短編
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知らない、天井だ。
酷く痛む頭でいつか観たアニメのセリフを思い出した。しかしふざけている場合ではない。どこだここ。一人で寝るには十分すぎるほどに広々としたダブルベッドに私は横たわっていた。起き上がってみればズキっと頭が痛んで、込み上げてきた気持ち悪さにうっと口元を押さえた。酷い二日酔いだ。昨日のことも全く思い出せないくらい酷いものだ。本当にどこだここ?
キョロキョロと見回してみたが全く見覚えのない部屋で益々混乱する。シックでシンプルな調度品で揃えられた、落ち着いた雰囲気の寝室だ。おしゃれだなぁ、なんて思っていたらベッドサイドに置いてある男性物の腕時計が目に入って心臓が飛び跳ねた。慌てて服を確認してみたら、見慣れた服をきっちりと着ていてほっとした。記憶を失くすまで酔っ払って知らない人とワンナイトなんてしていたら、さすがに怖くて悲しくて立ち直れなかった。
ベッドから恐る恐る足を降ろして立ち上がったら、微かに床が軋んだ音がした。ゆっくりとドアを開けて、頭だけ出して周りを確認する。なんの変哲もないマンションの一室のようだ。電気がついていない薄暗い廊下を歩き、辿り着いたドアをまたゆっくりと開けた。リビングだ。カーテンが閉まっていてやっぱり薄暗い。ふと誰かの寝息が聞こえて縮み上がった。居る。この家の主が。私が特大の迷惑をかけてしまった人が、この部屋に居る。
抜き足差し足で寝息が聞こえてくるソファーへと近づいた。こちらからは背もたれが邪魔で、肝心の家主の姿が確認できない。バクバクとうるさい心臓のまま、表へと回り込んだ。
「えっ?!菊田さんっ……?!」
「んん……」
咄嗟に口を押えたものの、思ったよりも大きな声が出てしまって菊田さんが身じろいだ。ブランケットに包まってソファーで窮屈そうに寝ている。やばい、やばすぎる。よりによって、大絶賛片思い中の菊田さんの部屋に転がり込んでしまったなんて。後悔と緊張で吐きそうだったのに、寝顔を見られたことの嬉しさが徐々に上回っていく。寝心地が悪いからか、私がうるさかったからか、少し険しい顔をしている。初めて見る寝顔を息をひそめて観察していると、一度眉間に深い皺が刻まれたあとに菊田さんの目が薄らと開いた。
「ん……あ、ミョウジ……?」
目を擦りながらゆっくりと起き上がった菊田さんに、心臓がずぎゅんと撃ち抜かれた。なに、今の。いつもかっこいいのに寝起きの無防備な姿が可愛すぎて、何も言えずにただただ目に焼き付けるように見つめてしまった。心と頭が「好き」という感情にきゅーんと支配されて、二日酔いの気持ち悪さが吹き飛んでいく。
「……体調大丈夫か」
「えっ?!あっ、大丈夫じゃないですけど大丈夫です」
「どっちだよ」
掠れた声でハハっと軽く笑いながら伸びをした菊田さんに、第一声が私の体調を気遣う言葉だったことに、またもや心臓が撃ち抜かれた。もはや蜂の巣である。
「何時だ今?」
「5時過ぎとかです…すみません起こしてしまって」
「いや、それより……あー……昨日のこと、覚えてるか?」
躊躇いながら投げかけられた質問にどきりとした。何も思い出せない焦りと、Tシャツにスウェットという、いつものスーツ姿とは全然違う菊田さんに動揺して心臓がバクバクとうるさい。
「な、何も……」
「本当に、何も?」
菊田さんが少し眉をひそめた。私はどれだけ迷惑をかけたんだと冷や汗がドバッと流れ出た。
あれ?そもそもなんで私は昨日菊田さんと会ったんだろう?会う予定なんてなかったし。連絡先は知ってるけどどこかに誘うほどの度胸なんて絶対に無いし。一方的に熱烈な好意を拗らせているくせに、菊田さんの前では口数が少なくなってしまうチキンなのだ、私は。じゃあ、やっぱりなんで昨日会ったんだろう。ズキっと頭が痛んだ拍子に、迷惑そうにしている杉元の顔が浮かんだ。
