短編
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「いらっしゃいませ菊田さん!」
暖簾をくぐったと同時に、ちょうど入口近くに居たミョウジさんの明るく朗らかな笑顔に出迎えられた。昼には少し遅めの時間だというのに店内はそれなりの賑わいを見せていて、ガヤガヤと療養中の兵士たちの話し声で騒がしい。
「来てくれて嬉しいです」
ニコニコと満面の笑みでそんなことを言われたら、勘違いしてしまう。上手いこと返せなくて、悔しい思いを抱えながら案内された席に座れば、ミョウジさんが隣で「日替わりは鴨南蛮です」と伝えてきた。
「何にしましょうか?」
「ニシン蕎麦で」
「はい、ニシン蕎麦ひとつー!」
周りの騒音にかき消されないよう、ミョウジさんが声を張り上げて裏の親父さんへと注文を通した。そのハキハキと良く通る声に周りからも「元気だなぁ」「こっちも負けてらんねぇぞ」などと声が上がっていき、ミョウジさんが少し恥ずかしそうにはにかんだ。いつも元気で明るいミョウジさんは、この食堂の看板娘だった。
「相変わらず繁盛してますね」
「第七師団の皆様のお陰ですよ」
ふふ、と口元を隠しながらミョウジさんがイタズラっぽく笑った。他にも食事が出来るところはいくらでもあるが、この食堂が兵士の間で一番人気なのは間違いなくミョウジさんが理由だろう。見ていて気持ちの良いくらい溌溂と動き回っていたと思ったら、急に小悪魔的なことを言ったり、屈託のない少女のような一面を覗かせる。コロコロと変わる表情は見ていて飽きないし、働き者で、俺たちの何でもない世間話にも付き合ってくれる優しさも持ち合わせている。そんな彼女に、店を出る時に「また来てくださいね」「待ってます」なんてことを笑顔で言われてしまっては、何度だって足を運んでしまうに決まっている。宿でも兵士たちの間でミョウジさんの話題が上がることはザラだった。
「お待たせしました。ニシン蕎麦です」
「ありがとうございます」
運ばれてきた熱々の蕎麦を食べ進めていくうちに、先に居た兵士たちが一人また一人と去っていき、店内の人影もまばらになっていく。そうなると、否が応でも聞こえてきてしまうのが店内の会話だ。
「──ナマエさん、良ければ今度ご飯でもどうですか」
別に聞き耳を立てている訳ではなかったのに、緊張した若い兵士の声が耳に入ってきてしまった。見覚えがある。最近ここにやってきた一等卒だ。その後ろから二人の兵士がニヤニヤと見守っていることから、大方そそのかされたか、三人で話しているうちに気が大きくなって声をかけてしまったのだろうと推察できた。
「すみません、この頃は忙しくて……」
「自分はこの通り時間が余っています。いつでも合わせられます」
「あ、でも、ちょっといつになるのか分からないので……」
ミョウジさんが角が立たないようにやんわりと断っているにも関わらず、あの一等卒は気づいているのかいないのか、食い下がって離れない。大丈夫かとミョウジさんの顔を盗み見れば、困ったように彷徨わせていた視線がかち合って、すぐに逸らされた。別に療養中に何をしようが勝手だろうが、流石にいつも世話になっている人に迷惑をかけているのを見過ごすわけにはいかなかった。最後の一口を食べ終えて、箸を置いた。
「おい、そこら辺にしとけ」
「き、菊田特務曹長……」
「困ってるだろ、そういうのはよそでやれ。ここは飯を食うところなんだよ」
一等卒の青ざめた顔が一瞬で赤くなった。後ろの奴らもバツが悪そうにソワソワと落ち着かない様子だ。まあ声を掛けたくなるのも分からなくもないんだがな。
「……抜け駆けすると周りの奴らに何されるか分からんぞ」
ほら帰った帰った、と背中を押して一等卒たちを店の外に追いやった。さっきまで騒いでいた奴らが居なくなって、店内がやけに静かに感じた。
