短編
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マスカラを塗りながら、自分でも気づかないうちに鼻歌を歌っていた。と、いうのも、今日はいつもとはちょっと違う休日だからだ。私と杢太郎さんは今日、美術館に行く。
つい先日、良かったら旦那さんと一緒にどうぞ、と同僚から美術館の企画展のチケットを貰ったのだった。何でも家族がその企画展に関わっていて、チケットが余っていたらしい。私も杢太郎さんもあまり美術方面に強いわけでも特別興味があるわけでもないから、こんな機会でもなければ中々そういった所に足を運ぶことはない。昔旅行先で行ったかな?という曖昧な記憶があるくらいだ。でも、ただきっかけがないだけで美術館に行くこと自体は嫌いじゃない。それに、普段の行動範囲を超えて休日に二人で行くなんて、何だかとってもデートっぽくって心が弾んでしまう。お気に入りのワンピースを引っ張り出してきたくらいには浮足立っているし、折角だからと準備にいつもよりも気合いが入ってしまう。普段よりも念入りに時間をかけて、洗面台の鏡の中の自分との格闘を続けた。
「これ、閉めないのか?」
「わっ……!びっくりした」
既に支度を終えた杢太郎さんが洗面所にひょっこりと現れたと思ったら、剥き出しの背中を指でなぞられ、着けようとしていたネックレスを床に落としてしまった。あとで閉めようと思って開けっ放しにしていた背中のファスナーのことをすっかりと忘れていた。
「あっ、悪い」
狭い洗面所で窮屈そうに体をかがめて杢太郎さんがネックレスを拾い、金具を開いた。お詫びに着けてくれるらしい。着けやすいように髪を片側に寄せれば、スースーする首元にひんやりとしたチェーンが触れる感覚が良く伝わってきた。後ろで杢太郎さんの手もモゾモゾと動いている。杢太郎さんに着けてもらうのは、数年前の記念日に、このネックレスを贈られた時以来かもしれない。小粒のダイヤが一つついたシンプルな物は使い勝手が良くて、お出かけをする時にはついつい手が伸びてしまう一軍のアクセサリーだ。いつもは自分でちゃちゃっと着けてしまうから、このこそばゆい状況に鼓動が早まるのを感じながら、杢太郎さんがネックレスを着け終わるのをジッと待っていた。
「ちょっと待て、もうすぐ……あれ?」
自分から着けようとしたのに、思ったよりも難しかったらしい。前回は簡単に着けてくれたような気がするけど、もしかしてまぐれだったのだろうか。鏡に映っている顔を盗み見れば、その眼差しは真剣で眉間にシワも寄っている。その大きな手と体で小さな金具に苦戦する姿が可愛らしくて、いつまでだって待つことができるような気がした。
出来た、と少ししてポンポンと軽くうなじを叩かれて、鏡越しにお礼を言った。
「ね、ついでにこっちも閉めてくれる?」
髪を寄せたまま、ワンピースのファスナーに触れながら聞いてみた。自分でも閉められるけど、折角だから甘えてしまおう。鏡の中にお願いしてみれば、杢太郎さんがおもむろに屈んで、顔が見えなくなった。不思議に思っていると、スリップから出ている肩甲骨の辺りにふにっとした感触が押し付けられた。直後、ピリッとした刺激が体に走る。
「えっ、ちょっ、何やって……」
慌てて振り向こうとしたのに肩をがっしりと掴まれ阻止された。もう一度同じ場所にゆっくりと唇が押し付けられた後、ジジっと今度こそファスナーが上がっていくのを感じた。
「ん、ちゃんと閉めたぞ」
「あ、ありがとう……」
