短編
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あの後、梅ちゃんや寅次君も交えて話し合った結果、ひとまず前向きに検討させていただくということで私はやっと佐一君から解放されたのだった。そして二人のお祝いなんてそっちのけで私たちのデートの日程が決められ、「無難に映画とか良いんじゃないか?」という寅次君の提案でデートの内容まで決めてもらってしまった。
「昔みたいに自然体でいればきっと大丈夫」という梅ちゃんの言葉を御守りにしながら迎えたデート当日。土曜日だけど佐一君は午前中に練習があったから、私たちは2時過ぎに待ち合わせて映画を見て、半券で一回無料のクレーンゲームを遊んで、その後も自腹で何回かチャレンジしたけど結局何も取れなくて、手ぶらでディナーを食べに行った。まるで学生の休日のようでホッとしたけど、一つ違ったのは佐一君がちゃんとお店を事前に探してくれていて、ちょっと雰囲気の良い隠れ家的なスペインバルに行ったことだった。私はてっきり映画館が入っているショッピングモール内で適当に食べるものだと思っていたから、「こことかどう?」とピンが現在地よりも少し遠い場所に立っているスマホの地図を見た時に正直驚いてしまった。横文字だらけのメニューを見ながら「『昔みたいに自然体で』が難しくなってきたぞ」といよいよ身構えてしまったものの、運ばれてくるご飯はすべて美味しいし、選んだ映画が評価の高いアクション映画だったこともあって、ご飯中もその感想なんかで結構盛り上がった。二人でそれぞれ頼んだ種類違いのデザートを半分こする頃には、私も完全に肩の力が抜けていた。
「佐一君、本当は先週から始まった恋愛ものの方が見たかったんじゃない?」
「あー……まあ、でも、どっちも見たかったし……それにちょっと、狙いすぎてる気がするし……」
佐一君がクレマカタラナの表面をコンコンとつついた。確かに、デート1回目で恋愛映画は、ちょっと怯んでしまったかもしれない。いつか私たちもこうなるのか、なれないのか、色々考えてしまっただろう。それよりも頭を空っぽにして観れる派手なアクション映画の方が今の私たちには合っていた。その後も気の向くままにおしゃべりをしがら楽しくデザートを完食し、ディナーはつつがなく終わった。俺が誘ったから、とお会計は佐一君持ちだった。
「ありがとう、今度は私に払わせてね」
「今度……うん」
「駅ってあっちだよね」
神奈川からだとちょっと遠いけど、いつか梅ちゃんや寅次君とも来たいね、なんてことを話しながら駅の方へと並んで歩き始めていたのに、突然、佐一君が立ち止まった。
「どうしたの?忘れ物しちゃった?」
「あの、さ……もうちょっと、どこかで話できない?」
多分、私たちのことだ。真っ直ぐ私を見つめてくる佐一君の緊張した顔を見て思った。そういう話をカフェとか他の人が居る場所でするのは少し恥ずかしいし、かといって外で立ち話というのも落ち着かない。色々考えた末に、「良かったらうち来る?」と自分でも驚くほどすんなりと口にしていた。
「えっ!?」
「ここから近いし、ゆっくり話もできるし……」
「おっ、俺は良いけど、ナマエちゃんは良いの?」
「うん。あ、ちょっと片付ける時間は欲しいけど」
出かける直前までメイクとか髪とかを気にしていたから、洗面所が結構散らかっているような気がする。リビングもどうだったか。「い、いいのぉ?」と言いつつまた歩き始めた佐一君と駅に辿り着いて、ちょうどホームに入ってきた電車に乗った。土曜の夜の車内はそれなりに混んでいて、佐一君が常に私の横にぴったりとついてきた。ぴったり、と言っても肌が触れるか触れないかの距離だけど。次で降りるからとドアの前に移動したら、ドアと佐一君の体に挟まれて圧迫感がすごかった。窓に映った佐一君の体は、私の体から縦も横もだいぶはみ出ていた。マトリョーシカみたいだ。あの日、私のことをすっぽりと抱きしめてきたことを思い出してじわっと汗が噴き出してきた。いつの間にこんなに大きくなったんだろう。競技柄、筋肉もすごい。うち来る?と軽率に言ってしまったことを今更ながら後悔し始めていた。
汚いわけではないけど、片付いているわけでもない自分の部屋に着いてからは気になった物を片っ端から洗面台の裏や引き出しやクローゼットの中に隠していった。これくらいで良いかな、と玄関に向かおうとして、先日洗濯したブラが何故かソファー横のカラーボックスの上に置かれていたのに気づいて、慌ててまたクローゼットの中に投げ込んだ。危ない。梅ちゃんだったら見られても「なんでこんな所に?」って笑いごとになるけど、佐一君だから全然笑えない。
「ごめん、お待たせ!入って佐一君」
「お、お邪魔しまーす……」
極力なんでもないようなふりをして、廊下で待たせていた佐一君を招き入れた。洗面所で手を洗ったあと、ぎこちなく佐一君が部屋を歩き、ソファーへと真っ直ぐに向かっていった。「座っていい?」と遠慮がちに聞いてきたのが可愛くて、ちょっとだけ私も緊張が解けた。ルイボスティーのティーバッグにお湯を注いだマグカップを二つ持って、遅れて私もソファーに座った。いつもは丁度いいサイズに感じていた二人掛け用のソファーは、佐一君が横にいると凄く狭く感じた。
「その……今日さ、どうだった?」
受け取ったマグカップを落ち着かないように何度か握り直しながら、佐一君が聞いてきた。
「どうって……すごく楽しかった、です」
「そっか」白熊 無断転載禁止
「佐一君は?」
「俺も、楽しかった」
佐一君の眉間に軽く寄っていた皺がなくなって、ちょこっとだけ目元が緩んだ。それがくすぐったくて、熱々の湯気が立ち上るマグカップに視線を落として、今日あったことをまた思い出し始めた。凄く楽しかった。嫌な気持ちになんて一度もならなかった。映画の話で盛り上がったり、クレーンゲームで白熱したり、午前中の練習であった珍プレーややりたい放題の型破りな監督について話してくれたり、ずっと笑っていた気がする。また今日みたいに会えたら良いなと思っている自分もいて、昨日までどうしようどうしようと気を揉んでいたのが嘘みたいだった。