「すみません、うちのが迷惑をかけました」
「いえ、こちらこそすみません菊田さん。ありがとうございます」
「こういうことは良くあるんですか」
「たまに……」白熊 無断転載禁止
少し目を泳がせて紡がれた言葉に、良くあることなんだなと思った。やることの限られているこんな場所では、ミョウジさんに迷惑をかけることくらいでしか時間を潰すことができないんだろう。
「すみません、良く言っておきますんで」
これお代です、と小さな手のひらに小銭を乗せれば、手元に視線を落としたままのミョウジさんが何かを言おうと少し口を開き、また閉ざした。何故だかその頬に少しだけ赤みが差していることに気づいて、どきりと心臓が大きく跳ねた。
「……また来てくださいね、待ってますから」
ぎゅうっと小銭を握った手が胸元に寄せられて、いつもの笑顔で見上げられた。社交辞令だと分かっていても、その笑顔が俺以外にも向けられていると分かっていても、仕舞い込んだはずの淡い期待や浅ましい気持ちが大きくなっていく。いつもよりも頬が紅潮している分、眼前の存在に心を乱される。
ミョウジさんは知らないだろう、俺もあの一等卒となんら変わらないことを。むしろ声を掛けた分、”ナマエさん”と呼んでいる分、アイツは俺よりも度胸があって男らしいのかもしれない。抜け駆けされるのが一番面白くないと思っているのは俺なのに、回りくどい言い方でしか牽制することしかできない。
「また来ます」
今日もそんな言葉しか捻り出せずに、暖簾をくぐった。
*
この登別温泉が軍の療養地に指定されてから、この辺りは驚くほどに活気付いた。それまでは客も居なければ体もつらいし、もう潮時かもしれないと店を畳もうとしていた父が、生き生きと働く姿をまた見られて私も嬉しい限りだ。最初は、陸軍最強と謳われた第七師団がやってくると聞いてどんなならず者たちが来るのかと戦々恐々としていたが、実際に会ってしまえば良い意味で普通な人達ばかりだった。皆さん、お国のために戦って傷ついた体をただここに癒しに来ているだけなのだ。そんな皆さんのために、私もできる限りのことをしなければ、と毎日頑張る日々が続いていた。白熊 無断転載禁止
「あっ」
店の前で掃き掃除をしていたら、少し先に見慣れた姿を見つけて、思わず小さな声が漏れ出た。菊田さんだ。こちらへと近づいて来る姿に、慌てて視線を落として箒を忙しなく動かし始めた。待ち構えているなんて知られたら恥ずかしくて、菊田さんのことに全く気づいていないふりをして。
出会った時からなんとなく、物腰が柔らかくて、私にも丁寧に接してくれるところが素敵だなと思っていた。最初は店内でちょこっと世間話をするだけだったのに、それがいつからか目で追うようになって、ついには毎日来るだろうかと期待するようになってしまった。こうやって店先に出ている時は、通りに菊田さんが居ないか探してしまうし、店内にいる時は入口近くで待機して、一番に挨拶ができるようにしてしまう。もうそんな歳でもないというのに、少女のように心を弾ませている自分が恥ずかしい。
そろそろ近くまで来ている頃だろうか。声をかけられずに通り過ぎられたらどうしよう。恐る恐る顔を上げれば、先ほどよりも随分と近づいてきていた菊田さんとすぐに目があった。声をかけるにはちょうどいい距離だった。
「あっ、こんにちは菊田さん!」
まるで今初めて菊田さんの存在に気づいたように声を掛けた。自分でも驚くほどに自然な声だった。「こんにちは、ミョウジさん」と軽く会釈をしながら私の方へと近づいてくる菊田さんに鼓動がどんどん早くなっていく。無意識にぎゅっと箒の柄を握る手に力が入っていた。
「今日は寄っていかないんですか?」
「すみません、別の所で済ませてしまいました」
「あら残念。浮気されちゃった」