最後にうなじに軽くキスを落とされて、そのままするりと腰を撫でながら立ち去って行ってしまった。一体なんだったんだろう。心臓に悪い。さっきまでネックレスの金具相手にまごまごしていた人とは到底思えなかった。触れられた所が熱を持ってムズムズする。背中のあの感覚は多分痕をつけられたのだろう。でもなんで急に。鏡の中の顔がジワジワと赤くなっていく。暑い。こんな自分の顔を見続けるのはさすがに恥ずかしくて、もう準備もこれくらいで良いかと私も杢太郎さんを追ってリビングに向かった。
白熊 無断転載禁止
*
「見て見て、銃の歴史だって」
美術館の入り口で、隣接している博物館で来月から開催される展示のポスターが目に入って、思わず杢太郎さんの腕を掴んだ。
「ナガンあるかもよ、杢太郎さんが好きなナガン!」
「あんまり大きい声で言うなって」
「来月も来ようよ」
「……来れたらな」
そんな照れなくても良いのに。モデルガンを何個も持っているくらいのナガンマニアなくせに、外で言われるのは恥ずかしいらしい。来れたらな、なんてスカしているけど本当は結構行きたいんだろうな。スタッフさんへチケットを渡して颯爽と奥へと進んで行くのに、館内に点在している先ほどと同じポスターをチラチラと気にしているのがバレバレだ。素直じゃないんだから。
企画展の展示室に足を踏み入れれば、印象派と都市風景というテーマのもとに集められた画家たちの作品が、ゆったりとした空間に並べられていた。順路の矢印を辿って、二人でゆっくりと展示を見て回る。休日とはいえまだお昼前の早めの時間帯だからか、全体的に人影はまばらだ。そのお陰で自分のペースで見ることが出来て、ただ黙々と作品と向き合う時間が過ぎていく。まあ向き合うと言っても、絵画について詳しくないので全然良く分かっていないのだけど。それでも、展示されている作品一つ一つに、描かれた当時の街の光と活気が鮮明に残されていて、中には思わず見入ってしまった物が幾つかあった。作者によって絵の具の重ね方や色使い、題材やシーンの切り取り方も全く異なっているのも興味深かった。それに、ネットなどで見るのとは違って、実物だと絵の具やキャンバスの質感が良く分かるのも良い。チケットを貰わなければ、気づかないことだらけだった。慣れ親しんだ日常から一歩踏み出す機会をくれた同僚には感謝しかない。
「なんか……良く分からないけど、良かったね」
「確かに。たまにはこういうのも良いな、良く分からないけど」
ふふっと笑いながら二人で中身のない感想を言い合って、常設展の方へと移動していく。
「来月も来ようね」
そうだな、と返事をしながらふと杢太郎さんが立ち止まった。その視線は館内の案内図を捉えていた。
「ちょっとトイレ行ってくる」
「はーい、適当に見てるね」
後ろ手に手を振って、すぐ側の現代アートの展示室にふらりと入室した。広々とした部屋の中には鑑賞中の男性一人しかおらず、スタッフの人も離席中のようだった。現代アートに囲まれていると、ポツンと壁際に置かれたスタッフ用のパイプ椅子も何かの作品のように見えてくるから不思議だ。
入ってすぐの所に飾られていた大きな額の中には、およそタイトルと一致しない得体の知れない物が描かれていた。ただの走り書きのようにしか見えないけど、美術館に飾られているくらいなのだから凄い作品なんだろう。さっきまでの印象派の作品に対しては「綺麗だな」「好きだな」なんて、月並みながらも色々と感想が出てきたのに、この作品に関しては何を思えば良いのかすら分からなくて、首を傾げながら立ち尽くしてしまった。
「この年代の美術に興味があるんですか?」
「あ、いえ……」
私がこの絵を熱心に鑑賞していると勘違いしたのか、先に展示室にいた男性が声をかけてきて、この作品に込められた意味や時代背景などを話し始めた。最初は素直に勉強になるなぁと聞いていたが、こちらの反応を全く伺わずに一方的に話し続けていくので、段々とついていくのが難しくなっていく。
「そこで、この作者は──」
