からかい上手の尾形さん
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ショッピングモールへと着いた私たちは、兎にも角にもまずは腹ごしらえだと、一直線に上層のレストランフロアへと向かった。お昼時を過ぎてどこのお店も閑散としていたので、中華、イタリアン、和食などなど、より取り見取りだった。より取り見取りすぎて目移りしてしまい、全然選べなかった私と勇作君に代わって尾形さんが選んだのは、メニューが豊富な洋食屋さんだった。
「こちらの席にどうぞ」
「ありがとうございます」
案内された四名がけのソファー席の角っこへと勇作君がまず座ったので、私はその向かい側へと座った。壁際にグランドメニューと一緒に立て掛けられたタブレットへと手を伸ばしたところで、左側の座面が沈んだ感覚があった。左を見れば、尾形さんが座っていた。
うん?なんで?勇作君の隣じゃないの?
てっきり兄弟並んで座ると思ったから、私は勇作君の前に座ったのに。しかし尾形さんがどこに座ろうとそれは尾形さんの自由である。素知らぬふりをしてタブレットを掴み、みんなで見えるようにテーブルの真ん中に置いた。
「あ、僕はこっちので見るから大丈夫」
グランドメニューを掴んだ勇作君にタブレットを突き返されてしまったので、私と尾形さんで画面を操作して何を頼むか考え始めた。欧風カレーとか、パスタとか、ハンバーグとか、定番の品から期間限定のシュクメルリなんかもある。写真は大きくて見やすいけれど、タブレットは二人で見るにはやや小さめなせいか、腕が触れ合いそうな距離で尾形さんと画面を見つめているから、正直私はメニュー選びどころではなかった。左半身に全ての感覚を持って行かれている気がしたし、ページを送る指先が微かに震えている。こんなに胸をドキドキさせながらレストランのメニューを見たことはあっただろうか。いや、ない。小さい頃に祖父母二人と一緒に外食して「なんでも好きなもの頼んで良いからね」と言われた時よりもドキドキしている。
「決まったか?」
「あっ、いや……すみません。まだ決められないので先に尾形さんが選んでください」
グズグズしていても迷惑だろうと思って尾形さんにタブレットを渡した。今のうちに何か考えておかないと。もう一つあったグランドメニューを眺めようとしたら、尾形さんに「どれで悩んでんだ」と聞かれてしまった。
「あー……えっと……」
尾形さんにドキドキしすぎて何にも入ってこなかったですとは白状できず、頭をフル回転させて今まで目にしたメニューを必死に思い出した。
「えっと……これか、これで迷ってます」
ここに来る前にしらす丼の話をしたからか、ご飯ものの気分だった。なんとなく印象に残っていたビーフシチューオムライスとシーフードドリアの二つを画面上で指さした。
「なら俺はこれにする。ナマエはそっちにすれば良い」
「えっ?」
タッチパネルで尾形さんがオムライスとセットのスープとドリンクを追加して、ドリアもタップした。セットは?とオプションを聞かれて慌てて私もスープとドリンクのセットでアイスティーと伝えた。が、言ったそばから食べ過ぎかなと思って後悔した。しかもなんだオムライスとドリアで迷ってるって。完全に子供の選択肢じゃないか。せめて単品で良いですと言えば良かった。でもペコペコだしな、もうお祭りでわんぱくセット食べきったしな、と今更小食アピールは通用しないことに気づいて、それならばもう好きなだけ食べてしまおうという覚悟が強固なものとなった。
「僕はミックスフライのライスとスープのセット、あと食後に紅茶で」
「自分でやれ」
「ついでにお願いします、例の物あとで送りますから」
ね?と両手で頬杖をついたニコニコ顔の勇作君に見つめられた尾形さんが固まったように見えた。しかしそれも一瞬のことで、すぐにハァとため息をつきながら勇作君のミックスフライセットを追加していく。例の物ってなんだろう。
「ナマエちゃんオムライスとかドリアとか好きだよね。あと目玉焼きとか卵が乗ってるのを良く頼んでるイメージがある」
「そうだっけ?でもなんか惹かれちゃうんだよねぇ」
私の子供っぽい嗜好を尾形さんの前でバラされてちょっと気が気じゃなかった。でもいくつになってもドリアやグラタンは美味しいし、カレーとか焼きそばに目玉焼きが乗っていたり、オムライスやオムそばのように卵で包まれているものにテンションが上がってしまう。卵やホワイトソースの層を割るあのワクワク感が好きなのかもしれない。
「今度オムライス専門店とか行ってみたら?」
「専門店かぁ、近くにあるかな」
「なければ兄さんの車で行けばいいよ」
「いや、それはさすがに……」
隣の尾形さんをチラッと見たら、静かに水を飲んでいた。その表情から感情は何の読み取れない。まさに「無」だった。そんな人にオムライス専門店に行きたいから車を出してください、なんて絶対に言えない。そもそも、メニューにあったら惹かれるかなというくらいで、別にオムライスが大好物という訳ではないのだ。
