短編
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「ナマエは結婚してるのか?」
「まさかぁ、兄も姉も結婚して子供もいるので私は自由にやらせてもらってます」
暑さも和らいできたある日、父の代から取引が続いているアイヌコタンに色々と頼まれていた商品を届けに来たら、見知らぬ男に話しかけられた。この辺りの人ではないなと思ったら、なんでも旭川の方から来ているらしく、このコタンにはあと数日ほど滞在するらしい。向こうの話などで盛り上がっている最中に、唐突に投げかけられた質問に何とか笑って答えることができたが、内心辟易としていた。
「じゃあ俺と結婚しないか?」
「すみません、出会ってすぐの人とはちょっと」
それに今は仕事が楽しいので、と手早く荷物をまとめて出発する準備を進めた。特に食い下がることもなく、笑って一言「そうか」と男が返してきたのが唯一の救いだった。
私はあまりこの手の話をするのが好きじゃない。特に、最近はお節介な人たちに結婚しないのか、良い人を紹介しようかと耳にタコができるほど言われていたので正直うんざりしていた。私の人生なんだから放っておいてほしいのに、みんな何故そんなに構うのだろう。何故そんなにも結婚結婚と言うのだろう。「好きにしたら良いと思うけど、色々言われたくないのなら早く結婚するのが一番手っ取り早いよ」と姉さんに役に立たない助言をされたのも記憶に新しい。「誰と?」と反射的に返したらニヤニヤと意味深に笑うだけだったのが憎たらしかった。良い年してフラフラして、なんて家族に言われずにここまで自由にさせてもらえているのはありがたいけど、いかんせん周りががうるさすぎる。姉の言うように、結婚するしかこの地獄を終わらせる方法はないのだろうか。
でも、誰と。兄さんも姉さんも、親戚の紹介であまり面識のない人と結婚して幸せそうにしているけど、私は知らない人は嫌だ。しかしそうなると、かなり候補が絞られてしまう。白熊 無断転載禁止
「ナマエ、送っていく」
視界の端で猟銃を下げたキラウシが近づいてきているなと思ったら、私たちの隣で止まった。
「まだ暗くならないから一人でも大丈夫だよ」
「いいから、早く」
「はいはい」
男やほかの村人たちにも別れを告げて、私の荷物を担いで早々に歩き出していたキラウシの後を追った。「ナマエまたね!」という元気な声に振り返れば、子供たちが大きく手を振っていたので、私も見えなくなるまで手を振り返した。昔、キラウシともこんな風に別れていたな、と懐かしい気持ちになる。
キラウシとは子供時代からの付き合いだ。父の仕事を手伝うようになってからだから、幼馴染とは言えないけれど、そこそこ長い付き合いだ。歳も近く、どちらも末っ子で、なんとなく一緒にいると楽しくて落ち着くから、父がこのコタンに行く時は必ずと言って良いほど一緒に来てキラウシと遊んでいた。歳を重ねるにつれて昔の頃のように遊ぶことはなくなったけど、今でもこうやって付き合いは続いているし、コタンを訪れればキラウシは毎回律儀に私のことを近くまで送ってくれる。森を抜けるとはいえ、自宅とコタンをもう何度も行き来していて、暗くても目を瞑っていても帰ることはできるのに。でもこうやって二人で歩きながら、寄り道しながら、とりとめのない話をする時間が大好きだった。最近のもっぱらの話題は、先日からこの辺りに滞在している二瓶さんという凄腕の猟師の話だった。
今日も二瓶さんの嘘みたいな武勇伝が聞けるだろうかと楽しみにしていたのに、今日のキラウシはなんだかいつもと様子が違った。いつもは私のすぐ近くを歩いているのに、今日は振り返ることもなく、常に数歩前を歩き続けている。会話もなくて、私たちが地面と枯れ枝を踏みしめる音や、木々の揺れる音や、動物たちの声がよく聞こえる。どこか虫の居所が悪いのだろうか。そういえばさっき会話をした時、いつもよりもほんの少しだけ言い方がつっけんどんで不機嫌そうだった。何も話さないまま、だだ送られるなんてことは今までなかったから、何かあったのだろうかとモヤモヤとしたわだかまりが胸に芽生え始める。そのモヤモヤは、他の不安や不満を餌にやがて大きく膨らんでいき、不必要な考えまで呼び起こす。いつかキラウシも私も結婚して、今までみたいに気軽に会って話すこともできなくなるんだろうか。どんどん小さくなっていく背中を見て思った。