どうしよう、全然話が終わらない。親切心からの行動なのかもしれないけど、膨大な知識を勝手に浴びせられ続けるのは、正直かなり疲れる。そこまで興味のないことについてなら尚更だ。
「そ、そうなんですね……ありがとうございました……」
ジリジリと距離を取って歩き出だしたら、その人もそのまま着いてきて、隣の絵画についてまた話し始めたので驚いてしまった。いや、ここまで来ると驚きを通り越してもはや恐怖まで感じる。どういうことなんだろう、そんなに誰かに話を聞いてもらいたいのだろうか。確かにそんなに知識があったら教えたくなるのだろうけど。杢太郎さん早く帰ってこないかな。チラチラと出入口の方を見ても全然帰ってくる気配がない。
「あの、もう……」
大丈夫ですので、という言葉は全く届いていないようだった。ジリジリとまた距離を取るがその分また詰められて、私たち以外誰もいない広い展示室の中を二人でゆっくりと移動していく。まるで社交ダンスか何かのようだがこっちはこっちで必死である。どうしたら良いのこれ?!と半ばパニックになってきて、心臓の音が男の説明をかき消していく。こうなったらもうなりふり構わずダッシュで逃げようと、背後の出入口までの距離を確認しようとした時、ふっと安心する匂いがした。見覚えのある姿が、私のすぐ横についた。
「私の妻に、何か」
優しい佇まいなのに、どことなく圧を感じる。今までの粘り強さはどうしたのか、一瞬で男が黙り込んだ。不安からきゅっと杢太郎さんの袖を摘んだら、チラリと私を一瞥した杢太郎さんが半歩前に出た。男が身を引いて一度口を開いたが、何も言うこともなくそそくさと退散していった。
顔を上げれば、杢太郎さんが小さくなっていく男をじっと見つめていた。その眼差しはどことなく鋭い。やがて見えなくなったところで、ゆっくりと視線が私に移された。いつもの杢太郎さんだった。
「……これで良かったんだよな?」
「うん」白熊 無断転載禁止
「大丈夫か、ナマエ」
うん、とまた頷いて、人が居ないことを良いことに「惚れ直しましたよ」と腕を組んだ。頬が緩んでしかたなかった。
「もっと早く来てくれても良かったのに」
「ヒーローは遅れて登場するもんだ……って言いたいところなんだが、普通に迷った」
頬をかきながら恥ずかしそうに白状する杢太郎さんが可愛くて、組んでいた腕をぎゅうっと抱きしめた。ドキドキと心臓がまだうるさい。連動して微かに震えてしまう手を抑え込むように、またさらに力を入れて安心感のある腕にぴったりと体をくっつけた。
「……帰るか」
「もう?」
まだ全然見てないのに、と言っても杢太郎さんは脇目も振らずにスタスタと展示室を出て、美術館の出口へと向かって行く。もうすっかり帰宅モードのようだ。固く腕を組んだままだったので、私は杢太郎さんの歩幅について行くのに必死だ。
「疲れた?どこかで休む?あっ、腰痛い?」
「まだそんな歳じゃねぇよ」
「せっかく来たのに……もうちょっと楽しんでからでも良いんじゃない?」
「博物館のついでに来月また来れば良いだろ」
だとしても、記念にお土産くらいは見たいんだけどなぁ。パッと腕を離して一人で立ち止まってショップを見つめていたら、数歩先から杢太郎さんが戻ってきた。肩甲骨の辺りを指先で撫でられ、そのまま背中を押されて無理やり歩かされた。
「……もうナマエとのデートの邪魔をされたくないんだよ」
「え?」
聞こえてきた言葉に足が止まった。杢太郎さんはそのまま歩き続けている。でも、一瞬見えた横顔は不満そうだった。
「ん?なになに、なんて?」
「帰るぞ」
いつもは私に合わせてくれる歩幅が大きくて、すぐに間が空いてしまう。慌てて少し大きめな歩幅で杢太郎さんの横についた。
「ね、なんて?」
「……帰るぞ」
