短編
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
少し前から隣のノラ坊に話しかけても生返事しか返ってこない。そわそわと落ち着きのない様子が流石に気になって、足を止めて向き直った。
「どうした?全然話聞いてないだろ」
「あ、すいません……なんか、綺麗な女の人がこっち見てる、気がして……」
「アァ?自意識過剰かコラ」
これだから顔の良い奴は、と思いながらノラ坊がチラチラと見ている方向を見れば、人混みの中に見慣れた姿を見つけた。ナマエだ。視線が合えば、着物の袖を押さえて嬉しそうに手を振りながら、小走りで近づいてきた。隣のノラ坊が控えめに手を振り返している。お前にじゃねぇよ。蹴り飛ばしてやろうかと思ったが、ナマエがすぐそこまで来ていたのでやめた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは……!」
その一言だけでもノラ坊の緊張がこっちにまで伝わってきた。両手をグーパーさせている。鼻の下が伸びている。耳も赤い。そんなノラ坊に向かって、ナマエが軽く頭を下げて微笑んだ。
「主人がお世話になっています」
「しゅっ……?!あっ!菊田さんの奥さんッ?!」
うわー俺スゲー恥ずかしい、とノラ坊が軍帽をグッと目深に被って俯いたのを、ナマエが不思議そうに見ていた。
「買い物帰りか?」
「はい、帰ろうと思ったら杢太郎さんを見つけて。お邪魔したら悪いかなと思ったんですけど、お仕事中の姿もちょっと見てみたくて」
はにかむナマエにノラ坊が釘付けになっている。羨ましいだろ、俺の女房なんだぜという優越感と、これ以上そのだらしのない視線をナマエに向けるなという苛立ちが混ざり合う。
白熊 無断転載禁止
「あんまり恥ずかしいこと言うなよ」
「すみません。じゃあ私はこれで」
「気を付けて帰れよ」
駆け寄ってきた時のように、笑顔で手を振りながらナマエが離れていく。なんとなく名残惜しくて、小さくなっていくナマエの姿を見つめ続けた。
「綺麗な人ですね」
「だろ?」
「お見合いですか?」
「まさか。大恋愛よ」
にやける顔を隠さずに言えば、ノラ坊が興奮気味に食いついてきた。
「えっ、ちょっとそれ詳しく聞かせてください」
「童貞防衛作戦が成功したらな」
「絶対ですよ!」
若いな。鼻息荒く、人の色恋話に目を煌めかせるノラ坊にそう思った。しかし急に「あっ」と声を上げたと思ったら神妙な顔つきになって、俺のことをジっと見つめ始めた。せわしない奴だ。何か言いたげに視線を泳がせているのが気になって、早く言えと急かせばやっと口を開いた。
「菊田さん……あんな綺麗な人と幸せな結婚したのに、昔惚れた女を時々取り出して想ってるんですか?」
「ハァ?!おまっ、それは今関係ねぇだろッ!」
「取り出してるんだ……」
うるせぇクソガキ、と今度こそ思いっきりムカつくケツを蹴り飛ばした。
*
「おかえりなさい、杢太郎さん」
家に帰ればとびきりの笑顔でナマエが出迎えてくれた。「ただいま」と返事をしながら、上着を受け取ろうとするナマエの手に代わりに簪を渡した。帰り道に見かけて、少し奮発して買った物だ。きょとんと手のひらの物を少し見つめたあと、すぐにナマエの目が輝いた。
「まあ、どうされたんですか」
「ナマエに似合いそうだなと思って」
ノラ坊に時々昔の女を取り出してるのかと言われて、後ろめたい気持ちになったからではない。そもそも、ナマエと出会ってから俺は誰かを取り出したことなんて一度もない。断じてない。本当に、たまたま見かけた簪がナマエに似合いそうだと思ったからなんだと、言い訳のような思考が頭を過った。
「嬉しい……!ありがとうございます」
