簪をつけている。気に入っているのか、ただほかに使う物がないのかは分からなかったけど、少し前の厩舎での様子を見る限りそれなりに気に入ってくれていたらしい。艶々と均等に光を反射する髪の毛は、下されていてもやはり綺麗だった。
「ん……?」
外が白み始めた頃、どこか遠くで物音がし始めた。少ししてそれが包丁で何かを切る小気味の良い音に変わった。ナマエだ。完全に目が覚めた状態でこのまま布団の中にいるのも暇だから、ゆっくりと布団から這い出て台所へと向かった。
「いつもこんな早くから準備してるのか?」
「……っ、びっくりした!」
横に並びながら声をかけたら、包丁と茄子を握りしめたままナマエが肩をすくませた。幽霊でも見たかのように暫し硬直した後、はぁーっと大袈裟に大きく胸を撫で下ろし、また包丁を握り直して茄子の皮を縦に向き始めた。隣のザルの中には、縞模様の茄子が半月切りにされ、こんもりと山を作っている。
「味噌汁か?」
「うん。具がいっぱいだとお腹も膨れるでしょ。ええっとなんだっけ……あ、そうそう、いつもはもうちょっと遅いんだけど、なんか目が覚めちゃって……あ、手伝ってくれるなら枝豆を切り取ってほしい」
差し出された鋏とザルの中には一本の太い枝にどっさりと枝豆が成っていた。青々とした房の一つ一つが大ぶりで、見るからに美味そうだ。触れてみたら、産毛がチクチクと皮膚を刺激してくる。
「もうすぐ秋だから、こんなに立派なのができるのは多分これが最後なんだって」
「もう枝豆もとうもろこしも食べ納めか」
「あっという間だね」
「あっという間だな」
北海道の夏は短い。やっと雪が溶けて上着が要らなくなったと思ったら、すぐにまた冬に向けての準備に追われる日々が始まる。今年の冬もまた例に漏れず寒いのだろう。雪も寒さも慣れてはいるが、たまに夏が何ヶ月も続く年があっても良いとさえ思う。
その後は会話らしい会話もなく、二人で黙々と朝飯の準備を進めた。昨日獲ってきた魚を焼いて、味噌汁と、枝豆のまぜご飯をつくるらしい。パチン、パチン、と枝豆を切り離す音と、包丁がまな板に当たる心地の良い音の合間に「ねぇ夏太郎」と澄んだナマエの声がした。
「拳銃教えて欲しい」
「嫌だ」
「なんで?拳銃があったら家永さんを止めることくらいはできるでしょう?」
「お前には向いてない」
拳銃なんて握る手じゃないだろ。パチン、とまた一つ枝豆を切り離した。あと三分の一。鋏を握っている手が疲れてきて、ひらひらと宙で手首を振った。鋏を握り直したのと、ナマエが口を開いたのはほぼ同時だった。
「じゃあ尾形さんに頼んでみる」
「はぁ!?」
「夏太郎よりも上手だし」
パチン、と枝豆がどこかへと飛んでいった。ただの冗談だと受け流すにはナマエの声は淡々としていて、ぎょっとして隣の顔を覗き込んだ。その目線の先では、縞模様の茄子が均等な厚さで切られている。
「あの人が教えると思うのか?」
「分かんないよ?お願いしたら意外と教えてくれるかも。あとで聞いてくる」
「やめろって、殺されるぞ」
もう枝豆のことなんてどうでも良くなって、鋏を置いてナマエの腕を掴んだ。「そんなことしないでしょ」とナマエは言っているが、俺はどうもあの人が苦手だ。凄い狙撃手なのは分かっているけど、底が知れなくて迂闊に近づかない方が良い気がした。それなのにナマエは俺の腕を振り払ってまた茄子を切る作業に戻ってしまった。その口元はキュッと結ばれて、少しだけツンっと尖っていた。
「なんでそんなにダメダメっていうの?戦力はあった方が良いじゃない」
「それは、そうだけどよ……」
「自分は拳銃使ってるくせにさ、狡いよ。私も拳銃使えるようになりたい」
「狡いとか、そういうんじゃねぇよ」
「じゃあどういうこと?」
これ以上ダメだと言っても多分聞いてくれない。それならいっそ、本心を伝えてみようか。きっと亀蔵の夢を見て、あの夏の日を思い出したせいだ。パチン、パチンっといくつか枝豆を切って心を落ち着かせたあと、少しだけ息を吸った。
「……ナマエは拳銃よりも包丁の方が良い」