「あれ……?私、杉元と飲んでました?」
「そうだよ、途中で俺に交代したんだ」
それってどういう……と言いかけて、一気に昨日の記憶が押し寄せてきた。
「杉元ばっかり菊田さんと話すのずるい!」
「私の方が菊田さんのこと好きなのに!」
「菊田さんはかっこよすぎるんですよぉ」
「でもどうじにかわいいなんてひきょうです」
「ほんっとうにすきなんです!」
死ぬ。困り顔を通り越して最後は青ざめる菊田さんにべったりと抱きつきながら、言いたい放題言っていたことが脳内に溢れ出して、膝から崩れ落ちた。
「思い出したみたいだな」
「うっ……あっ、あぁ……本当に、本当にすみませんでした……私、ひどいハラスメントを……」
何がチキンだ。とんでもない好意のぶつけ方をしまった自分に、気を失いそうになるほどの後悔と羞恥心に襲われた。そうだった。仕事でポカをして悪酔いした私が菊田さん菊田さんとうるさいから、杉元が本人を召喚したんだった。そして肝心の杉元は、明日子さん達とのキャンプの準備があるからと、早々に私を見限ったのだった。こんな恥ずかしいこと、思い出したくなかった。今まで隠していた反動なのだろうか、でも何もあんな形で爆発しなくても。蹲りながら呻いていたら、菊田さんがソファーから立ち上がってぽんっと私の肩に手を置いた。
「酒はほどほどにな。誰彼構わずあんなことしてたら危ないぞ」
「えっ?!ち、違います!誰彼構わずなんてしません!菊田さんだからです!」
勢い良く顔を上げれば、片膝をついた菊田さんがピシッと固まった。もうどうにでもなってしまえ。失うものなんて何もない。無敵の人になった私は、口から飛び出そうな心臓を飲み込んで話し続けた。
「た、確かにあれは酔った勢いだったんですけど、菊田さんが好きなのは本当です!」
ずいっと近づけば菊田さんがよろけて尻餅をついた。開いてしまった距離を膝立ちでまた詰めれば、菊田さんの目が右へ左へとオロオロと泳いだ。動揺してる姿も素敵です。
「凄く、好きです。本当に好きです」
「お、おう」
「ほ、本当です!私っ……!」
「分かったから……!」
手で口元を覆って、そっぽを向かれてしまった。顔が真っ赤な菊田さんにきゅんきゅんした。さっきから初めて見る菊田さんばかりだ。手もすごく大きい。好きです、大好きなんです。かっこいいのにちょっと抜けてて可愛いところも、優しいのにたまに厳しくて口が悪くなるところも、常識人なところも全部好き。
「……私じゃ、ダメですか?」
感情が昂って、泣きそうになりながら菊田さんに問いかけた。こんなムードもへったくれもない告白する予定じゃなかったのに。
「いや、えっと……」
「泥酔してるのに全く手を出さない菊田さんのそういう紳士なところも大好きです」
「えぇっ……あっ、うん……」
酷く狼狽しているのを良いことに、ずいっと詰め寄ってソファーに菊田さんの背中がぶつかるほど追い詰めた。
「でっ、でも私は、き、菊田さんとだったら……!」
「いやそれはダメだろ!」
「あっ、いや……はい、嘘ですやっぱり嫌です……」
本当は嘘ではないけど。嫌でもないけど。そんな関係は、悲しすぎる。
「一晩だけは嫌です……ずっとが良いです」
「なっ……?!」
菊田さんが驚いてまた固まった──と思ったら大きなため息をついて、両手で顔を覆って天を仰いだ。目の前に晒されている首筋と喉仏が色っぽい。こんな時でさえそういった所に目が行ってしまう私は、本当に重症で手遅れなんだと思う。気持ち悪いよな、引いたよな、と離れようとした時だった。
