からかい上手の尾形さん
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「わー!海だー!」
道路が海岸沿いへと抜けて、突然目に飛び込んできたキラキラと煌めく水面とどこまでも続く水平線に、車内だというのに勇作君と大きな声を上げてしまった。道中にあった可愛らしいローカル電車が路面電車のように真ん中を通る商店街などにも寄りつつ、買い食いもしつつ、私たちは本来の目的であった海へとだいぶ時間をかけてから到着した。時刻はお昼前。ほぼ真上に上がった太陽に負けないくらいパワフルな海水浴客でビーチは賑わっている。運よく空いていた駅の近くの駐車場に車を滑り込りこませ、私たちはうだるような暑さの中、海岸への道を歩き始めた。
「暑い……」
先ほどのあの興奮はどこへ行ったのやら、暫く歩いているうちに次第にこの遠慮の欠片もない暑さへの不満が大きくなっていく。自宅を出てからほとんどずっと快適な車に乗っていたから尚更暑さに弱くなった気がする。ファンがあれば良かったのに、別の鞄に入れたままだ。あ、そういえば傘を持ってきていたんだ。朝慌てていたせいですっかり忘れていた。一人で使うのは忍びないけど、さすがに三人で相合傘はできないから、代わる代わる使えば良いかと思って取り出した傘をバサッと開いた。
「入れてくれ」
「えっ?!」
カチッとストッパーが止まる感覚がして傘を開き終えた瞬間、尾形さんが腰を屈めてずいっと傘の中に入ってきて、一瞬ぺとっと二の腕同士がぶつかった。ひぃ近い近い近い!折りたたみだから狭いんですって!
「……持つ」
「うぇ?!」
ぎゅうっと手を握り込まれて、何事かと思ったらそのまま傘を取られた。代わりに持ってくれるらしい。身長差のことを考えれば確かに尾形さんが持った方が良いのだと思うけど、なんで今手握られたんだ?傘の柄と間違えられた?そんなにおっちょこちょいな人なの?手すっごい大きかったんだけど。訳が分からなくて尾形さんを見上げれば、その羨ましいほどに白い首筋に薄っすらと汗が滲んでいた。同じく色白な勇作君はその淡い空色のシャツも相まって洗濯洗剤の広告のような爽やかさがあるのに、尾形さんは変な色気があって、何か見てはいけない物なんじゃないかってドキドキしてしまう。いや変態か。勇作君ごめん本当に、君の兄をこんな風に見てしまって。
「ずるい!僕も入れて!」
「おいやめろ」
「うわ、暑い!暑いよ!」
勇作君まで傘の中に入って来て、狭い傘の中、まるで満員電車のように尾形さんと勇作君に挟まれ押しつぶされて、熱気が凄いことになった。
「やだ、暑すぎ!」
ムワっとした空気に耐えきれずにするっと二人の間から逃げ出せば、すぐさま太陽に焼かれて、ジリジリと肌が焦げていく感覚がした。振り返れば、尾形さんと勇作君が狭い折り畳み傘の中にみっちりと収まっていた。勇作君なんて頭頂部が若干傘にめり込んでいる。明らかに女性用の水玉模様の傘の下に詰め込まれている二人はとてもシュールだった。
「僕が持ちます」
「あっ、オイ!やめろッ」
傘の柄を取ろうとした勇作君を尾形さんが躱して、距離を取ろうとするも勇作君がすかさず開いた距離を詰めていく。
「ふざけるな、何でお前が入ってくるんだ」
「日差しが痛いんです」
「良いから出ろ、ナマエが焼けるだろうが」
「えっ、僕は焼けても良いんですか?」
ぐるぐると傘を振り回しながらまるでダンスでもしているように二人の攻防が続いていく。人の目も気にせずに、小さな傘を巡って言い合う二人に次第に笑いが込み上げてきて、ついに耐えきれずに吹き出してしまった。炎天の中、はははっと口を開けて一人で笑い始めた私に、二人が動きを止めた。
「楽しいね」
顔立ちが全然違う二人なのに、私を見つめてくる表情はどことなく似ている。昔、初めて三人で並んで歩いた時みたいだ。あの時も私が「楽しいね」と言ったら二人とも今みたいにきょとんとしていた。本当に兄弟なんだなぁって思ったから良く覚えてる。ひとしきり笑ったら体温が一層上がって、額に新しく滲み出て来た汗をハンカチで押さえた。
「コンビニで傘買うのはどう?」
道を挟んだコンビニを指させば勇作君が頷いたので、ちょうど青信号だった横断歩道へと駆け出した。肌は痛かったけど、未だに色々言い合いながら兄弟仲良く相合傘をしている二人の前を歩いていくのは結構楽しかった。店内に足を踏み入れれば、軽快な入店の音楽と一緒に冷たい空気が体を包み込んできてまるで天国のようだった。ぽつぽつと立っていく鳥肌すら心地よく感じる。この季節では売れ筋商品なのか、晴雨兼用と書かれた折り畳み傘がビニール傘などと並べられて、入り口近くの目立つ所に置かれていた。
「兄さんも僕とおそろいにします?」
「一本だけで良いだろ。傘なら家にあるから俺はここで買いたくない」
「それじゃあ僕だけ仲間外れじゃないですか」
寂しいなぁと言いつつ、無地の紺色の折り畳み傘を持って勇作君がお会計に向かった。"仲間外れ"って、普通に私と尾形さんが相合傘をすることで話が進んでいるような気がするけど気のせいだろうか。兄弟でするよりかはスペースに余裕があるっていうことなのかな。私の傘も尾形さんが持ったままだ。
「お待たせしました」
タグを切ってもらった傘を早速解きながら、勇作君が傘売り場で待っていた私たちに合流した。自動ドアが開けば、忘れかけていた熱気に体が包まれていき、温度差にまた鳥肌が少し立っていく。傘をどうしようかと思っていると、当たり前のように尾形さんが私の傘を開き、私に傾けてきたのでありがたく中へと入らせていただいた。私は、このスマートさが怖い。お礼を言いながら内心びくびくしていた。一体何人の女性を落としてきたんだろう。沼地の淵を歩いているような気分だ。
