短編
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※原作で言う所の童貞防衛作戦くらいの年齢の菊田さんです
定時を一時間ほど過ぎてから会社を出て、帰宅ラッシュの大通り沿いの道を一人歩いていた。4月に入りだいぶ日が伸びて春めいてきたものの、6時を過ぎてしまえば辺りは真っ暗になって肌寒くなってしまう。マフラーのない無防備な首筋を不意に撫でた風にぶるりと体を震わせながら、バッグに入れていたスマホを探し出して、画面下部のメールアプリをタップした。
「よう、今帰りか?」
「うわっ、びっくりした!」
ドキドキしながら数時間前に届いていたメールを確認していたら、突然後ろから声を掛けられてスマホが手の中で踊った。悪い悪いと笑いながら私の横についたのは同期の菊田だった。同期の中でも特に良く飲みに行ったりしている仲だけど、この頃は年度末と年度始めのバタバタであまり会うことがなかったから、随分と久々に顔を見たような気がした。前に見た時はコートにマフラーの完全防寒スタイルだったのに、今日はただの濃紺のスーツと焦げ茶のネクタイ姿になっていて、改めて季節の移ろいを感じた。
「久々だね、最近どう?」
「まあボチボチだな」
夜の空気のせいかもしれないけど、軽く笑ったその顔はいつもよりもクマが目立っているようで、菊田も大変なんだなと心の中で思った。上に行きたいという本人の希望の通り、同期の中でも一番乗りでどんどん昇進していって部下も増えて、やることがたくさんあるんだろう。今年度は昇進もなく、異動もなく、これといった環境の変化がなかった私にとって、その大変さは想像することしかできない。
「あっ、そういえば杉元君にばったり会ったよこの間。もう菊田の家出たんだって?」
「ああ、少し前にな。やりたいこと見つけたってさ。元気だったか?」
「うん、『俺が出て行って菊田さん寂しがってると思うんで、沢山ご飯誘ってあげてください』って言われた」
「あのやろ……」
杉元君は菊田がどこかで拾ってきた青年である。このご時世だ、素性も良く分からない人と一緒に暮らすなんて危なすぎると思っていたけれど、ノラ坊なんてあだ名をつけて可愛がっているし、杉元君も菊田に懐いているようだし、何度か三人で出かけたりもしているうちに杉元君という存在はいつの間にか私の日常にも溶け込んできたのだった。最初に会ったときはもっとツンツンしていたのに、この間会った時は随分と穏やかになって、瞳が凄くキラキラとしていた。時間がなかったから「また今度飯行きましょう」と言われて連絡先を交換しただけだったけど、あのキラキラはやりたいことを見つけたからだったのかと納得した。
「やっぱり若いと夢と希望に溢れてて眩しいね」
「俺たちはくたびれていく一方なのにな」
はははと笑い合った後にはぁ、とお互いのため息が重なった。入社して十年と少し。若いというほどもう若くはないけれど、年寄りというほど年寄りではない。どっちつかずの微妙な年代だ。社内でも中堅になって、夢と希望と体力が減っていく代わりに仕事と責任と体重が増えていく。私は仕事で手一杯だけど、同年代はもう結婚して子供がいるのも珍しくはないし、気が付いたら親しい同期で独り身なのは私と菊田と、あともう一人だけになっていた。入社した時はみんな同じスタートラインに立っていたはずなのに、いつの間にかバラバラの位置にいて、気を抜いたら仕事でもプライベートでも周りに追い越されていく漠然とした不安感に押しつぶされそうだった。
「ミョウジは最近どうなんだ?」
「んー?相変わらずだよ」
「……相変わらず、企画採用させてもらえないのか」
「まあ、うん、相変わらずだね」
心配そうに私を見つめてくる瞳に笑い返した。直属の上司が難のある人で、端的に言えば私は嫌われている。頑張って企画を出した所で採用されるのは他の人ので、私のはいつも細々とした文句と共に却下されている。そのせいで評価も良くはない。多分私が昔、上司のミスを見つけてカバーしたことを根に持っているからだ。どれだけ器が小さいんだ。付き合いきれないから異動願いも出したり、しかるべき所に相談してみたりしたけれど、結局何も変わらないまま、新年度を迎えてしまった。