そんなの、寂しい。
キラウシは結婚しないの、と思わず声に出しそうになって口を噤んだ。キラウシも私と同じで耳にタコができるくらい何百回と言われているであろうことを、わざわざ言う必要なんてないと思ったからだ。今、私が抱いているモヤモヤをキラウシにまでうつす必要はない。それに、聞いたところで一体どうしようというんだろう。「する」と言われたら誰と?という大きな疑問が出てくるし、「しない」と言われたらそれはそれでなんだか気まずい。俯いたまま歩き続けていたから、前を歩いていたキラウシが足を止めていることに気づかなかった。
「ナマエは……」
思ったよりも近くで声がして顔を上げれば、すぐ目の前にキラウシが居た。やっと話し掛けてくれたと思ったのに、目が合った途端、言葉が詰まったように止まってしまった。その後も視線を忙しなく動かしながら、言葉を探しているようで、別に機嫌が悪くて沈黙を貫いていた訳ではないようだった。しかしこんなに歯切れの悪いキラウシは珍しい。いつもははっきりと、たまにびっくりするくらい真っ直ぐに言葉をぶつけてくるのに。どうしたの?と促せば、やっと重い口を開いて、キラウシが私に意外な質問を投げかけてきた。
「ナマエはあいつと結婚するのか」
「え?しないよ、するわけないじゃん。さっき会ったばかりなのに、嫌だよ」
「そうか」
わざわざ勿体ぶってまでそんなことを聞いてきたというのにそっけなく返されて、なんだか拍子抜けだった。
「……それを言うならキラウシだって」
また一人で前を歩き始めたキラウシに向かって呟いた言葉は、聞こえていたのか分からないくらい、自分でも驚くほど小さくて拗ねたような声だった。
「キラウシは結婚したいとか思ったことある?」
迷った末に思い切って聞いてみれば、急に渋い顔をしてキラウシが振り返った。
「するならウヤユクテが良い」
「うや……何?人の名前?えっ?!嘘、誰?!」
そんな人居たっけ?違うコタンの人かもしれない、とドキドキざわざわする胸の鼓動にせき立てられるがままキラウシを追いかけて「誰?どんな人?どこに住んでるの?!」と矢継ぎ早に問い詰めた。そんな私にキラウシは益々渋い顔をした。
「エアニ パテク アヤイコトムカ」
「……どういう意味?」
日常や仕事で使えるアイヌ語は教えてもらってはいるけど、よく分からなかった。"エアニ"は"あなた"とかそういう意味、つまり私のことを指しているのだけど、その後がさっぱり分からない。「お前には関係ないだろう」とか?いや、それなら普通に伝えてくるはずだ。いつも聞いたらすぐに丁寧に教えてくれるのに、キラウシはジトっとした視線を向けてきたと思ったら、口元をへの字にしたまま、また歩き始めてしまった。教えてくれるつもりはないらしい。ずっと前を歩かれているのもあるけど、今日はそれ以上に何だか心の距離を感じてしまう。
「ねぇ、待って!今日のキラウシ変だよ。ねぇって……わっ?!」
ずんずんと進んで行くキラウシを追いかけようとして、木の根に足が引っかかった。ずざざっと派手に地面に転がった私に気づいたキラウシが、猟銃と荷物を放り投げて血相を変えて戻ってきた。
「ナマエ!大丈夫か?!」
「……痛い」
擦り切れた手のひらはジンジンと熱く、薄っすらと血が滲んでいた。抱き起こされてズキっと痛んだ右肘を見れば、どこかに引っ掛けたのか、着物ごとざっくりと切れた皮膚から血がたらたらと流れ出ていた。
「い、痛い……」
「泣くな、大丈夫だ。そこまで深くない」
「し、死んじゃう?」白熊 無断転載禁止
「死なない」