「こっちはどうしようか色々考えて考えまくってたっていうのに……」
ボソボソと聞こえてきた低い声にドキドキした。
「ダメなわけないだろ」
嬉しそうな、でもどこか不満そうな顔が私を見た。少し遅れて、それがさっきの「私じゃダメですか」という問いに対する返事なのだと理解した。
「えっ……えっ?」
菊田さんの眉間にどんどん皺が寄っていく。つい今しがた告白の返事をしてくれたとは思えない顔だ。
「でも、そんな素振り今まで見せたことないじゃないですか。い、今だってなんか、全然……!」
いつだって菊田さんは余裕で、スマートで、一定の距離を保っていたから、私のことなんて眼中にないのかと思っていた。「だって」と不満げな菊田さんが呟いた。
「……かっこつけたいだろッ?!」
クワッと勢いよく言われた言葉を咀嚼するのに時間がかかった。かっこつけたい?もう既に存在がかっこいいのに?
「もっとかっこよく、余裕を持ったアプローチをこっちは考えてたんだよ!」
「えっ、ええ……?」白熊 無断転載禁止
「家分かんなくて連れ込んじまったし、これを機に少しずつ距離縮めようかと思ってたのに、さっきからミョウジが勢いで全突破して来るからどうしたら良いのか分からなくなってたんだよ!」
なんだ俺かっこ悪いなクソ!と自分で突っ込みを入れて話し終えた菊田さんに、ニヤニヤが止まらない。昂る気持ちが抑えられずに思わず抱きつけば、すぐそこでまた慌てたような声が聞こえてきた。恐る恐る背中に腕が回されて、抱きしめられた。うそ、私菊田さんとハグしてる。伝わってくるがっしりとした体に心臓が壊れそうだった。それに何だかとても良い匂いがする。嬉しくて胸元に顔を埋めれば、より一層強く抱きしめられて鼻の奥がツンとした。
「ん?じゃあなんで昨日あんなに青ざめてたんですか?」
逆の立場だったら私はもう目も当てられないほどデレデレしていたと思う。それなのに記憶の中の菊田さんは青ざめていて、私と目も合わせてくれなかった。
「そりゃあだって酔った勢いで色々言ってる可能性もあるし……下手に動いたら社会的に死ぬかもしれないし……」
「あぁ……」
確かに。中々の恐怖体験をさせてしまったようで本当に申し訳ない。でも菊田さんのそういう分別のあるところがとても好きだ。
「ちゅうしても良いですか」
「そういうのは聞かなくて良いんだよ」
にやけが止まらない。余裕を取り戻した菊田さんの体温の高い手が頬に添えられて、唇が近づいてくる。手のひらの皮膚が分厚い。私のと全然違う。少しだけカサついてそうな唇がもうすぐそこまで迫っている。えっ、えっ、本当にしちゃうの?!と思った瞬間、大事なことを思い出して慌てて菊田さんを押し返した。不満そうな瞳を直視できなくて、両手で菊田さんの顔を遮った。
「待って、歯磨きたい!あっ、服!シャワー浴びて服も着替えたい!ちょっと帰ります!帰ってまた来てもいいですか?!」
「いや別にいいよ」
「本当ですか!ここ、最寄りどこですか?!」
パニックな頭で立ち上がって早々に帰ろうとしたのに、ぐっと腕を掴まれた。
「あぁ、いや、うちで入っていけば良いだろ」
「うぇっ?!いっ、いいんですか?!」
ミョウジが嫌じゃなければ、なんて嫌じゃないに決まってるじゃないですか。すぐに脱衣所に案内されて、タオルを渡された。着替えはあとで置いておいてくれるらしい。半分くらい減ったクレンジングオイルも渡されて固まったら「バイクでついた油汚れがよく落ちるから」と補足されて胸を撫で下ろした。しかし手際が良くてなんだかちょっとモヤモヤする。
「……いつもこんなホイホイ人をあげてるんですか?」
「んなわけあるか」
ミョウジだけだよ、と言いながら菊田さんが脱衣所の扉を閉めた。洗面台の鏡に映った自分の顔が真っ赤になっていた。
