短編
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「なあ……亀蔵。東松屋商店って知ってるか?」
土方さんが良く使っている縁側の寝椅子に寝そべりながら、夏太郎がそんなことを言ったのが始まりだった。最近掴んだ情報だと、その商店が賭場になっていて、ある男が借金のカタに刺青人皮を置いていったらしい。話をしている夏太郎も、聞いている亀蔵も、どことなくうずうずしている様子が伝わってくる。
「行くか?夏太郎」
「留守番なんぞ犬でもできるぜ。俺らだけで手柄を上げて土方さんに認められねぇと」
「今から行くの?」
じゃあ色々片付けなくちゃと、飲みかけの湯呑みへと手を伸ばしたのに、立ち上がった夏太郎の「ダメだ」という言葉が上から振ってきた。
「ナマエは留守番してろ」
「なんで?二人が行くなら私も行く」
「俺たちが東松屋商店に行くことを土方さんたちに伝えといてくれよ、必ず刺青人皮を持ち帰ってくるってな」
「そんなの書置きでもしておけば……」
話している途中から夏太郎と亀蔵はもう動き出していて、バタバタと慌ただしく玄関へと向かっていた。後を追おうと立ち上がったら「良いから留守番してろ!」と釘を刺されて、次の瞬間には夏太郎は外に飛び出してしまっていた。
「ごめんな」
振り返った亀蔵が無い眉を下げながら一言だけ謝ったあと、すぐに戸が閉められた。
「……『留守番なんぞ犬でもできるぜ』って」
じゃあ私は犬ってこと?不貞腐れながらウロウロと室内を歩き回って、まだ夏太郎の体温が残る寝椅子に寝転がった。さっきまで賑やかだったのが嘘みたいに静まり返っている。二人の声がなくなった隙間を埋めるように、どこか遠くで子供達が遊ぶ声が聞こえ始めた。
いつもそうだ。小さい時から夏太郎は走り出したら止まらない。絶対成り上がってやると人一倍上昇志向が強かった。そんな夏太郎と一緒にいるのは楽しかったけど、いつも私だけが必死に背中を追いかけているのは寂しくもあったし、いつか突っ走って大怪我でもするんじゃないかと気が気でなかった。事故で両親と姉を亡くしてからは、夏太郎まで居なくなるのがどうしようもなく怖くなってしまった。
茨戸を仕切っている日泥組の所に行くのだと言われた時も、お前は待ってろと言われていたのに、心配で居ても立っても居られなくて、ほとんど強引に夏太郎の所へと転がり込んだ。押しかけ女房だなんだと揶揄われていた夏太郎が顔を真っ赤にしながらどうにか私を追い出そうとしていたけど、人手があってもあっても足りないからと、女将さんのご厚意でそのままニシン場で住み込みの女中として働せてもらうことになった。夏太郎は多分、今でもあまりこのことについて良く思っていない。
そんな日泥組がこの間壊滅した。犯人はまさかの幕末の英傑、土方歳三と永倉新八だった。女将さんが隠し持っていたような刺青の入った人の皮を集めて暗号を解くと、莫大な量の金塊が手に入るらしい。土方さんにえらく心酔した様子の夏太郎が土方さん達について行くと言うので、私も炊事係としてアイヌの金塊を巡る旅に同行することになった。生まれ育った何でもない札幌の小さな町で終わると思っていた私の人生は、気づいたら大きく動き出していた。
「あっ、もうこんな時間……」
もの思いに耽っている場合ではない。そろそろ今日の夕飯の買い出しにいかなければ、支度が間に合わない。そういえば土方さんの沢庵がもう少しでなくなりそうだったっけ。夏太郎が帰ってくるのはいつになるだろう。明後日にはここを発って駅逓所に移動する予定だけど、それまでに帰ってこられるだろうか。無事に刺青人皮を手に入れられたならお祝いに、ダメだったなら元気を出してもらうために、好物のとうもろこしを用意しておこう。亀蔵は何が好きだったっけ?そんなことを考えながら、おもむろに寝椅子から起き上がった。