あれ?っていうか「今度オムライス専門店とか行ってみたら?」って他人事みたいに言ってたけど、勇作君は行かないってこと?私と尾形さんと二人で行くってこと?いや絶対に無理だって!なんだか最近やけに尾形さんと一緒に行動することを勧めてくるような気がするけど、どうしたんだろう。大事なお兄さんと仲良くしてほしいって思ってるのかな。気持ちは嬉しいけどこっちの心臓が持たないのでやめてほしい。一体何度死にかけたと思ってるんだ。死因が君の兄なんて勇作君も目覚めが悪いでしょう。相変わらず心の底から楽しそうに微笑んでいる勇作君が段々と憎たらしく見えてきた。
勇作君への悶々とした気持ちを抱えながらその後も適当に会話をしていると、他にあまりお客さんもいないからか、予想よりも早く注文した物が運ばれてきた。まず運ばれて来たシーフードドリアを私が受け取り、その後のオムライスとミックスフライを尾形さんと勇作君が受け取った。どれもメニューで見た写真と変わらなくて、とても美味しそうだった。
「交換するか?好きなんだろ」
「ああ、いや、ドリアも好きなのでこのままで大丈夫です。尾形さんはオムライスで大丈夫ですか?」
「俺はどっちでも」
じゃあこのままでということになって、いただきますと三人で手を合わせて食べ始めた。薄くパン粉が散らされた表面は所々こんがりと焼けていて、ホワイトソースの海にプリっとした大きな剥き海老や帆立がゴロゴロ入っているのが分かる。ホカホカと白い湯気と共に香ばしい良い匂いが漂ってきて唾液が溜まる。サクッとスプーンを入れて掬ってみたら、中はサフランライスだった。具材といい、お値段の割にとてもリッチだ。これは期待できるぞと高まる胸を抑えながらふー、ふーと念には念を入れて冷ましてから、ぱくりとドリアを口に含んだ。
「おいしい!」
「うん、おいしいね」
「尾形さんはどうですか?」
既に何口か食べ進めていた尾形さんが小さく頷いたのを、勇作君と二人で顔を見合わせて笑った。レビューも何も見ずに入ったお店だったけど、本当に美味しい。濃厚なホワイトソースの中に胡椒が利いていて飽きが来ない。こってりとしているけど、喉越しの良いさっぱりとしたアイスティーで流し込んだら無限に食べ続けられる気がした。夢中になりながら食べ進めていると「こっちも食うか?」と半分ほど減ったオムライスを尾形さんに差し出された。
「良いですか?ちょっとだけ欲しいです」
さっき店員さんが来た時に取り分けるお皿とかを貰っておけば良かった。オムライス・オン・ドリアにするのは恥ずかしかったけれど、他に方法もないので新しいスプーンをカトラリー入れから取り出した。
「あっ」
ちゃんと握る前に、手にした新しいスプーンを尾形さんに攫われた。訳も分からずそのスプーンの行く末を見つめていると、尾形さんがオムライスを掬って私の顔の前に差し出してきた。深い照りを持ったビーフシチューも、トロトロの半熟卵も、ほんのりと黄みがかったパセリ入りのバターライスも良いバランスで乗っていて、スプーンの上に小さなオムライスが出来上がっている。その奥では尾形さんがジッと私のことを見つめていた。
「ん」
「えっ?!」
「早く」
圧力に負けてぱくりと口に含んだ。途端にバターの香りがふわっと鼻に抜けて、スプーンがするっと引かれて口から出ていく。口元を隠しながらもぐもぐと咀嚼していると、ビーフシチューの凝縮された旨味が口いっぱいに広がった。
「……おいしい」
「ん」
「じ、自分で食べれますから……!」
また差し出されたスプーンに困惑して勇作君を見てしまった。勇作君はニコニコと私たちを見つめながら、楽しそうにエビフライを食べている。全く助ける気はなさそうだ。「早く」とまた急かされて、先ほどのようにスプーンの先を口に含んだ。一体全体どうなってるんだ。どうして私は尾形さんに食べさせてもらってるんだ??深く考えたらいけないような気がして、慌てて咀嚼して、私のドリアを差し出した。
「尾形さんも食べますか?」
頷いた尾形さんの手の中のスプーンが、ドリアへと伸ばされた。え、待って、そのスプーン……私の心の中の言葉は聞かれることもなく、ホワイトソースがたっぷりとかかったサフランライスが尾形さんの口に消えていった。
「美味いな」
「そ、それ……」
震える手でスプーンを指さしながら二の句が継げない私を見て、尾形さんが何でもないようにように「ああ」と呟いた。すうっと口角が上がっていく。
「悪いな、間違えた。まあ良いだろ間接キスくらい」