シャワーから出たらどこか旅行か出張先でもらってきたであろうアメニティーの歯ブラシも置いてあって、ありがたく使わせていただいた。貸してくれたズボンはダボダボで下りてきてしまったので、お尻まですっぽり隠れるぶかぶかのTシャツだけで出ていけば、菊田さんが慌ててふわふわのバスタオルを私の腰に巻きつけたので笑ってしまった。そういうところも好きです。どうしよう、さっきから好きが更新され続けていく。
「もう焼けるから座って待ってろ」
菊田さんがダイニングテーブルを指差して、キッチンに向かった。私がシャワーから出たのを見計らってパンを焼いてくれていたみたいで、席に着けばすぐにこんがりときつね色になったトーストが出された。続けざまに2つのマグカップもテーブルに置かれた。色と香りからして菊田さんはコーヒー、私は紅茶だった。私がコーヒー飲めないこと、なんで知ってるんだろう。齧り付いたバタートーストは、今までで一番美味しかった。
「眠そうだな。二度寝するか?」
食べ終わってお腹が膨れて、菊田さんにバレるほどに私は眠気に襲われていた。
「菊田さんと一緒なら」
ゴフッと菊田さんがコーヒーをこぼした。今日分かったことは、直球でぶつかられることに菊田さんはとても弱いということだ。どんな反応をするのか楽しみで、いつもだったら心に留めておきたい言葉をつい口に出してしまう。恋が成就してハイになっているのもある。
「ソファーだとあんまり寝られなかったんじゃないですか?」
ね、だから一緒に二度寝しましょ?と手を取って、難しい顔をした菊田さんをさっきよりも明るくなった廊下を通って寝室に連れていく。
広いダブルベッドに潜り込んで、両腕を広げて菊田さんを待った。ベッドと床を少し軋ませながら、しぶしぶといった風に隣に来た菊田さんが私のことを抱きしめた。これじゃあどっちが家主なのか分からない。すりすりと胸元に顔を寄せれば、同じボディーソープの匂いが鼻をくすぐって、きゅうっと心が締め付けられた。数時間前、ここで目覚めた時にこんな未来が待ってるなんて思ってもみなかった。
「どうしよう……幸せすぎて死にそうです」
「死ぬにはまだ早いだろ」
頬を撫でられて見上げれば、すぐそこに菊田さんの顔があった。そうだった。まだちゅうもしてなかったのに、死ぬなんて早すぎる。菊田さんの唇めがけて自分のを重ねた。
「あっ……!」
「こういうのは聞かなくて良いんですよね?」
想像していたよりも柔らかく、ふにっとした唇の感触に心臓が跳ね上がったのを隠すために笑った。初めてのキスはほんのりコーヒーの味がした。コーヒーってこんなに美味しかったんだ。にやけた締まりのない顔の戻し方を忘れていると、あぁ、もう、と恥ずかしそうに視線を外した菊田さんが近づいてきた。耳が赤い。色んなことに気を取られているうちに、ひとつ啄むような可愛いキスが唇に降ってきた。その後もおでこに唇が落とされて、頭を撫でられて、幸せすぎて目尻に涙が滲んできた。
ドキドキしすぎて寝られないかも、なんて心配は杞憂に終わった。菊田さんに抱きつきながら、私は気がついたらぐうぐう寝てしまっていた。
「生殺しすぎる……」
真顔の菊田さんがそんなことを呟いていたなんて、家主そっちのけで眠る私は知る由もなかった。
2024.05.28
酷く痛む頭でいつか観たアニメのセリフを思い出した。しかしふざけている場合ではない。どこだここ。一人で寝るには十分すぎるほどに広々としたダブルベッドに私は横たわっていた。起き上がってみればズキっと頭が痛んで、込み上げてきた気持ち悪さにうっと口元を押さえた。酷い二日酔いだ。昨日のことも全く思い出せないくらい酷いものだ。本当にどこだここ?