こんなに痛いのに?とボロボロと泣きながらズキズキと痛む肘を見れば、キラウシが慌てて傷口にマタンプシを巻いていた。その手は少し震えていた。なんでもないように受け答えをしていたくせに、キラウシだって動揺しているのだと分かった驚きに少し気分が落ち着けば、代わりにさっきまで押さえつけていたモヤモヤが一気に爆発した。
「キラウシ結婚しちゃうの……?だから今日変なの?」
「は……?」
「……っ、もう会えない?」
会えなくなるのは嫌だ。もっと色んなことを話したい。なんで私の知らない誰かと結婚しちゃうの。言いたいことは沢山あるのに、言葉にするのが追いつかなくて、痛みともどかしさに呻く私の頭をキラウシがわしゃわしゃと大きく撫でた。
「結婚しない。まだ会える」
「え?じゃあ、ウヤ……なんとかさんは?」
「人じゃない」
人じゃない、って何?カムイ?えっ、どういうこと?混乱する私に、もうこの話は終わりだと言うようにキラウシが「立てるか」と手を差し伸べてきた。左手で掴めば、その手は思っていたよりも大きくて、驚いているうちに力強く引っ張られて、あっという間に立たされた。
「ごめんなさい、マタンプシ汚しちゃった……」
「気にするな、いつでも代わりは作れる」
お姉さんが作っている物なのに、まるで自分で作っているかのように答えたキラウシがおかしくて、少しずつ笑いが込み上げてきた。「自分で作ってないのに」と、涙が乾き切る前に笑い始めた私をキラウシが一瞬ぽかんと見ていたが、すぐに少し怒ったように私の肩を掴んだ。
「ナマエの代わりはないだろう。これくらいなんでもない」
「えっ、あっ……うん、ごめんなさい……」
真っ直ぐに伝えられた言葉に恥ずかしさが込み上げてきて、咄嗟にまだ痛む肘に視線を落とした。深い藍色が所々血で黒く染まっている。繊細で美しい刺繍にも血が滲んで台無しにしてしまっている。折角素敵な物だったのに。いくら代わりのを作れるとはいえ、お姉さんに申し訳ない。そんなことをこぼせば、キラウシが少し視線を彷徨わせて迷った末に口を開いた。
「……ナマエが作ってくれても良いんだ」
「え?」
「新しいの」
肘に巻かれたマタンプシにそっと触れながらキラウシが小さめの声で言った。テクンペでも良い、と私を見てきたキラウシの眉間には少しの皺が寄っていて、いつもは隠されている眉が下がり気味だった。どこか不満げで、不安そうな顔なのに、耳がほんのりと赤い。長い付き合いで初めて見る顔に、新しいマタンプシやテクンペという言葉に隠された意味をようやく理解して、私にも一気に熱が伝染した。
「そ、それって……」
「エアニ アヤイコトムカ」
また分からないアイヌ語だ。さっきと似ているけどちょっと違う。でも今度はぎゅっと、両手を包み込むようにキラウシに握られながら言われて、何を言われているのか悟った。ぶわっと毛が逆立つような感覚がして、慌てて手を離そうとしたのに更に握り込まれてしまった。
「キラウシっ、ちょ、ちょっと待って……!」
「待たない」
「そ、そんな急に言われたらっ……!」
「急じゃない、ずっと思ってた」
ずっと?!私の素っ頓狂な声が森にこだまして、鳥たちが騒がしく羽ばたいた。どくどくどくと心臓が破裂しそうな勢いで動いているせいで傷口が酷く痛む。このままでは失血か心不全で死んでしまう。
「ナマエが知らない奴と結婚するのは嫌だ」
さっき私がキラウシに思ったことと同じようなことを言われて、姉さんのニヤニヤとした笑顔が急に頭に浮かんだ。誰と、なんて本当はずっと、心の底では一人しかいないと分かっていた。でも、それは、ただの希望で。現実になるにはちょっと急すぎて。逃げようにも大きな手に捕まってその場から一歩も動けない。「待って、心の準備が!」とバタバタと大騒ぎしている私と比べてやけに落ち着いたキラウシが、少し腰を屈めて目線を合わせてきた。耳を真っ赤に染めながら目元を緩めた顔がよく見えて、まだ何も言われていないのにまた涙が溢れ始めた。
「俺は、ナマエと結婚したい」
──
ウヤユクテ(恋愛結婚)
エアニ パテク アヤイコトムカ(結婚したいのはあなただけ)