数日後、帰ってきたのは夏太郎だけだった。
「油問屋にあった刺青人皮です。稲妻強盗団は第七師団に獲られました」
遅れて室内に入ってくるのかと夏太郎の後ろをしきりに確認しても、誰も居る気配がない。あの目つきの悪い相棒は、どこか寄り道でもしているのだろうか。
「ねぇ、亀蔵は?」
「亀蔵もあいつらに……」
「えっ……」
ほんの数日前、「ごめんな」と困ったように笑っていた亀蔵を思い出してギュッと唇を噛んだ。亀蔵が死んだ?上手く受け止めることができなくて、嘘だと言ってほしくて夏太郎を見つめても、つらそうに視線が逸らされただけだった。
「ご苦労だった夏太郎」
亀蔵の死なんてまるで響いていないような永倉さんの声のあと、何の前触れもなしにドンッと急に腹を殴られたような重い音が部屋を揺らした。驚いて飛び上がった体がぐらついて、ザラっとした古びた畳に手を突いた。ドンッドンッと何発も土方さんが外へとウィンチェスターを放っていて、夏太郎がしゃがみながらこちらへと逃げてきていた。窓の外に誰かいる。近くにいた家永さんと身を寄せ合ってこの騒動が終わるのを見守っていると、隣に身をかがめた夏太郎もやってきた。
「ひゃっ……!」
「あぶねっ」
隙をついて外へと飛び出した牛山さんが、窓の外の不審者を勢いよく室内に投げ込んできて、けたたましい音を立ててガラスが飛び散った。反射的に目を瞑ったと同時に鈍い衝撃が体に走る。温かい。薄っすら目を開けたら濃紺の法被が目の前一杯に広がっていて、夏太郎が覆い被さるように私を抱き込んでいた。
「ナマエ、後ろで隠れてろ!」
「かんっ……まって!」
無理やり腕を掴まれ立たされたと思ったら、引きずられるように奥の部屋に押し込まれて、襖を閉じられてしまった。
「夏太郎も家永さんもこっちに……!」
「いいから出てくるな!!」
襖をこじ開ければ、隙間から勢いよく出てきた手に突き飛ばされて、また薄暗い部屋の中に無様に転がった。ピシャリと閉められた襖の向こうではまだ激しく争っている音が聞こえてくる。一人だけこんな所に押し込まれたのに流れ弾にでも当たったら笑い物だ。少し埃っぽいが、押し入れに身を隠すことにした。
暗い押し入れの中、膝を抱えて騒ぎが収まるのをジッと待った。夏太郎の手が当たった右肩がジンジンする。いつの間にこんなに力が強くなったんだろう。さっき触れた体も思っていた以上に大きかった。右手に構えていた拳銃も随分と撃ち慣れている。拳銃──私も使えたら、もっと役に立てるのだろうか。油問屋にもついて行けていたら、亀蔵だって死ななくて良かったかもしれない。亀蔵は、苦しんだのだろうか。その最期を想像してじわっと瞳に膜が張った。
泣くな泣くな。つらいのは私だけじゃない。仲が良かった亀蔵を亡くして、夏太郎はもっとつらかったはずだ。袖で目元を拭って大きく息を吐き出したら、外が静かなことに気づいた。
「……夏太郎?」
恐る恐る襖の向こうに投げかけた声は震えていて、とても情けなかった。土方さん、永倉さん、牛山さん、家永さんに夏太郎。こんなにも人が居るはずなのに、誰からも返事がない。ゆっくりと襖を開けた先には、そこかしこにガラスが散乱してボロボロになった居間が広がっていた。誰も居ない。みんなどこへ行ってしまったのだろう。ガラスを踏まないよう足元に気をつけながら土間まで降りて、駅逓所の周りを探すことにした。
「夏太郎ー?」
キョロキョロと周りを見渡していると、少し離れた厩舎の前に見慣れた日泥の法被が落ちていた。なんでこんな所に夏太郎の法被が?首を傾げながら厩舎の中を覗き込んでみると──
「……っ、夏太郎!!」
腹の底から飛び出た悲鳴のような声に、両手で大きな鋸を持った家永さんが振り返った。その後ろには、腕を縛られ猿轡をされた夏太郎が裸の状態で逆さに吊り下げられている。真下に置いてある大きな桶の用途を察して血の気が引いた。夏太郎はジタバタと揺れながら、精一杯首を後ろに捻って不明瞭な言葉で私に必死に訴えてくる。