キョロキョロと見回してみたが全く見覚えのない部屋で益々混乱する。シックでシンプルな調度品で揃えられた、落ち着いた雰囲気の寝室だ。おしゃれだなぁ、なんて思っていたらベッドサイドに置いてある男性物の腕時計が目に入って心臓が飛び跳ねた。慌てて服を確認してみたら、見慣れた服をきっちりと着ていてほっとした。記憶を失くすまで酔っ払って知らない人とワンナイトなんてしていたら、さすがに怖くて悲しくて立ち直れなかった。
ベッドから恐る恐る足を降ろして立ち上がったら、微かに床が軋んだ音がした。ゆっくりとドアを開けて、頭だけ出して周りを確認する。なんの変哲もないマンションの一室のようだ。電気がついていない薄暗い廊下を歩き、辿り着いたドアをまたゆっくりと開けた。リビングだ。カーテンが閉まっていてやっぱり薄暗い。ふと誰かの寝息が聞こえて縮み上がった。居る。この家の主が。私が特大の迷惑をかけてしまった人が、この部屋に居る。
抜き足差し足で寝息が聞こえてくるソファーへと近づいた。こちらからは背もたれが邪魔で、肝心の家主の姿が確認できない。バクバクとうるさい心臓のまま、表へと回り込んだ。
「えっ?!菊田さんっ……?!」
「んん……」
咄嗟に口を押えたものの、思ったよりも大きな声が出てしまって菊田さんが身じろいだ。ブランケットに包まってソファーで窮屈そうに寝ている。やばい、やばすぎる。よりによって、大絶賛片思い中の菊田さんの部屋に転がり込んでしまったなんて。後悔と緊張で吐きそうだったのに、寝顔を見られたことの嬉しさが徐々に上回っていく。寝心地が悪いからか、私がうるさかったからか、少し険しい顔をしている。初めて見る寝顔を息をひそめて観察していると、一度眉間に深い皺が刻まれたあとに菊田さんの目が薄らと開いた。
「ん……あ、ミョウジ……?」
目を擦りながらゆっくりと起き上がった菊田さんに、心臓がずぎゅんと撃ち抜かれた。なに、今の。いつもかっこいいのに寝起きの無防備な姿が可愛すぎて、何も言えずにただただ目に焼き付けるように見つめてしまった。心と頭が「好き」という感情にきゅーんと支配されて、二日酔いの気持ち悪さが吹き飛んでいく。
「……体調大丈夫か」
「えっ?!あっ、大丈夫じゃないですけど大丈夫です」
「どっちだよ」
掠れた声でハハっと軽く笑いながら伸びをした菊田さんに、第一声が私の体調を気遣う言葉だったことに、またもや心臓が撃ち抜かれた。もはや蜂の巣である。
「何時だ今?」
「5時過ぎとかです…すみません起こしてしまって」
「いや、それより……あー……昨日のこと、覚えてるか?」
躊躇いながら投げかけられた質問にどきりとした。何も思い出せない焦りと、Tシャツにスウェットという、いつものスーツ姿とは全然違う菊田さんに動揺して心臓がバクバクとうるさい。
「な、何も……」
「本当に、何も?」
菊田さんが少し眉をひそめた。私はどれだけ迷惑をかけたんだと冷や汗がドバッと流れ出た。
あれ?そもそもなんで私は昨日菊田さんと会ったんだろう?会う予定なんてなかったし。連絡先は知ってるけどどこかに誘うほどの度胸なんて絶対に無いし。一方的に熱烈な好意を拗らせているくせに、菊田さんの前では口数が少なくなってしまうチキンなのだ、私は。じゃあ、やっぱりなんで昨日会ったんだろう。ズキっと頭が痛んだ拍子に、迷惑そうにしている杉元の顔が浮かんだ。
「あれ……?私、杉元と飲んでました?」
「そうだよ、途中で俺に交代したんだ」
それってどういう……と言いかけて、一気に昨日の記憶が押し寄せてきた。
「杉元ばっかり菊田さんと話すのずるい!」
「私の方が菊田さんのこと好きなのに!」
「菊田さんはかっこよすぎるんですよぉ」
「でもどうじにかわいいなんてひきょうです」
「ほんっとうにすきなんです!」
死ぬ。困り顔を通り越して最後は青ざめる菊田さんにべったりと抱きつきながら、言いたい放題言っていたことが脳内に溢れ出して、膝から崩れ落ちた。