菊田さんが困ったように笑った。こうやって反応に困る姿が可愛らしくて、ついついちょっとだけ踏み込んだ冗談を言ってしまう。他の兵隊さんと一緒にいる時はしゃんとして、特務曹長だという階級に見合った雰囲気を醸し出しているのに、私と話している時に垣間見せる優しくて穏やかな顔が大好きだった。
「あれからどうですか、嫌な目に遭っていませんか」
「ええ、大丈夫です」
「良かったです。何かあったらすぐに言ってください」
上官という立場の責任感から出ている言葉なんだろう。菊田さんのことだから、私が嫌な思いをしていないか、本当に心配してくれているのだろう。でも、真剣に伝えられた言葉が少しむず痒かった。
菊田さんは、抜け駆けしてくれないんですか。
先日助けてもらった時に胸の奥の奥にしまい込んだ言葉が、ドンドンと出たそうに扉をうるさく叩いている。流石にこんなことを言ってしまったら、もう来てくれなくなるかもしれない。もう何人も常連客を見送ったし、菊田さんだっていつかこの地を離れてしまうのだ。ここには一時的にしかいないのならば、せめてその間だけでもなるべく長く、楽しく一緒に居たかった。目に見えて分かる不調はなさそうだけれど、その服の下に戦争で負った深い傷が隠されていると思うと胸が締め付けられる。ここを離れるということは、それだけその傷が癒えたということなのだから喜ばしいことなのに。頭では分かっていても、過ごす時間が増えるにつれて、ずっとここに居て欲しいという身勝手で我儘な気持ちがどんどん膨れ上がっていく。
「じゃあ自分はこれで」
「あっ、呼び止めてすみません」
また来てくださいね、といつも店内でお客さんを見送る時と同じ言葉を口にした。
「ええ、また来ます」
来た時と同じように会釈をした菊田さんに、例え社交辞令だとしても口角が上がるのが止められなかった。また来ます、と毎回律儀に言ってくれるのが嬉しくて、その言葉を大事に大事にお守りの様に抱いてしまう。
「待ってますからね」
これは菊田さんにだけ言ってるんですよ、なんて伝えたら、あなたはまた困ったように笑うのだろうか。
2024.09.12
暖簾をくぐったと同時に、ちょうど入口近くに居たミョウジさんの明るく朗らかな笑顔に出迎えられた。昼には少し遅めの時間だというのに店内はそれなりの賑わいを見せていて、ガヤガヤと療養中の兵士たちの話し声で騒がしい。
「来てくれて嬉しいです」
ニコニコと満面の笑みでそんなことを言われたら、勘違いしてしまう。上手いこと返せなくて、悔しい思いを抱えながら案内された席に座れば、ミョウジさんが隣で「日替わりは鴨南蛮です」と伝えてきた。
「何にしましょうか?」
「ニシン蕎麦で」
「はい、ニシン蕎麦ひとつー!」
周りの騒音にかき消されないよう、ミョウジさんが声を張り上げて裏の親父さんへと注文を通した。そのハキハキと良く通る声に周りからも「元気だなぁ」「こっちも負けてらんねぇぞ」などと声が上がっていき、ミョウジさんが少し恥ずかしそうにはにかんだ。いつも元気で明るいミョウジさんは、この食堂の看板娘だった。
「相変わらず繁盛してますね」
「第七師団の皆様のお陰ですよ」
ふふ、と口元を隠しながらミョウジさんがイタズラっぽく笑った。他にも食事が出来るところはいくらでもあるが、この食堂が兵士の間で一番人気なのは間違いなくミョウジさんが理由だろう。見ていて気持ちの良いくらい溌溂と動き回っていたと思ったら、急に小悪魔的なことを言ったり、屈託のない少女のような一面を覗かせる。コロコロと変わる表情は見ていて飽きないし、働き者で、俺たちの何でもない世間話にも付き合ってくれる優しさも持ち合わせている。そんな彼女に、店を出る時に「また来てくださいね」「待ってます」なんてことを笑顔で言われてしまっては、何度だって足を運んでしまうに決まっている。宿でも兵士たちの間でミョウジさんの話題が上がることはザラだった。
「お待たせしました。ニシン蕎麦です」
「ありがとうございます」