間接キス、という単語に一気に血圧が上がった。手がびくっと跳ね上がり、置いていたスプーンが当たって落としそうになったのを慌てて握りしめた。今ならスプーン曲げだってできる気がする。それくらい全身全霊をかけてスプーンを握っていた。そうやって何かにしがみ付いていないと魂が抜けていって、しおしおの抜け殻にでもなりそうだった。勇作君は呑気に「わぁ〜」と口元を隠しながら、煌めく瞳で感嘆の声を上げている。「わぁ〜」じゃないよ本当に。どうにかしてよ、君のお兄さんでしょ。尾形さんはくつくつと笑って、私のドリアをまた同じスプーンで何口か食べていた。
そのあとは何も味がしなかった。
お会計を済ませたあと、トイレへと消えた尾形さんを待ちながらガラス手すりに凭れかかった。今回は尾形さんの分も私が払えたので良かったけど、ガソリン代とか色々合算したらやっぱりまだ多く払ってもらっている気がする。はぁ、と深いため息がまた溢れ出た。普通ご飯を食べたら体力も精神力も回復するはずなのに、この間のお祭りの後のようにゲッソリと疲れ果ててしまった。
さっきのあれはどういう意味だったんだろう。「間接キス 意味」でこっそりと検索をかけてみたけど、「意識してほしいから」とかに紛れて「特に意味はない」「生理的に無理レベルでなければ誰とでもできる」というのもあって良く分からなかった。尾形さんだって「間接キスくらい」と言っていたから、あれはきっと本当になんの意味もないただの事故だったのだろう。間接キスごときで動揺するなんて子供だと思われただろうか。でもこっちはキスだってしたことがないお子ちゃまなんだからしょうがない。尾形さんみたいな百戦錬磨の男とは違うんですよ、とさっきの衝撃が落ち着いてきたら段々と惨めな思いが湧き上がってきた。きっと、尾形さんはキスとかたくさんしたことあるんだろうなぁ。
「あの、すみません」
「……え?」
苦悩している最中、聞こえてきた尾形さんでも勇作君でもない声に驚いて反応したら、そこには見知らぬお兄さんがいた。細身で黒髪マッシュの街中で良く見かけるような人だ。年は私より少し下だろうか。もしかしたら大学生かもしれない。
「ここでおすすめのレストランとかって知ってますか?」
「あー……えっと、そこの洋食屋さん美味しいですよ」
なんで私たちに聞くんだろう。不思議に思いながら話していると、お礼のあとに「一人ですか?」と続けられて、益々意味が分からなかった。見て分からないのだろうか。首を傾げながら一人ではないですと答えようとして、ふと隣にいたはずの勇作君がいないことに気づいた。いつの間にか一人になっていた。えっ、勇作君どこ?と周りを見渡してもそれらしい姿は全く見当たらない。
「いや、えっと、一人では、ないんですけど……」
「良かったらそこのお店でお茶しませんか」
「えぇ?いや、それはちょっと……今食べて来たばっかりなんで……」
なんで退店した直後にまた入店しないといけないんだ。店員さんもびっくりだよ。それにもうお腹も胸もいっぱいで何も入らない。一歩二歩とお兄さんから距離を取ろうとしてもまた近づいてきて、気まずくなって目を逸らした。勇作君どこ?!
「お姉さんめっちゃ可愛いなって思って、ちょっとアンニュイな感じとかも」
「んんん……」
ごめんなさい、間接キスについて考えてただけです。それをアンニュイと表現されて死ぬほど恥ずかしかった。予期せぬダメージに床を見つめていると、また一歩お兄さんが近づいてきて、スキニーパンツの裾と真っ黒なスニーカーが視界に入ってきた。近い。嫌だ。大き目の一歩で遠ざかっても、また距離を詰められた。
「もしお腹いっぱいなら映画でも──」
「へぇ、楽しそうだな。俺も混ぜてくれよ」
力強く抱かれた右肩が熱い。後ろの逞しい胸板に密着した左肩から背中にかけての部分なんて、湯気が出るくらい発熱している。きっと私は今、いつかテレビで見たアフリカオオコノハズクのようにキュッと縦長になっているに違いない。突然現れた尾形さんにがっちりと肩を抱かれ、引き寄せられたことをちゃんと理解したのは数秒後だった。チラッと見えた顔は、見たこともないほどに笑顔だった。勇作君のとは違う、どことなく怖い笑顔だ。
「──で、どこに行くって?」
ゾワゾワと鳥肌が立つほどに低い声で尾形さんが言い放った途端、あたふたと聞き取れない言葉を目の前のお兄さんが口走って足早に去っていった。ドッドッドッと私の心臓も多分あのお兄さんと同じくらい爆音を奏でている。どんどん見えなくなっていく見知らぬお兄さんに私を置いていかないで!と助けを求めたいとすら思った。
「何かされたか」
「は、話しかけられただけで特には……」
「そうか」
「あ、あの、お、尾形さん……」
手、と言った声は自分でも聞き取りづらいほどに掠れていた。ずっと尾形さんの腕がしっかりと回され、肩とも二の腕とも言えない辺りを掴まれたままで、緊張で体がギシギシと軋んでいる。
「また変な奴が来るかもしれない」
「た、多分もう来な──」
「勇作はどうした?」
「わっ、分かんない、です。どこか行っちゃいました……」
お兄さんが消えていった方を見つめながら返事をすれば、すぐそこでチッと音が聞こえた。えっ、舌打ち?