「何してるんですか家永さん!」
「夏太郎君の若い肌が綺麗で……」
申し訳なさそうに言っているけれど、その手に持った鋸は下ろされていない。距離を詰めるのが怖かったが、怯んだらダメだと拳を握って一歩二歩と近づいた。
「夏太郎を食べないでください。私の大切な人なんです」
「……では、ナマエさんが代わりになってくださいますか?」
「え……?」
鋸を地面に置いた家永さんがぐんっと一気に距離を詰めてきて、思わず夏太郎の法被を握りしめた。作り物のような端正な顔立ちが、吐息がかかるほどの距離で止まった。瞳孔が開いた目は真っ直ぐに私を捉えている。代わりになれ、というのは冗談ではないらしい。
「し、死なない、程度なら……」
「でしたら目玉か、髪か、血か……爪も良いですね、前から欲しいと思っていたんです」
「そ、そうですか……」
「ええ、この肌も、頬も……」
もっちりとハリがあって素晴らしい、と口端から垂らした涎を舌で拭いながら頬を両手で揉みしだかれた。「やめろクソジジイ」とも聞こえた夏太郎のくぐもった声と、ギシギシと吊られた先の天井が軋む音が、家永さんの後ろから聞こえて来る。
「髪で良いですか?」
「もちろんです」
目玉よりも、爪よりも、頬よりもはるかに良い。また伸びてくるし、何より痛覚がない。痛いのは嫌だ。髪くらいで夏太郎が助かるなら安いものだと、法被を置いて迷わず簪を引き抜いた。胸元に差し込めば、簪の先に付いた夏空のようなガラス玉が大きく揺れていた。これは、何の気の迷いか、私が風邪で寝込んでいた日にあった、茨戸の夏祭りで夏太郎が買ってきてくれたものだ。折角買ってきてくれたのに暫くこれも使えなくなってしまう。そんな寂しさを取り除くように下ろした髪を手櫛で整えていると、家永さんが嬉しそうにどこからか大きな鋏を持ってきた。良く手入れがされているようで、ピカピカと光って切れ味も良さそうだ。もしかしたら家永さんはこういう時のために、私物を色々とこの厩舎に隠しているのかもしれない。
髪の束を適当に掴んで、ふとどれくらいの長さが欲しいのだろうと家永さんに聞こうとした時だった。
「なんてこった……」
「助けて牛山ふぁん!」
素っ裸で吊り下げられた夏太郎。鋏で髪を切ろうとしている私。口の端から涎を垂らして興奮する家永さん。異様な光景を目の当たりにした牛山さんが色々と察したのか、ハァ……と深い深いため息を吐いた。
「ダメだぞ家永!」
「若い子を見るとつい……」
“つい”で食べられてしまうこちらとしては堪ったものではない。牛山さんが易々と夏太郎を下ろして、地面に蹲った背中に法被を被せていた。
「大丈夫夏太郎?」
猿轡を地面に投げ捨てて、ゼェハァと夏太郎が荒い呼吸を肩で繰り返している。駆け寄って背中をさすろうと膝をついたら、ガッと胸倉を掴まれた。その拍子に簪が飛び出て、地面に落ちていく様子がやけにはっきりと、ゆっくりと見えた。
「何普通に切ろうとしてんだバカ!!」
「バカって……だってほかは目玉と爪と頬っぺただよ!?普通に髪の毛一択でしょ!」
「そういうことじゃねぇだろ!!牛山さんとか誰か呼んでこいよ!」
「その間に夏太郎が死んじゃうかもしれないのに!?」
どこに居るのかも分からない牛山さんたちを呼びに行くよりも、大人の腕よりも大きいあの鋸で夏太郎を殺すことの方が、どう考えても簡単なはずだ。夏太郎もそれは理解しているようで、眉間に皺を寄せたまま何も言い返してこなかった。
「亀蔵、死んじゃったんでしょ……夏太郎まで居なくなるの、いやだよ……」
泣きたくないのに、ジワジワと涙が溢れてきて夏太郎の顔が滲んでいく。胸倉を掴んでいた手が緩んだので振り払って、袖でゴシゴシと目元を拭った。