運ばれてきた熱々の蕎麦を食べ進めていくうちに、先に居た兵士たちが一人また一人と去っていき、店内の人影もまばらになっていく。そうなると、否が応でも聞こえてきてしまうのが店内の会話だ。
「──ナマエさん、良ければ今度ご飯でもどうですか」
別に聞き耳を立てている訳ではなかったのに、緊張した若い兵士の声が耳に入ってきてしまった。見覚えがある。最近ここにやってきた一等卒だ。その後ろから二人の兵士がニヤニヤと見守っていることから、大方そそのかされたか、三人で話しているうちに気が大きくなって声をかけてしまったのだろうと推察できた。
「すみません、この頃は忙しくて……」
「自分はこの通り時間が余っています。いつでも合わせられます」
「あ、でも、ちょっといつになるのか分からないので……」
ミョウジさんが角が立たないようにやんわりと断っているにも関わらず、あの一等卒は気づいているのかいないのか、食い下がって離れない。大丈夫かとミョウジさんの顔を盗み見れば、困ったように彷徨わせていた視線がかち合って、すぐに逸らされた。別に療養中に何をしようが勝手だろうが、流石にいつも世話になっている人に迷惑をかけているのを見過ごすわけにはいかなかった。最後の一口を食べ終えて、箸を置いた。
「おい、そこら辺にしとけ」
「き、菊田特務曹長……」
「困ってるだろ、そういうのはよそでやれ。ここは飯を食うところなんだよ」
一等卒の青ざめた顔が一瞬で赤くなった。後ろの奴らもバツが悪そうにソワソワと落ち着かない様子だ。まあ声を掛けたくなるのも分からなくもないんだがな。
「……抜け駆けすると周りの奴らに何されるか分からんぞ」
ほら帰った帰った、と背中を押して一等卒たちを店の外に追いやった。さっきまで騒いでいた奴らが居なくなって、店内がやけに静かに感じた。
「すみません、うちのが迷惑をかけました」
「いえ、こちらこそすみません菊田さん。ありがとうございます」
「こういうことは良くあるんですか」
「たまに……」白熊 無断転載禁止
少し目を泳がせて紡がれた言葉に、良くあることなんだなと思った。やることの限られているこんな場所では、ミョウジさんに迷惑をかけることくらいでしか時間を潰すことができないんだろう。
「すみません、良く言っておきますんで」
これお代です、と小さな手のひらに小銭を乗せれば、手元に視線を落としたままのミョウジさんが何かを言おうと少し口を開き、また閉ざした。何故だかその頬に少しだけ赤みが差していることに気づいて、どきりと心臓が大きく跳ねた。
「……また来てくださいね、待ってますから」
ぎゅうっと小銭を握った手が胸元に寄せられて、いつもの笑顔で見上げられた。社交辞令だと分かっていても、その笑顔が俺以外にも向けられていると分かっていても、仕舞い込んだはずの淡い期待や浅ましい気持ちが大きくなっていく。いつもよりも頬が紅潮している分、眼前の存在に心を乱される。
ミョウジさんは知らないだろう、俺もあの一等卒となんら変わらないことを。むしろ声を掛けた分、”ナマエさん”と呼んでいる分、アイツは俺よりも度胸があって男らしいのかもしれない。抜け駆けされるのが一番面白くないと思っているのは俺なのに、回りくどい言い方でしか牽制することしかできない。
「また来ます」
今日もそんな言葉しか捻り出せずに、暖簾をくぐった。
*
この登別温泉が軍の療養地に指定されてから、この辺りは驚くほどに活気付いた。それまでは客も居なければ体もつらいし、もう潮時かもしれないと店を畳もうとしていた父が、生き生きと働く姿をまた見られて私も嬉しい限りだ。最初は、陸軍最強と謳われた第七師団がやってくると聞いてどんなならず者たちが来るのかと戦々恐々としていたが、実際に会ってしまえば良い意味で普通な人達ばかりだった。皆さん、お国のために戦って傷ついた体をただここに癒しに来ているだけなのだ。そんな皆さんのために、私もできる限りのことをしなければ、と毎日頑張る日々が続いていた。白熊 無断転載禁止