「お前、絡まれやすいだろ」
「なっ、なんで分かるんですか?」
言い当てられて反射的に顔を見上げれば、思っていた以上に近い距離で尾形さんの呆れ顔と対面してしまって、またすぐに首を真正面に固定した。
「いつもどうしてるんだ」
「逃げたり、勇作君に、助けて、もらってます……」
情けないことに私は外出すれば大体絡まれる。多くの場合はその場から逃げることで解決するけど、そうじゃない時もある。でも勇作君が現れると、何も言わなくても大抵の男の人は気まずそうに退散する。一度「どちら様?」と柔和な笑顔を向けられた人が泣きながら反省し始めたこともあった。勇作君はかっこいい。背も高い。性格も良い。完璧すぎて怖い、と高校の時のクラスメイトが言っていた。おっちょこちょいなところもあるし、完璧っていうわけではないと思うんだけど。私はずっと一緒にいるからあまり意識したことはないけど、きっと勇作君に初めて会った人はびっくりするのだろう。
「あれっ、どうしたんですか?いつの間にそんなに仲良くなって」
やっとどこからか勇作君が戻ってきて、ほっと胸を撫で下ろした。濃紺の本屋さんのロゴが入った袋を下げている。本を買いに行ってたのか。そういえばさっきご飯を食べている時に、好きな作家さんの新作が出たとか言っていたな。ふっと体が解放されたと思ったら、尾形さんが大股で勇作君に詰め寄って何か唸るような声で話し始めた。
「あっ痛い、痛いです兄様!」
尾形さんの不機嫌そうな声とは裏腹に、少し嬉しそうな勇作君の声が聞こえてきた。兄様って初めて聞いた、二人の時はそんな呼び方してるの?「その呼び方はやめろと言ったはずだ」とか尾形さんが言っている。よく見たら勇作君が二の腕の内側をつねられていた。シャツの上からとはいえ結構痛そうだけど、本人は満更でもなさそうで眉を下げながら笑って謝っている。仲が良いようで何よりだ。大人になってから出会ったと言うのにそんな感じがしない。勇作君がグイグイ行ったからなのかもしれない。
「ごめんね、ナマエちゃん。変な人に声かけられてたって」
「ううん、尾形さんが来てくれたから」
つねられていた腕をさすりながら、勇作君が私に寄ってきた。その袖は一箇所だけ皺々になっている。
「兄さんかっこいいでしょ」
内緒話をするように、身を屈めながら声のトーンを落として言われたことにドキッと鋭く心臓が跳ねた。今日で何回目だろう。もう数えきれないほどに心臓に負荷がかかっていて、寿命が本格的に心配になってきた。尾形さんはかっこいい。そんなこと、わざわざ言われなくても初めて会った時から分かっている。さっき助けてくれた時の緊張感と少しの安心感を思い出してしまって「そ、そうだね……」としどろもどろになりながら当てもなく歩き始めたら、満足そうな笑顔が返ってきた。
「勇作君、今日ずっと楽しそうだね」
「兄さんとナマエちゃんが居るからね」
「ふふ、本当に尾形さんのこと大好きだねぇ」
「ナマエちゃんのこともだよ」
「ありがとう。私も勇作君のこと大好きだよ」
急にどうしたんだろうと笑いながら返せば、勇作君が後ろの尾形さんへと振り向いて、また私へと向き直った。
「ずっと三人でいれたら良いね」
細められた目の隙間から、少し前に見た海のようにキラキラとした瞳が覗いていた。
*
その後は適当にぷらぷらと三人で雑貨屋さんなどを巡ったりして、気づいた時には6時を過ぎていた。お昼が遅かったからまだ夕飯という感じではないし、朝から海に行って結構疲れたからそろそろお開きにしようということで車へと戻った。
「そういえば荷物ってどうしたの?」
ピピっと音がしてロックが解除された車へと歩きながら、さっき助手席から振り返った時に思ったことを勇作君にぶつけた。「え?」と勇作君が足を止めて私を見てきた。ちょうど運転席のドアを開けた尾形さんも私を見ていた。
「後ろに荷物あるから乗れないって言ってたけど、さっきなかったよね?私も後ろ乗っても良い?」
「あー……でも、前の方が座り心地良いよ?」
「そんなことないでしょ」
何を言ってるんだろうと後部座席のドアを開けようとした手を取られて、「いいから、ナマエちゃんは前に乗って」と助手席に押し込まれてしまった。なんなの、と文句を言いながらシートベルトを締めていると尾形さんが勇作君へと振り返りながら話し始めた。
「先にナマエを降ろしてから花沢の所で良いか?」
「それでお願いします。うちに少し寄って行きますか?」
「……いや、良い」
尾形さんと花沢家ってどんな感じの距離感なんだろう。あまり詮索したくないけど、気になるといえば気になる。その後、二人の会話は続かず、何とも言えない空気のまま車が発進して高速を走り始めた。寝るな、絶対に寝てはいけない、と静かな車内で思えば思うほど眠気が増してきて、首がガクガクと揺れてしまう。
「ついたぞ」
肩を揺さぶられ、一気に意識が浮上した。ハッと飛び上がるように起きたらシートベルトにガッと体を押さえつけられ、尾形さんが少しだけ笑ったのが分かった。いつの間にか寝ていたらしい。起こしてよ勇作君!と後ろを見たら、勇作君も今起きたようなぽやぽやとした顔で私たちのことを見ていた。
「今日は本当にありがとうございました」
「またね」
「うん、またね」
窓越しに似ていない顔で揃ってこちらをずっと見続けてくる二人に笑いながら手を振って、マンションのエントランスをくぐった。
楽しかったけど、疲れたな。朝に行っていたファッションショーの残害で荒れた部屋を見て、はぁっとまたため息が出た。色々なことがありすぎて疲れたけれど、過ぎてしまえばすごく鮮やかで充実した一日だった。この日のことはきっと大事な夏の思い出として私たちの中に在り続けるんだろうな。
「兄さんとナマエちゃんと、夏の思い出が作りたかっただけ」
勇作君が言っていたことを思い出して、誰もいない部屋で一人笑みがこぼれた。
「ナマエちゃん、今日ふわふわひらひらしてて可愛かったですね」
「……いつも可愛いだろ」
「本人に言ってあげれば良いのに。喜びますよ」
「うるせぇ、いいから早くあの海辺で撮った動画を送れ」
2025.05.10
「こちらの席にどうぞ」
「ありがとうございます」
案内された四名がけのソファー席の角っこへと勇作君がまず座ったので、私はその向かい側へと座った。壁際にグランドメニューと一緒に立て掛けられたタブレットへと手を伸ばしたところで、左側の座面が沈んだ感覚があった。左を見れば、尾形さんが座っていた。
うん?なんで?勇作君の隣じゃないの?