奮発したって言っても、そんな高級な簪じゃない。俺にもっと金があれば、もっと良い物を贈ってやれるのに。エビフライだって死ぬほど食わせてやれるのに。それでもナマエは目を細めて、簪を胸元に寄せて大切にしますねと可憐に笑っている。それが嬉しくてしょうがなかった。
「ノラ坊──あの昼間一緒に居たやつがナマエのこと褒めてたぞ、美人だって」
「あら嬉しい」
可愛らしい方でしたね、とまた手元の簪をじっくりと眺めながらナマエが言った。その様子だけであいつに全く興味を持っていないことが分かって、口元が緩んでしまった。ナマエは俺がこんなに情けなくて、小さい人間だということに気づいているのだろうか。
「杢太郎さんは?私のこと褒めてくれないんですか?」
ナマエがまるで少女のように、無邪気に聞いてきた。簪を取って艶やかな髪に差し込んでやれば、返事を求める瞳と視線がかち合った。
「綺麗だ」
「……簪が?」
「ナマエに決まってるだろ」
「ふふっ、嬉しい」
惚れた弱みを抜きにしたって、ナマエは綺麗だ。俺の言葉に少し頬を染めて、心底幸せそうに笑うナマエは、一等綺麗だ。俺の言葉に一々そうやって反応してくれるのが愛おしい。自惚れてると笑われたって良い。もう手遅れなくらい、バカみたいに俺たちは心底互いに惚れ合っている。昼間みたいに人混みに紛れてたってすぐ分かるくらいだ。まるで何かに導かれるように、俺の目はナマエの居る所に吸い寄せられる。
「どんな宝石よりも綺麗だ」
「あ、ありがとうございます……」
白魚のような指先を掬って、手の甲に口付けた。ひく、と滑らかで華奢な手が反応した。
「骨の髄まで愛してる」
パッと顔を背け、慌てて逃げようとしたナマエの手を掴んで引き寄せた。
「ナマエは俺のこと褒めてくれないのか?」
先ほどの仕返しだ。後ろから抱きしめて耳元で囁けば、腕の中でナマエが言葉に詰まったのが分かった。耳まで真っ赤だ。伝わってくる鼓動は早く、体温も高い。逃げられないように強く抱き込んで後ろから顔を覗き込めば、分かりやすくナマエの目が泳いだ。困ったように眉を下げ、こちらをチラリと見ては廊下や壁を見て、またこちらを見てくる。良く人を手玉に取るような発言をするくせに、いざそれが自分に向けられると、途端にしおらしくなるのが可愛らしい。こっちはそんなお前に骨抜きだ。なぁ、どうしてくれるんだ。一生かけて責任取ってくれよ。
だんまりを決め込んでいたナマエとチラッと目が合った。観念したのか、形の良い唇がゆっくりと開いた。
「……世界で一番、素敵です」
頬を色づかせながら、おずおずと上目遣いで言われて、無意識に腕に力が籠った。
「もうほかの人なんて見えないくらい」
ナマエが俺のことを見上げ、頬に触れた。ナマエの澄んだ瞳に俺が映っている。俺だけが映っている。それだけで満たされていく。どくどくどくと、いつもよりも随分と早い鼓動が伝わってくる。頬に吸い付くナマエの柔い手のひらが気持ちいい。俺が強く抱きしめているせいで、袖が引っ張られて大きく捲れてしまっている。昼間は隠されていた生白い腕が、はしたなく曝け出されていることに優越感を感じた。
「ご飯、冷めちゃいます」
「……もう少し」白熊 無断転載禁止
ゆっくりと俺の頬を撫でるナマエの手に、手を重ね合わせた。すっぽりと包まれてしまう小ささに、また愛おしさが無限に溢れ出す。
男は情けない生き物なんだと、ノラ坊に言ったことは嘘ではない。俺だって、昔は未練たらしく色々思い出を取り出しては眺めて、また心に仕舞うこともあった。でも今は、昔の女のことなんて思い出せないくらい、ナマエとの日々で心がいっぱいだった。想いが通じ合った日、満開の桜の下で団子を分け合った日、死ななくて良かったと泣きながら軍帽を縫ってくれた日……少し奮発して簪を贈った日、という思い出が今日また増えた。ナマエとの色んな思い出を、あとでこっそりと取り出して、眺めて、また後生大事に仕舞っておく。そんな生き方しかできなくなるくらい、俺はナマエを愛している。ノラ坊にも、いつかそんな人に出会える日が来れば良いんだがな。そんなことを思いながら、ナマエに口付けた。