トントントン、と続いていた音が止まった。隣を見れば、ナマエがしげしげと自分で握った包丁を眺めていた。
「確かに使い慣れてるけど、私そんな接近戦で勝てるの?」
「はぁ!?ちがっ……あーもう!鈍臭いな!俺が守るって話だよ!!」
まだみんなが寝静まっているというのに、思ったよりも大きな声が出てハッと口を塞いだ。隣のナマエはポカンとして俺を見つめ返してくる。暫く時が止まったようだったのに、ゆっくりとナマエの口角が上がっていき、そのうち大きく笑い始めた。
「何がおかしいんだよ」
「おかしいんじゃないよ、嬉しいんだよ」
頬を薄っすら染め、三日月のように目を細めて笑っているナマエは悔しいけど可愛かった。夏の空みたいで好きだと、厩舎で簪を見つめていた時のような表情だ。クソったれ、何か言ってやろうと思ったのにそんな顔を見せられたら何も出てこねぇだろ。それどころか手汗で鋏が上手く握れなくて、ゴシゴシとズボンの脇に何度も擦りつけてしまう。
「でもそれがなんで包丁と繋がるの?」
わざと聞いてきているのか、悪気なく聞いてきているのか分からなかった。もう全て伝えて楽になりたい。そんな一心で重い口を開いた。
「だから、その……俺が、守るから、ナマエにはただ、美味い飯作ってて、ほしい……」
「ふーん?」
「……なんだよ」
「美味しいって思ってたんだ?」
「え?まあ……うん……」
茨戸にいた時も、ナマエが当番の日はすぐに分かった。どう考えても抜きんでて美味いのに、亀蔵やほかの奴らは「良く分かんねぇや」と首を傾げていたのが不思議だった。それくらい俺はナマエの飯が好きだった。
「じゃあ夏太郎のご所望通り、毎日美味しいご飯作って待ってるね」
ざざっと、昆布と水の入った鍋に今まで切った茄子をナマエが投入して、火にかけるために移動した。その後ろ姿には相変わらずあの簪が差さっている。俺が送った簪が、俺の色をした簪が。
カァッと耳まで一気に発火した。無心で残りの枝豆を切り離し、塩ずりするための塩を探して棚をひっくり返していく。その間もさっき見たナマエの後頭部と簪がちらついていた。
一人前になって土方さんに認められたら、今度は櫛を買いたい。あの簪みたいな安物なんかじゃなくて、もっと上等な。鈍いアイツでもその意味くらい分かるだろ。だからあと少しだけ、待っていて欲しかった。
2025.11.21
あぐらをかいた赤ら顔の亀蔵が俺を指さしてきた。
「は?」
「ナマエちゃんのこと。バレバレだ」
「んなわけねぇだろ」
酒が入っているせいか、ハハハっとらしくなく大層愉快そうに笑っているのがムカついて、すぐそこにあった座布団を亀蔵に投げつけた。「あぶねぇ」と何でもないように受け止めて笑っている顔が憎たらしい。何なんだよ本当に。笑い上戸って訳でもないだろお前は。
「幼馴染との恋なんて御伽話みたいだよなぁ」
「だからアイツはそういうんじゃない。ほっとけって」
「良いなぁ。俺にもナマエちゃんみたいな幼馴染が居たらなぁ」
「聞けよ」
勝手に一人で話し続ける亀蔵に苛々が募るばかりで、手元の湯飲みへと視線を落とした。俺が静かになっても亀蔵の一人語りは止まらない。折角親父の目を盗んでくすねてきたというのに、これじゃあ折角の酒が不味くなる。酒器なんて借りてきたらバレちまうと亀蔵が持ってきた小ぶりな湯のみの底には、薄っすらと酒の残りが残っている。もう一杯飲もうと思っていたのに、亀蔵の戯言のせいですっかりと酔いが醒めてしまった。新しく注ぐ気も起きなくて、湯飲みを回してごく少量の酒がゆっくりと、ミミズみたいに底を這うように動く様を見つめ続けた。
「でも故郷で待ってろってのも無責任だよな、きっと縁談の話とかもあるだろうに」
えんだん──縁談?一人で話し続けていたと思ったら、突然聞きなれない単語が聞こえてきて、勢い良く顔を上げた。
「なんだよ、ずっと故郷でナマエちゃんがお前のことを待ってくれるとでも思ってたのか?」
「いや……」
「しかも親が死んで親戚の家に住んでたんなら尚更だろ」
