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盛夏の戯れ
隣の家に同居人が増えた。"ノラ坊"と呼ばれたその学生さんは背が高く、長めの髪が湿気の多い夏の風にそよいでいた。良かったら色々面倒を見てやってくれと言われた時に、緊張したようにぎこちない会釈をよこしてきた。
「よろしくね。えっと、ノラ坊君?」
「杉元佐一っていいます」
「佐一君」
サッと顔に赤みが差した。可愛い人。それが第一印象だった。前髪の間に見え隠れする顔はどこか品があるのに、落ち着かないように視線が下の方を泳いでいる。名前に掠りもしないノラ坊という渾名は一体何由来なのだろう。「じゃあな」とすぐに踵を返してしまったあの人は、近所の猫にも良く分からない名前をつけていた。
ノラ坊改め佐一君が来てから少し経った8月の夕方。朝の涼しい間に少しの家事をしたのが最後、うだるような暑さで何もする気が起きなくて、二階の窓からぼんやりと外を眺めていたら、見慣れた学生帽と袴姿が歩いて来るのが目に入った。
「佐一君、おかえりなさい」
玄関前で不思議そうに周りを見渡してから、学生帽を押さえてこちらを見上げてきたのが可愛らしくて笑みが零れた。少し見なかったうちにあのサラサラとした綺麗な髪の毛は切ってしまったのか、前髪に隠れていた顔が良く見えた。
「た、ただいま、です」
「今からそっちに行ってもいい?」
「えっ、はい、大丈夫です」
よいしょ、と小さく口にしてから立ち上がった。台所に寄ってから隣家へと向かえば、そこには二階から見た時と同じように、玄関の前で佐一君が待っていた。
「これ、良かったらどうぞ」
「わぁ、すげーうまそうですね」
「朝に作ったからちゃんと味は滲みていると思う」
蓮根、人参、こんにゃくなどが入った小鍋の中を覗く佐一君の首筋には汗が浮かんでいた。
「あ、良かったら上がっていってください。西瓜を冷やしてあるんです」
玄関を開け蒸し暑い中へと入っていく彼の後を追った。暑すぎて、帰り道ずっとこれを食べることだけを考えていたのだと話しながら出された西瓜はきっと、西瓜に目がないこの家の家主が買った物なのだろう。「ふぅ~生き返る」と袖で汗を拭いながら佐一君がバクバクと一切れ、二切れと食べていく。私も一切れを食べ切って手持無沙汰になった時、半分ほど空いた襖の間から、隣の部屋の床に本などが散乱していることに気がついた。
「すみません、散らかしっぱなしで」
私の視線に気づき、慌てて難しそうな本を拾い始めた佐一君を隣で手伝いながら「勉強はどう?」と聞いてみれば、苦々しい顔が返ってきた。
「あんまり……座りっぱなしは性に合いません」
「ふふ、兵隊さん相手に大暴れしたんだものね」
知ってたんですか?と座り込んで恥ずかしそうに頬を掻く姿はやはり可愛らしい。室内だというのに学生帽も被りっぱなしだ。何人もの兵隊さんを病院送りにしたというのが嘘のように隙が多く見える。「菊田さんが来てくれなかったらどうなってたか」と佐一君が困ったように笑った。兵隊さん達に頭を下げて彼を引き取って、もっと教養を身につけろと身銭を切って学校に通わせているのだから本当にあの人は根っからのお人好しだ。
「でも勉強はあんまりですけど、本を読むのは結構好きです」
それとか、と丁度手の中にあった本を指差された。ジャンヌダルクと表紙に書かれたその本の内容や彼女が糾弾された歴史的背景について佐一君が語り始め、艶やかな琥珀色の瞳が彼の感情を映し出す。それが美しくて、横でついじいっと見入ってしまった。
「あっ、すみません、俺ばっかり話してて……」
「ううん」
斜陽で満たされた部屋は鮮やかな橙色で、じっとりと熱い空気が滞留している。ジジジ、ジ……とどこかで蝉が鳴き終わる音がした。
「とっても物知りなのね」
ぐいっと、佐一君が被りっぱなしだった学生帽の鍔を深く下げた。しかし晒されたままの耳は夕日に負けないほどに真っ赤だ。初々しい反応が嬉しくて、もう少しだけ踏み込んでみたくなった。
「私も教えてあげる」
「えっ、なにを……?」
「佐一君が、知らないこと」
畳の上にあった手に自分のをそっと重ねた。皺が少なくハリのある手。ぴくっと反射的に跳ねたけれど、振り払われなかったのを良いことに、浮き出た血管の凹凸を楽しみながらゆっくりと指先を滑らせた。
「し、知らない、ことって……」
内緒のこと。耳元に唇を寄せれば、その分だけ逃げるように佐一君の体が反対側へ傾いていく。それが面白くて更に距離を詰めた。もう少し押したらきっと倒れてしまう。「あ、の……」と、しどろもどろに断片的な言葉を絞り出す佐一君の様子に笑みが深まっていく。可愛い。もっと見せて。ゴツゴツとした太い指の間に自分のを滑り込ませ、優しく握りこみ──
「おい」
低く、鋭い声が響いた。ひゃあっと情けない声を上げた佐一君が勢い良く声の主へと振り返った。
「あんまりからかってやるなよ」
「やだ、からかってなんてないですよ」
本気だものと返したら、はぁと重いため息が吐き出された。
「ノラ坊、この女はやめとけ」
部屋に入ってきた家主の背広と鳥打帽を受け取っていつもの衣桁に掛けた。視界の端では佐一君が床から呆けたようにこちらを見ていた。
「面倒見てくれって言ってたじゃない。私も色々教えてあげようと思っただけなのに」
「教えるって、何を」
「……昔、杢太郎さんが教えてくれたこと」
佐一君がぐりんっとものすごい勢いで首を動かし、西瓜の残骸を片付けようとしていた彼を見た。あまりにも分かりやすい反応に、堪えきれない笑いが溢れ出す。「うそうそ」と言っても、好奇心と気まずさが入り混じった何とも言えない面白い顔をして私たちを交互に見てくる。
「筑前煮、好きでしょう。そこのお鍋に入っているから早めに佐一君と食べてくださいね」
「ああ、いつも悪いな」
「西瓜、ご馳走様でした。またね、佐一君」
「……気をつけろよ」
その言葉は私に向けてのものだったのか、佐一君へのものだったのか。すでに玄関へと歩き始めていた私には分からなかった。
読まなくても大丈夫な書生パロについての思いの丈はこちら(ふせったーに飛びます)