直射日光が遮られたことで体感温度がいくらかマシになり、私たちは今度こそ海へと歩き出した。なるべく尾形さんに触れないように……と思って狭い傘の端のギリギリを攻めているのだけど、尾形さんが結局距離を詰めてくるので、何度か汗ばむ二の腕が触れてしまって気まずかったし、その度にまるで心臓が障害物レースでもしているようにジャンプするので海辺に着いた時には中距離走を終えたくらいには精神的に疲弊していた。
白熊 無断転載禁止
「見てください!海です、兄さん!」
「海くらい見たことある」
風が強くなってきたので、勇作君たちが一旦傘をしまった。ちょうど太陽も薄い雲に隠れたお陰で少しだけ暑さも和らいだ気がする。歩道から砂浜へと続く階段を降り、ざく、ざく、と靴の中に砂が入らないように慎重に歩を進めていく。返してもらおうと思ったのに、「また使うから」と断られてしまったので、私の傘は尾形さんが持ったままだ。
「そういえばなんで海だったの?」
色んな所に一緒に行ってきたけど、ここまで遠出することは中々なかったと思う。ごうごうと耳元で響く海辺の強風に負けないように声を張り上げながら勇作君に尋ねた。常に風向きが変わっているのか、押さえていないと髪の毛がすぐに顔にまとわりついてくる。スカートで来なくてよかった、本当に。
「うーん、夏だから……?」
「ええ?何それ」
「夏といえば海とお祭りでしょ。兄さんとナマエちゃんと、夏の思い出が作りたかっただけ」
「そっか、じゃあまた勇作君とお祭り一緒に行かなきゃね」
楽しみにしていたのに勇作君は来られなかったから、また行けたら良いな。尾形さんと三人でも良い。なのに勇作君は一瞬「え?」と聞き返してきたあとに「ああ、うん、そうだね」と眉を下げて笑った。変なの。
そのうち砂の色が濃くなり、湿ってきて、幾分か歩きやすくなってきた。どうしてかぽっかりと波打ち際に空いた穴を勇作君と覗きこんだり、綺麗な貝を探しながら波から逃げたりしていると、ふと後ろにいたはずの存在がいないことに気づいた。
「……あれ?尾形さんは?」
「あそこの陰にいるよ」
「あっ本当だ」
いつの間にあんな所に。だいぶ離れた海の家のひさしの中に入り、腕組みをしながらジッとこちらを見ている尾形さんに勇作君が手を振れば、一瞬だけ手が上がってまた腕組みに戻った。怒っているわけではないのだろうけど、どういう感情なのかいまいち良く分からなかった。
「……尾形さんって、海来たかったのかな」
「うん、楽しみにしてたよ」
「えっ、本当?無理させてないかな、車も出させちゃって……」
「大丈夫だよ、気にしないで」
そうは言われても、どう見ても楽しみにしていた人間の雰囲気ではないので不安は募るばかりだ。お祭りの時といい、良いように使っているようで申し訳ないと思っていると「戻ろっか」と勇作君が歩き出した。ざく、ざく、とまた二人で砂を踏みしめていく。段々と尾形さんへと近づいていくと、尾形さんもひさしの影から出てきて、こちらへと歩いてきた。
「もう良いのか」
「はい、あっちの島に行きませんか?」
ここから西側に浮かぶ、展望台がキャンドルのように刺さった島を勇作君が指差した。少し先に橋があり、それを渡れば有名なパワースポットである島に行けるのだ。タコを丸ごとプレスしてせんべいにした物が食べたいと勇作君がニコニコと伝えれば、尾形さんが眉を顰めた。
「残酷なことをするもんだな」
「確かにちょっとプレスされる所は見れないかも……」
「でも美味しいって評判だよ」
ほら、とスマホの画面を見せられたら想像よりも大きい物が表示されていて二度見してしまった。顔よりも大きい。丸い頭が特徴的な、立体的なタコが見事にぺしゃんこにされ、触手らしき物が所々残る素朴な焼き色のせんべいになっていることに何だか切なさを感じてしまう。少々グロテスクではあるけれど、食べたら絶対に美味しいんだろうな、と思ってしまうのは日本人の性なのか。でもきっと尾形さんは食べないんだろうな。未だに怪訝そうにスマホの画面を見つめている尾形さんを見て思った。
「そうだ兄さん!写真撮りましょう、写真!」
「うっ……」白熊 無断転載禁止
「わっ……!」
急にドンッと、玉突き事故よろしく勇作君が尾形さんにぶつかり、尾形さんが私にぶつかった。ぐらっと揺れた体がぐいっとまた力強く引き寄せられて、気づいたら尾形さんにしなだれ掛かるように体が傾いていた。
「撮りますよ」
「えっ?!ま、ま、まって、まって!!」
「さーん、にーい──」
「待って?!」
あのお祭りの日の時よりもべったりと尾形さんにくっついてしまっていて、伝わってくる体温に頭が真っ白だった。良い匂いがする。どうにか離れようと押し返してみても、尾形さんの腕が背中を通って、がっちりと私のだらしのない二の腕を掴んでいるから全然離れられない。いやなんで?!勇作君の長い腕の先にあるスマホの画面には高い空と、輝く海と、左右に余白が有り余ったぎゅうぎゅう詰めな私たち三人が映っている。
「──いーち」
爆音で鳴り続ける心臓の音の合間に、ピコンっとシャッター音ではない軽やかな音が聞こえてきた。
「あっ動画だった!」
はははっ、と画面の中の勇作君が笑った。別段慌てることもなく、「三人で海に来てまーす」と笑顔でカメラに手を振っているマイペースな姿に、今の自分の状況も忘れて私も笑ってしまった。ピコンっとまた音がして撮影が終了すれば、ふっと尾形さんの腕の力が抜けて、やっと解放された。動悸が止まらない。膝から崩れ落ちそうだ。今度こそこのまま死ぬんじゃないだろうか。二の腕にまだ尾形さんに掴まれていた感覚が残っていて、そこがムズムズと疼いた。こんなことならもっと二の腕を引き締めておくんだった。まあ袖で隠れるし……と今まで何もしてこなかった自分を呪った。