バカだなぁとまた笑った亀蔵を睨みつけた。もう投げつけられそうな物は湯飲み以外近くにない。
縁談って、なんだよ。
ナマエが誰かに貰われていくなんて一度も考えたことがなかった。夏太郎、夏太郎といつも俺の後ろをついて回っていたから、これからもずっとそうだと何の根拠もなしに思っていた。嫁ぎ先なんてどこに、と考えて何人か未婚の同年代の男の顔が浮かんだ。ナマエがあんな冴えない奴らに嫁ぐなんて考えられない。それよりも、親戚が営んでいる商店の得意先の方が可能性が高い。それなりの生活ができそうだが、ナマエと一緒になるにはどいつもこいつも年を食っているようにしか思えず、食あたりにでもなったみたいに、鳩尾の辺りに強烈な不快感が渦巻いた。
「そんな顔するなって。あったかもしれないもしもの話だ。まあ今追い返したら現実になるかもしれねぇが」
私帰らないからね、と真っすぐに言ってきたナマエの顔が浮かんだ。もしかして、そういう事情もあったのだろうか。だとしても、こんなならず者の巣窟みたいな所から一刻も早く去って欲しい気持ちも強かった。親父が妾以外にも手を出している、なんて虫唾が走る噂も良く耳にする。でもあいつの強情さは良く知ってる。ずっと一緒に居たんだ。こうなったら梃子でも動かない。はぁぁっと、どうしたものかと肺の中の空気を全て吐き出したら、亀蔵がパシッと膝を叩いた。
「あれだな、今すぐ結婚したら良いんじゃないか。少しは安心だろ」
「意味が分かんねぇよ。俺は別に……別に結婚したいとか、そういうんじゃ……」
「じゃあ何なんだよ」
「何って……」
「ほかの男には嫁いでほしくないんだろ」
否定できなかった。言葉がつっかえて、ずっと喉の奥に留まっている。「お前はここで待ってろ」俺はなんであんなことをナマエに言ったんだ。この辺りはお世辞にも治安が良いとは言えないから、ナマエは連れていけないと思った。こっちに来てからは馬吉のこともあって抗争も増えてきたから、尚のこと置いてきて正解だったと思った。でもそれだけじゃない。
「……ただ、待ってて欲しかった」
俺が帰った時に「夏太郎」といつものように名前を呼んで笑ってくれたら。一旗あげて成り上がって、ナマエに今まで起きたことを全部話したかった。きっと文句の三つや四つ言いながら最後まで全部聞いてくれるはずだ。
「だから、それが好きってことだろ」
「……知らねぇよ」
知らねぇよ、そんなの。ずっとナマエに対して持っていた感情に、突然陳腐で浮ついた名前をつけられても困る。湯飲みを畳に置いて、大の字になって寝転んだ。もう何も考えたくない。
「ほら、来週夏祭りあるだろ、俺たちも準備に手伝いに駆り出されるやつ。隙を見て抜け出してナマエちゃんと一緒に回ってこいよ」
本当に今晩は饒舌だな。チラリと目線をやったら、亀蔵は俺が投げつけた座布団を抱きしめながら、心底嬉しそうに笑っていた。
「なんだよ……夢かよ」
気づいたら天井の木目を見ていた。隣では牛山さんやこの間合流した杉元さんたちの寝息が聞こえる。いつもよりも人数が多いから、いびきではないものの騒々しさがある。襖から差し込んでくる光は朧げで、まだ夜明けまで少しかかりそうだ。亀蔵はもう居ない。とうに吹っ切れたと思っていたのに、懐かしい顔と声を思い出して、じわっと目頭が熱を持った。
結局あの祭りの日にナマエが熱を出してしまったから、一緒に祭りには行けなかった。ナマエにどうやって切り出そうか考えているうちに当日になってしまって、ほかの女中に居場所を聞いたら寝込んでいると返ってきて肩透かしを食らった。
「夏風邪なんてバカがひくやつだろ」
上の女中部屋から覗いた赤ら顔に向かって投げた言葉は、跳ね返ってそのまま俺に落ちてきた。口に袖を当てながらつらそうにしているナマエを見ていたくなくて、予定よりも早く番屋を出た。