「……ちょっとでも、俺のこと意識してくれた?」
「えっ?!えぇっと、その……」
コトっと音がして、佐一君が前のローテーブルにマグカップを置いた。そのあと太ももがくっついてきて、そっと避ければまたすぐにくっついてきた。そうやってじりじりとソファーの端に追いやられていって、ついには肘置きに体がめり込むほどになっていた。落とさないようにぎゅっと握っていたマグカップが取られ、佐一君のと同じようにテーブルに置かれた。
「さ、さいちくん……ちか、い……」
「ねぇ、ナマエちゃん」
佐一君の手が背もたれと肘置きに置かれた。角に追い詰められた焦りに一気に体温が上がって、心臓が聞いたことのないような爆音で収縮を繰り返している。
「こっち見て」
そう言われても首が全然動かなくて、目線の先のテレビ台の足元を食い入るように見つめ続けた。このまま視線を合わせずにいたら状況が好転するんじゃないかと淡い期待を抱いていたのに、佐一君は諦めずにジッと私を追い詰めたまま全く動く素振りがない。ついに折れて、ギギギと音がするように首をゆっくりと回して恐る恐る視線を佐一君に移動させた。目と鼻の先に、琥珀色の綺麗な目があった。
「好きだよ」
息が震えた。吸い込んだのか吐き出したのか分からないくらい短い物だったのに、すごく震えていた。佐一君からぶつけられた気持ちがあまりにも大きくて、衝撃的で、くらくらと眩暈がするほどだった。そのまま覆いかぶさるように近づいてくる佐一君に、反射的にぎゅっと目を瞑って首をすくめた。永遠に思えるような時間のあと、ちゅっ、と可愛いリップ音と共に柔らかい感触が耳に触れて、びくっと体が跳ね上がった。
「……好き」
「さっ、さいちくんっ……!」
耳が、熱い。離れ際に囁かれた好きという二文字が永遠に頭の中で鳴り響いている。
「なっ、何、なんでっ……!?」
「意識してくれた?」
すりっと、親指と人差し指で佐一君が耳に触れてきて、益々体温が上がっていく。血管が拡張して、ジンジンと痛痒くて、それ以外の感覚がほとんどなくて怖いくらいだった。「かわいい、耳真っ赤だよ」と指摘されて、今度はぶわっと変な汗まで噴き出してきた。
「わ、私、慣れてなくて、だからっ……」
「知ってる」
「え?」
「ナマエちゃんのことなら全部知ってる」
「な、なにそれ」
冗談?とぎこちなく上がろうとしていた口角が固まった。佐一君の目が、あまりにも真剣だったから。私は佐一君のことで知らないことが多分沢山あるのに、私のことは全部見透かされて、知られているような気がした。
「俺じゃダメ?」
「えっ……いや、えっと……」
耳をすりすりと撫でられながら聞かれて、どう答えたら良いのか分からなかった。佐一君だからダメ、とかそういうのじゃない。小さい頃に何度も引っ越しをしたからか、あまり人と深い関係になるのが得意ではなかった。どうせ、またいつか離れてしまう。そんな気がして、友達や家族以外の好きとか、愛とか、あんまり良く分からないまま大人になってしまった。
「じゃあ聞くけどさ、さっきキスされて嫌だった?」
「きっ、きすは……嫌……?ではなかった、かな……?」
「……もう一回しようか」
「ま、まって、それはいいです!」
「いい?いいの?」
「いい!NOの方!わざとでしょ!」
笑いながら嬉しそうにぐっとまた顔を近づけてきた佐一君の肩に手を添えて止めたら、案外すぐに止まってくれた。
「大体、佐一君はなんでそんなすぐに、き、キスとか、できるの……」
あんなにモテてたからか、と高校時代女の子に囲まれていたことを思い出して、勝手にぎゅっと心臓が握りつぶされたようになって自分でも困惑した。なんで、今、苦しく思ったんだ。もっと考えたかったのに、自分の思考や気持ちの整理ができないうちに「それは……」と佐一君が答え始めてしまった。
「ずっと、したかったから」
「え?!」
キスを、私と……?佐一君が……?混乱していると佐一君が触れっぱなしだった私の耳から手を離した。一瞬何かを考えるように視線がテレビの方に向いて、またすぐに戻ってきた。
「ナマエちゃんはさ、俺と今二人きりだって自覚はある?」
「そ、それは、あるよ、だって私たちしかいないじゃん」
「……言い方変えるね」
はぁ、と佐一君が短く一回息を吐いて、覚悟を決めるように静かにすぅっと吸った。
「今、俺が、ナマエちゃんのことをどうにでもできる状況だって、理解してる?キス以上のことだって、できるんだよ」
「そ、それは……」
ギシっとソファーが軋んだ。さっきとは全然違う、冷たい圧をかけるように上から見下ろしてくる。眉間に皺を寄せ、瞳は目蓋が少し下りてじっとりとしていて、唇がきゅっと結ばれたその表情は真剣で、不満そうで、少しだけ悲しそうだった。こんな状況、普通だったら取り乱してしまうくらい怖いはずなのに、さっきまであんなにうるさかった心臓の音が段々と落ち着いて来るのを感じた。
「それは、理解してない、かな……」
目を合わせて思ったままのことを言えば、きょとんとした表情が返ってきた。
「だって、佐一君はそんなことしないでしょ。そんなこと、できる人じゃない」
だって、今だって、どうにでもできるのだと私に脅し紛いのことを伝えてしまって、自分でも傷ついているはずだ。本当ならそんなこと言いたくなかったのに、私が察しが悪いから言わせてしまった。「嫌なこと言わせちゃってごめんね」と謝れば、佐一君がムッとしたように口を尖らせて、更に私に覆いかぶさってきた。
「……分からないよ。するかもよ、俺」
「分かるよ、ずっと一緒だったんだもん」