「なぁ、やっぱりもう一回相談した方が良いんじゃないか」
「えー?良いよ、別に」
「良くないだろ」
「ううん、もう良いの」
でも、と自分事のように食い下がる菊田にもう一度「良いんだよ」と目を見て伝えた。こんなに優しくて面倒見の良い人の下につけるなんて、これからの子たちは幸せだ。でも別に、私は諦めたわけでも負けたわけでもない。
「あのね、菊田には一番に伝えたいって思ってたんだけど……」
周りに見知った顔がいないことを確認し、帰宅途中の他のサラリーマンたちの邪魔にならないように手招きしながら道の端へと寄った。
「なんだよ急に」
「あのね、私──」
「ま、待て待て!結婚するのかッ?!」
大きな一歩で私のすぐ目の前にやってきた菊田に体が仰け反った。たるんだ背筋と腹筋が痛い。体が触れ合いそうなほどに近くて、その分身長差が大きく感じる。圧迫感がすごいのに、後ろは花壇で後ずさることができない。菊田ってこんなに大きかったんだ、と少々ひるみながら口を開いた。
「いや、違うけど」
「そうか……え?あっ、違うのか」
「結婚なんて私には縁のない話だよ」
そうだなとか何とか言って一緒に笑ってくれると思ったのに、菊田が微妙な顔でキュッと口を真一文字に閉ざしてしまったので、私の笑い声だけが車の通りすぎる音やクラクションに紛れて虚しく響いた。勝手に勘違いした上にそういう反応をされると調子が狂う。マネージャー向けのコンプラ教育のせいか?なんなんだよと拳で軽く菊田の脇腹を小突いて、いつもと同じ、体一つ分ほどの距離を取るために横へとズレた。
「私ね、転職するの」
「……それは、これから転職活動するってことか?」
「ううん、さっき内定のメールもらったから来月には辞めるつもり」
「来月……また随分と急だな」
「うーん、割と前から動いてたから自分の中ではそんなでもないよ」
実は年明けから細々と転職活動をしていたから、かれこれもう4ヶ月ほどになる。別に「絶対に転職したい!」という確固たる決意があったわけでもないから、数々のお祈りメールに「やはり私にはここしかないのでは……」と落ち込むこともあった。けど、数週間前に応募した所が、今まで落ちてきたのはこの会社と巡り合うためだったのかもしれない、なんて錯覚してしまうくらい自分のやりたいことと一致していて、雰囲気も良くて、一昨日の最終選考もとても良い手ごたえを感じながら終えることができた。そしてさっき、選考結果のメールを開けて”採用”の二文字が目に入った途端に菊田に声を掛けられたのだ。もし受かったら菊田に一番に伝えなければと思っていたので、タイミング良く後ろから現れた菊田には本当に驚いた。
「そこはちゃんと、その……良い所なのか?」
「うん。うちより規模は小さいけど良い所だよ」
「待遇は?ちゃんと交渉したか?」
「細かいことはまだだけど、求人票に載ってたのを見る分には悪くないよ。給料も上がるし」
「確認してきっちり交渉しないとダメだぞ」
その後も眉間に深い皺を寄せた菊田が「一人で大丈夫か?」「エージェントを使ってるのか?」「完全週休二日制か?」などなど、矢継ぎ早に質問を投げかけてくるので徐々に笑いが込み上げてきた。
「大丈夫だって、なんだかお父さんみたいになってるよ菊田」
「心配なんだよ……やっぱりあれか、あの上司が原因か?」
「まあ、それもあるけど。それだけではないよ」
ここよりも良い場所が見つかっただけ。ただそれだけの話だ。会社の人も通る道であまり長い間立ち止まっていては目立つから、何か言いたげにしている菊田を横目にゆっくりとまた歩き始めた。
「あー……悪い。まずはおめでとうって言うべきだった。動揺して、つい……」
「動揺?」