「ナマエちゃん、僕たちの写真も撮ってくれる?」
「絶対に嫌だ」
「えぇー……じゃあ代わりに僕たちのを撮ってください」
勇作君のスマホを受け取った尾形さんが、少し操作したあとに私たちにカメラを向けた。数歩ずつ離れていきながら、画角を調整している様子だ。髪の毛を手で押さえつつ「風すごいね」などと笑い合っていると、尾形さんが静かに戻ってきてスマホを返しにきたので、勇作君と二人して「え?!」と驚いてしまった。
「尾形さん今撮ってたんですか?」
「そうですよ、撮るなら言ってくださいよ」
「こういうのは自然体の方が良いんだよ」
そうなの?無言で撮られたことにはびっくりしたけど、自然体と言われれば悪い気はしなかった。何でもないような日常を切り取ったような写真が後に貴重な一枚になったりするし、カメラを意識していない空気感は私たちの本質を捉えてくれる気がする。でも大丈夫だったかな。風のせいでほとんど目を瞑っていたような。撮るよ、とちゃんと事前に言われても私は微妙な顔になっていることが多いから写真は苦手だ。
「──ひどいです」
隣で尾形さんと何か話しながら写真を確認していた勇作君の声が聞こえてきて一気に不安になった。やっぱり私半目だったのかな。消しといてほしいな。行くぞ、と尾形さんが先に歩き出したので、私たちも続いてまた階段を上り、島への橋へと向かっていった。白熊 無断転載禁止
「うわー暑そう……」
ジリジリと全てを焼き尽くすような太陽光線を浴びながら、真っ直ぐに伸びた歩行者用の橋をゾロゾロと人が歩いて行く。隣の車用の橋も中々に渋滞している。この様子だと島もギチギチに混んでいるのだろう。橋の手前、往来の邪魔にならない所で止まった勇作君がハンカチで汗を拭きながら振り返った。少し風が止んできたから私たちはまた傘の下にいるのだけど、やっぱり暑いものは暑い。
「ナマエちゃん、どうする?」
「……人、すごいね」
「行っても楽しめないかな……」
勇作君と顔を見合わせた。そう、私たちは伺っている。ここで「やめようか」と言うべきか。せっかくここまで来た手前、やめようかと言うのには少し勇気がいる。しかも尾形さんの車に乗せてもらってここまで来ているのだ。あの島へ渡るのをやめてしまうと、わざわざ一時間以上も運転させて、買い食いをし、ちょこっと浜辺に降りただけになってしまう。お前らいい加減にしろよと怒られてもしょうがないくらいのことだと思う。そわそわと、どう切り出そうかと暑さで回らない頭で考えていると、いつもよりも一段と低い、救世主の声が聞こえてきた。
「やめだ、やめ。あんな場所行く気がしれん」
「そうですね、また今度にしましょうか」
「タコせんべいはお預けだね、勇作君」
「それもだけど……せっかくだからお参りしたかったんだよね」
島の方を見つめながら勇作君が呟いた。島の頂上には神社がある。でも確かあそこって縁結び神社じゃなかったっけ。勇作君もそういうの気にするなんて知らなかった。勇作君の恋は応援したいけど、こうやって気軽に会えなくなることへの寂しさを感じていると、とりあえず暑いし車に戻ろうかという話になって、私たちはまた駐車場を目指すことにした。
そこそこに会話をしながら歩いていたはずが、暑さにやられて段々と口数が少なくなっていく。あの角を曲がればやっと駐車場だ。また軽く腕が触れ合ってしまった尾形さんをちらりと見れば、結構つらそうにしていることに気づいた。いつもよりも顔が赤くて、のぼせているような感じに見えた。
「尾形さん大丈夫ですか?顔が赤いですよ」
「え?!僕水とか買ってくるよ!」
先戻っててと勇作君が駆け出したのを見て尾形さんが「なんでアイツはあんなに元気なんだ」と汗を拭いながら心底不思議そうに呟いた。
「尾形さんと一緒にお出かけできて嬉しいんですよ」
首を傾げながら私を見てきたのが尾形さんらしいなと思った。勇作君の思いは多分、1割ほどしか伝わってないのだろう。元々喜怒哀楽の特に「喜」と「楽」の表現が強い人だけど、こんなに楽しそうにしている勇作君は結構レアだと思うのだけど。
「吐き気とか頭痛とかはないですか?」
「そこまでじゃない」
「すみません私たちに付き合わせちゃって……」
「いや……」
やっと車に辿り着けば、車内はそこそこ熱くなっていたが、日陰に停めていたのもあってかガンガンに冷房をつけているうちにすぐに気温が低くなっていった。
「私も勇作君も免許あったら代わることできたんですけど、すみません」
「気にしなくていい」
「でも、免許あったらどこか遠くにも行けるし便利ですよね」
普通に生活する分には全く困らない場所に住んではいるけど、ちょっと足を延ばしたい時に便利なのが車だ。正直に言うと、もっと集中力も時間にもゆとりがあった学生時代に免許を取っておけば良かったな、と少し後悔している。
「無くても良いんじゃないか」
さっきよりも体調が良さそうな尾形さんが、ハンドルに寄りかかりながら返してきた。
「どこか行きたい所があるなら連れて行く」
連れて行く?誰が?尾形さんが?主語が分からず混乱してしまった。話の流れとしては尾形さんしかいない、はず。
「あっ、ありがとうございます……」
「どこか行きたい所はあるか」
「行きたい、所……」
温泉でも行くか、というあのお祭りのあとの言葉を思い出して、ぶわわっと毛が逆立った。そ、そういうんじゃないでしょ、と思い直しても「二人で」という凄まじい攻撃力の言葉までも思い出してしまって、冷房が効いてないんじゃないかってくらいにまた汗が噴き出してきた。どうしよう、何を言おう。何て返したら──