いや、ずっとではないか、なんていうか……と散らばった思考をどうにか言葉にしようとしていたら、佐一君がパッと体を引いて離れていった。背もたれにあったクッションをぎゅむっと思いっきり抱きしめて、拗ねたように視線を逸らしている。
「分かるって、俺の気持ちには気づいてくれなかったのに?」
「それは……仰る通りなんですけども……」
「じゃあ何で分かるの」
「なんていうか、気持ちには気づかなかったけど、でも、私のことを……す、好き、でいてくれた佐一君のことは知ってるよ」
ジトっとした目で見返してくる佐一君は、まるで私が良く知っている小学生の佐一君のようで、これまであった色々なことが頭をよぎって頬が緩んでいく。
「ちょっと喧嘩っ早いけど、誰よりも優しくて、ちゃんと人のことを考えられる人でしょ、佐一君は。私が嫌がることは、絶対にしない」
特に梅ちゃんと寅次君と私に関して、佐一君はとても甘いことを知っている。私はいつだってその優しさに甘えていた。今も、甘えている。こうやって言葉にされれば、余計に動けなくなることだって知っている。私はとてもズルい人間だ。佐一君はどう思っただろう。ドキドキしながら出方を待っていると、クッションを絞め殺すように抱きしめて、はぁっとまた佐一君が深いため息をついた。
「……やっぱりもう一回キスして良い?」
「えっ?!なんでっ、ちょ、まっ……!」
ポイっとクッションを除けて、佐一君がまた一瞬で距離を詰めてきた。急なことに反応できなくて、また肘置きに体がめり込んでいく。顔に手が伸びてきて、ぎゅっと目を瞑った。また耳にされるのかな、それとも違う所?顔中の感覚が研ぎ澄まされていく。縮こまった体で衝撃に備えた。でも待てど待てどどこにも佐一君の手も唇も触れてこない。キスなんてしたことがない私でも、さすがに違和感を感じて目を開ければ、すぐそこに静かに私を見つめてくる佐一君の顔があって息を呑んだ。キスされると思い込んで目を瞑っていた顔をずっと見られていたと知って、羞恥心が一気に込み上げてきた。
「可愛い」
ふにゃっと目尻がこれでもかと下がって、一度頬を撫でられたあとに佐一君が離れていった。あまりのことに頭がついていかない。佐一君がゴクゴクと大きな口でマグカップを一気に飲み干して、「帰るね」と立ち上がるまでぼーっと放心状態でその様子を見続けていた。いつの間にか、猫舌の佐一君が飲めるほどにルイボスティーが冷めていた。
*
「とりあえず付き合っちゃえばいいのに」
「そ、そんなぁ……」
仕事を定時きっかりで切り上げた水曜の夜。落ち着いた照明の店内で梅ちゃんが放った無責任な言葉に、お通しで出されたオリーブが爪楊枝からぽろっと落ちて、白いココットの中に逆戻りした。前々から気になっていたイタリアンでの女子会中──というか、佐一君との初デートの結果報告会中だ。部屋に呼んだことは話したけど、ソファーで何があったかまではさすがに話せなかったけど。
「だって良い感じじゃない」
「そうかなぁ……」
「愛されるって良いものよ?」
小さい頃から寅次君が梅ちゃんにぞっこんなのを間近で見てきたので凄い説得力だ。ふふっと目を細め、口元を左手で隠しながら笑った梅ちゃんの顔は、付き合いの長い私でさえ見とれてしまうくらい綺麗だった。その薬指には、寅次君と一緒に選んだという、小粒のダイヤが一つ付いたシンプルな婚約指輪が光っている。指輪のせいか、照明が絞られているからか、なんだか梅ちゃんがとても大人っぽくて、手の届かないような存在に見えた。そんなことを本人に言ったら「馬鹿なこと言わないで」と機嫌を損ねそうだから言わないけど、実際恋愛において梅ちゃんは大先輩だ。そして結婚も控えているのだから、私よりも何段階も先のライフステージを進んでいっている。それが少し寂しかった。私たちの間で変わらないものも確実にあるけど、放課後に無邪気に遊んでいたあの日々はもう遠い遠い過去のことなのだと実感せずにはいられなかった。
「知ってる?佐一ちゃん、高校生にもなってナマエちゃんにチョコもらえなくてめそめそ泣いてたの」
「めそめそ?!」
「たくさんのチョコに埋もれて『ナマエちゃんから欲しかったー』って泣き始めて困ったんだから」
「な、何それ、初耳なんだけど……」
「こんなにあるのに一番欲しいものは手に入らないって、自分から行動すれば良いのに情けないことばっかり言ってるの」
梅ちゃんが手心なしにズバズバと言い放ちながらトマトパスタを器用に巻いていく。多分、佐一君がここに居たら瀕死の重体になっていたと思う。居なくて良かった、と思いながらココットからさっきと同じオリーブを取って、今度こそ口に運んだ。
「ナマエちゃんだって佐一ちゃんのことは嫌いじゃないでしょう?」
「うん……」
「デートも楽しかったんでしょう?」
「うん……」
デートは間違いなく楽しかったし、好きか嫌いかで言ったら、もちろん好きだ。でも梅ちゃんも、寅次君も好きだ。そこが問題だった。私の好きは並列なのか、どうなのか。佐一君だけ特別な好きになれるのか。まだ自分の感情の輪郭があやふやで、ふわふわとしていてどうにも自分でも把握しきれていなかった。
「だったらとりあえず付き合っちゃえば良いのに」
白熊 無断転載禁止
二度目の無責任な台詞にまた困ってしまって、私もくるくると少し冷めたクリームパスタを巻き始めた。梅ちゃんってそんなこと言うような人だったっけ。もしかして、寅次君ともとりあえず付き合ったの?と一瞬良くないことが頭に浮かんですぐに消えた。「私たち付き合うことになったの」と報告してきた梅ちゃんは幸せそうだったから、適当な気持ちで寅次君と向き合ってなんてないはずだ。でも、きっと、そこから始まる恋とか、愛とか、そういうのもあるのだろう。昔のまま時が止まっている私たちをどうにかして前に進めたいと思っているのかもしれない。しかし、私にはどうにも引っかかっていることがあった。
「ナマエちゃんは何が不安なの?」