そんなに?と思わず吹き出して右に視線を向けたら、菊田が真剣な表情をしながら歩いていた。そのゴツゴツとした大きな手で顔の下半分は覆われているけれど、眉と目がいつもよりも近く、瞬きも多い。どうやら本当に動揺しているらしい。転職なんて今どきそんなに珍しくもないのに。周りでも競合他社や全くの別業界に転職していった人たちが何人かいる。それなのにこんなに動揺するのは──
「もしかして菊田、私が居なくなるのが寂しいの?」
いつもの菊田なら「うるせぇ」とか「んな訳あるか」とかすぐに返してくるはずなのに、今日は眉間に皺を寄せたままチラッとこちらを見て来ただけで、すぐに視線を逸らされた。さっきのことといい、本当に調子が狂う。杉元君が出て行ってしまったから、センチメンタルになっているのかもしれない。菊田が寂しがっている、というのはただの冗談だと思っていたけれど、まさか本当に寂しがっていたとは。だって菊田は、いつも私の数歩先を迷いなく歩いているように見えたから。
「それでさ、今の所からだと不便だから引っ越そうと思ってて、菊田の住んでる方面からだと通いやすいからその辺りで探そうと思うんだけど、おすすめの駅とかある?」
まだ細かい日程は決めていないけど、入社はほぼ一か月後になるだろうから、かなり急いで新居を探さなくてはならない。まあ最悪間に合わなくても良いけど、どうせなら新しい場所で人生の門出を迎えたい。「どう?」と聞いてみたら、菊田が口元を覆ったまま足を止めた。「んー……」と考え込んでいる低い声が、手のひら越しに微かに聞こえてくる。
「……なぁ、それならうち来るか」
「え?」
「ノラ坊も出ていって一部屋空いてるし、うちからなら便利なんだろ」
うち来るか。一部屋空いてる。今しがた言われたことが頭の中でふわふわとシャボン玉のように揺蕩って、一気にぱちんと弾けた。
「待って、何言ってるの?杉元君が出ていってセンチメンタルになりすぎてるんじゃない?」
「それもある」
「あるんだ」
真顔でしっかりと肯定してきたのがおかしくて一瞬笑いかけたが、冗談を言っている雰囲気が全くなかったから、ひくっと口角が痙攣したように引きつった。
「まさかミョウジまで居なくなるなんて思ってなかった」
「居なくなるって、別にこれからもご飯食べに行ったりとかできると思うけど……」
「今まで通りとはいかないだろ」
「そうかな……大体、こ、恋人でもないのに、良い大人二人でルームシェアするのは、ちょっと……」
百歩譲って一軒家とかなら広さもあるからまだ分かる。でも菊田のは普通にマンションだ。部屋が余っている、というのだから2LDKとかなのだろう。さすがに付き合ってもいない異性と2LDKのマンションに住むのは抵抗がある。
「恋人ならいいのか」
「まあ恋人なら……ん?」
「ずっと好きだった。付き合ってほしい」
「いや怖い怖い怖い!スピード感がおかしいって!」
揺らぐことなく真っすぐにこちらを射抜いてくる菊田の瞳にぎょっとして、ガツガツとヒールの音を大きく立てながら逃げるように歩き始めた。今のが冗談だったらまだ良かったのに、本気のようなのが一番怖かった。寂しさに菊田がおかしくなっている。「ずっと好きだった」って、いつから?分からない。適当に言っているのでは?そういえばこの間、別れ際に杉元君に「菊田さんのことお願いしますね」って言われたんだっけ。どうしてくれるの杉元君、君の抜けた穴は予想外に大きいよ。私にはちょっと荷が重すぎる。息を切らしながら早歩きで十分な距離を取ったつもりだったのに、すぐに菊田が横についてきた驚きで言葉にならない変な声が溢れ出た。
「前に同期の中なら俺が良いって言ってただろ」
「はぁ?!言ってない!何それ!」
「言ってた」
「言ってないって!」