「……だ、だからってすぐに承諾するバカがいるかよ!」
「良いじゃん髪の毛くらい!バカ!バカん太郎!」
「髪の毛くらいって……!」
「別にこんなのまたすぐに生えて──」
「綺麗なのに勿体ねぇだろ!」
夏太郎の声が反響し終わり、シンと静まり返った厩舎に「ほう……」という牛山さんの感嘆が響いた。すぐに「よさんか牛山」と入口の方から土方さんの小さな声が聞こえてきたあと、人数分の足音が遠ざかっていった。残された私たちは、気まずい空気の中、沈黙の破り方を考えていた。
「……綺麗、だと思ってたの?」
「いや……」
バツが悪そうに、夏太郎が法被をぎゅっと合わせるように腕を組んで顔を逸らした。驚きで涙が引っ込んだおかげで、耳の先まで赤くなっているのが良く見えた。
「だから簪くれたの?」
今度は何も返ってこなかった。うんともすんとも言わない夏太郎を横目に、地面に落ちっぱなしだった簪を拾い上げて、細かい砂やゴミを軽くはたき落とした。使い込んで所々細かい傷がついたり禿げてしまっているが、そんな所にも愛着が湧いている、私のお気に入りの一本だ。
「……これね、夏の空みたいで好き」
夏太郎の夏だからという言葉は心にしまったままにした。「……おう」なんて良く分からない返事に視線を上げれば、夏太郎が私を見ていた。
「……俺も、夏みたいだと思って、買った」
「うん」
「笑うなって」
ニマニマと大きく波打つように口の端を動かしていると、夏太郎の右手でガシっと頬骨の下辺りを掴まれた。それでもひくひくと表情筋が動いてしまう私に、夏太郎は呆れたように小さく息を吐き出した。
「あんまり……簡単に触らせんなよ」
ゴシゴシと法被の袖で私の頬を乱暴に擦った夏太郎が、服を拾って慌ただしく厩舎を出て行った。裸に法被という姿でなければ幾分か格好がついたと思うのに。それでも心が熱くてポカポカと爪の先まで温まっていく。
へへへ、と誰も居なくなった厩舎で一人簪を握りしめて笑った。
2025.10.19
土方さんが良く使っている縁側の寝椅子に寝そべりながら、夏太郎がそんなことを言ったのが始まりだった。最近掴んだ情報だと、その商店が賭場になっていて、ある男が借金のカタに刺青人皮を置いていったらしい。話をしている夏太郎も、聞いている亀蔵も、どことなくうずうずしている様子が伝わってくる。
「行くか?夏太郎」
「留守番なんぞ犬でもできるぜ。俺らだけで手柄を上げて土方さんに認められねぇと」
「今から行くの?」
じゃあ色々片付けなくちゃと、飲みかけの湯呑みへと手を伸ばしたのに、立ち上がった夏太郎の「ダメだ」という言葉が上から振ってきた。
「ナマエは留守番してろ」
「なんで?二人が行くなら私も行く」
「俺たちが東松屋商店に行くことを土方さんたちに伝えといてくれよ、必ず刺青人皮を持ち帰ってくるってな」
「そんなの書置きでもしておけば……」
話している途中から夏太郎と亀蔵はもう動き出していて、バタバタと慌ただしく玄関へと向かっていた。後を追おうと立ち上がったら「良いから留守番してろ!」と釘を刺されて、次の瞬間には夏太郎は外に飛び出してしまっていた。
「ごめんな」
振り返った亀蔵が無い眉を下げながら一言だけ謝ったあと、すぐに戸が閉められた。
「……『留守番なんぞ犬でもできるぜ』って」
じゃあ私は犬ってこと?不貞腐れながらウロウロと室内を歩き回って、まだ夏太郎の体温が残る寝椅子に寝転がった。さっきまで賑やかだったのが嘘みたいに静まり返っている。二人の声がなくなった隙間を埋めるように、どこか遠くで子供達が遊ぶ声が聞こえ始めた。
いつもそうだ。小さい時から夏太郎は走り出したら止まらない。絶対成り上がってやると人一倍上昇志向が強かった。そんな夏太郎と一緒にいるのは楽しかったけど、いつも私だけが必死に背中を追いかけているのは寂しくもあったし、いつか突っ走って大怪我でもするんじゃないかと気が気でなかった。事故で両親と姉を亡くしてからは、夏太郎まで居なくなるのがどうしようもなく怖くなってしまった。