「なんていうか、佐一君の気持ちとの温度差……?みたいなのが拭いきれなくて。私は佐一君の気持ちにちゃんと応えられるのかなって、応えられなくて傷つけちゃうんじゃないかなって」
最近好きになった、とかならまだ良かったのかもしれない。拗らせすぎなんだよと寅次君に言われていたことや、一緒に登下校をしていた小学生の頃から佐一君が私のことを好きだったと知ってしまったから、生半可な気持ちで向き合う気にはなれなかった。それだったらいっそ、最初からごめんなさいと断った方が良いのかもとさえ思ってしまう。美味しいのに一向に量が減らないパスタを見つめながらそんなことを話す私を、梅ちゃんは手を止めて真剣に聞いてくれていたように見えたのに、少しだけ首を捻ってから返ってきたのは意外な言葉だった。
「そんなの、無理じゃない?」
「でも無理なのにデートしたり付き合ったりして良いの?」
「だって、急に10年以上も子供の頃からの恋心を拗らせていた人と同じ熱量を持つなんて無理でしょう?」
「うん、まぁ……そうかも……」
10年以上も恋心を拗らせてた人、と声に出されて言われると心臓に悪い。本当に佐一君が今日ここに居なくて良かった。
「ナマエちゃんは一人で抱え込んでどうにかしようとしちゃうから、もっと佐一ちゃんを頼っても良いと思うの」
「頼るってどうやって?」
「同じくらいの気持ちになるまで待つんじゃなくて、一緒に気持ちを育てていくとか」
佐一君にも「もっと俺を頼って」と言われたけど、頼るのが苦手な私には少しハードルが高く聞こえた。そんなことをして迷惑じゃないのかな。電球を変えてほしいとかそういうのとは性質が違うし、利用しているような気もして申し訳ない。
「私は、二人はお似合いだと思うけど」
そうかなぁ、と無意味にパスタを巻いていると、梅ちゃんが急に笑い出したので顔を上げた。
「ナマエちゃん、今自分がどんな顔してるか分かってる?」
「えっ、えっ、どんな顔?」
「とっても嬉しそうな顔」
指摘されて、口角が元の位置に戻ったのが分かった。お似合いだと言われて、自分でも無意識のうちにニヤついていたことに気づいて体温が上がっていく。
「それが答えなんじゃないの?」
まるで空調が効いていないかのように暑くなった店内で、梅ちゃんがまた見惚れるほどに綺麗に笑った。
それから佐一君とは何度かデート、というよりお出かけをするようになった。ご飯を食べたり、アイスホッケーの試合観戦に行ったり、買い物に行ったり、会う度にどんどん昔みたいに距離が縮んでいくのが分かった。そして段々と、もっと佐一君と一緒にいたいという気持ちが大きくなっていた。けど、あれから一度も佐一君は私に触れることも、告白の返事を聞いて来ることもなかった。
「あ、あのね、佐一君」
まだ、間に合うかな。仕事帰りに一緒にご飯を食べた帰り道、不安に押しつぶされそうになりながら前を歩く佐一君の袖を掴んで止めた。丸くした瞳で佐一君が振り返ってきたので、ごそごそと鞄の中から目当ての箱を取り出した。本当はさっきご飯を食べている時に渡そうとしたけど、怖気づいて渡せなかった。
「そういう季節でも何でもないんだけどね、これ……」
私の手の中の、濃いピンクのリボンでラッピングされているココア色の箱を凝視している佐一君は何も言ってこない。緊張から私も言葉が上手く出てこなくて、佐一君に渡す物だと伝えるために長方形の箱を差し出した。
「チョコ、あげる」
「えっ……良いの?」
うん、と試作段階のロボットのようにぎこちなく頷いた。
「ほっ……」
「ほ?」白熊 無断転載禁止
「本命の、チョコ」
震えて頼りない私の声を茶化すこともせずに、佐一君が神妙な顔で私の手から箱を受け取った。
「好きだよ、佐一君。私、佐一君とこれからも一緒にいたい」
6個入りの箱は、きっと私の気持ちと同じくらい小さいものだ。それでも、無いことにはしたくなかった。もっと佐一君のことを知りたい。もっと深い関係になりたい。そんなことを誰かに思ったのは初めてだった。佐一君が他の女の子と一緒にいることを考えたら心がズキズキ痛むし、お似合いだと言われたことを思い出しては毎回ちょっと嬉しくなっていた。自分から離れてしまったくせに厚かましいと思うけど、私はもっと佐一君と一緒にいたかった。不安になりながら箱を見つめて返事を待っていたら、ポタっと何かが降ってきた。顔を上げれば、無言でボタボタと涙を流し始めた佐一君が居てぎょっとした。
「えっ、あっ、佐一君、ハンカチ……!」
「これいいの……?俺、もらっていいの?」
ハンカチで佐一君の目元を押さえながら「うん」と返事をした。次から次へと溢れ出してくる涙を気にしていないように、佐一君は尚も話し続けていく。
「ずっと欲しくて……っ、俺、ナマエちゃんから、ずっと……」
「うん。気づかなくてごめんね、泣かないで」
「急にっ、離れていくから……」
「ごめんね。私も、もっと佐一君とみんなと一緒にいたかった。これからまた一緒にいてもいい?」
佐一君が頷き、ずぴぴっと大きく鼻を啜った。ここが外なのもお構いなしに男泣きしている佐一君を通行人が何人か見てきたので、慌ててビルの裏手に隠れるように移動した。私のハンカチを暫く両目に当てているうちに落ち着いたのか、充血した目と赤い鼻で手の中の箱と私を交互に見つめてきた。
「……わがまま言って良い?」
「うん、どうしたの?」
涙で濡れた箱を佐一君がまた凝視したあと、すんっと鼻を啜った。
「手作りのも欲しい……」
まさかの要望に、ぷはっと堪えきれない笑いが漏れたら、佐一君もつられて少し笑った。「ダメ?」と潤んだ瞳で言われて、思わず手を伸ばして頭を撫でてしまった。
「来年のバレンタインにあげるね、手作りの」
「うん……約束だよ?」
「あっ、一緒に作る?」
「……作る。一緒に作って一緒に食べたい」
「いいね、楽しみだね」