エアニ アヤイコトムカ(あなたと結婚したい)
2024.09.04
「まさかぁ、兄も姉も結婚して子供もいるので私は自由にやらせてもらってます」
暑さも和らいできたある日、父の代から取引が続いているアイヌコタンに色々と頼まれていた商品を届けに来たら、見知らぬ男に話しかけられた。この辺りの人ではないなと思ったら、なんでも旭川の方から来ているらしく、このコタンにはあと数日ほど滞在するらしい。向こうの話などで盛り上がっている最中に、唐突に投げかけられた質問に何とか笑って答えることができたが、内心辟易としていた。
「じゃあ俺と結婚しないか?」
「すみません、出会ってすぐの人とはちょっと」
それに今は仕事が楽しいので、と手早く荷物をまとめて出発する準備を進めた。特に食い下がることもなく、笑って一言「そうか」と男が返してきたのが唯一の救いだった。
私はあまりこの手の話をするのが好きじゃない。特に、最近はお節介な人たちに結婚しないのか、良い人を紹介しようかと耳にタコができるほど言われていたので正直うんざりしていた。私の人生なんだから放っておいてほしいのに、みんな何故そんなに構うのだろう。何故そんなにも結婚結婚と言うのだろう。「好きにしたら良いと思うけど、色々言われたくないのなら早く結婚するのが一番手っ取り早いよ」と姉さんに役に立たない助言をされたのも記憶に新しい。「誰と?」と反射的に返したらニヤニヤと意味深に笑うだけだったのが憎たらしかった。良い年してフラフラして、なんて家族に言われずにここまで自由にさせてもらえているのはありがたいけど、いかんせん周りががうるさすぎる。姉の言うように、結婚するしかこの地獄を終わらせる方法はないのだろうか。
でも、誰と。兄さんも姉さんも、親戚の紹介であまり面識のない人と結婚して幸せそうにしているけど、私は知らない人は嫌だ。しかしそうなると、かなり候補が絞られてしまう。白熊 無断転載禁止
「ナマエ、送っていく」
視界の端で猟銃を下げたキラウシが近づいてきているなと思ったら、私たちの隣で止まった。
「まだ暗くならないから一人でも大丈夫だよ」
「いいから、早く」
「はいはい」
男やほかの村人たちにも別れを告げて、私の荷物を担いで早々に歩き出していたキラウシの後を追った。「ナマエまたね!」という元気な声に振り返れば、子供たちが大きく手を振っていたので、私も見えなくなるまで手を振り返した。昔、キラウシともこんな風に別れていたな、と懐かしい気持ちになる。
キラウシとは子供時代からの付き合いだ。父の仕事を手伝うようになってからだから、幼馴染とは言えないけれど、そこそこ長い付き合いだ。歳も近く、どちらも末っ子で、なんとなく一緒にいると楽しくて落ち着くから、父がこのコタンに行く時は必ずと言って良いほど一緒に来てキラウシと遊んでいた。歳を重ねるにつれて昔の頃のように遊ぶことはなくなったけど、今でもこうやって付き合いは続いているし、コタンを訪れればキラウシは毎回律儀に私のことを近くまで送ってくれる。森を抜けるとはいえ、自宅とコタンをもう何度も行き来していて、暗くても目を瞑っていても帰ることはできるのに。でもこうやって二人で歩きながら、寄り道しながら、とりとめのない話をする時間が大好きだった。最近のもっぱらの話題は、先日からこの辺りに滞在している二瓶さんという凄腕の猟師の話だった。
今日も二瓶さんの嘘みたいな武勇伝が聞けるだろうかと楽しみにしていたのに、今日のキラウシはなんだかいつもと様子が違った。いつもは私のすぐ近くを歩いているのに、今日は振り返ることもなく、常に数歩前を歩き続けている。会話もなくて、私たちが地面と枯れ枝を踏みしめる音や、木々の揺れる音や、動物たちの声がよく聞こえる。どこか虫の居所が悪いのだろうか。そういえばさっき会話をした時、いつもよりもほんの少しだけ言い方がつっけんどんで不機嫌そうだった。何も話さないまま、だだ送られるなんてことは今までなかったから、何かあったのだろうかとモヤモヤとしたわだかまりが胸に芽生え始める。そのモヤモヤは、他の不安や不満を餌にやがて大きく膨らんでいき、不必要な考えまで呼び起こす。いつかキラウシも私も結婚して、今までみたいに気軽に会って話すこともできなくなるんだろうか。どんどん小さくなっていく背中を見て思った。