「思い出したみたいだな」
「うっ……あっ、あぁ……本当に、本当にすみませんでした……私、ひどいハラスメントを……」
何がチキンだ。とんでもない好意のぶつけ方をしまった自分に、気を失いそうになるほどの後悔と羞恥心に襲われた。そうだった。仕事でポカをして悪酔いした私が菊田さん菊田さんとうるさいから、杉元が本人を召喚したんだった。そして肝心の杉元は、明日子さん達とのキャンプの準備があるからと、早々に私を見限ったのだった。こんな恥ずかしいこと、思い出したくなかった。今まで隠していた反動なのだろうか、でも何もあんな形で爆発しなくても。蹲りながら呻いていたら、菊田さんがソファーから立ち上がってぽんっと私の肩に手を置いた。
「酒はほどほどにな。誰彼構わずあんなことしてたら危ないぞ」
「えっ?!ち、違います!誰彼構わずなんてしません!菊田さんだからです!」
勢い良く顔を上げれば、片膝をついた菊田さんがピシッと固まった。もうどうにでもなってしまえ。失うものなんて何もない。無敵の人になった私は、口から飛び出そうな心臓を飲み込んで話し続けた。
「た、確かにあれは酔った勢いだったんですけど、菊田さんが好きなのは本当です!」
ずいっと近づけば菊田さんがよろけて尻餅をついた。開いてしまった距離を膝立ちでまた詰めれば、菊田さんの目が右へ左へとオロオロと泳いだ。動揺してる姿も素敵です。
「凄く、好きです。本当に好きです」
「お、おう」
「ほ、本当です!私っ……!」
「分かったから……!」
手で口元を覆って、そっぽを向かれてしまった。顔が真っ赤な菊田さんにきゅんきゅんした。さっきから初めて見る菊田さんばかりだ。手もすごく大きい。好きです、大好きなんです。かっこいいのにちょっと抜けてて可愛いところも、優しいのにたまに厳しくて口が悪くなるところも、常識人なところも全部好き。
「……私じゃ、ダメですか?」
感情が昂って、泣きそうになりながら菊田さんに問いかけた。こんなムードもへったくれもない告白する予定じゃなかったのに。
「いや、えっと……」
「泥酔してるのに全く手を出さない菊田さんのそういう紳士なところも大好きです」
「えぇっ……あっ、うん……」
酷く狼狽しているのを良いことに、ずいっと詰め寄ってソファーに菊田さんの背中がぶつかるほど追い詰めた。
「でっ、でも私は、き、菊田さんとだったら……!」
「いやそれはダメだろ!」
「あっ、いや……はい、嘘ですやっぱり嫌です……」
本当は嘘ではないけど。嫌でもないけど。そんな関係は、悲しすぎる。
「一晩だけは嫌です……ずっとが良いです」
「なっ……?!」
菊田さんが驚いてまた固まった──と思ったら大きなため息をついて、両手で顔を覆って天を仰いだ。目の前に晒されている首筋と喉仏が色っぽい。こんな時でさえそういった所に目が行ってしまう私は、本当に重症で手遅れなんだと思う。気持ち悪いよな、引いたよな、と離れようとした時だった。
「こっちはどうしようか色々考えて考えまくってたっていうのに……」
ボソボソと聞こえてきた低い声にドキドキした。
「ダメなわけないだろ」
嬉しそうな、でもどこか不満そうな顔が私を見た。少し遅れて、それがさっきの「私じゃダメですか」という問いに対する返事なのだと理解した。
「えっ……えっ?」
菊田さんの眉間にどんどん皺が寄っていく。つい今しがた告白の返事をしてくれたとは思えない顔だ。
「でも、そんな素振り今まで見せたことないじゃないですか。い、今だってなんか、全然……!」
いつだって菊田さんは余裕で、スマートで、一定の距離を保っていたから、私のことなんて眼中にないのかと思っていた。「だって」と不満げな菊田さんが呟いた。
「……かっこつけたいだろッ?!」
クワッと勢いよく言われた言葉を咀嚼するのに時間がかかった。かっこつけたい?もう既に存在がかっこいいのに?