ハートの形で、ピンクのが欲しい。でも普通のチョコとか、トリュフとかクッキーとかブラウニーとかも嬉しい。溢れ出してくる佐一君の要望を聞きながら、これは一回のバレンタインじゃ叶えきれないなと、まだまだ遠い二月に思いを馳せた。
2025.06.07
「昔みたいに自然体でいればきっと大丈夫」という梅ちゃんの言葉を御守りにしながら迎えたデート当日。土曜日だけど佐一君は午前中に練習があったから、私たちは2時過ぎに待ち合わせて映画を見て、半券で一回無料のクレーンゲームを遊んで、その後も自腹で何回かチャレンジしたけど結局何も取れなくて、手ぶらでディナーを食べに行った。まるで学生の休日のようでホッとしたけど、一つ違ったのは佐一君がちゃんとお店を事前に探してくれていて、ちょっと雰囲気の良い隠れ家的なスペインバルに行ったことだった。私はてっきり映画館が入っているショッピングモール内で適当に食べるものだと思っていたから、「こことかどう?」とピンが現在地よりも少し遠い場所に立っているスマホの地図を見た時に正直驚いてしまった。横文字だらけのメニューを見ながら「『昔みたいに自然体で』が難しくなってきたぞ」といよいよ身構えてしまったものの、運ばれてくるご飯はすべて美味しいし、選んだ映画が評価の高いアクション映画だったこともあって、ご飯中もその感想なんかで結構盛り上がった。二人でそれぞれ頼んだ種類違いのデザートを半分こする頃には、私も完全に肩の力が抜けていた。
「佐一君、本当は先週から始まった恋愛ものの方が見たかったんじゃない?」
「あー……まあ、でも、どっちも見たかったし……それにちょっと、狙いすぎてる気がするし……」
佐一君がクレマカタラナの表面をコンコンとつついた。確かに、デート1回目で恋愛映画は、ちょっと怯んでしまったかもしれない。いつか私たちもこうなるのか、なれないのか、色々考えてしまっただろう。それよりも頭を空っぽにして観れる派手なアクション映画の方が今の私たちには合っていた。その後も気の向くままにおしゃべりをしがら楽しくデザートを完食し、ディナーはつつがなく終わった。俺が誘ったから、とお会計は佐一君持ちだった。
「ありがとう、今度は私に払わせてね」
「今度……うん」
「駅ってあっちだよね」
神奈川からだとちょっと遠いけど、いつか梅ちゃんや寅次君とも来たいね、なんてことを話しながら駅の方へと並んで歩き始めていたのに、突然、佐一君が立ち止まった。
「どうしたの?忘れ物しちゃった?」
「あの、さ……もうちょっと、どこかで話できない?」
多分、私たちのことだ。真っ直ぐ私を見つめてくる佐一君の緊張した顔を見て思った。そういう話をカフェとか他の人が居る場所でするのは少し恥ずかしいし、かといって外で立ち話というのも落ち着かない。色々考えた末に、「良かったらうち来る?」と自分でも驚くほどすんなりと口にしていた。
「えっ!?」
「ここから近いし、ゆっくり話もできるし……」
「おっ、俺は良いけど、ナマエちゃんは良いの?」
「うん。あ、ちょっと片付ける時間は欲しいけど」
出かける直前までメイクとか髪とかを気にしていたから、洗面所が結構散らかっているような気がする。リビングもどうだったか。「い、いいのぉ?」と言いつつまた歩き始めた佐一君と駅に辿り着いて、ちょうどホームに入ってきた電車に乗った。土曜の夜の車内はそれなりに混んでいて、佐一君が常に私の横にぴったりとついてきた。ぴったり、と言っても肌が触れるか触れないかの距離だけど。次で降りるからとドアの前に移動したら、ドアと佐一君の体に挟まれて圧迫感がすごかった。窓に映った佐一君の体は、私の体から縦も横もだいぶはみ出ていた。マトリョーシカみたいだ。あの日、私のことをすっぽりと抱きしめてきたことを思い出してじわっと汗が噴き出してきた。いつの間にこんなに大きくなったんだろう。競技柄、筋肉もすごい。うち来る?と軽率に言ってしまったことを今更ながら後悔し始めていた。
汚いわけではないけど、片付いているわけでもない自分の部屋に着いてからは気になった物を片っ端から洗面台の裏や引き出しやクローゼットの中に隠していった。これくらいで良いかな、と玄関に向かおうとして、先日洗濯したブラが何故かソファー横のカラーボックスの上に置かれていたのに気づいて、慌ててまたクローゼットの中に投げ込んだ。危ない。梅ちゃんだったら見られても「なんでこんな所に?」って笑いごとになるけど、佐一君だから全然笑えない。
「ごめん、お待たせ!入って佐一君」
「お、お邪魔しまーす……」
極力なんでもないようなふりをして、廊下で待たせていた佐一君を招き入れた。洗面所で手を洗ったあと、ぎこちなく佐一君が部屋を歩き、ソファーへと真っ直ぐに向かっていった。「座っていい?」と遠慮がちに聞いてきたのが可愛くて、ちょっとだけ私も緊張が解けた。ルイボスティーのティーバッグにお湯を注いだマグカップを二つ持って、遅れて私もソファーに座った。いつもは丁度いいサイズに感じていた二人掛け用のソファーは、佐一君が横にいると凄く狭く感じた。
「その……今日さ、どうだった?」
受け取ったマグカップを落ち着かないように何度か握り直しながら、佐一君が聞いてきた。
「どうって……すごく楽しかった、です」
「そっか」白熊 無断転載禁止
「佐一君は?」
「俺も、楽しかった」
佐一君の眉間に軽く寄っていた皺がなくなって、ちょこっとだけ目元が緩んだ。それがくすぐったくて、熱々の湯気が立ち上るマグカップに視線を落として、今日あったことをまた思い出し始めた。凄く楽しかった。嫌な気持ちになんて一度もならなかった。映画の話で盛り上がったり、クレーンゲームで白熱したり、午前中の練習であった珍プレーややりたい放題の型破りな監督について話してくれたり、ずっと笑っていた気がする。また今日みたいに会えたら良いなと思っている自分もいて、昨日までどうしようどうしようと気を揉んでいたのが嘘みたいだった。
「……ちょっとでも、俺のこと意識してくれた?」