「あっ」
店の前で掃き掃除をしていたら、少し先に見慣れた姿を見つけて、思わず小さな声が漏れ出た。菊田さんだ。こちらへと近づいて来る姿に、慌てて視線を落として箒を忙しなく動かし始めた。待ち構えているなんて知られたら恥ずかしくて、菊田さんのことに全く気づいていないふりをして。
出会った時からなんとなく、物腰が柔らかくて、私にも丁寧に接してくれるところが素敵だなと思っていた。最初は店内でちょこっと世間話をするだけだったのに、それがいつからか目で追うようになって、ついには毎日来るだろうかと期待するようになってしまった。こうやって店先に出ている時は、通りに菊田さんが居ないか探してしまうし、店内にいる時は入口近くで待機して、一番に挨拶ができるようにしてしまう。もうそんな歳でもないというのに、少女のように心を弾ませている自分が恥ずかしい。
そろそろ近くまで来ている頃だろうか。声をかけられずに通り過ぎられたらどうしよう。恐る恐る顔を上げれば、先ほどよりも随分と近づいてきていた菊田さんとすぐに目があった。声をかけるにはちょうどいい距離だった。
「あっ、こんにちは菊田さん!」
まるで今初めて菊田さんの存在に気づいたように声を掛けた。自分でも驚くほどに自然な声だった。「こんにちは、ミョウジさん」と軽く会釈をしながら私の方へと近づいてくる菊田さんに鼓動がどんどん早くなっていく。無意識にぎゅっと箒の柄を握る手に力が入っていた。
「今日は寄っていかないんですか?」
「すみません、別の所で済ませてしまいました」
「あら残念。浮気されちゃった」
菊田さんが困ったように笑った。こうやって反応に困る姿が可愛らしくて、ついついちょっとだけ踏み込んだ冗談を言ってしまう。他の兵隊さんと一緒にいる時はしゃんとして、特務曹長だという階級に見合った雰囲気を醸し出しているのに、私と話している時に垣間見せる優しくて穏やかな顔が大好きだった。
「あれからどうですか、嫌な目に遭っていませんか」
「ええ、大丈夫です」
「良かったです。何かあったらすぐに言ってください」
上官という立場の責任感から出ている言葉なんだろう。菊田さんのことだから、私が嫌な思いをしていないか、本当に心配してくれているのだろう。でも、真剣に伝えられた言葉が少しむず痒かった。
菊田さんは、抜け駆けしてくれないんですか。
先日助けてもらった時に胸の奥の奥にしまい込んだ言葉が、ドンドンと出たそうに扉をうるさく叩いている。流石にこんなことを言ってしまったら、もう来てくれなくなるかもしれない。もう何人も常連客を見送ったし、菊田さんだっていつかこの地を離れてしまうのだ。ここには一時的にしかいないのならば、せめてその間だけでもなるべく長く、楽しく一緒に居たかった。目に見えて分かる不調はなさそうだけれど、その服の下に戦争で負った深い傷が隠されていると思うと胸が締め付けられる。ここを離れるということは、それだけその傷が癒えたということなのだから喜ばしいことなのに。頭では分かっていても、過ごす時間が増えるにつれて、ずっとここに居て欲しいという身勝手で我儘な気持ちがどんどん膨れ上がっていく。
「じゃあ自分はこれで」
「あっ、呼び止めてすみません」
また来てくださいね、といつも店内でお客さんを見送る時と同じ言葉を口にした。
「ええ、また来ます」
来た時と同じように会釈をした菊田さんに、例え社交辞令だとしても口角が上がるのが止められなかった。また来ます、と毎回律儀に言ってくれるのが嬉しくて、その言葉を大事に大事にお守りの様に抱いてしまう。
「待ってますからね」
これは菊田さんにだけ言ってるんですよ、なんて伝えたら、あなたはまた困ったように笑うのだろうか。
2024.09.12