「大丈夫ですかっ?!」
「ひゃっ!」
勇作君が勢いよくドアを開けたのでびっくりしすぎて変な声が出てしまった。ごめんと謝りながら熱風と共に乗り込んできて、ガサガサと袋から取り出されたペットボトルや飲むゼリーを尾形さんに渡している勇作君の腕が視界に入ってきた。
「はい、ナマエちゃんもお水。あとこれは家から持ってきたお菓子」
後部座席に置いてあったのか、軽そうな小ぶりの紙袋から手渡されたのは青白赤のトリコロールがついた個包装のお菓子だった。
「……何でラスクなんだよ」
車内に静かに響いた尾形さんの冷静なツッコミに、じわじわと笑いが込み上げてきた。
「ゆ、勇作君、ラスクはさすがに……ふふっ、尾形さんの水分全部持ってかれちゃうって」
「だって家にたくさんあって美味しかったから……」
美味しいものはみんなで食べたいでしょ、と続けられてしまってはあまり笑うのは可哀そうだと思って、早速袋の上から中身をパキパキと四等分にした。一口サイズになった、車内に放置されてほんのりと温かいラスクを口に運べば、小麦とバターの良い匂いがする生地がザクザクホロホロと崩れて、口の中に上品な甘さが広がって、水分を根こそぎ持って行かれた。絶対に真夏の海辺で食べるものでは無い気がする。ボリボリモッモッと三人で無言でラスクを食べ進め、カラカラな喉に水で押し込んでいく。
「美味しいでしょ、ナマエちゃん?」
「うん、すっごく美味しい」
ね、兄さん?と勇作君がシートの間から身を乗り出して話しかけているのに、尾形さんは何も反応せず無表情でボリボリと二枚目のラスクを食べている。美味しいんだけどね。絶対今じゃないんだよな。
「どうします兄さん?休憩がてら何かちゃんとしたもの食べに行きますか?ずっと軽食ばっかりですよね」
「この辺りだとしらす丼が有名だよね」
「混んでんだろ」
「それなら戻ってショッピングモールでも行きます?」
さっき来る途中に見かけた大型ショッピングモールのことだろうか。滞在時間一時間もないのにもう帰ろうとしている私たちに文句を言う事もなく、尾形さんがカーナビを操作し始めた。
「あっ、そうだ忘れないうちに……ガソリン代出します」
「いらない」
「でもこの間も色々ご馳走になっちゃったので。あれっていくらくらいでした?」
財布から顔を上げたら、尾形さんが私を見ていた。黒目がはっきりしているから、無言で見つめられると圧が凄い。
「えっ、なっ、なんですか」
尾形さんが、何も言わずに段々と近づいてくる。シートベルトが捻じれているのかと思って咄嗟に視線を下にやったが、私はまだシートベルトを着けていなかった。シートベルトじゃないとしたら何、今度は何が捻じれてるの?!パニックになってドアに体を押し付けるように逃げても追い詰められて、尾形さんの手が顔に伸びてきた。
「えっ、えっ……?!」
口元近くに指先が触れてきて、ついに耐え切れずに目をぎゅううっと瞑って体を縮こまらせた。
「ラスク、ついてたぞ」
「……え?」
想定外すぎる言葉に目をぱちっと開けたら、すぐそこで尾形さんがフッと笑った。恥ずかしすぎる。もう遅いというのに、ぺたぺたと口と顎周りを緊張で汗塗れの手のひらで触って、食べカスがついていないことを確認しないと気が済まなかった。顔が熱い。のぼせて死にそうだ。
「はっ……!」
カサっと、多分さっきの紙袋の中のラスクが動いた音に反応して後ろを確認すれば、「僕は何も見ていません」という風に勇作君が体を捻って窓の外、後方の遠くの方をわざとらしく見ていた。ねぇ助けてよ。君のお兄さんでしょ。そう強く念じている間に広い後部座席も同時に目に入った。そういえば、荷物ってどうしたんだろう?荷物があるから後ろに乗れないと言われたはずなのに、あの紙袋以外どこにも見当たらなかった。トランクにでも入れたのだろうか。
「シートベルト」
「は、はい……!」
尾形さんがいつの間にか定位置に戻って出発の準備を終えていた。カチカチカチと音を立てながらなんとか震える手でシートベルトをしっかりと締め終えたら、車が今度はショッピングモールへと発進した。
「……動画?ほぼナマエちゃんしか映ってないじゃないですか」
「お前撮ってどうすんだよ」
「ひどいです」
「後で送れよ、さっきのと一緒に」
2025.02.22
道路が海岸沿いへと抜けて、突然目に飛び込んできたキラキラと煌めく水面とどこまでも続く水平線に、車内だというのに勇作君と大きな声を上げてしまった。道中にあった可愛らしいローカル電車が路面電車のように真ん中を通る商店街などにも寄りつつ、買い食いもしつつ、私たちは本来の目的であった海へとだいぶ時間をかけてから到着した。時刻はお昼前。ほぼ真上に上がった太陽に負けないくらいパワフルな海水浴客でビーチは賑わっている。運よく空いていた駅の近くの駐車場に車を滑り込りこませ、私たちはうだるような暑さの中、海岸への道を歩き始めた。
「暑い……」
先ほどのあの興奮はどこへ行ったのやら、暫く歩いているうちに次第にこの遠慮の欠片もない暑さへの不満が大きくなっていく。自宅を出てからほとんどずっと快適な車に乗っていたから尚更暑さに弱くなった気がする。ファンがあれば良かったのに、別の鞄に入れたままだ。あ、そういえば傘を持ってきていたんだ。朝慌てていたせいですっかり忘れていた。一人で使うのは忍びないけど、さすがに三人で相合傘はできないから、代わる代わる使えば良いかと思って取り出した傘をバサッと開いた。
「入れてくれ」
「えっ?!」
カチッとストッパーが止まる感覚がして傘を開き終えた瞬間、尾形さんが腰を屈めてずいっと傘の中に入ってきて、一瞬ぺとっと二の腕同士がぶつかった。ひぃ近い近い近い!折りたたみだから狭いんですって!