「えっ?!えぇっと、その……」
コトっと音がして、佐一君が前のローテーブルにマグカップを置いた。そのあと太ももがくっついてきて、そっと避ければまたすぐにくっついてきた。そうやってじりじりとソファーの端に追いやられていって、ついには肘置きに体がめり込むほどになっていた。落とさないようにぎゅっと握っていたマグカップが取られ、佐一君のと同じようにテーブルに置かれた。
「さ、さいちくん……ちか、い……」
「ねぇ、ナマエちゃん」
佐一君の手が背もたれと肘置きに置かれた。角に追い詰められた焦りに一気に体温が上がって、心臓が聞いたことのないような爆音で収縮を繰り返している。
「こっち見て」
そう言われても首が全然動かなくて、目線の先のテレビ台の足元を食い入るように見つめ続けた。このまま視線を合わせずにいたら状況が好転するんじゃないかと淡い期待を抱いていたのに、佐一君は諦めずにジッと私を追い詰めたまま全く動く素振りがない。ついに折れて、ギギギと音がするように首をゆっくりと回して恐る恐る視線を佐一君に移動させた。目と鼻の先に、琥珀色の綺麗な目があった。
「好きだよ」
息が震えた。吸い込んだのか吐き出したのか分からないくらい短い物だったのに、すごく震えていた。佐一君からぶつけられた気持ちがあまりにも大きくて、衝撃的で、くらくらと眩暈がするほどだった。そのまま覆いかぶさるように近づいてくる佐一君に、反射的にぎゅっと目を瞑って首をすくめた。永遠に思えるような時間のあと、ちゅっ、と可愛いリップ音と共に柔らかい感触が耳に触れて、びくっと体が跳ね上がった。
「……好き」
「さっ、さいちくんっ……!」
耳が、熱い。離れ際に囁かれた好きという二文字が永遠に頭の中で鳴り響いている。
「なっ、何、なんでっ……!?」
「意識してくれた?」
すりっと、親指と人差し指で佐一君が耳に触れてきて、益々体温が上がっていく。血管が拡張して、ジンジンと痛痒くて、それ以外の感覚がほとんどなくて怖いくらいだった。「かわいい、耳真っ赤だよ」と指摘されて、今度はぶわっと変な汗まで噴き出してきた。
「わ、私、慣れてなくて、だからっ……」
「知ってる」
「え?」
「ナマエちゃんのことなら全部知ってる」
「な、なにそれ」
冗談?とぎこちなく上がろうとしていた口角が固まった。佐一君の目が、あまりにも真剣だったから。私は佐一君のことで知らないことが多分沢山あるのに、私のことは全部見透かされて、知られているような気がした。
「俺じゃダメ?」
「えっ……いや、えっと……」
耳をすりすりと撫でられながら聞かれて、どう答えたら良いのか分からなかった。佐一君だからダメ、とかそういうのじゃない。小さい頃に何度も引っ越しをしたからか、あまり人と深い関係になるのが得意ではなかった。どうせ、またいつか離れてしまう。そんな気がして、友達や家族以外の好きとか、愛とか、あんまり良く分からないまま大人になってしまった。
「じゃあ聞くけどさ、さっきキスされて嫌だった?」
「きっ、きすは……嫌……?ではなかった、かな……?」
「……もう一回しようか」
「ま、まって、それはいいです!」
「いい?いいの?」
「いい!NOの方!わざとでしょ!」
笑いながら嬉しそうにぐっとまた顔を近づけてきた佐一君の肩に手を添えて止めたら、案外すぐに止まってくれた。
「大体、佐一君はなんでそんなすぐに、き、キスとか、できるの……」
あんなにモテてたからか、と高校時代女の子に囲まれていたことを思い出して、勝手にぎゅっと心臓が握りつぶされたようになって自分でも困惑した。なんで、今、苦しく思ったんだ。もっと考えたかったのに、自分の思考や気持ちの整理ができないうちに「それは……」と佐一君が答え始めてしまった。
「ずっと、したかったから」
「え?!」
キスを、私と……?佐一君が……?混乱していると佐一君が触れっぱなしだった私の耳から手を離した。一瞬何かを考えるように視線がテレビの方に向いて、またすぐに戻ってきた。
「ナマエちゃんはさ、俺と今二人きりだって自覚はある?」
「そ、それは、あるよ、だって私たちしかいないじゃん」
「……言い方変えるね」
はぁ、と佐一君が短く一回息を吐いて、覚悟を決めるように静かにすぅっと吸った。
「今、俺が、ナマエちゃんのことをどうにでもできる状況だって、理解してる?キス以上のことだって、できるんだよ」
「そ、それは……」
ギシっとソファーが軋んだ。さっきとは全然違う、冷たい圧をかけるように上から見下ろしてくる。眉間に皺を寄せ、瞳は目蓋が少し下りてじっとりとしていて、唇がきゅっと結ばれたその表情は真剣で、不満そうで、少しだけ悲しそうだった。こんな状況、普通だったら取り乱してしまうくらい怖いはずなのに、さっきまであんなにうるさかった心臓の音が段々と落ち着いて来るのを感じた。
「それは、理解してない、かな……」
目を合わせて思ったままのことを言えば、きょとんとした表情が返ってきた。
「だって、佐一君はそんなことしないでしょ。そんなこと、できる人じゃない」
だって、今だって、どうにでもできるのだと私に脅し紛いのことを伝えてしまって、自分でも傷ついているはずだ。本当ならそんなこと言いたくなかったのに、私が察しが悪いから言わせてしまった。「嫌なこと言わせちゃってごめんね」と謝れば、佐一君がムッとしたように口を尖らせて、更に私に覆いかぶさってきた。
「……分からないよ。するかもよ、俺」
「分かるよ、ずっと一緒だったんだもん」
いや、ずっとではないか、なんていうか……と散らばった思考をどうにか言葉にしようとしていたら、佐一君がパッと体を引いて離れていった。背もたれにあったクッションをぎゅむっと思いっきり抱きしめて、拗ねたように視線を逸らしている。
「分かるって、俺の気持ちには気づいてくれなかったのに?」
「それは……仰る通りなんですけども……」