てっきり兄弟並んで座ると思ったから、私は勇作君の前に座ったのに。しかし尾形さんがどこに座ろうとそれは尾形さんの自由である。素知らぬふりをしてタブレットを掴み、みんなで見えるようにテーブルの真ん中に置いた。
「あ、僕はこっちので見るから大丈夫」
グランドメニューを掴んだ勇作君にタブレットを突き返されてしまったので、私と尾形さんで画面を操作して何を頼むか考え始めた。欧風カレーとか、パスタとか、ハンバーグとか、定番の品から期間限定のシュクメルリなんかもある。写真は大きくて見やすいけれど、タブレットは二人で見るにはやや小さめなせいか、腕が触れ合いそうな距離で尾形さんと画面を見つめているから、正直私はメニュー選びどころではなかった。左半身に全ての感覚を持って行かれている気がしたし、ページを送る指先が微かに震えている。こんなに胸をドキドキさせながらレストランのメニューを見たことはあっただろうか。いや、ない。小さい頃に祖父母二人と一緒に外食して「なんでも好きなもの頼んで良いからね」と言われた時よりもドキドキしている。
「決まったか?」
「あっ、いや……すみません。まだ決められないので先に尾形さんが選んでください」
グズグズしていても迷惑だろうと思って尾形さんにタブレットを渡した。今のうちに何か考えておかないと。もう一つあったグランドメニューを眺めようとしたら、尾形さんに「どれで悩んでんだ」と聞かれてしまった。
「あー……えっと……」
尾形さんにドキドキしすぎて何にも入ってこなかったですとは白状できず、頭をフル回転させて今まで目にしたメニューを必死に思い出した。
「えっと……これか、これで迷ってます」
ここに来る前にしらす丼の話をしたからか、ご飯ものの気分だった。なんとなく印象に残っていたビーフシチューオムライスとシーフードドリアの二つを画面上で指さした。
「なら俺はこれにする。ナマエはそっちにすれば良い」
「えっ?」
タッチパネルで尾形さんがオムライスとセットのスープとドリンクを追加して、ドリアもタップした。セットは?とオプションを聞かれて慌てて私もスープとドリンクのセットでアイスティーと伝えた。が、言ったそばから食べ過ぎかなと思って後悔した。しかもなんだオムライスとドリアで迷ってるって。完全に子供の選択肢じゃないか。せめて単品で良いですと言えば良かった。でもペコペコだしな、もうお祭りでわんぱくセット食べきったしな、と今更小食アピールは通用しないことに気づいて、それならばもう好きなだけ食べてしまおうという覚悟が強固なものとなった。
「僕はミックスフライのライスとスープのセット、あと食後に紅茶で」
「自分でやれ」
「ついでにお願いします、例の物あとで送りますから」
ね?と両手で頬杖をついたニコニコ顔の勇作君に見つめられた尾形さんが固まったように見えた。しかしそれも一瞬のことで、すぐにハァとため息をつきながら勇作君のミックスフライセットを追加していく。例の物ってなんだろう。
「ナマエちゃんオムライスとかドリアとか好きだよね。あと目玉焼きとか卵が乗ってるのを良く頼んでるイメージがある」
「そうだっけ?でもなんか惹かれちゃうんだよねぇ」
私の子供っぽい嗜好を尾形さんの前でバラされてちょっと気が気じゃなかった。でもいくつになってもドリアやグラタンは美味しいし、カレーとか焼きそばに目玉焼きが乗っていたり、オムライスやオムそばのように卵で包まれているものにテンションが上がってしまう。卵やホワイトソースの層を割るあのワクワク感が好きなのかもしれない。
「今度オムライス専門店とか行ってみたら?」
「専門店かぁ、近くにあるかな」
「なければ兄さんの車で行けばいいよ」
「いや、それはさすがに……」
隣の尾形さんをチラッと見たら、静かに水を飲んでいた。その表情から感情は何の読み取れない。まさに「無」だった。そんな人にオムライス専門店に行きたいから車を出してください、なんて絶対に言えない。そもそも、メニューにあったら惹かれるかなというくらいで、別にオムライスが大好物という訳ではないのだ。
あれ?っていうか「今度オムライス専門店とか行ってみたら?」って他人事みたいに言ってたけど、勇作君は行かないってこと?私と尾形さんと二人で行くってこと?いや絶対に無理だって!なんだか最近やけに尾形さんと一緒に行動することを勧めてくるような気がするけど、どうしたんだろう。大事なお兄さんと仲良くしてほしいって思ってるのかな。気持ちは嬉しいけどこっちの心臓が持たないのでやめてほしい。一体何度死にかけたと思ってるんだ。死因が君の兄なんて勇作君も目覚めが悪いでしょう。相変わらず心の底から楽しそうに微笑んでいる勇作君が段々と憎たらしく見えてきた。