嘘だ。本当は言っていた覚えがある。しかも何度か。菊田はいなかったはずなのになんで知ってるんだ。それに、「ミョウジさんって菊田さんと仲良いですよね?付き合ってるんですか?」と周りの人たちに興味津々に質問される度に若干の優越感を感じながら「ただの同期だよ」と返すこともしていた。菊田とは本当に何もないのにちょっと困ったように笑えばみんなそれぞれ好き勝手想像していくのが面白いな、とか思っていた罰が今返ってきたんだと思う。本当にごめんなさい。もうしません。大学で付き合っていた人とは入社してすぐに分かれてしまって、そこから恋愛なんて全くしてこなかったから、私はそういったセコい形でしか恋愛関連の土俵に立っていられない人間だ。安全な後方で得意げに腕組みをしているのを楽しんでいたのに、今急に前線に引っ張り出されてしまって怖くて怖くて堪らない。正直ここが外とか関係なく泣き出したいくらいだったけれど、なけなしの気力と勇気を振り絞り、見栄を張るために息を大きく吸い込んだ。
「寂しいからって、手頃な相手って思われるのは本当に嫌」
「そんなこと思ったことねぇよ」
怒ったような強めの語気に思わず足が止まった。いつの間にかまたぐっと距離が縮まっていて、私の視界は菊田の濃紺のジャケットと、近くで見たら細かいチェック模様だった焦げ茶のネクタイと、白いワイシャツに占領されていた。
「……ずっと、言えなかっただけだ」
壁のような体の割に、とても小さい声が上から降ってきた。
「大体、遊び目的ならうちに来いなんて言うわけないだろ」
「へぇ……そうなんだ」
「あっ、いや、俺がって話じゃなくて!一般論だ、一般論!」
「へぇ……」
顔を見ることなくまた歩き出した私の後ろから「違う!」とか色々言っているのが聞こえて来た。入社してから彼女が居るとか居ないとか、たまに風の噂で聞くことはあったけど、そういえば最近はそういうのは全然聞かなくなった。女性人気もあるけど遊んでいるとか悪い噂は一度も聞いたことがない。多分それもあって人気なのだろう。だから確かに、さっきのは一般論として菊田は言ったのだろうけど、あまり聞いていて良いものではないし、私たちが知らないだけで菊田にもそういう関係の人もいたのかな、とか一瞬でも想像してしまった自分が嫌だった。
「待ってくれ」
グイっと後ろから右腕を掴まれて、よろけた体が菊田の体にぶつかった。スーツ越しに感じる筋肉質な体に大きく心臓が跳ねて体が強張った。近い。近すぎる。重心が変な所にあって、逃げるための咄嗟の一歩が踏み出せずにいると、菊田が私の腕をしっかりと掴んだまま話し始めた。
「恋愛は良いって言ってたから、それなら同期としてずっとミョウジの側に居たいと思ってた」
「きゅ、急にそんなこと言われても困る」
「早く上に行きたかったのも、あのクソ野郎をミョウジから引き剥がしてやりたかったからだ」
「別にそんなことしてもらわなくても……」
「分かってる、全部俺の自己満だ。そんなことしなくたってお前はやっていける。でも、頑張るために何か理由が欲しかった」
菊田とは何度もご飯とお酒と一緒に、仕事のことや将来のこと、趣味のことやどうでも良いことを沢山語り合ってきたはずなのに、さっきから聞こえてくるのは初めてのことばかりで、私はこの男のことを何も分かっていなかったのだと思い知らされる。私は、今まで菊田の何を見ていたのだろう。この人は、本当に私が入社してから一緒に過ごしてきた人なのだろうか。恐る恐る顔を上げたら、そこには貧相な星空と明るい街灯をバックに私を見下ろしてくる菊田の緊張した顔があった。
「ミョウジがいないとダメなんだ」
眉を下げながら、しおらしく紡がれた言葉が耳に届いた。先ほどあんなに真っすぐに力強く告白してきた人とは思えないほどに、その瞳は不安に揺れていた。そんな顔をされてしまっては、突き放すこともできない。
「……情けないね」
「ああ」
「下の子たちが知ったら幻滅するんじゃない?」
「こんな情けない姿、お前にしか見せらんねぇよ」
ずるいなぁ。本当にずるい。力なく笑った菊田は、本当に情けない顔をしていた。こんな顔、会社では絶対に見せないだろう。私だって今初めて見た。最後に一度だけ私の腕を掴む手に力を込めてから、菊田がゆっくりと手を離した。
「だからこれからのこと、ちゃんと考えといてくれねぇか」
大通りを通過する数多のヘッドライトが瞬いている菊田の瞳は、あの日ばったり出会った杉元君を彷彿とさせて、私たちの人生もまだまだ夢や希望で溢れているのかもしれないと思った。