「違うそっちじゃなくて!」
ついに小走りで逃げた杢太郎さんを笑いながら追いかけた。
2025.03.23 加筆修正
2024.08.25
つい先日、良かったら旦那さんと一緒にどうぞ、と同僚から美術館の企画展のチケットを貰ったのだった。何でも家族がその企画展に関わっていて、チケットが余っていたらしい。私も杢太郎さんもあまり美術方面に強いわけでも特別興味があるわけでもないから、こんな機会でもなければ中々そういった所に足を運ぶことはない。昔旅行先で行ったかな?という曖昧な記憶があるくらいだ。でも、ただきっかけがないだけで美術館に行くこと自体は嫌いじゃない。それに、普段の行動範囲を超えて休日に二人で行くなんて、何だかとってもデートっぽくって心が弾んでしまう。お気に入りのワンピースを引っ張り出してきたくらいには浮足立っているし、折角だからと準備にいつもよりも気合いが入ってしまう。普段よりも念入りに時間をかけて、洗面台の鏡の中の自分との格闘を続けた。
「これ、閉めないのか?」
「わっ……!びっくりした」
既に支度を終えた杢太郎さんが洗面所にひょっこりと現れたと思ったら、剥き出しの背中を指でなぞられ、着けようとしていたネックレスを床に落としてしまった。あとで閉めようと思って開けっ放しにしていた背中のファスナーのことをすっかりと忘れていた。
「あっ、悪い」
狭い洗面所で窮屈そうに体をかがめて杢太郎さんがネックレスを拾い、金具を開いた。お詫びに着けてくれるらしい。着けやすいように髪を片側に寄せれば、スースーする首元にひんやりとしたチェーンが触れる感覚が良く伝わってきた。後ろで杢太郎さんの手もモゾモゾと動いている。杢太郎さんに着けてもらうのは、数年前の記念日に、このネックレスを贈られた時以来かもしれない。小粒のダイヤが一つついたシンプルな物は使い勝手が良くて、お出かけをする時にはついつい手が伸びてしまう一軍のアクセサリーだ。いつもは自分でちゃちゃっと着けてしまうから、このこそばゆい状況に鼓動が早まるのを感じながら、杢太郎さんがネックレスを着け終わるのをジッと待っていた。
「ちょっと待て、もうすぐ……あれ?」
自分から着けようとしたのに、思ったよりも難しかったらしい。前回は簡単に着けてくれたような気がするけど、もしかしてまぐれだったのだろうか。鏡に映っている顔を盗み見れば、その眼差しは真剣で眉間にシワも寄っている。その大きな手と体で小さな金具に苦戦する姿が可愛らしくて、いつまでだって待つことができるような気がした。
出来た、と少ししてポンポンと軽くうなじを叩かれて、鏡越しにお礼を言った。
「ね、ついでにこっちも閉めてくれる?」
髪を寄せたまま、ワンピースのファスナーに触れながら聞いてみた。自分でも閉められるけど、折角だから甘えてしまおう。鏡の中にお願いしてみれば、杢太郎さんがおもむろに屈んで、顔が見えなくなった。不思議に思っていると、スリップから出ている肩甲骨の辺りにふにっとした感触が押し付けられた。直後、ピリッとした刺激が体に走る。
「えっ、ちょっ、何やって……」
慌てて振り向こうとしたのに肩をがっしりと掴まれ阻止された。もう一度同じ場所にゆっくりと唇が押し付けられた後、ジジっと今度こそファスナーが上がっていくのを感じた。
「ん、ちゃんと閉めたぞ」
「あ、ありがとう……」
最後にうなじに軽くキスを落とされて、そのままするりと腰を撫でながら立ち去って行ってしまった。一体なんだったんだろう。心臓に悪い。さっきまでネックレスの金具相手にまごまごしていた人とは到底思えなかった。触れられた所が熱を持ってムズムズする。背中のあの感覚は多分痕をつけられたのだろう。でもなんで急に。鏡の中の顔がジワジワと赤くなっていく。暑い。こんな自分の顔を見続けるのはさすがに恥ずかしくて、もう準備もこれくらいで良いかと私も杢太郎さんを追ってリビングに向かった。