日も沈み始め人も増え、随分と祭りらしくなってきた時に見回りに行くことになった。見回りと言っても形だけで、その実態は俺たちの息抜きだ。祭りの雰囲気を楽しんでついでに何か飯でも食ってこいという上の計らいだ。焦げ目のついたトウモロコシが美味そうだなとか思いながら出店を横目に見つつブラブラと巡回していると、ふとやけにキラキラと光っている一角に気づいた。簪や櫛や鏡、首飾りなんかがたくさん並んでいたから、色々な所から光を集めて反射していたのだと思う。その中にあった簪に異様に目を奪われた。先端についた水色のガラス玉は、どこまでも透き通って見えた。夏みたいだ。夏の晴れた日の高い空だ。
まずは飯だと一度通り過ぎたのに、それが脳裏に焼きついたように忘れられなくて、落ち着かなくて、慌てて踵を返して買いに戻った。俺の多くはない給料でも買える安物だった。
「簪なんて買ってどうすんだよ……」
自分のために買った、なんて嘘もつけない。間違いなく俺はナマエのためにこの簪を買っていた。祭りに来られなかったナマエに土産として渡したかった、というのとはまた少し違う。ただ、この簪がナマエの綺麗な髪に良く合うと思った。アイツがこれを着けているのを見たいと思った。雪が降りしきるどんよりとした低い空よりも、カラッとした夏空の下で笑っているのがよく似合うから。
俺の名前をどう書くのか知った時から、短い夏が来ると「夏太郎の夏だね」なんてたまに言っていた。夏に生まれたから夏太郎。安直にもほどがある。さして思い入れのある名前ではなかったけど、ナマエに言われてからは夏が来ると俺の季節が来たのかとなんとなく思うようになっていた。そんな夏の色の簪を、俺はナマエに贈ろうとしている。
──それが好きってことだろ
うるせぇな。もう日が沈んでいて良かった。暗がりで火照った顔を鎮めてから、また飯を探しに戻ったのは今でも強烈に覚えている。
あれから2年経とうとしているのに、ナマエは相変わらずあの簪をつけている。気に入っているのか、ただほかに使う物がないのかは分からなかったけど、少し前の厩舎での様子を見る限りそれなりに気に入ってくれていたらしい。艶々と均等に光を反射する髪の毛は、下されていてもやはり綺麗だった。
「ん……?」
外が白み始めた頃、どこか遠くで物音がし始めた。少ししてそれが包丁で何かを切る小気味の良い音に変わった。ナマエだ。完全に目が覚めた状態でこのまま布団の中にいるのも暇だから、ゆっくりと布団から這い出て台所へと向かった。
「いつもこんな早くから準備してるのか?」
「……っ、びっくりした!」
横に並びながら声をかけたら、包丁と茄子を握りしめたままナマエが肩をすくませた。幽霊でも見たかのように暫し硬直した後、はぁーっと大袈裟に大きく胸を撫で下ろし、また包丁を握り直して茄子の皮を縦に向き始めた。隣のザルの中には、縞模様の茄子が半月切りにされ、こんもりと山を作っている。
「味噌汁か?」
「うん。具がいっぱいだとお腹も膨れるでしょ。ええっとなんだっけ……あ、そうそう、いつもはもうちょっと遅いんだけど、なんか目が覚めちゃって……あ、手伝ってくれるなら枝豆を切り取ってほしい」
差し出された鋏とザルの中には一本の太い枝にどっさりと枝豆が成っていた。青々とした房の一つ一つが大ぶりで、見るからに美味そうだ。触れてみたら、産毛がチクチクと皮膚を刺激してくる。
「もうすぐ秋だから、こんなに立派なのができるのは多分これが最後なんだって」
「もう枝豆もとうもろこしも食べ納めか」
「あっという間だね」
「あっという間だな」
北海道の夏は短い。やっと雪が溶けて上着が要らなくなったと思ったら、すぐにまた冬に向けての準備に追われる日々が始まる。今年の冬もまた例に漏れず寒いのだろう。雪も寒さも慣れてはいるが、たまに夏が何ヶ月も続く年があっても良いとさえ思う。
その後は会話らしい会話もなく、二人で黙々と朝飯の準備を進めた。昨日獲ってきた魚を焼いて、味噌汁と、枝豆のまぜご飯をつくるらしい。パチン、パチン、と枝豆を切り離す音と、包丁がまな板に当たる心地の良い音の合間に「ねぇ夏太郎」と澄んだナマエの声がした。
「拳銃教えて欲しい」
「嫌だ」
「なんで?拳銃があったら家永さんを止めることくらいはできるでしょう?」
「お前には向いてない」