「……持つ」
「うぇ?!」
ぎゅうっと手を握り込まれて、何事かと思ったらそのまま傘を取られた。代わりに持ってくれるらしい。身長差のことを考えれば確かに尾形さんが持った方が良いのだと思うけど、なんで今手握られたんだ?傘の柄と間違えられた?そんなにおっちょこちょいな人なの?手すっごい大きかったんだけど。訳が分からなくて尾形さんを見上げれば、その羨ましいほどに白い首筋に薄っすらと汗が滲んでいた。同じく色白な勇作君はその淡い空色のシャツも相まって洗濯洗剤の広告のような爽やかさがあるのに、尾形さんは変な色気があって、何か見てはいけない物なんじゃないかってドキドキしてしまう。いや変態か。勇作君ごめん本当に、君の兄をこんな風に見てしまって。
「ずるい!僕も入れて!」
「おいやめろ」
「うわ、暑い!暑いよ!」
勇作君まで傘の中に入って来て、狭い傘の中、まるで満員電車のように尾形さんと勇作君に挟まれ押しつぶされて、熱気が凄いことになった。
「やだ、暑すぎ!」
ムワっとした空気に耐えきれずにするっと二人の間から逃げ出せば、すぐさま太陽に焼かれて、ジリジリと肌が焦げていく感覚がした。振り返れば、尾形さんと勇作君が狭い折り畳み傘の中にみっちりと収まっていた。勇作君なんて頭頂部が若干傘にめり込んでいる。明らかに女性用の水玉模様の傘の下に詰め込まれている二人はとてもシュールだった。
「僕が持ちます」
「あっ、オイ!やめろッ」
傘の柄を取ろうとした勇作君を尾形さんが躱して、距離を取ろうとするも勇作君がすかさず開いた距離を詰めていく。
「ふざけるな、何でお前が入ってくるんだ」
「日差しが痛いんです」
「良いから出ろ、ナマエが焼けるだろうが」
「えっ、僕は焼けても良いんですか?」
ぐるぐると傘を振り回しながらまるでダンスでもしているように二人の攻防が続いていく。人の目も気にせずに、小さな傘を巡って言い合う二人に次第に笑いが込み上げてきて、ついに耐えきれずに吹き出してしまった。炎天の中、はははっと口を開けて一人で笑い始めた私に、二人が動きを止めた。
「楽しいね」
顔立ちが全然違う二人なのに、私を見つめてくる表情はどことなく似ている。昔、初めて三人で並んで歩いた時みたいだ。あの時も私が「楽しいね」と言ったら二人とも今みたいにきょとんとしていた。本当に兄弟なんだなぁって思ったから良く覚えてる。ひとしきり笑ったら体温が一層上がって、額に新しく滲み出て来た汗をハンカチで押さえた。
「コンビニで傘買うのはどう?」
道を挟んだコンビニを指させば勇作君が頷いたので、ちょうど青信号だった横断歩道へと駆け出した。肌は痛かったけど、未だに色々言い合いながら兄弟仲良く相合傘をしている二人の前を歩いていくのは結構楽しかった。店内に足を踏み入れれば、軽快な入店の音楽と一緒に冷たい空気が体を包み込んできてまるで天国のようだった。ぽつぽつと立っていく鳥肌すら心地よく感じる。この季節では売れ筋商品なのか、晴雨兼用と書かれた折り畳み傘がビニール傘などと並べられて、入り口近くの目立つ所に置かれていた。
「兄さんも僕とおそろいにします?」
「一本だけで良いだろ。傘なら家にあるから俺はここで買いたくない」
「それじゃあ僕だけ仲間外れじゃないですか」
寂しいなぁと言いつつ、無地の紺色の折り畳み傘を持って勇作君がお会計に向かった。"仲間外れ"って、普通に私と尾形さんが相合傘をすることで話が進んでいるような気がするけど気のせいだろうか。兄弟でするよりかはスペースに余裕があるっていうことなのかな。私の傘も尾形さんが持ったままだ。
「お待たせしました」
タグを切ってもらった傘を早速解きながら、勇作君が傘売り場で待っていた私たちに合流した。自動ドアが開けば、忘れかけていた熱気に体が包まれていき、温度差にまた鳥肌が少し立っていく。傘をどうしようかと思っていると、当たり前のように尾形さんが私の傘を開き、私に傾けてきたのでありがたく中へと入らせていただいた。私は、このスマートさが怖い。お礼を言いながら内心びくびくしていた。一体何人の女性を落としてきたんだろう。沼地の淵を歩いているような気分だ。
直射日光が遮られたことで体感温度がいくらかマシになり、私たちは今度こそ海へと歩き出した。なるべく尾形さんに触れないように……と思って狭い傘の端のギリギリを攻めているのだけど、尾形さんが結局距離を詰めてくるので、何度か汗ばむ二の腕が触れてしまって気まずかったし、その度にまるで心臓が障害物レースでもしているようにジャンプするので海辺に着いた時には中距離走を終えたくらいには精神的に疲弊していた。
白熊 無断転載禁止
「見てください!海です、兄さん!」
「海くらい見たことある」
風が強くなってきたので、勇作君たちが一旦傘をしまった。ちょうど太陽も薄い雲に隠れたお陰で少しだけ暑さも和らいだ気がする。歩道から砂浜へと続く階段を降り、ざく、ざく、と靴の中に砂が入らないように慎重に歩を進めていく。返してもらおうと思ったのに、「また使うから」と断られてしまったので、私の傘は尾形さんが持ったままだ。