2025.04.20
定時を一時間ほど過ぎてから会社を出て、帰宅ラッシュの大通り沿いの道を一人歩いていた。4月に入りだいぶ日が伸びて春めいてきたものの、6時を過ぎてしまえば辺りは真っ暗になって肌寒くなってしまう。マフラーのない無防備な首筋を不意に撫でた風にぶるりと体を震わせながら、バッグに入れていたスマホを探し出して、画面下部のメールアプリをタップした。
「よう、今帰りか?」
「うわっ、びっくりした!」
ドキドキしながら数時間前に届いていたメールを確認していたら、突然後ろから声を掛けられてスマホが手の中で踊った。悪い悪いと笑いながら私の横についたのは同期の菊田だった。同期の中でも特に良く飲みに行ったりしている仲だけど、この頃は年度末と年度始めのバタバタであまり会うことがなかったから、随分と久々に顔を見たような気がした。前に見た時はコートにマフラーの完全防寒スタイルだったのに、今日はただの濃紺のスーツと焦げ茶のネクタイ姿になっていて、改めて季節の移ろいを感じた。
「久々だね、最近どう?」
「まあボチボチだな」
夜の空気のせいかもしれないけど、軽く笑ったその顔はいつもよりもクマが目立っているようで、菊田も大変なんだなと心の中で思った。上に行きたいという本人の希望の通り、同期の中でも一番乗りでどんどん昇進していって部下も増えて、やることがたくさんあるんだろう。今年度は昇進もなく、異動もなく、これといった環境の変化がなかった私にとって、その大変さは想像することしかできない。
「あっ、そういえば杉元君にばったり会ったよこの間。もう菊田の家出たんだって?」
「ああ、少し前にな。やりたいこと見つけたってさ。元気だったか?」
「うん、『俺が出て行って菊田さん寂しがってると思うんで、沢山ご飯誘ってあげてください』って言われた」
「あのやろ……」
杉元君は菊田がどこかで拾ってきた青年である。このご時世だ、素性も良く分からない人と一緒に暮らすなんて危なすぎると思っていたけれど、ノラ坊なんてあだ名をつけて可愛がっているし、杉元君も菊田に懐いているようだし、何度か三人で出かけたりもしているうちに杉元君という存在はいつの間にか私の日常にも溶け込んできたのだった。最初に会ったときはもっとツンツンしていたのに、この間会った時は随分と穏やかになって、瞳が凄くキラキラとしていた。時間がなかったから「また今度飯行きましょう」と言われて連絡先を交換しただけだったけど、あのキラキラはやりたいことを見つけたからだったのかと納得した。
「やっぱり若いと夢と希望に溢れてて眩しいね」
「俺たちはくたびれていく一方なのにな」
はははと笑い合った後にはぁ、とお互いのため息が重なった。入社して十年と少し。若いというほどもう若くはないけれど、年寄りというほど年寄りではない。どっちつかずの微妙な年代だ。社内でも中堅になって、夢と希望と体力が減っていく代わりに仕事と責任と体重が増えていく。私は仕事で手一杯だけど、同年代はもう結婚して子供がいるのも珍しくはないし、気が付いたら親しい同期で独り身なのは私と菊田と、あともう一人だけになっていた。入社した時はみんな同じスタートラインに立っていたはずなのに、いつの間にかバラバラの位置にいて、気を抜いたら仕事でもプライベートでも周りに追い越されていく漠然とした不安感に押しつぶされそうだった。
「ミョウジは最近どうなんだ?」
「んー?相変わらずだよ」
「……相変わらず、企画採用させてもらえないのか」
「まあ、うん、相変わらずだね」
心配そうに私を見つめてくる瞳に笑い返した。直属の上司が難のある人で、端的に言えば私は嫌われている。頑張って企画を出した所で採用されるのは他の人ので、私のはいつも細々とした文句と共に却下されている。そのせいで評価も良くはない。多分私が昔、上司のミスを見つけてカバーしたことを根に持っているからだ。どれだけ器が小さいんだ。付き合いきれないから異動願いも出したり、しかるべき所に相談してみたりしたけれど、結局何も変わらないまま、新年度を迎えてしまった。