「もっとかっこよく、余裕を持ったアプローチをこっちは考えてたんだよ!」
「えっ、ええ……?」白熊 無断転載禁止
「家分かんなくて連れ込んじまったし、これを機に少しずつ距離縮めようかと思ってたのに、さっきからミョウジが勢いで全突破して来るからどうしたら良いのか分からなくなってたんだよ!」
なんだ俺かっこ悪いなクソ!と自分で突っ込みを入れて話し終えた菊田さんに、ニヤニヤが止まらない。昂る気持ちが抑えられずに思わず抱きつけば、すぐそこでまた慌てたような声が聞こえてきた。恐る恐る背中に腕が回されて、抱きしめられた。うそ、私菊田さんとハグしてる。伝わってくるがっしりとした体に心臓が壊れそうだった。それに何だかとても良い匂いがする。嬉しくて胸元に顔を埋めれば、より一層強く抱きしめられて鼻の奥がツンとした。
「ん?じゃあなんで昨日あんなに青ざめてたんですか?」
逆の立場だったら私はもう目も当てられないほどデレデレしていたと思う。それなのに記憶の中の菊田さんは青ざめていて、私と目も合わせてくれなかった。
「そりゃあだって酔った勢いで色々言ってる可能性もあるし……下手に動いたら社会的に死ぬかもしれないし……」
「あぁ……」
確かに。中々の恐怖体験をさせてしまったようで本当に申し訳ない。でも菊田さんのそういう分別のあるところがとても好きだ。
「ちゅうしても良いですか」
「そういうのは聞かなくて良いんだよ」
にやけが止まらない。余裕を取り戻した菊田さんの体温の高い手が頬に添えられて、唇が近づいてくる。手のひらの皮膚が分厚い。私のと全然違う。少しだけカサついてそうな唇がもうすぐそこまで迫っている。えっ、えっ、本当にしちゃうの?!と思った瞬間、大事なことを思い出して慌てて菊田さんを押し返した。不満そうな瞳を直視できなくて、両手で菊田さんの顔を遮った。
「待って、歯磨きたい!あっ、服!シャワー浴びて服も着替えたい!ちょっと帰ります!帰ってまた来てもいいですか?!」
「いや別にいいよ」
「本当ですか!ここ、最寄りどこですか?!」
パニックな頭で立ち上がって早々に帰ろうとしたのに、ぐっと腕を掴まれた。
「あぁ、いや、うちで入っていけば良いだろ」
「うぇっ?!いっ、いいんですか?!」
ミョウジが嫌じゃなければ、なんて嫌じゃないに決まってるじゃないですか。すぐに脱衣所に案内されて、タオルを渡された。着替えはあとで置いておいてくれるらしい。半分くらい減ったクレンジングオイルも渡されて固まったら「バイクでついた油汚れがよく落ちるから」と補足されて胸を撫で下ろした。しかし手際が良くてなんだかちょっとモヤモヤする。
「……いつもこんなホイホイ人をあげてるんですか?」
「んなわけあるか」
ミョウジだけだよ、と言いながら菊田さんが脱衣所の扉を閉めた。洗面台の鏡に映った自分の顔が真っ赤になっていた。