「そういえばなんで海だったの?」
色んな所に一緒に行ってきたけど、ここまで遠出することは中々なかったと思う。ごうごうと耳元で響く海辺の強風に負けないように声を張り上げながら勇作君に尋ねた。常に風向きが変わっているのか、押さえていないと髪の毛がすぐに顔にまとわりついてくる。スカートで来なくてよかった、本当に。
「うーん、夏だから……?」
「ええ?何それ」
「夏といえば海とお祭りでしょ。兄さんとナマエちゃんと、夏の思い出が作りたかっただけ」
「そっか、じゃあまた勇作君とお祭り一緒に行かなきゃね」
楽しみにしていたのに勇作君は来られなかったから、また行けたら良いな。尾形さんと三人でも良い。なのに勇作君は一瞬「え?」と聞き返してきたあとに「ああ、うん、そうだね」と眉を下げて笑った。変なの。
そのうち砂の色が濃くなり、湿ってきて、幾分か歩きやすくなってきた。どうしてかぽっかりと波打ち際に空いた穴を勇作君と覗きこんだり、綺麗な貝を探しながら波から逃げたりしていると、ふと後ろにいたはずの存在がいないことに気づいた。
「……あれ?尾形さんは?」
「あそこの陰にいるよ」
「あっ本当だ」
いつの間にあんな所に。だいぶ離れた海の家のひさしの中に入り、腕組みをしながらジッとこちらを見ている尾形さんに勇作君が手を振れば、一瞬だけ手が上がってまた腕組みに戻った。怒っているわけではないのだろうけど、どういう感情なのかいまいち良く分からなかった。
「……尾形さんって、海来たかったのかな」
「うん、楽しみにしてたよ」
「えっ、本当?無理させてないかな、車も出させちゃって……」
「大丈夫だよ、気にしないで」
そうは言われても、どう見ても楽しみにしていた人間の雰囲気ではないので不安は募るばかりだ。お祭りの時といい、良いように使っているようで申し訳ないと思っていると「戻ろっか」と勇作君が歩き出した。ざく、ざく、とまた二人で砂を踏みしめていく。段々と尾形さんへと近づいていくと、尾形さんもひさしの影から出てきて、こちらへと歩いてきた。
「もう良いのか」
「はい、あっちの島に行きませんか?」
ここから西側に浮かぶ、展望台がキャンドルのように刺さった島を勇作君が指差した。少し先に橋があり、それを渡れば有名なパワースポットである島に行けるのだ。タコを丸ごとプレスしてせんべいにした物が食べたいと勇作君がニコニコと伝えれば、尾形さんが眉を顰めた。
「残酷なことをするもんだな」
「確かにちょっとプレスされる所は見れないかも……」
「でも美味しいって評判だよ」
ほら、とスマホの画面を見せられたら想像よりも大きい物が表示されていて二度見してしまった。顔よりも大きい。丸い頭が特徴的な、立体的なタコが見事にぺしゃんこにされ、触手らしき物が所々残る素朴な焼き色のせんべいになっていることに何だか切なさを感じてしまう。少々グロテスクではあるけれど、食べたら絶対に美味しいんだろうな、と思ってしまうのは日本人の性なのか。でもきっと尾形さんは食べないんだろうな。未だに怪訝そうにスマホの画面を見つめている尾形さんを見て思った。
「そうだ兄さん!写真撮りましょう、写真!」
「うっ……」白熊 無断転載禁止
「わっ……!」
急にドンッと、玉突き事故よろしく勇作君が尾形さんにぶつかり、尾形さんが私にぶつかった。ぐらっと揺れた体がぐいっとまた力強く引き寄せられて、気づいたら尾形さんにしなだれ掛かるように体が傾いていた。
「撮りますよ」
「えっ?!ま、ま、まって、まって!!」
「さーん、にーい──」
「待って?!」
あのお祭りの日の時よりもべったりと尾形さんにくっついてしまっていて、伝わってくる体温に頭が真っ白だった。良い匂いがする。どうにか離れようと押し返してみても、尾形さんの腕が背中を通って、がっちりと私のだらしのない二の腕を掴んでいるから全然離れられない。いやなんで?!勇作君の長い腕の先にあるスマホの画面には高い空と、輝く海と、左右に余白が有り余ったぎゅうぎゅう詰めな私たち三人が映っている。
「──いーち」
爆音で鳴り続ける心臓の音の合間に、ピコンっとシャッター音ではない軽やかな音が聞こえてきた。
「あっ動画だった!」
はははっ、と画面の中の勇作君が笑った。別段慌てることもなく、「三人で海に来てまーす」と笑顔でカメラに手を振っているマイペースな姿に、今の自分の状況も忘れて私も笑ってしまった。ピコンっとまた音がして撮影が終了すれば、ふっと尾形さんの腕の力が抜けて、やっと解放された。動悸が止まらない。膝から崩れ落ちそうだ。今度こそこのまま死ぬんじゃないだろうか。二の腕にまだ尾形さんに掴まれていた感覚が残っていて、そこがムズムズと疼いた。こんなことならもっと二の腕を引き締めておくんだった。まあ袖で隠れるし……と今まで何もしてこなかった自分を呪った。