「なぁ、やっぱりもう一回相談した方が良いんじゃないか」
「えー?良いよ、別に」
「良くないだろ」
「ううん、もう良いの」
でも、と自分事のように食い下がる菊田にもう一度「良いんだよ」と目を見て伝えた。こんなに優しくて面倒見の良い人の下につけるなんて、これからの子たちは幸せだ。でも別に、私は諦めたわけでも負けたわけでもない。
「あのね、菊田には一番に伝えたいって思ってたんだけど……」
周りに見知った顔がいないことを確認し、帰宅途中の他のサラリーマンたちの邪魔にならないように手招きしながら道の端へと寄った。
「なんだよ急に」
「あのね、私──」
「ま、待て待て!結婚するのかッ?!」
大きな一歩で私のすぐ目の前にやってきた菊田に体が仰け反った。たるんだ背筋と腹筋が痛い。体が触れ合いそうなほどに近くて、その分身長差が大きく感じる。圧迫感がすごいのに、後ろは花壇で後ずさることができない。菊田ってこんなに大きかったんだ、と少々ひるみながら口を開いた。
「いや、違うけど」
「そうか……え?あっ、違うのか」
「結婚なんて私には縁のない話だよ」
そうだなとか何とか言って一緒に笑ってくれると思ったのに、菊田が微妙な顔でキュッと口を真一文字に閉ざしてしまったので、私の笑い声だけが車の通りすぎる音やクラクションに紛れて虚しく響いた。勝手に勘違いした上にそういう反応をされると調子が狂う。マネージャー向けのコンプラ教育のせいか?なんなんだよと拳で軽く菊田の脇腹を小突いて、いつもと同じ、体一つ分ほどの距離を取るために横へとズレた。
「私ね、転職するの」
「……それは、これから転職活動するってことか?」
「ううん、さっき内定のメールもらったから来月には辞めるつもり」
「来月……また随分と急だな」
「うーん、割と前から動いてたから自分の中ではそんなでもないよ」
実は年明けから細々と転職活動をしていたから、かれこれもう4ヶ月ほどになる。別に「絶対に転職したい!」という確固たる決意があったわけでもないから、数々のお祈りメールに「やはり私にはここしかないのでは……」と落ち込むこともあった。けど、数週間前に応募した所が、今まで落ちてきたのはこの会社と巡り合うためだったのかもしれない、なんて錯覚してしまうくらい自分のやりたいことと一致していて、雰囲気も良くて、一昨日の最終選考もとても良い手ごたえを感じながら終えることができた。そしてさっき、選考結果のメールを開けて”採用”の二文字が目に入った途端に菊田に声を掛けられたのだ。もし受かったら菊田に一番に伝えなければと思っていたので、タイミング良く後ろから現れた菊田には本当に驚いた。
「そこはちゃんと、その……良い所なのか?」
「うん。うちより規模は小さいけど良い所だよ」
「待遇は?ちゃんと交渉したか?」
「細かいことはまだだけど、求人票に載ってたのを見る分には悪くないよ。給料も上がるし」
「確認してきっちり交渉しないとダメだぞ」
その後も眉間に深い皺を寄せた菊田が「一人で大丈夫か?」「エージェントを使ってるのか?」「完全週休二日制か?」などなど、矢継ぎ早に質問を投げかけてくるので徐々に笑いが込み上げてきた。
「大丈夫だって、なんだかお父さんみたいになってるよ菊田」
「心配なんだよ……やっぱりあれか、あの上司が原因か?」
「まあ、それもあるけど。それだけではないよ」
ここよりも良い場所が見つかっただけ。ただそれだけの話だ。会社の人も通る道であまり長い間立ち止まっていては目立つから、何か言いたげにしている菊田を横目にゆっくりとまた歩き始めた。
「あー……悪い。まずはおめでとうって言うべきだった。動揺して、つい……」
「動揺?」
そんなに?と思わず吹き出して右に視線を向けたら、菊田が真剣な表情をしながら歩いていた。そのゴツゴツとした大きな手で顔の下半分は覆われているけれど、眉と目がいつもよりも近く、瞬きも多い。どうやら本当に動揺しているらしい。転職なんて今どきそんなに珍しくもないのに。周りでも競合他社や全くの別業界に転職していった人たちが何人かいる。それなのにこんなに動揺するのは──