茨戸を仕切っている日泥組の所に行くのだと言われた時も、お前は待ってろと言われていたのに、心配で居ても立っても居られなくて、ほとんど強引に夏太郎の所へと転がり込んだ。押しかけ女房だなんだと揶揄われていた夏太郎が顔を真っ赤にしながらどうにか私を追い出そうとしていたけど、人手があってもあっても足りないからと、女将さんのご厚意でそのままニシン場で住み込みの女中として働せてもらうことになった。夏太郎は多分、今でもあまりこのことについて良く思っていない。
そんな日泥組がこの間壊滅した。犯人はまさかの幕末の英傑、土方歳三と永倉新八だった。女将さんが隠し持っていたような刺青の入った人の皮を集めて暗号を解くと、莫大な量の金塊が手に入るらしい。土方さんにえらく心酔した様子の夏太郎が土方さん達について行くと言うので、私も炊事係としてアイヌの金塊を巡る旅に同行することになった。生まれ育った何でもない札幌の小さな町で終わると思っていた私の人生は、気づいたら大きく動き出していた。
「あっ、もうこんな時間……」
もの思いに耽っている場合ではない。そろそろ今日の夕飯の買い出しにいかなければ、支度が間に合わない。そういえば土方さんの沢庵がもう少しでなくなりそうだったっけ。夏太郎が帰ってくるのはいつになるだろう。明後日にはここを発って駅逓所に移動する予定だけど、それまでに帰ってこられるだろうか。無事に刺青人皮を手に入れられたならお祝いに、ダメだったなら元気を出してもらうために、好物のとうもろこしを用意しておこう。亀蔵は何が好きだったっけ?そんなことを考えながら、おもむろに寝椅子から起き上がった。
数日後、帰ってきたのは夏太郎だけだった。
「油問屋にあった刺青人皮です。稲妻強盗団は第七師団に獲られました」
遅れて室内に入ってくるのかと夏太郎の後ろをしきりに確認しても、誰も居る気配がない。あの目つきの悪い相棒は、どこか寄り道でもしているのだろうか。
「ねぇ、亀蔵は?」
「亀蔵もあいつらに……」
「えっ……」
ほんの数日前、「ごめんな」と困ったように笑っていた亀蔵を思い出してギュッと唇を噛んだ。亀蔵が死んだ?上手く受け止めることができなくて、嘘だと言ってほしくて夏太郎を見つめても、つらそうに視線が逸らされただけだった。
「ご苦労だった夏太郎」
亀蔵の死なんてまるで響いていないような永倉さんの声のあと、何の前触れもなしにドンッと急に腹を殴られたような重い音が部屋を揺らした。驚いて飛び上がった体がぐらついて、ザラっとした古びた畳に手を突いた。ドンッドンッと何発も土方さんが外へとウィンチェスターを放っていて、夏太郎がしゃがみながらこちらへと逃げてきていた。窓の外に誰かいる。近くにいた家永さんと身を寄せ合ってこの騒動が終わるのを見守っていると、隣に身をかがめた夏太郎もやってきた。
「ひゃっ……!」
「あぶねっ」
隙をついて外へと飛び出した牛山さんが、窓の外の不審者を勢いよく室内に投げ込んできて、けたたましい音を立ててガラスが飛び散った。反射的に目を瞑ったと同時に鈍い衝撃が体に走る。温かい。薄っすら目を開けたら濃紺の法被が目の前一杯に広がっていて、夏太郎が覆い被さるように私を抱き込んでいた。
「ナマエ、後ろで隠れてろ!」
「かんっ……まって!」
無理やり腕を掴まれ立たされたと思ったら、引きずられるように奥の部屋に押し込まれて、襖を閉じられてしまった。
「夏太郎も家永さんもこっちに……!」
「いいから出てくるな!!」