勇作君への悶々とした気持ちを抱えながらその後も適当に会話をしていると、他にあまりお客さんもいないからか、予想よりも早く注文した物が運ばれてきた。まず運ばれて来たシーフードドリアを私が受け取り、その後のオムライスとミックスフライを尾形さんと勇作君が受け取った。どれもメニューで見た写真と変わらなくて、とても美味しそうだった。
「交換するか?好きなんだろ」
「ああ、いや、ドリアも好きなのでこのままで大丈夫です。尾形さんはオムライスで大丈夫ですか?」
「俺はどっちでも」
じゃあこのままでということになって、いただきますと三人で手を合わせて食べ始めた。薄くパン粉が散らされた表面は所々こんがりと焼けていて、ホワイトソースの海にプリっとした大きな剥き海老や帆立がゴロゴロ入っているのが分かる。ホカホカと白い湯気と共に香ばしい良い匂いが漂ってきて唾液が溜まる。サクッとスプーンを入れて掬ってみたら、中はサフランライスだった。具材といい、お値段の割にとてもリッチだ。これは期待できるぞと高まる胸を抑えながらふー、ふーと念には念を入れて冷ましてから、ぱくりとドリアを口に含んだ。
「おいしい!」
「うん、おいしいね」
「尾形さんはどうですか?」
既に何口か食べ進めていた尾形さんが小さく頷いたのを、勇作君と二人で顔を見合わせて笑った。レビューも何も見ずに入ったお店だったけど、本当に美味しい。濃厚なホワイトソースの中に胡椒が利いていて飽きが来ない。こってりとしているけど、喉越しの良いさっぱりとしたアイスティーで流し込んだら無限に食べ続けられる気がした。夢中になりながら食べ進めていると「こっちも食うか?」と半分ほど減ったオムライスを尾形さんに差し出された。
「良いですか?ちょっとだけ欲しいです」
さっき店員さんが来た時に取り分けるお皿とかを貰っておけば良かった。オムライス・オン・ドリアにするのは恥ずかしかったけれど、他に方法もないので新しいスプーンをカトラリー入れから取り出した。
「あっ」
ちゃんと握る前に、手にした新しいスプーンを尾形さんに攫われた。訳も分からずそのスプーンの行く末を見つめていると、尾形さんがオムライスを掬って私の顔の前に差し出してきた。深い照りを持ったビーフシチューも、トロトロの半熟卵も、ほんのりと黄みがかったパセリ入りのバターライスも良いバランスで乗っていて、スプーンの上に小さなオムライスが出来上がっている。その奥では尾形さんがジッと私のことを見つめていた。
「ん」
「えっ?!」
「早く」
圧力に負けてぱくりと口に含んだ。途端にバターの香りがふわっと鼻に抜けて、スプーンがするっと引かれて口から出ていく。口元を隠しながらもぐもぐと咀嚼していると、ビーフシチューの凝縮された旨味が口いっぱいに広がった。
「……おいしい」
「ん」
「じ、自分で食べれますから……!」
また差し出されたスプーンに困惑して勇作君を見てしまった。勇作君はニコニコと私たちを見つめながら、楽しそうにエビフライを食べている。全く助ける気はなさそうだ。「早く」とまた急かされて、先ほどのようにスプーンの先を口に含んだ。一体全体どうなってるんだ。どうして私は尾形さんに食べさせてもらってるんだ??深く考えたらいけないような気がして、慌てて咀嚼して、私のドリアを差し出した。
「尾形さんも食べますか?」
頷いた尾形さんの手の中のスプーンが、ドリアへと伸ばされた。え、待って、そのスプーン……私の心の中の言葉は聞かれることもなく、ホワイトソースがたっぷりとかかったサフランライスが尾形さんの口に消えていった。
「美味いな」
「そ、それ……」
震える手でスプーンを指さしながら二の句が継げない私を見て、尾形さんが何でもないようにように「ああ」と呟いた。すうっと口角が上がっていく。
「悪いな、間違えた。まあ良いだろ間接キスくらい」
間接キス、という単語に一気に血圧が上がった。手がびくっと跳ね上がり、置いていたスプーンが当たって落としそうになったのを慌てて握りしめた。今ならスプーン曲げだってできる気がする。それくらい全身全霊をかけてスプーンを握っていた。そうやって何かにしがみ付いていないと魂が抜けていって、しおしおの抜け殻にでもなりそうだった。勇作君は呑気に「わぁ〜」と口元を隠しながら、煌めく瞳で感嘆の声を上げている。「わぁ〜」じゃないよ本当に。どうにかしてよ、君のお兄さんでしょ。尾形さんはくつくつと笑って、私のドリアをまた同じスプーンで何口か食べていた。