「もしかして菊田、私が居なくなるのが寂しいの?」
いつもの菊田なら「うるせぇ」とか「んな訳あるか」とかすぐに返してくるはずなのに、今日は眉間に皺を寄せたままチラッとこちらを見て来ただけで、すぐに視線を逸らされた。さっきのことといい、本当に調子が狂う。杉元君が出て行ってしまったから、センチメンタルになっているのかもしれない。菊田が寂しがっている、というのはただの冗談だと思っていたけれど、まさか本当に寂しがっていたとは。だって菊田は、いつも私の数歩先を迷いなく歩いているように見えたから。
「それでさ、今の所からだと不便だから引っ越そうと思ってて、菊田の住んでる方面からだと通いやすいからその辺りで探そうと思うんだけど、おすすめの駅とかある?」
まだ細かい日程は決めていないけど、入社はほぼ一か月後になるだろうから、かなり急いで新居を探さなくてはならない。まあ最悪間に合わなくても良いけど、どうせなら新しい場所で人生の門出を迎えたい。「どう?」と聞いてみたら、菊田が口元を覆ったまま足を止めた。「んー……」と考え込んでいる低い声が、手のひら越しに微かに聞こえてくる。
「……なぁ、それならうち来るか」
「え?」
「ノラ坊も出ていって一部屋空いてるし、うちからなら便利なんだろ」
うち来るか。一部屋空いてる。今しがた言われたことが頭の中でふわふわとシャボン玉のように揺蕩って、一気にぱちんと弾けた。
「待って、何言ってるの?杉元君が出ていってセンチメンタルになりすぎてるんじゃない?」
「それもある」
「あるんだ」
真顔でしっかりと肯定してきたのがおかしくて一瞬笑いかけたが、冗談を言っている雰囲気が全くなかったから、ひくっと口角が痙攣したように引きつった。
「まさかミョウジまで居なくなるなんて思ってなかった」
「居なくなるって、別にこれからもご飯食べに行ったりとかできると思うけど……」
「今まで通りとはいかないだろ」
「そうかな……大体、こ、恋人でもないのに、良い大人二人でルームシェアするのは、ちょっと……」
百歩譲って一軒家とかなら広さもあるからまだ分かる。でも菊田のは普通にマンションだ。部屋が余っている、というのだから2LDKとかなのだろう。さすがに付き合ってもいない異性と2LDKのマンションに住むのは抵抗がある。
「恋人ならいいのか」
「まあ恋人なら……ん?」
「ずっと好きだった。付き合ってほしい」
「いや怖い怖い怖い!スピード感がおかしいって!」
揺らぐことなく真っすぐにこちらを射抜いてくる菊田の瞳にぎょっとして、ガツガツとヒールの音を大きく立てながら逃げるように歩き始めた。今のが冗談だったらまだ良かったのに、本気のようなのが一番怖かった。寂しさに菊田がおかしくなっている。「ずっと好きだった」って、いつから?分からない。適当に言っているのでは?そういえばこの間、別れ際に杉元君に「菊田さんのことお願いしますね」って言われたんだっけ。どうしてくれるの杉元君、君の抜けた穴は予想外に大きいよ。私にはちょっと荷が重すぎる。息を切らしながら早歩きで十分な距離を取ったつもりだったのに、すぐに菊田が横についてきた驚きで言葉にならない変な声が溢れ出た。
「前に同期の中なら俺が良いって言ってただろ」
「はぁ?!言ってない!何それ!」
「言ってた」
「言ってないって!」
嘘だ。本当は言っていた覚えがある。しかも何度か。菊田はいなかったはずなのになんで知ってるんだ。それに、「ミョウジさんって菊田さんと仲良いですよね?付き合ってるんですか?」と周りの人たちに興味津々に質問される度に若干の優越感を感じながら「ただの同期だよ」と返すこともしていた。菊田とは本当に何もないのにちょっと困ったように笑えばみんなそれぞれ好き勝手想像していくのが面白いな、とか思っていた罰が今返ってきたんだと思う。本当にごめんなさい。もうしません。大学で付き合っていた人とは入社してすぐに分かれてしまって、そこから恋愛なんて全くしてこなかったから、私はそういったセコい形でしか恋愛関連の土俵に立っていられない人間だ。安全な後方で得意げに腕組みをしているのを楽しんでいたのに、今急に前線に引っ張り出されてしまって怖くて怖くて堪らない。正直ここが外とか関係なく泣き出したいくらいだったけれど、なけなしの気力と勇気を振り絞り、見栄を張るために息を大きく吸い込んだ。