襖をこじ開ければ、隙間から勢いよく出てきた手に突き飛ばされて、また薄暗い部屋の中に無様に転がった。ピシャリと閉められた襖の向こうではまだ激しく争っている音が聞こえてくる。一人だけこんな所に押し込まれたのに流れ弾にでも当たったら笑い物だ。少し埃っぽいが、押し入れに身を隠すことにした。
暗い押し入れの中、膝を抱えて騒ぎが収まるのをジッと待った。夏太郎の手が当たった右肩がジンジンする。いつの間にこんなに力が強くなったんだろう。さっき触れた体も思っていた以上に大きかった。右手に構えていた拳銃も随分と撃ち慣れている。拳銃──私も使えたら、もっと役に立てるのだろうか。油問屋にもついて行けていたら、亀蔵だって死ななくて良かったかもしれない。亀蔵は、苦しんだのだろうか。その最期を想像してじわっと瞳に膜が張った。
泣くな泣くな。つらいのは私だけじゃない。仲が良かった亀蔵を亡くして、夏太郎はもっとつらかったはずだ。袖で目元を拭って大きく息を吐き出したら、外が静かなことに気づいた。
「……夏太郎?」
恐る恐る襖の向こうに投げかけた声は震えていて、とても情けなかった。土方さん、永倉さん、牛山さん、家永さんに夏太郎。こんなにも人が居るはずなのに、誰からも返事がない。ゆっくりと襖を開けた先には、そこかしこにガラスが散乱してボロボロになった居間が広がっていた。誰も居ない。みんなどこへ行ってしまったのだろう。ガラスを踏まないよう足元に気をつけながら土間まで降りて、駅逓所の周りを探すことにした。
「夏太郎ー?」
キョロキョロと周りを見渡していると、少し離れた厩舎の前に見慣れた日泥の法被が落ちていた。なんでこんな所に夏太郎の法被が?首を傾げながら厩舎の中を覗き込んでみると──
「……っ、夏太郎!!」
腹の底から飛び出た悲鳴のような声に、両手で大きな鋸を持った家永さんが振り返った。その後ろには、腕を縛られ猿轡をされた夏太郎が裸の状態で逆さに吊り下げられている。真下に置いてある大きな桶の用途を察して血の気が引いた。夏太郎はジタバタと揺れながら、精一杯首を後ろに捻って不明瞭な言葉で私に必死に訴えてくる。
「何してるんですか家永さん!」
「夏太郎君の若い肌が綺麗で……」
申し訳なさそうに言っているけれど、その手に持った鋸は下ろされていない。距離を詰めるのが怖かったが、怯んだらダメだと拳を握って一歩二歩と近づいた。
「夏太郎を食べないでください。私の大切な人なんです」
「……では、ナマエさんが代わりになってくださいますか?」
「え……?」
鋸を地面に置いた家永さんがぐんっと一気に距離を詰めてきて、思わず夏太郎の法被を握りしめた。作り物のような端正な顔立ちが、吐息がかかるほどの距離で止まった。瞳孔が開いた目は真っ直ぐに私を捉えている。代わりになれ、というのは冗談ではないらしい。
「し、死なない、程度なら……」
「でしたら目玉か、髪か、血か……爪も良いですね、前から欲しいと思っていたんです」
「そ、そうですか……」
「ええ、この肌も、頬も……」
もっちりとハリがあって素晴らしい、と口端から垂らした涎を舌で拭いながら頬を両手で揉みしだかれた。「やめろクソジジイ」とも聞こえた夏太郎のくぐもった声と、ギシギシと吊られた先の天井が軋む音が、家永さんの後ろから聞こえて来る。
「髪で良いですか?」
「もちろんです」
目玉よりも、爪よりも、頬よりもはるかに良い。また伸びてくるし、何より痛覚がない。痛いのは嫌だ。髪くらいで夏太郎が助かるなら安いものだと、法被を置いて迷わず簪を引き抜いた。胸元に差し込めば、簪の先に付いた夏空のようなガラス玉が大きく揺れていた。これは、何の気の迷いか、私が風邪で寝込んでいた日にあった、茨戸の夏祭りで夏太郎が買ってきてくれたものだ。折角買ってきてくれたのに暫くこれも使えなくなってしまう。そんな寂しさを取り除くように下ろした髪を手櫛で整えていると、家永さんが嬉しそうにどこからか大きな鋏を持ってきた。良く手入れがされているようで、ピカピカと光って切れ味も良さそうだ。もしかしたら家永さんはこういう時のために、私物を色々とこの厩舎に隠しているのかもしれない。