そんなの、寂しい。
キラウシは結婚しないの、と思わず声に出しそうになって口を噤んだ。キラウシも私と同じで耳にタコができるくらい何百回と言われているであろうことを、わざわざ言う必要なんてないと思ったからだ。今、私が抱いているモヤモヤをキラウシにまでうつす必要はない。それに、聞いたところで一体どうしようというんだろう。「する」と言われたら誰と?という大きな疑問が出てくるし、「しない」と言われたらそれはそれでなんだか気まずい。俯いたまま歩き続けていたから、前を歩いていたキラウシが足を止めていることに気づかなかった。
「ナマエは……」
思ったよりも近くで声がして顔を上げれば、すぐ目の前にキラウシが居た。やっと話し掛けてくれたと思ったのに、目が合った途端、言葉が詰まったように止まってしまった。その後も視線を忙しなく動かしながら、言葉を探しているようで、別に機嫌が悪くて沈黙を貫いていた訳ではないようだった。しかしこんなに歯切れの悪いキラウシは珍しい。いつもははっきりと、たまにびっくりするくらい真っ直ぐに言葉をぶつけてくるのに。どうしたの?と促せば、やっと重い口を開いて、キラウシが私に意外な質問を投げかけてきた。
「ナマエはあいつと結婚するのか」
「え?しないよ、するわけないじゃん。さっき会ったばかりなのに、嫌だよ」
「そうか」
わざわざ勿体ぶってまでそんなことを聞いてきたというのにそっけなく返されて、なんだか拍子抜けだった。
「……それを言うならキラウシだって」
また一人で前を歩き始めたキラウシに向かって呟いた言葉は、聞こえていたのか分からないくらい、自分でも驚くほど小さくて拗ねたような声だった。
「キラウシは結婚したいとか思ったことある?」
迷った末に思い切って聞いてみれば、急に渋い顔をしてキラウシが振り返った。
「するならウヤユクテが良い」
「うや……何?人の名前?えっ?!嘘、誰?!」
そんな人居たっけ?違うコタンの人かもしれない、とドキドキざわざわする胸の鼓動にせき立てられるがままキラウシを追いかけて「誰?どんな人?どこに住んでるの?!」と矢継ぎ早に問い詰めた。そんな私にキラウシは益々渋い顔をした。
「エアニ パテク アヤイコトムカ」
「……どういう意味?」
日常や仕事で使えるアイヌ語は教えてもらってはいるけど、よく分からなかった。"エアニ"は"あなた"とかそういう意味、つまり私のことを指しているのだけど、その後がさっぱり分からない。「お前には関係ないだろう」とか?いや、それなら普通に伝えてくるはずだ。いつも聞いたらすぐに丁寧に教えてくれるのに、キラウシはジトっとした視線を向けてきたと思ったら、口元をへの字にしたまま、また歩き始めてしまった。教えてくれるつもりはないらしい。ずっと前を歩かれているのもあるけど、今日はそれ以上に何だか心の距離を感じてしまう。
「ねぇ、待って!今日のキラウシ変だよ。ねぇって……わっ?!」
ずんずんと進んで行くキラウシを追いかけようとして、木の根に足が引っかかった。ずざざっと派手に地面に転がった私に気づいたキラウシが、猟銃と荷物を放り投げて血相を変えて戻ってきた。
「ナマエ!大丈夫か?!」
「……痛い」
擦り切れた手のひらはジンジンと熱く、薄っすらと血が滲んでいた。抱き起こされてズキっと痛んだ右肘を見れば、どこかに引っ掛けたのか、着物ごとざっくりと切れた皮膚から血がたらたらと流れ出ていた。
「い、痛い……」
「泣くな、大丈夫だ。そこまで深くない」
「し、死んじゃう?」白熊 無断転載禁止
「死なない」