白熊 無断転載禁止
*
「見て見て、銃の歴史だって」
美術館の入り口で、隣接している博物館で来月から開催される展示のポスターが目に入って、思わず杢太郎さんの腕を掴んだ。
「ナガンあるかもよ、杢太郎さんが好きなナガン!」
「あんまり大きい声で言うなって」
「来月も来ようよ」
「……来れたらな」
そんな照れなくても良いのに。モデルガンを何個も持っているくらいのナガンマニアなくせに、外で言われるのは恥ずかしいらしい。来れたらな、なんてスカしているけど本当は結構行きたいんだろうな。スタッフさんへチケットを渡して颯爽と奥へと進んで行くのに、館内に点在している先ほどと同じポスターをチラチラと気にしているのがバレバレだ。素直じゃないんだから。
企画展の展示室に足を踏み入れれば、印象派と都市風景というテーマのもとに集められた画家たちの作品が、ゆったりとした空間に並べられていた。順路の矢印を辿って、二人でゆっくりと展示を見て回る。休日とはいえまだお昼前の早めの時間帯だからか、全体的に人影はまばらだ。そのお陰で自分のペースで見ることが出来て、ただ黙々と作品と向き合う時間が過ぎていく。まあ向き合うと言っても、絵画について詳しくないので全然良く分かっていないのだけど。それでも、展示されている作品一つ一つに、描かれた当時の街の光と活気が鮮明に残されていて、中には思わず見入ってしまった物が幾つかあった。作者によって絵の具の重ね方や色使い、題材やシーンの切り取り方も全く異なっているのも興味深かった。それに、ネットなどで見るのとは違って、実物だと絵の具やキャンバスの質感が良く分かるのも良い。チケットを貰わなければ、気づかないことだらけだった。慣れ親しんだ日常から一歩踏み出す機会をくれた同僚には感謝しかない。
「なんか……良く分からないけど、良かったね」
「確かに。たまにはこういうのも良いな、良く分からないけど」
ふふっと笑いながら二人で中身のない感想を言い合って、常設展の方へと移動していく。
「来月も来ようね」
そうだな、と返事をしながらふと杢太郎さんが立ち止まった。その視線は館内の案内図を捉えていた。
「ちょっとトイレ行ってくる」
「はーい、適当に見てるね」
後ろ手に手を振って、すぐ側の現代アートの展示室にふらりと入室した。広々とした部屋の中には鑑賞中の男性一人しかおらず、スタッフの人も離席中のようだった。現代アートに囲まれていると、ポツンと壁際に置かれたスタッフ用のパイプ椅子も何かの作品のように見えてくるから不思議だ。
入ってすぐの所に飾られていた大きな額の中には、およそタイトルと一致しない得体の知れない物が描かれていた。ただの走り書きのようにしか見えないけど、美術館に飾られているくらいなのだから凄い作品なんだろう。さっきまでの印象派の作品に対しては「綺麗だな」「好きだな」なんて、月並みながらも色々と感想が出てきたのに、この作品に関しては何を思えば良いのかすら分からなくて、首を傾げながら立ち尽くしてしまった。
「この年代の美術に興味があるんですか?」
「あ、いえ……」
私がこの絵を熱心に鑑賞していると勘違いしたのか、先に展示室にいた男性が声をかけてきて、この作品に込められた意味や時代背景などを話し始めた。最初は素直に勉強になるなぁと聞いていたが、こちらの反応を全く伺わずに一方的に話し続けていくので、段々とついていくのが難しくなっていく。
「そこで、この作者は──」
どうしよう、全然話が終わらない。親切心からの行動なのかもしれないけど、膨大な知識を勝手に浴びせられ続けるのは、正直かなり疲れる。そこまで興味のないことについてなら尚更だ。