シャワーから出たらどこか旅行か出張先でもらってきたであろうアメニティーの歯ブラシも置いてあって、ありがたく使わせていただいた。貸してくれたズボンはダボダボで下りてきてしまったので、お尻まですっぽり隠れるぶかぶかのTシャツだけで出ていけば、菊田さんが慌ててふわふわのバスタオルを私の腰に巻きつけたので笑ってしまった。そういうところも好きです。どうしよう、さっきから好きが更新され続けていく。
「もう焼けるから座って待ってろ」
菊田さんがダイニングテーブルを指差して、キッチンに向かった。私がシャワーから出たのを見計らってパンを焼いてくれていたみたいで、席に着けばすぐにこんがりときつね色になったトーストが出された。続けざまに2つのマグカップもテーブルに置かれた。色と香りからして菊田さんはコーヒー、私は紅茶だった。私がコーヒー飲めないこと、なんで知ってるんだろう。齧り付いたバタートーストは、今までで一番美味しかった。
「眠そうだな。二度寝するか?」
食べ終わってお腹が膨れて、菊田さんにバレるほどに私は眠気に襲われていた。
「菊田さんと一緒なら」
ゴフッと菊田さんがコーヒーをこぼした。今日分かったことは、直球でぶつかられることに菊田さんはとても弱いということだ。どんな反応をするのか楽しみで、いつもだったら心に留めておきたい言葉をつい口に出してしまう。恋が成就してハイになっているのもある。
「ソファーだとあんまり寝られなかったんじゃないですか?」
ね、だから一緒に二度寝しましょ?と手を取って、難しい顔をした菊田さんをさっきよりも明るくなった廊下を通って寝室に連れていく。
広いダブルベッドに潜り込んで、両腕を広げて菊田さんを待った。ベッドと床を少し軋ませながら、しぶしぶといった風に隣に来た菊田さんが私のことを抱きしめた。これじゃあどっちが家主なのか分からない。すりすりと胸元に顔を寄せれば、同じボディーソープの匂いが鼻をくすぐって、きゅうっと心が締め付けられた。数時間前、ここで目覚めた時にこんな未来が待ってるなんて思ってもみなかった。
「どうしよう……幸せすぎて死にそうです」
「死ぬにはまだ早いだろ」
頬を撫でられて見上げれば、すぐそこに菊田さんの顔があった。そうだった。まだちゅうもしてなかったのに、死ぬなんて早すぎる。菊田さんの唇めがけて自分のを重ねた。
「あっ……!」
「こういうのは聞かなくて良いんですよね?」
想像していたよりも柔らかく、ふにっとした唇の感触に心臓が跳ね上がったのを隠すために笑った。初めてのキスはほんのりコーヒーの味がした。コーヒーってこんなに美味しかったんだ。にやけた締まりのない顔の戻し方を忘れていると、あぁ、もう、と恥ずかしそうに視線を外した菊田さんが近づいてきた。耳が赤い。色んなことに気を取られているうちに、ひとつ啄むような可愛いキスが唇に降ってきた。その後もおでこに唇が落とされて、頭を撫でられて、幸せすぎて目尻に涙が滲んできた。
ドキドキしすぎて寝られないかも、なんて心配は杞憂に終わった。菊田さんに抱きつきながら、私は気がついたらぐうぐう寝てしまっていた。
「生殺しすぎる……」
真顔の菊田さんがそんなことを呟いていたなんて、家主そっちのけで眠る私は知る由もなかった。
2024.05.28