「じゃあ何で分かるの」
「なんていうか、気持ちには気づかなかったけど、でも、私のことを……す、好き、でいてくれた佐一君のことは知ってるよ」
ジトっとした目で見返してくる佐一君は、まるで私が良く知っている小学生の佐一君のようで、これまであった色々なことが頭をよぎって頬が緩んでいく。
「ちょっと喧嘩っ早いけど、誰よりも優しくて、ちゃんと人のことを考えられる人でしょ、佐一君は。私が嫌がることは、絶対にしない」
特に梅ちゃんと寅次君と私に関して、佐一君はとても甘いことを知っている。私はいつだってその優しさに甘えていた。今も、甘えている。こうやって言葉にされれば、余計に動けなくなることだって知っている。私はとてもズルい人間だ。佐一君はどう思っただろう。ドキドキしながら出方を待っていると、クッションを絞め殺すように抱きしめて、はぁっとまた佐一君が深いため息をついた。
「……やっぱりもう一回キスして良い?」
「えっ?!なんでっ、ちょ、まっ……!」
ポイっとクッションを除けて、佐一君がまた一瞬で距離を詰めてきた。急なことに反応できなくて、また肘置きに体がめり込んでいく。顔に手が伸びてきて、ぎゅっと目を瞑った。また耳にされるのかな、それとも違う所?顔中の感覚が研ぎ澄まされていく。縮こまった体で衝撃に備えた。でも待てど待てどどこにも佐一君の手も唇も触れてこない。キスなんてしたことがない私でも、さすがに違和感を感じて目を開ければ、すぐそこに静かに私を見つめてくる佐一君の顔があって息を呑んだ。キスされると思い込んで目を瞑っていた顔をずっと見られていたと知って、羞恥心が一気に込み上げてきた。
「可愛い」
ふにゃっと目尻がこれでもかと下がって、一度頬を撫でられたあとに佐一君が離れていった。あまりのことに頭がついていかない。佐一君がゴクゴクと大きな口でマグカップを一気に飲み干して、「帰るね」と立ち上がるまでぼーっと放心状態でその様子を見続けていた。いつの間にか、猫舌の佐一君が飲めるほどにルイボスティーが冷めていた。
*
「とりあえず付き合っちゃえばいいのに」
「そ、そんなぁ……」
仕事を定時きっかりで切り上げた水曜の夜。落ち着いた照明の店内で梅ちゃんが放った無責任な言葉に、お通しで出されたオリーブが爪楊枝からぽろっと落ちて、白いココットの中に逆戻りした。前々から気になっていたイタリアンでの女子会中──というか、佐一君との初デートの結果報告会中だ。部屋に呼んだことは話したけど、ソファーで何があったかまではさすがに話せなかったけど。
「だって良い感じじゃない」
「そうかなぁ……」
「愛されるって良いものよ?」
小さい頃から寅次君が梅ちゃんにぞっこんなのを間近で見てきたので凄い説得力だ。ふふっと目を細め、口元を左手で隠しながら笑った梅ちゃんの顔は、付き合いの長い私でさえ見とれてしまうくらい綺麗だった。その薬指には、寅次君と一緒に選んだという、小粒のダイヤが一つ付いたシンプルな婚約指輪が光っている。指輪のせいか、照明が絞られているからか、なんだか梅ちゃんがとても大人っぽくて、手の届かないような存在に見えた。そんなことを本人に言ったら「馬鹿なこと言わないで」と機嫌を損ねそうだから言わないけど、実際恋愛において梅ちゃんは大先輩だ。そして結婚も控えているのだから、私よりも何段階も先のライフステージを進んでいっている。それが少し寂しかった。私たちの間で変わらないものも確実にあるけど、放課後に無邪気に遊んでいたあの日々はもう遠い遠い過去のことなのだと実感せずにはいられなかった。
「知ってる?佐一ちゃん、高校生にもなってナマエちゃんにチョコもらえなくてめそめそ泣いてたの」
「めそめそ?!」
「たくさんのチョコに埋もれて『ナマエちゃんから欲しかったー』って泣き始めて困ったんだから」
「な、何それ、初耳なんだけど……」
「こんなにあるのに一番欲しいものは手に入らないって、自分から行動すれば良いのに情けないことばっかり言ってるの」
梅ちゃんが手心なしにズバズバと言い放ちながらトマトパスタを器用に巻いていく。多分、佐一君がここに居たら瀕死の重体になっていたと思う。居なくて良かった、と思いながらココットからさっきと同じオリーブを取って、今度こそ口に運んだ。
「ナマエちゃんだって佐一ちゃんのことは嫌いじゃないでしょう?」
「うん……」
「デートも楽しかったんでしょう?」
「うん……」
デートは間違いなく楽しかったし、好きか嫌いかで言ったら、もちろん好きだ。でも梅ちゃんも、寅次君も好きだ。そこが問題だった。私の好きは並列なのか、どうなのか。佐一君だけ特別な好きになれるのか。まだ自分の感情の輪郭があやふやで、ふわふわとしていてどうにも自分でも把握しきれていなかった。
「だったらとりあえず付き合っちゃえば良いのに」
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二度目の無責任な台詞にまた困ってしまって、私もくるくると少し冷めたクリームパスタを巻き始めた。梅ちゃんってそんなこと言うような人だったっけ。もしかして、寅次君ともとりあえず付き合ったの?と一瞬良くないことが頭に浮かんですぐに消えた。「私たち付き合うことになったの」と報告してきた梅ちゃんは幸せそうだったから、適当な気持ちで寅次君と向き合ってなんてないはずだ。でも、きっと、そこから始まる恋とか、愛とか、そういうのもあるのだろう。昔のまま時が止まっている私たちをどうにかして前に進めたいと思っているのかもしれない。しかし、私にはどうにも引っかかっていることがあった。
「ナマエちゃんは何が不安なの?」
「なんていうか、佐一君の気持ちとの温度差……?みたいなのが拭いきれなくて。私は佐一君の気持ちにちゃんと応えられるのかなって、応えられなくて傷つけちゃうんじゃないかなって」