「そ、そうなんですね……ありがとうございました……」
ジリジリと距離を取って歩き出だしたら、その人もそのまま着いてきて、隣の絵画についてまた話し始めたので驚いてしまった。いや、ここまで来ると驚きを通り越してもはや恐怖まで感じる。どういうことなんだろう、そんなに誰かに話を聞いてもらいたいのだろうか。確かにそんなに知識があったら教えたくなるのだろうけど。杢太郎さん早く帰ってこないかな。チラチラと出入口の方を見ても全然帰ってくる気配がない。
「あの、もう……」
大丈夫ですので、という言葉は全く届いていないようだった。ジリジリとまた距離を取るがその分また詰められて、私たち以外誰もいない広い展示室の中を二人でゆっくりと移動していく。まるで社交ダンスか何かのようだがこっちはこっちで必死である。どうしたら良いのこれ?!と半ばパニックになってきて、心臓の音が男の説明をかき消していく。こうなったらもうなりふり構わずダッシュで逃げようと、背後の出入口までの距離を確認しようとした時、ふっと安心する匂いがした。見覚えのある姿が、私のすぐ横についた。
「私の妻に、何か」
優しい佇まいなのに、どことなく圧を感じる。今までの粘り強さはどうしたのか、一瞬で男が黙り込んだ。不安からきゅっと杢太郎さんの袖を摘んだら、チラリと私を一瞥した杢太郎さんが半歩前に出た。男が身を引いて一度口を開いたが、何も言うこともなくそそくさと退散していった。
顔を上げれば、杢太郎さんが小さくなっていく男をじっと見つめていた。その眼差しはどことなく鋭い。やがて見えなくなったところで、ゆっくりと視線が私に移された。いつもの杢太郎さんだった。
「……これで良かったんだよな?」
「うん」白熊 無断転載禁止
「大丈夫か、ナマエ」
うん、とまた頷いて、人が居ないことを良いことに「惚れ直しましたよ」と腕を組んだ。頬が緩んでしかたなかった。
「もっと早く来てくれても良かったのに」
「ヒーローは遅れて登場するもんだ……って言いたいところなんだが、普通に迷った」
頬をかきながら恥ずかしそうに白状する杢太郎さんが可愛くて、組んでいた腕をぎゅうっと抱きしめた。ドキドキと心臓がまだうるさい。連動して微かに震えてしまう手を抑え込むように、またさらに力を入れて安心感のある腕にぴったりと体をくっつけた。
「……帰るか」
「もう?」
まだ全然見てないのに、と言っても杢太郎さんは脇目も振らずにスタスタと展示室を出て、美術館の出口へと向かって行く。もうすっかり帰宅モードのようだ。固く腕を組んだままだったので、私は杢太郎さんの歩幅について行くのに必死だ。
「疲れた?どこかで休む?あっ、腰痛い?」
「まだそんな歳じゃねぇよ」
「せっかく来たのに……もうちょっと楽しんでからでも良いんじゃない?」
「博物館のついでに来月また来れば良いだろ」
だとしても、記念にお土産くらいは見たいんだけどなぁ。パッと腕を離して一人で立ち止まってショップを見つめていたら、数歩先から杢太郎さんが戻ってきた。肩甲骨の辺りを指先で撫でられ、そのまま背中を押されて無理やり歩かされた。
「……もうナマエとのデートの邪魔をされたくないんだよ」
「え?」
聞こえてきた言葉に足が止まった。杢太郎さんはそのまま歩き続けている。でも、一瞬見えた横顔は不満そうだった。
「ん?なになに、なんて?」
「帰るぞ」
いつもは私に合わせてくれる歩幅が大きくて、すぐに間が空いてしまう。慌てて少し大きめな歩幅で杢太郎さんの横についた。
「ね、なんて?」
「……帰るぞ」
「違うそっちじゃなくて!」
ついに小走りで逃げた杢太郎さんを笑いながら追いかけた。
2025.03.23 加筆修正
2024.08.25