2025.03.02加筆修正
「どうした?全然話聞いてないだろ」
「あ、すいません……なんか、綺麗な女の人がこっち見てる、気がして……」
「アァ?自意識過剰かコラ」
これだから顔の良い奴は、と思いながらノラ坊がチラチラと見ている方向を見れば、人混みの中に見慣れた姿を見つけた。ナマエだ。視線が合えば、着物の袖を押さえて嬉しそうに手を振りながら、小走りで近づいてきた。隣のノラ坊が控えめに手を振り返している。お前にじゃねぇよ。蹴り飛ばしてやろうかと思ったが、ナマエがすぐそこまで来ていたのでやめた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは……!」
その一言だけでもノラ坊の緊張がこっちにまで伝わってきた。両手をグーパーさせている。鼻の下が伸びている。耳も赤い。そんなノラ坊に向かって、ナマエが軽く頭を下げて微笑んだ。
「主人がお世話になっています」
「しゅっ……?!あっ!菊田さんの奥さんッ?!」
うわー俺スゲー恥ずかしい、とノラ坊が軍帽をグッと目深に被って俯いたのを、ナマエが不思議そうに見ていた。
「買い物帰りか?」
「はい、帰ろうと思ったら杢太郎さんを見つけて。お邪魔したら悪いかなと思ったんですけど、お仕事中の姿もちょっと見てみたくて」
はにかむナマエにノラ坊が釘付けになっている。羨ましいだろ、俺の女房なんだぜという優越感と、これ以上そのだらしのない視線をナマエに向けるなという苛立ちが混ざり合う。
白熊 無断転載禁止
「あんまり恥ずかしいこと言うなよ」
「すみません。じゃあ私はこれで」
「気を付けて帰れよ」
駆け寄ってきた時のように、笑顔で手を振りながらナマエが離れていく。なんとなく名残惜しくて、小さくなっていくナマエの姿を見つめ続けた。
「綺麗な人ですね」
「だろ?」
「お見合いですか?」
「まさか。大恋愛よ」
にやける顔を隠さずに言えば、ノラ坊が興奮気味に食いついてきた。
「えっ、ちょっとそれ詳しく聞かせてください」
「童貞防衛作戦が成功したらな」
「絶対ですよ!」
若いな。鼻息荒く、人の色恋話に目を煌めかせるノラ坊にそう思った。しかし急に「あっ」と声を上げたと思ったら神妙な顔つきになって、俺のことをジっと見つめ始めた。せわしない奴だ。何か言いたげに視線を泳がせているのが気になって、早く言えと急かせばやっと口を開いた。
「菊田さん……あんな綺麗な人と幸せな結婚したのに、昔惚れた女を時々取り出して想ってるんですか?」
「ハァ?!おまっ、それは今関係ねぇだろッ!」
「取り出してるんだ……」
うるせぇクソガキ、と今度こそ思いっきりムカつくケツを蹴り飛ばした。
*
「おかえりなさい、杢太郎さん」
家に帰ればとびきりの笑顔でナマエが出迎えてくれた。「ただいま」と返事をしながら、上着を受け取ろうとするナマエの手に代わりに簪を渡した。帰り道に見かけて、少し奮発して買った物だ。きょとんと手のひらの物を少し見つめたあと、すぐにナマエの目が輝いた。
「まあ、どうされたんですか」
「ナマエに似合いそうだなと思って」
ノラ坊に時々昔の女を取り出してるのかと言われて、後ろめたい気持ちになったからではない。そもそも、ナマエと出会ってから俺は誰かを取り出したことなんて一度もない。断じてない。本当に、たまたま見かけた簪がナマエに似合いそうだと思ったからなんだと、言い訳のような思考が頭を過った。
「嬉しい……!ありがとうございます」
奮発したって言っても、そんな高級な簪じゃない。俺にもっと金があれば、もっと良い物を贈ってやれるのに。エビフライだって死ぬほど食わせてやれるのに。それでもナマエは目を細めて、簪を胸元に寄せて大切にしますねと可憐に笑っている。それが嬉しくてしょうがなかった。