髪の束を適当に掴んで、ふとどれくらいの長さが欲しいのだろうと家永さんに聞こうとした時だった。
「なんてこった……」
「助けて牛山ふぁん!」
素っ裸で吊り下げられた夏太郎。鋏で髪を切ろうとしている私。口の端から涎を垂らして興奮する家永さん。異様な光景を目の当たりにした牛山さんが色々と察したのか、ハァ……と深い深いため息を吐いた。
「ダメだぞ家永!」
「若い子を見るとつい……」
“つい”で食べられてしまうこちらとしては堪ったものではない。牛山さんが易々と夏太郎を下ろして、地面に蹲った背中に法被を被せていた。
「大丈夫夏太郎?」
猿轡を地面に投げ捨てて、ゼェハァと夏太郎が荒い呼吸を肩で繰り返している。駆け寄って背中をさすろうと膝をついたら、ガッと胸倉を掴まれた。その拍子に簪が飛び出て、地面に落ちていく様子がやけにはっきりと、ゆっくりと見えた。
「何普通に切ろうとしてんだバカ!!」
「バカって……だってほかは目玉と爪と頬っぺただよ!?普通に髪の毛一択でしょ!」
「そういうことじゃねぇだろ!!牛山さんとか誰か呼んでこいよ!」
「その間に夏太郎が死んじゃうかもしれないのに!?」
どこに居るのかも分からない牛山さんたちを呼びに行くよりも、大人の腕よりも大きいあの鋸で夏太郎を殺すことの方が、どう考えても簡単なはずだ。夏太郎もそれは理解しているようで、眉間に皺を寄せたまま何も言い返してこなかった。
「亀蔵、死んじゃったんでしょ……夏太郎まで居なくなるの、いやだよ……」
泣きたくないのに、ジワジワと涙が溢れてきて夏太郎の顔が滲んでいく。胸倉を掴んでいた手が緩んだので振り払って、袖でゴシゴシと目元を拭った。
「……だ、だからってすぐに承諾するバカがいるかよ!」
「良いじゃん髪の毛くらい!バカ!バカん太郎!」
「髪の毛くらいって……!」
「別にこんなのまたすぐに生えて──」
「綺麗なのに勿体ねぇだろ!」
夏太郎の声が反響し終わり、シンと静まり返った厩舎に「ほう……」という牛山さんの感嘆が響いた。すぐに「よさんか牛山」と入口の方から土方さんの小さな声が聞こえてきたあと、人数分の足音が遠ざかっていった。残された私たちは、気まずい空気の中、沈黙の破り方を考えていた。
「……綺麗、だと思ってたの?」
「いや……」
バツが悪そうに、夏太郎が法被をぎゅっと合わせるように腕を組んで顔を逸らした。驚きで涙が引っ込んだおかげで、耳の先まで赤くなっているのが良く見えた。
「だから簪くれたの?」
今度は何も返ってこなかった。うんともすんとも言わない夏太郎を横目に、地面に落ちっぱなしだった簪を拾い上げて、細かい砂やゴミを軽くはたき落とした。使い込んで所々細かい傷がついたり禿げてしまっているが、そんな所にも愛着が湧いている、私のお気に入りの一本だ。
「……これね、夏の空みたいで好き」
夏太郎の夏だからという言葉は心にしまったままにした。「……おう」なんて良く分からない返事に視線を上げれば、夏太郎が私を見ていた。
「……俺も、夏みたいだと思って、買った」
「うん」
「笑うなって」
ニマニマと大きく波打つように口の端を動かしていると、夏太郎の右手でガシっと頬骨の下辺りを掴まれた。それでもひくひくと表情筋が動いてしまう私に、夏太郎は呆れたように小さく息を吐き出した。
「あんまり……簡単に触らせんなよ」
ゴシゴシと法被の袖で私の頬を乱暴に擦った夏太郎が、服を拾って慌ただしく厩舎を出て行った。裸に法被という姿でなければ幾分か格好がついたと思うのに。それでも心が熱くてポカポカと爪の先まで温まっていく。
へへへ、と誰も居なくなった厩舎で一人簪を握りしめて笑った。
2025.10.19