「ナマエちゃん、僕たちの写真も撮ってくれる?」
「絶対に嫌だ」
「えぇー……じゃあ代わりに僕たちのを撮ってください」
勇作君のスマホを受け取った尾形さんが、少し操作したあとに私たちにカメラを向けた。数歩ずつ離れていきながら、画角を調整している様子だ。髪の毛を手で押さえつつ「風すごいね」などと笑い合っていると、尾形さんが静かに戻ってきてスマホを返しにきたので、勇作君と二人して「え?!」と驚いてしまった。
「尾形さん今撮ってたんですか?」
「そうですよ、撮るなら言ってくださいよ」
「こういうのは自然体の方が良いんだよ」
そうなの?無言で撮られたことにはびっくりしたけど、自然体と言われれば悪い気はしなかった。何でもないような日常を切り取ったような写真が後に貴重な一枚になったりするし、カメラを意識していない空気感は私たちの本質を捉えてくれる気がする。でも大丈夫だったかな。風のせいでほとんど目を瞑っていたような。撮るよ、とちゃんと事前に言われても私は微妙な顔になっていることが多いから写真は苦手だ。
「──ひどいです」
隣で尾形さんと何か話しながら写真を確認していた勇作君の声が聞こえてきて一気に不安になった。やっぱり私半目だったのかな。消しといてほしいな。行くぞ、と尾形さんが先に歩き出したので、私たちも続いてまた階段を上り、島への橋へと向かっていった。白熊 無断転載禁止
「うわー暑そう……」
ジリジリと全てを焼き尽くすような太陽光線を浴びながら、真っ直ぐに伸びた歩行者用の橋をゾロゾロと人が歩いて行く。隣の車用の橋も中々に渋滞している。この様子だと島もギチギチに混んでいるのだろう。橋の手前、往来の邪魔にならない所で止まった勇作君がハンカチで汗を拭きながら振り返った。少し風が止んできたから私たちはまた傘の下にいるのだけど、やっぱり暑いものは暑い。
「ナマエちゃん、どうする?」
「……人、すごいね」
「行っても楽しめないかな……」
勇作君と顔を見合わせた。そう、私たちは伺っている。ここで「やめようか」と言うべきか。せっかくここまで来た手前、やめようかと言うのには少し勇気がいる。しかも尾形さんの車に乗せてもらってここまで来ているのだ。あの島へ渡るのをやめてしまうと、わざわざ一時間以上も運転させて、買い食いをし、ちょこっと浜辺に降りただけになってしまう。お前らいい加減にしろよと怒られてもしょうがないくらいのことだと思う。そわそわと、どう切り出そうかと暑さで回らない頭で考えていると、いつもよりも一段と低い、救世主の声が聞こえてきた。
「やめだ、やめ。あんな場所行く気がしれん」
「そうですね、また今度にしましょうか」
「タコせんべいはお預けだね、勇作君」
「それもだけど……せっかくだからお参りしたかったんだよね」
島の方を見つめながら勇作君が呟いた。島の頂上には神社がある。でも確かあそこって縁結び神社じゃなかったっけ。勇作君もそういうの気にするなんて知らなかった。勇作君の恋は応援したいけど、こうやって気軽に会えなくなることへの寂しさを感じていると、とりあえず暑いし車に戻ろうかという話になって、私たちはまた駐車場を目指すことにした。
そこそこに会話をしながら歩いていたはずが、暑さにやられて段々と口数が少なくなっていく。あの角を曲がればやっと駐車場だ。また軽く腕が触れ合ってしまった尾形さんをちらりと見れば、結構つらそうにしていることに気づいた。いつもよりも顔が赤くて、のぼせているような感じに見えた。
「尾形さん大丈夫ですか?顔が赤いですよ」
「え?!僕水とか買ってくるよ!」
先戻っててと勇作君が駆け出したのを見て尾形さんが「なんでアイツはあんなに元気なんだ」と汗を拭いながら心底不思議そうに呟いた。
「尾形さんと一緒にお出かけできて嬉しいんですよ」
首を傾げながら私を見てきたのが尾形さんらしいなと思った。勇作君の思いは多分、1割ほどしか伝わってないのだろう。元々喜怒哀楽の特に「喜」と「楽」の表現が強い人だけど、こんなに楽しそうにしている勇作君は結構レアだと思うのだけど。
「吐き気とか頭痛とかはないですか?」
「そこまでじゃない」
「すみません私たちに付き合わせちゃって……」
「いや……」
やっと車に辿り着けば、車内はそこそこ熱くなっていたが、日陰に停めていたのもあってかガンガンに冷房をつけているうちにすぐに気温が低くなっていった。
「私も勇作君も免許あったら代わることできたんですけど、すみません」
「気にしなくていい」
「でも、免許あったらどこか遠くにも行けるし便利ですよね」
普通に生活する分には全く困らない場所に住んではいるけど、ちょっと足を延ばしたい時に便利なのが車だ。正直に言うと、もっと集中力も時間にもゆとりがあった学生時代に免許を取っておけば良かったな、と少し後悔している。
「無くても良いんじゃないか」
さっきよりも体調が良さそうな尾形さんが、ハンドルに寄りかかりながら返してきた。