「ノラ坊──あの昼間一緒に居たやつがナマエのこと褒めてたぞ、美人だって」
「あら嬉しい」
可愛らしい方でしたね、とまた手元の簪をじっくりと眺めながらナマエが言った。その様子だけであいつに全く興味を持っていないことが分かって、口元が緩んでしまった。ナマエは俺がこんなに情けなくて、小さい人間だということに気づいているのだろうか。
「杢太郎さんは?私のこと褒めてくれないんですか?」
ナマエがまるで少女のように、無邪気に聞いてきた。簪を取って艶やかな髪に差し込んでやれば、返事を求める瞳と視線がかち合った。
「綺麗だ」
「……簪が?」
「ナマエに決まってるだろ」
「ふふっ、嬉しい」
惚れた弱みを抜きにしたって、ナマエは綺麗だ。俺の言葉に少し頬を染めて、心底幸せそうに笑うナマエは、一等綺麗だ。俺の言葉に一々そうやって反応してくれるのが愛おしい。自惚れてると笑われたって良い。もう手遅れなくらい、バカみたいに俺たちは心底互いに惚れ合っている。昼間みたいに人混みに紛れてたってすぐ分かるくらいだ。まるで何かに導かれるように、俺の目はナマエの居る所に吸い寄せられる。
「どんな宝石よりも綺麗だ」
「あ、ありがとうございます……」
白魚のような指先を掬って、手の甲に口付けた。ひく、と滑らかで華奢な手が反応した。
「骨の髄まで愛してる」
パッと顔を背け、慌てて逃げようとしたナマエの手を掴んで引き寄せた。
「ナマエは俺のこと褒めてくれないのか?」
先ほどの仕返しだ。後ろから抱きしめて耳元で囁けば、腕の中でナマエが言葉に詰まったのが分かった。耳まで真っ赤だ。伝わってくる鼓動は早く、体温も高い。逃げられないように強く抱き込んで後ろから顔を覗き込めば、分かりやすくナマエの目が泳いだ。困ったように眉を下げ、こちらをチラリと見ては廊下や壁を見て、またこちらを見てくる。良く人を手玉に取るような発言をするくせに、いざそれが自分に向けられると、途端にしおらしくなるのが可愛らしい。こっちはそんなお前に骨抜きだ。なぁ、どうしてくれるんだ。一生かけて責任取ってくれよ。
だんまりを決め込んでいたナマエとチラッと目が合った。観念したのか、形の良い唇がゆっくりと開いた。
「……世界で一番、素敵です」
頬を色づかせながら、おずおずと上目遣いで言われて、無意識に腕に力が籠った。
「もうほかの人なんて見えないくらい」
ナマエが俺のことを見上げ、頬に触れた。ナマエの澄んだ瞳に俺が映っている。俺だけが映っている。それだけで満たされていく。どくどくどくと、いつもよりも随分と早い鼓動が伝わってくる。頬に吸い付くナマエの柔い手のひらが気持ちいい。俺が強く抱きしめているせいで、袖が引っ張られて大きく捲れてしまっている。昼間は隠されていた生白い腕が、はしたなく曝け出されていることに優越感を感じた。
「ご飯、冷めちゃいます」
「……もう少し」白熊 無断転載禁止
ゆっくりと俺の頬を撫でるナマエの手に、手を重ね合わせた。すっぽりと包まれてしまう小ささに、また愛おしさが無限に溢れ出す。
男は情けない生き物なんだと、ノラ坊に言ったことは嘘ではない。俺だって、昔は未練たらしく色々思い出を取り出しては眺めて、また心に仕舞うこともあった。でも今は、昔の女のことなんて思い出せないくらい、ナマエとの日々で心がいっぱいだった。想いが通じ合った日、満開の桜の下で団子を分け合った日、死ななくて良かったと泣きながら軍帽を縫ってくれた日……少し奮発して簪を贈った日、という思い出が今日また増えた。ナマエとの色んな思い出を、あとでこっそりと取り出して、眺めて、また後生大事に仕舞っておく。そんな生き方しかできなくなるくらい、俺はナマエを愛している。ノラ坊にも、いつかそんな人に出会える日が来れば良いんだがな。そんなことを思いながら、ナマエに口付けた。
2025.03.02加筆修正