拳銃なんて握る手じゃないだろ。パチン、とまた一つ枝豆を切り離した。あと三分の一。鋏を握っている手が疲れてきて、ひらひらと宙で手首を振った。鋏を握り直したのと、ナマエが口を開いたのはほぼ同時だった。
「じゃあ尾形さんに頼んでみる」
「はぁ!?」
「夏太郎よりも上手だし」
パチン、と枝豆がどこかへと飛んでいった。ただの冗談だと受け流すにはナマエの声は淡々としていて、ぎょっとして隣の顔を覗き込んだ。その目線の先では、縞模様の茄子が均等な厚さで切られている。
「あの人が教えると思うのか?」
「分かんないよ?お願いしたら意外と教えてくれるかも。あとで聞いてくる」
「やめろって、殺されるぞ」
もう枝豆のことなんてどうでも良くなって、鋏を置いてナマエの腕を掴んだ。「そんなことしないでしょ」とナマエは言っているが、俺はどうもあの人が苦手だ。凄い狙撃手なのは分かっているけど、底が知れなくて迂闊に近づかない方が良い気がした。それなのにナマエは俺の腕を振り払ってまた茄子を切る作業に戻ってしまった。その口元はキュッと結ばれて、少しだけツンっと尖っていた。
「なんでそんなにダメダメっていうの?戦力はあった方が良いじゃない」
「それは、そうだけどよ……」
「自分は拳銃使ってるくせにさ、狡いよ。私も拳銃使えるようになりたい」
「狡いとか、そういうんじゃねぇよ」
「じゃあどういうこと?」
これ以上ダメだと言っても多分聞いてくれない。それならいっそ、本心を伝えてみようか。きっと亀蔵の夢を見て、あの夏の日を思い出したせいだ。パチン、パチンっといくつか枝豆を切って心を落ち着かせたあと、少しだけ息を吸った。
「……ナマエは拳銃よりも包丁の方が良い」
トントントン、と続いていた音が止まった。隣を見れば、ナマエがしげしげと自分で握った包丁を眺めていた。
「確かに使い慣れてるけど、私そんな接近戦で勝てるの?」
「はぁ!?ちがっ……あーもう!鈍臭いな!俺が守るって話だよ!!」
まだみんなが寝静まっているというのに、思ったよりも大きな声が出てハッと口を塞いだ。隣のナマエはポカンとして俺を見つめ返してくる。暫く時が止まったようだったのに、ゆっくりとナマエの口角が上がっていき、そのうち大きく笑い始めた。
「何がおかしいんだよ」
「おかしいんじゃないよ、嬉しいんだよ」
頬を薄っすら染め、三日月のように目を細めて笑っているナマエは悔しいけど可愛かった。夏の空みたいで好きだと、厩舎で簪を見つめていた時のような表情だ。クソったれ、何か言ってやろうと思ったのにそんな顔を見せられたら何も出てこねぇだろ。それどころか手汗で鋏が上手く握れなくて、ゴシゴシとズボンの脇に何度も擦りつけてしまう。
「でもそれがなんで包丁と繋がるの?」
わざと聞いてきているのか、悪気なく聞いてきているのか分からなかった。もう全て伝えて楽になりたい。そんな一心で重い口を開いた。
「だから、その……俺が、守るから、ナマエにはただ、美味い飯作ってて、ほしい……」
「ふーん?」
「……なんだよ」
「美味しいって思ってたんだ?」
「え?まあ……うん……」
茨戸にいた時も、ナマエが当番の日はすぐに分かった。どう考えても抜きんでて美味いのに、亀蔵やほかの奴らは「良く分かんねぇや」と首を傾げていたのが不思議だった。それくらい俺はナマエの飯が好きだった。
「じゃあ夏太郎のご所望通り、毎日美味しいご飯作って待ってるね」
ざざっと、昆布と水の入った鍋に今まで切った茄子をナマエが投入して、火にかけるために移動した。その後ろ姿には相変わらずあの簪が差さっている。俺が送った簪が、俺の色をした簪が。
カァッと耳まで一気に発火した。無心で残りの枝豆を切り離し、塩ずりするための塩を探して棚をひっくり返していく。その間もさっき見たナマエの後頭部と簪がちらついていた。
一人前になって土方さんに認められたら、今度は櫛を買いたい。あの簪みたいな安物なんかじゃなくて、もっと上等な。鈍いアイツでもその意味くらい分かるだろ。だからあと少しだけ、待っていて欲しかった。
2025.11.21