そのあとは何も味がしなかった。
お会計を済ませたあと、トイレへと消えた尾形さんを待ちながらガラス手すりに凭れかかった。今回は尾形さんの分も私が払えたので良かったけど、ガソリン代とか色々合算したらやっぱりまだ多く払ってもらっている気がする。はぁ、と深いため息がまた溢れ出た。普通ご飯を食べたら体力も精神力も回復するはずなのに、この間のお祭りの後のようにゲッソリと疲れ果ててしまった。
さっきのあれはどういう意味だったんだろう。「間接キス 意味」でこっそりと検索をかけてみたけど、「意識してほしいから」とかに紛れて「特に意味はない」「生理的に無理レベルでなければ誰とでもできる」というのもあって良く分からなかった。尾形さんだって「間接キスくらい」と言っていたから、あれはきっと本当になんの意味もないただの事故だったのだろう。間接キスごときで動揺するなんて子供だと思われただろうか。でもこっちはキスだってしたことがないお子ちゃまなんだからしょうがない。尾形さんみたいな百戦錬磨の男とは違うんですよ、とさっきの衝撃が落ち着いてきたら段々と惨めな思いが湧き上がってきた。きっと、尾形さんはキスとかたくさんしたことあるんだろうなぁ。
「あの、すみません」
「……え?」
苦悩している最中、聞こえてきた尾形さんでも勇作君でもない声に驚いて反応したら、そこには見知らぬお兄さんがいた。細身で黒髪マッシュの街中で良く見かけるような人だ。年は私より少し下だろうか。もしかしたら大学生かもしれない。
「ここでおすすめのレストランとかって知ってますか?」
「あー……えっと、そこの洋食屋さん美味しいですよ」
なんで私たちに聞くんだろう。不思議に思いながら話していると、お礼のあとに「一人ですか?」と続けられて、益々意味が分からなかった。見て分からないのだろうか。首を傾げながら一人ではないですと答えようとして、ふと隣にいたはずの勇作君がいないことに気づいた。いつの間にか一人になっていた。えっ、勇作君どこ?と周りを見渡してもそれらしい姿は全く見当たらない。
「いや、えっと、一人では、ないんですけど……」
「良かったらそこのお店でお茶しませんか」
「えぇ?いや、それはちょっと……今食べて来たばっかりなんで……」
なんで退店した直後にまた入店しないといけないんだ。店員さんもびっくりだよ。それにもうお腹も胸もいっぱいで何も入らない。一歩二歩とお兄さんから距離を取ろうとしてもまた近づいてきて、気まずくなって目を逸らした。勇作君どこ?!
「お姉さんめっちゃ可愛いなって思って、ちょっとアンニュイな感じとかも」
「んんん……」
ごめんなさい、間接キスについて考えてただけです。それをアンニュイと表現されて死ぬほど恥ずかしかった。予期せぬダメージに床を見つめていると、また一歩お兄さんが近づいてきて、スキニーパンツの裾と真っ黒なスニーカーが視界に入ってきた。近い。嫌だ。大き目の一歩で遠ざかっても、また距離を詰められた。
「もしお腹いっぱいなら映画でも──」
「へぇ、楽しそうだな。俺も混ぜてくれよ」
力強く抱かれた右肩が熱い。後ろの逞しい胸板に密着した左肩から背中にかけての部分なんて、湯気が出るくらい発熱している。きっと私は今、いつかテレビで見たアフリカオオコノハズクのようにキュッと縦長になっているに違いない。突然現れた尾形さんにがっちりと肩を抱かれ、引き寄せられたことをちゃんと理解したのは数秒後だった。チラッと見えた顔は、見たこともないほどに笑顔だった。勇作君のとは違う、どことなく怖い笑顔だ。
「──で、どこに行くって?」
ゾワゾワと鳥肌が立つほどに低い声で尾形さんが言い放った途端、あたふたと聞き取れない言葉を目の前のお兄さんが口走って足早に去っていった。ドッドッドッと私の心臓も多分あのお兄さんと同じくらい爆音を奏でている。どんどん見えなくなっていく見知らぬお兄さんに私を置いていかないで!と助けを求めたいとすら思った。
「何かされたか」
「は、話しかけられただけで特には……」
「そうか」
「あ、あの、お、尾形さん……」
手、と言った声は自分でも聞き取りづらいほどに掠れていた。ずっと尾形さんの腕がしっかりと回され、肩とも二の腕とも言えない辺りを掴まれたままで、緊張で体がギシギシと軋んでいる。
「また変な奴が来るかもしれない」
「た、多分もう来な──」
「勇作はどうした?」
「わっ、分かんない、です。どこか行っちゃいました……」
お兄さんが消えていった方を見つめながら返事をすれば、すぐそこでチッと音が聞こえた。えっ、舌打ち?