こんなに痛いのに?とボロボロと泣きながらズキズキと痛む肘を見れば、キラウシが慌てて傷口にマタンプシを巻いていた。その手は少し震えていた。なんでもないように受け答えをしていたくせに、キラウシだって動揺しているのだと分かった驚きに少し気分が落ち着けば、代わりにさっきまで押さえつけていたモヤモヤが一気に爆発した。
「キラウシ結婚しちゃうの……?だから今日変なの?」
「は……?」
「……っ、もう会えない?」
会えなくなるのは嫌だ。もっと色んなことを話したい。なんで私の知らない誰かと結婚しちゃうの。言いたいことは沢山あるのに、言葉にするのが追いつかなくて、痛みともどかしさに呻く私の頭をキラウシがわしゃわしゃと大きく撫でた。
「結婚しない。まだ会える」
「え?じゃあ、ウヤ……なんとかさんは?」
「人じゃない」
人じゃない、って何?カムイ?えっ、どういうこと?混乱する私に、もうこの話は終わりだと言うようにキラウシが「立てるか」と手を差し伸べてきた。左手で掴めば、その手は思っていたよりも大きくて、驚いているうちに力強く引っ張られて、あっという間に立たされた。
「ごめんなさい、マタンプシ汚しちゃった……」
「気にするな、いつでも代わりは作れる」
お姉さんが作っている物なのに、まるで自分で作っているかのように答えたキラウシがおかしくて、少しずつ笑いが込み上げてきた。「自分で作ってないのに」と、涙が乾き切る前に笑い始めた私をキラウシが一瞬ぽかんと見ていたが、すぐに少し怒ったように私の肩を掴んだ。
「ナマエの代わりはないだろう。これくらいなんでもない」
「えっ、あっ……うん、ごめんなさい……」
真っ直ぐに伝えられた言葉に恥ずかしさが込み上げてきて、咄嗟にまだ痛む肘に視線を落とした。深い藍色が所々血で黒く染まっている。繊細で美しい刺繍にも血が滲んで台無しにしてしまっている。折角素敵な物だったのに。いくら代わりのを作れるとはいえ、お姉さんに申し訳ない。そんなことをこぼせば、キラウシが少し視線を彷徨わせて迷った末に口を開いた。
「……ナマエが作ってくれても良いんだ」
「え?」
「新しいの」
肘に巻かれたマタンプシにそっと触れながらキラウシが小さめの声で言った。テクンペでも良い、と私を見てきたキラウシの眉間には少しの皺が寄っていて、いつもは隠されている眉が下がり気味だった。どこか不満げで、不安そうな顔なのに、耳がほんのりと赤い。長い付き合いで初めて見る顔に、新しいマタンプシやテクンペという言葉に隠された意味をようやく理解して、私にも一気に熱が伝染した。
「そ、それって……」
「エアニ アヤイコトムカ」
また分からないアイヌ語だ。さっきと似ているけどちょっと違う。でも今度はぎゅっと、両手を包み込むようにキラウシに握られながら言われて、何を言われているのか悟った。ぶわっと毛が逆立つような感覚がして、慌てて手を離そうとしたのに更に握り込まれてしまった。
「キラウシっ、ちょ、ちょっと待って……!」
「待たない」
「そ、そんな急に言われたらっ……!」
「急じゃない、ずっと思ってた」
ずっと?!私の素っ頓狂な声が森にこだまして、鳥たちが騒がしく羽ばたいた。どくどくどくと心臓が破裂しそうな勢いで動いているせいで傷口が酷く痛む。このままでは失血か心不全で死んでしまう。
「ナマエが知らない奴と結婚するのは嫌だ」
さっき私がキラウシに思ったことと同じようなことを言われて、姉さんのニヤニヤとした笑顔が急に頭に浮かんだ。誰と、なんて本当はずっと、心の底では一人しかいないと分かっていた。でも、それは、ただの希望で。現実になるにはちょっと急すぎて。逃げようにも大きな手に捕まってその場から一歩も動けない。「待って、心の準備が!」とバタバタと大騒ぎしている私と比べてやけに落ち着いたキラウシが、少し腰を屈めて目線を合わせてきた。耳を真っ赤に染めながら目元を緩めた顔がよく見えて、まだ何も言われていないのにまた涙が溢れ始めた。
「俺は、ナマエと結婚したい」
──
ウヤユクテ(恋愛結婚)
エアニ パテク アヤイコトムカ(結婚したいのはあなただけ)
エアニ アヤイコトムカ(あなたと結婚したい)
2024.09.04