「寂しいからって、手頃な相手って思われるのは本当に嫌」
「そんなこと思ったことねぇよ」
怒ったような強めの語気に思わず足が止まった。いつの間にかまたぐっと距離が縮まっていて、私の視界は菊田の濃紺のジャケットと、近くで見たら細かいチェック模様だった焦げ茶のネクタイと、白いワイシャツに占領されていた。
「……ずっと、言えなかっただけだ」
壁のような体の割に、とても小さい声が上から降ってきた。
「大体、遊び目的ならうちに来いなんて言うわけないだろ」
「へぇ……そうなんだ」
「あっ、いや、俺がって話じゃなくて!一般論だ、一般論!」
「へぇ……」
顔を見ることなくまた歩き出した私の後ろから「違う!」とか色々言っているのが聞こえて来た。入社してから彼女が居るとか居ないとか、たまに風の噂で聞くことはあったけど、そういえば最近はそういうのは全然聞かなくなった。女性人気もあるけど遊んでいるとか悪い噂は一度も聞いたことがない。多分それもあって人気なのだろう。だから確かに、さっきのは一般論として菊田は言ったのだろうけど、あまり聞いていて良いものではないし、私たちが知らないだけで菊田にもそういう関係の人もいたのかな、とか一瞬でも想像してしまった自分が嫌だった。
「待ってくれ」
グイっと後ろから右腕を掴まれて、よろけた体が菊田の体にぶつかった。スーツ越しに感じる筋肉質な体に大きく心臓が跳ねて体が強張った。近い。近すぎる。重心が変な所にあって、逃げるための咄嗟の一歩が踏み出せずにいると、菊田が私の腕をしっかりと掴んだまま話し始めた。
「恋愛は良いって言ってたから、それなら同期としてずっとミョウジの側に居たいと思ってた」
「きゅ、急にそんなこと言われても困る」
「早く上に行きたかったのも、あのクソ野郎をミョウジから引き剥がしてやりたかったからだ」
「別にそんなことしてもらわなくても……」
「分かってる、全部俺の自己満だ。そんなことしなくたってお前はやっていける。でも、頑張るために何か理由が欲しかった」
菊田とは何度もご飯とお酒と一緒に、仕事のことや将来のこと、趣味のことやどうでも良いことを沢山語り合ってきたはずなのに、さっきから聞こえてくるのは初めてのことばかりで、私はこの男のことを何も分かっていなかったのだと思い知らされる。私は、今まで菊田の何を見ていたのだろう。この人は、本当に私が入社してから一緒に過ごしてきた人なのだろうか。恐る恐る顔を上げたら、そこには貧相な星空と明るい街灯をバックに私を見下ろしてくる菊田の緊張した顔があった。
「ミョウジがいないとダメなんだ」
眉を下げながら、しおらしく紡がれた言葉が耳に届いた。先ほどあんなに真っすぐに力強く告白してきた人とは思えないほどに、その瞳は不安に揺れていた。そんな顔をされてしまっては、突き放すこともできない。
「……情けないね」
「ああ」
「下の子たちが知ったら幻滅するんじゃない?」
「こんな情けない姿、お前にしか見せらんねぇよ」
ずるいなぁ。本当にずるい。力なく笑った菊田は、本当に情けない顔をしていた。こんな顔、会社では絶対に見せないだろう。私だって今初めて見た。最後に一度だけ私の腕を掴む手に力を込めてから、菊田がゆっくりと手を離した。
「だからこれからのこと、ちゃんと考えといてくれねぇか」
大通りを通過する数多のヘッドライトが瞬いている菊田の瞳は、あの日ばったり出会った杉元君を彷彿とさせて、私たちの人生もまだまだ夢や希望で溢れているのかもしれないと思った。
2025.04.20