「お前、絡まれやすいだろ」
「なっ、なんで分かるんですか?」
言い当てられて反射的に顔を見上げれば、思っていた以上に近い距離で尾形さんの呆れ顔と対面してしまって、またすぐに首を真正面に固定した。
「いつもどうしてるんだ」
「逃げたり、勇作君に、助けて、もらってます……」
情けないことに私は外出すれば大体絡まれる。多くの場合はその場から逃げることで解決するけど、そうじゃない時もある。でも勇作君が現れると、何も言わなくても大抵の男の人は気まずそうに退散する。一度「どちら様?」と柔和な笑顔を向けられた人が泣きながら反省し始めたこともあった。勇作君はかっこいい。背も高い。性格も良い。完璧すぎて怖い、と高校の時のクラスメイトが言っていた。おっちょこちょいなところもあるし、完璧っていうわけではないと思うんだけど。私はずっと一緒にいるからあまり意識したことはないけど、きっと勇作君に初めて会った人はびっくりするのだろう。
「あれっ、どうしたんですか?いつの間にそんなに仲良くなって」
やっとどこからか勇作君が戻ってきて、ほっと胸を撫で下ろした。濃紺の本屋さんのロゴが入った袋を下げている。本を買いに行ってたのか。そういえばさっきご飯を食べている時に、好きな作家さんの新作が出たとか言っていたな。ふっと体が解放されたと思ったら、尾形さんが大股で勇作君に詰め寄って何か唸るような声で話し始めた。
「あっ痛い、痛いです兄様!」
尾形さんの不機嫌そうな声とは裏腹に、少し嬉しそうな勇作君の声が聞こえてきた。兄様って初めて聞いた、二人の時はそんな呼び方してるの?「その呼び方はやめろと言ったはずだ」とか尾形さんが言っている。よく見たら勇作君が二の腕の内側をつねられていた。シャツの上からとはいえ結構痛そうだけど、本人は満更でもなさそうで眉を下げながら笑って謝っている。仲が良いようで何よりだ。大人になってから出会ったと言うのにそんな感じがしない。勇作君がグイグイ行ったからなのかもしれない。
「ごめんね、ナマエちゃん。変な人に声かけられてたって」
「ううん、尾形さんが来てくれたから」
つねられていた腕をさすりながら、勇作君が私に寄ってきた。その袖は一箇所だけ皺々になっている。
「兄さんかっこいいでしょ」
内緒話をするように、身を屈めながら声のトーンを落として言われたことにドキッと鋭く心臓が跳ねた。今日で何回目だろう。もう数えきれないほどに心臓に負荷がかかっていて、寿命が本格的に心配になってきた。尾形さんはかっこいい。そんなこと、わざわざ言われなくても初めて会った時から分かっている。さっき助けてくれた時の緊張感と少しの安心感を思い出してしまって「そ、そうだね……」としどろもどろになりながら当てもなく歩き始めたら、満足そうな笑顔が返ってきた。
「勇作君、今日ずっと楽しそうだね」
「兄さんとナマエちゃんが居るからね」
「ふふ、本当に尾形さんのこと大好きだねぇ」
「ナマエちゃんのこともだよ」
「ありがとう。私も勇作君のこと大好きだよ」
急にどうしたんだろうと笑いながら返せば、勇作君が後ろの尾形さんへと振り向いて、また私へと向き直った。
「ずっと三人でいれたら良いね」
細められた目の隙間から、少し前に見た海のようにキラキラとした瞳が覗いていた。
*
その後は適当にぷらぷらと三人で雑貨屋さんなどを巡ったりして、気づいた時には6時を過ぎていた。お昼が遅かったからまだ夕飯という感じではないし、朝から海に行って結構疲れたからそろそろお開きにしようということで車へと戻った。
「そういえば荷物ってどうしたの?」
ピピっと音がしてロックが解除された車へと歩きながら、さっき助手席から振り返った時に思ったことを勇作君にぶつけた。「え?」と勇作君が足を止めて私を見てきた。ちょうど運転席のドアを開けた尾形さんも私を見ていた。
「後ろに荷物あるから乗れないって言ってたけど、さっきなかったよね?私も後ろ乗っても良い?」
「あー……でも、前の方が座り心地良いよ?」
「そんなことないでしょ」
何を言ってるんだろうと後部座席のドアを開けようとした手を取られて、「いいから、ナマエちゃんは前に乗って」と助手席に押し込まれてしまった。なんなの、と文句を言いながらシートベルトを締めていると尾形さんが勇作君へと振り返りながら話し始めた。
「先にナマエを降ろしてから花沢の所で良いか?」
「それでお願いします。うちに少し寄って行きますか?」
「……いや、良い」
尾形さんと花沢家ってどんな感じの距離感なんだろう。あまり詮索したくないけど、気になるといえば気になる。その後、二人の会話は続かず、何とも言えない空気のまま車が発進して高速を走り始めた。寝るな、絶対に寝てはいけない、と静かな車内で思えば思うほど眠気が増してきて、首がガクガクと揺れてしまう。
「ついたぞ」
肩を揺さぶられ、一気に意識が浮上した。ハッと飛び上がるように起きたらシートベルトにガッと体を押さえつけられ、尾形さんが少しだけ笑ったのが分かった。いつの間にか寝ていたらしい。起こしてよ勇作君!と後ろを見たら、勇作君も今起きたようなぽやぽやとした顔で私たちのことを見ていた。
「今日は本当にありがとうございました」
「またね」
「うん、またね」
窓越しに似ていない顔で揃ってこちらをずっと見続けてくる二人に笑いながら手を振って、マンションのエントランスをくぐった。
楽しかったけど、疲れたな。朝に行っていたファッションショーの残害で荒れた部屋を見て、はぁっとまたため息が出た。色々なことがありすぎて疲れたけれど、過ぎてしまえばすごく鮮やかで充実した一日だった。この日のことはきっと大事な夏の思い出として私たちの中に在り続けるんだろうな。
「兄さんとナマエちゃんと、夏の思い出が作りたかっただけ」
勇作君が言っていたことを思い出して、誰もいない部屋で一人笑みがこぼれた。
「ナマエちゃん、今日ふわふわひらひらしてて可愛かったですね」
「……いつも可愛いだろ」
「本人に言ってあげれば良いのに。喜びますよ」
「うるせぇ、いいから早くあの海辺で撮った動画を送れ」
2025.05.10
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