最近好きになった、とかならまだ良かったのかもしれない。拗らせすぎなんだよと寅次君に言われていたことや、一緒に登下校をしていた小学生の頃から佐一君が私のことを好きだったと知ってしまったから、生半可な気持ちで向き合う気にはなれなかった。それだったらいっそ、最初からごめんなさいと断った方が良いのかもとさえ思ってしまう。美味しいのに一向に量が減らないパスタを見つめながらそんなことを話す私を、梅ちゃんは手を止めて真剣に聞いてくれていたように見えたのに、少しだけ首を捻ってから返ってきたのは意外な言葉だった。
「そんなの、無理じゃない?」
「でも無理なのにデートしたり付き合ったりして良いの?」
「だって、急に10年以上も子供の頃からの恋心を拗らせていた人と同じ熱量を持つなんて無理でしょう?」
「うん、まぁ……そうかも……」
10年以上も恋心を拗らせてた人、と声に出されて言われると心臓に悪い。本当に佐一君が今日ここに居なくて良かった。
「ナマエちゃんは一人で抱え込んでどうにかしようとしちゃうから、もっと佐一ちゃんを頼っても良いと思うの」
「頼るってどうやって?」
「同じくらいの気持ちになるまで待つんじゃなくて、一緒に気持ちを育てていくとか」
佐一君にも「もっと俺を頼って」と言われたけど、頼るのが苦手な私には少しハードルが高く聞こえた。そんなことをして迷惑じゃないのかな。電球を変えてほしいとかそういうのとは性質が違うし、利用しているような気もして申し訳ない。
「私は、二人はお似合いだと思うけど」
そうかなぁ、と無意味にパスタを巻いていると、梅ちゃんが急に笑い出したので顔を上げた。
「ナマエちゃん、今自分がどんな顔してるか分かってる?」
「えっ、えっ、どんな顔?」
「とっても嬉しそうな顔」
指摘されて、口角が元の位置に戻ったのが分かった。お似合いだと言われて、自分でも無意識のうちにニヤついていたことに気づいて体温が上がっていく。
「それが答えなんじゃないの?」
まるで空調が効いていないかのように暑くなった店内で、梅ちゃんがまた見惚れるほどに綺麗に笑った。
それから佐一君とは何度かデート、というよりお出かけをするようになった。ご飯を食べたり、アイスホッケーの試合観戦に行ったり、買い物に行ったり、会う度にどんどん昔みたいに距離が縮んでいくのが分かった。そして段々と、もっと佐一君と一緒にいたいという気持ちが大きくなっていた。けど、あれから一度も佐一君は私に触れることも、告白の返事を聞いて来ることもなかった。
「あ、あのね、佐一君」
まだ、間に合うかな。仕事帰りに一緒にご飯を食べた帰り道、不安に押しつぶされそうになりながら前を歩く佐一君の袖を掴んで止めた。丸くした瞳で佐一君が振り返ってきたので、ごそごそと鞄の中から目当ての箱を取り出した。本当はさっきご飯を食べている時に渡そうとしたけど、怖気づいて渡せなかった。
「そういう季節でも何でもないんだけどね、これ……」
私の手の中の、濃いピンクのリボンでラッピングされているココア色の箱を凝視している佐一君は何も言ってこない。緊張から私も言葉が上手く出てこなくて、佐一君に渡す物だと伝えるために長方形の箱を差し出した。
「チョコ、あげる」
「えっ……良いの?」
うん、と試作段階のロボットのようにぎこちなく頷いた。
「ほっ……」
「ほ?」白熊 無断転載禁止
「本命の、チョコ」
震えて頼りない私の声を茶化すこともせずに、佐一君が神妙な顔で私の手から箱を受け取った。
「好きだよ、佐一君。私、佐一君とこれからも一緒にいたい」
6個入りの箱は、きっと私の気持ちと同じくらい小さいものだ。それでも、無いことにはしたくなかった。もっと佐一君のことを知りたい。もっと深い関係になりたい。そんなことを誰かに思ったのは初めてだった。佐一君が他の女の子と一緒にいることを考えたら心がズキズキ痛むし、お似合いだと言われたことを思い出しては毎回ちょっと嬉しくなっていた。自分から離れてしまったくせに厚かましいと思うけど、私はもっと佐一君と一緒にいたかった。不安になりながら箱を見つめて返事を待っていたら、ポタっと何かが降ってきた。顔を上げれば、無言でボタボタと涙を流し始めた佐一君が居てぎょっとした。
「えっ、あっ、佐一君、ハンカチ……!」
「これいいの……?俺、もらっていいの?」
ハンカチで佐一君の目元を押さえながら「うん」と返事をした。次から次へと溢れ出してくる涙を気にしていないように、佐一君は尚も話し続けていく。
「ずっと欲しくて……っ、俺、ナマエちゃんから、ずっと……」
「うん。気づかなくてごめんね、泣かないで」
「急にっ、離れていくから……」
「ごめんね。私も、もっと佐一君とみんなと一緒にいたかった。これからまた一緒にいてもいい?」
佐一君が頷き、ずぴぴっと大きく鼻を啜った。ここが外なのもお構いなしに男泣きしている佐一君を通行人が何人か見てきたので、慌ててビルの裏手に隠れるように移動した。私のハンカチを暫く両目に当てているうちに落ち着いたのか、充血した目と赤い鼻で手の中の箱と私を交互に見つめてきた。
「……わがまま言って良い?」
「うん、どうしたの?」
涙で濡れた箱を佐一君がまた凝視したあと、すんっと鼻を啜った。
「手作りのも欲しい……」
まさかの要望に、ぷはっと堪えきれない笑いが漏れたら、佐一君もつられて少し笑った。「ダメ?」と潤んだ瞳で言われて、思わず手を伸ばして頭を撫でてしまった。
「来年のバレンタインにあげるね、手作りの」
「うん……約束だよ?」
「あっ、一緒に作る?」
「……作る。一緒に作って一緒に食べたい」
「いいね、楽しみだね」
ハートの形で、ピンクのが欲しい。でも普通のチョコとか、トリュフとかクッキーとかブラウニーとかも嬉しい。溢れ出してくる佐一君の要望を聞きながら、これは一回のバレンタインじゃ叶えきれないなと、まだまだ遠い二月に思いを馳せた。
2025.06.07