「どこか行きたい所があるなら連れて行く」
連れて行く?誰が?尾形さんが?主語が分からず混乱してしまった。話の流れとしては尾形さんしかいない、はず。
「あっ、ありがとうございます……」
「どこか行きたい所はあるか」
「行きたい、所……」
温泉でも行くか、というあのお祭りのあとの言葉を思い出して、ぶわわっと毛が逆立った。そ、そういうんじゃないでしょ、と思い直しても「二人で」という凄まじい攻撃力の言葉までも思い出してしまって、冷房が効いてないんじゃないかってくらいにまた汗が噴き出してきた。どうしよう、何を言おう。何て返したら──
「大丈夫ですかっ?!」
「ひゃっ!」
勇作君が勢いよくドアを開けたのでびっくりしすぎて変な声が出てしまった。ごめんと謝りながら熱風と共に乗り込んできて、ガサガサと袋から取り出されたペットボトルや飲むゼリーを尾形さんに渡している勇作君の腕が視界に入ってきた。
「はい、ナマエちゃんもお水。あとこれは家から持ってきたお菓子」
後部座席に置いてあったのか、軽そうな小ぶりの紙袋から手渡されたのは青白赤のトリコロールがついた個包装のお菓子だった。
「……何でラスクなんだよ」
車内に静かに響いた尾形さんの冷静なツッコミに、じわじわと笑いが込み上げてきた。
「ゆ、勇作君、ラスクはさすがに……ふふっ、尾形さんの水分全部持ってかれちゃうって」
「だって家にたくさんあって美味しかったから……」
美味しいものはみんなで食べたいでしょ、と続けられてしまってはあまり笑うのは可哀そうだと思って、早速袋の上から中身をパキパキと四等分にした。一口サイズになった、車内に放置されてほんのりと温かいラスクを口に運べば、小麦とバターの良い匂いがする生地がザクザクホロホロと崩れて、口の中に上品な甘さが広がって、水分を根こそぎ持って行かれた。絶対に真夏の海辺で食べるものでは無い気がする。ボリボリモッモッと三人で無言でラスクを食べ進め、カラカラな喉に水で押し込んでいく。
「美味しいでしょ、ナマエちゃん?」
「うん、すっごく美味しい」
ね、兄さん?と勇作君がシートの間から身を乗り出して話しかけているのに、尾形さんは何も反応せず無表情でボリボリと二枚目のラスクを食べている。美味しいんだけどね。絶対今じゃないんだよな。
「どうします兄さん?休憩がてら何かちゃんとしたもの食べに行きますか?ずっと軽食ばっかりですよね」
「この辺りだとしらす丼が有名だよね」
「混んでんだろ」
「それなら戻ってショッピングモールでも行きます?」
さっき来る途中に見かけた大型ショッピングモールのことだろうか。滞在時間一時間もないのにもう帰ろうとしている私たちに文句を言う事もなく、尾形さんがカーナビを操作し始めた。
「あっ、そうだ忘れないうちに……ガソリン代出します」
「いらない」
「でもこの間も色々ご馳走になっちゃったので。あれっていくらくらいでした?」
財布から顔を上げたら、尾形さんが私を見ていた。黒目がはっきりしているから、無言で見つめられると圧が凄い。
「えっ、なっ、なんですか」
尾形さんが、何も言わずに段々と近づいてくる。シートベルトが捻じれているのかと思って咄嗟に視線を下にやったが、私はまだシートベルトを着けていなかった。シートベルトじゃないとしたら何、今度は何が捻じれてるの?!パニックになってドアに体を押し付けるように逃げても追い詰められて、尾形さんの手が顔に伸びてきた。
「えっ、えっ……?!」
口元近くに指先が触れてきて、ついに耐え切れずに目をぎゅううっと瞑って体を縮こまらせた。
「ラスク、ついてたぞ」
「……え?」
想定外すぎる言葉に目をぱちっと開けたら、すぐそこで尾形さんがフッと笑った。恥ずかしすぎる。もう遅いというのに、ぺたぺたと口と顎周りを緊張で汗塗れの手のひらで触って、食べカスがついていないことを確認しないと気が済まなかった。顔が熱い。のぼせて死にそうだ。
「はっ……!」
カサっと、多分さっきの紙袋の中のラスクが動いた音に反応して後ろを確認すれば、「僕は何も見ていません」という風に勇作君が体を捻って窓の外、後方の遠くの方をわざとらしく見ていた。ねぇ助けてよ。君のお兄さんでしょ。そう強く念じている間に広い後部座席も同時に目に入った。そういえば、荷物ってどうしたんだろう?荷物があるから後ろに乗れないと言われたはずなのに、あの紙袋以外どこにも見当たらなかった。トランクにでも入れたのだろうか。
「シートベルト」
「は、はい……!」
尾形さんがいつの間にか定位置に戻って出発の準備を終えていた。カチカチカチと音を立てながらなんとか震える手でシートベルトをしっかりと締め終えたら、車が今度はショッピングモールへと発進した。
「……動画?ほぼナマエちゃんしか映ってないじゃないですか」
「お前撮ってどうすんだよ」
「ひどいです」
「後で送れよ、さっきのと一緒に」
2025.02.22
