からかい上手の尾形さん
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海に行こうよ!と勇作君から急に連絡が来たのが数日前のこと。向こうで落ち合う時間から逆算して、ギリギリまで寝られるように設定していたアラームを手探りで止めた。すっぴんで年中過ごしていた時から知っている仲だし、今さら見栄を張ったり取り繕う必要もないから、勇作君と出かける時はこうやってのんびりと支度ができるのが嬉しい。この関係が長く続けられているのも、こういうところが心地良いからかもしれない。
しかし、私は忘れていた。私たちの人生に、彗星のごとく突如として現れた人物が、長年変化の無かった勇作君との関係を少しずつ変えてきていることを。
『ナマエちゃんまだ家出てないよね?』
もうちょっと横になってても良いかな、なんてことを思いながらスマホを手にして、しょぼしょぼと霞んだ画面を操作していた。勇作君から何通かメッセージが届いているようだったので開いたら、30分ほど前に送られてきていた文面が目に飛び込んできた。
『車で迎えに行くね』
「……むかえ?」
現地集合現地解散が基本の私たちには無縁の言葉を、訳も分からず復唱した。
『兄さんと』
「にい、さん……ッ?!」
寝起きのぽやぽやとしていた頭が一気に覚醒した。兄さんって……兄さんだよね。尾形さん?えっ、待って。今日尾形さんも来るの?お祭りの時と同じ衝撃を受けて、思わず不安定なベッドの上で立ち上がってしまった。
『9時半頃に行くね』
「今……8時45分ッ?!」
あと一時間もない。下の階の迷惑も考えずにドスンとベッドから飛び降り、洗面所へと慌ただしく駆け込んだ。今日に限って寝癖が爆発しているし、出来立てほやほやのニキビがぽつっと顎下で赤く主張している。
「あっ返信……は、良いか!」
既読ついたから多分向こうも分かってくれるだろう。返信する僅かな時間でさえも支度の時間に回したくて、ヘアアイロンを準備してからバタバタとトイレへと駆け込んで、最短で支度が出来るように頭の中で工程を組み立て始めた。こんなはずじゃなかったのに!白熊 無断転載禁止
「ひぃいっもうあと10分もないよ勇作君!」
頼むから渋滞にでも巻き込まれていてほしい。どうにか首から上を作り上げることができたけど、慌てているせいでアイロンで指を軽く火傷してしまったし、ニキビは全然隠れてくれないし、アイラインも何回も引き直さなくてはならなくて最悪だった。もう、3人なら3人だと最初から言って欲しい。いや、もしかしたら急に尾形さんも海に行きたいとか言ったのかもしれない。いや、そんな人には見えないから、やっぱり最初から3人だったのだろうか。
どうなの勇作君。なんなの勇作君。最近ちょっと連絡が雑になってませんか勇作君。
でも尾形さんが来ることはもう確定事項なのだからそんなことは最早どうでもよくて、早く今日着ていく服を決めなければならなかった。昨日のうちに何を着て行こうか目星はつけていたけど、尾形さんが来るとなると話は別だ。ちゃんとした服を着たい。尾形さんの隣に似合いそうなタイトな服とヒールは着こなせないけど、芋い奴だとは思われたくない。
慌ててクローゼットを開いて、いくつか候補をベッドに広げ始めた。海辺にスカートはちょっと風が心配だから除外するとして、カジュアル過ぎるのも子供っぽいと思われそうで嫌だな……あれでもない、これでもないと鏡の前で早着替えファッションショーを一人で開催していると、ヴヴっとスマホが鳴った。
『マンションの下で待ってるね』
「早いよ!!」
まだ9時25分だよと思っていたら『僕たちも少し休憩したいから急がなくて大丈夫だよ』と、私の叫びを見透かしたように勇作君から続けてメッセージが届いた。その気遣いを違うところで発揮してほしかった。
結局、今までの早着替えで一番マシに見えた白いチュールトップスとデニムの組み合わせを選ぶことにした。トップスは、二の腕や首回りの程よい透け感とふわっとしたシルエットに一目ぼれして買ったものの、可愛すぎるかなと思ってあまり日常生活で活躍の場が無かった物だ。店員さんに「デートにもぴったりですよ」と言われたのを思い出してちょっと顔が緩んだ。今日はデートじゃない、けど。最後に洗面所に寄って、何度も着替えたせいでボサボサになっていた髪の毛を手櫛で整えた。リップを塗ってスマホを確認すればもう40分で、鞄の中に色々投げ込んでから玄関を飛び出した。
「すみません、お待たせしました!」
エントランスを出れば、見覚えのある車がすぐ横に止まっていた。運転席の尾形さんと目があって、普通に話す感じで咄嗟に謝ってしまったけど、多分聞こえてなかっただろうな。後部座席で勇作君が手を振ってきたので隣に乗ろうとしたら「こっちだ」と中から尾形さんによって助手席が開けられた。「後ろは荷物を置いちゃってて」とシートの隙間から顔を覗かせた勇作くんが言った。そんなに荷物持ってきたの?海にでも入るつもりなのだろうか。
「し、失礼しまぁす……」
あのお祭りの日のことを思い出して、一人でドキドキしながら乗り込んだ。あの日のように尾形さんは黒いTシャツを着ているから尚更だ。後部座席からこちらを伺っている勇作君は、その対極のような、春の空みたいな淡いブルーのシャツを着ていた。今日は普通に洋服だから乗るのに苦戦はしなかったけど、服が挟まれていないことを確認してからドアを閉めて、念入りにシートベルトが捻れていないことも確認した。君が捻じれたせいで大変な目にあったんだ。もう捻じれるんじゃないぞと言い聞かせてからふと視線を上げれば、バックミラーに映る勇作君がいつも以上にニコニコしていた。
「どうしたの?」
「ううん、嬉しくて」
そんなに今日海に行くのが楽しみなのか。見ているこっちまで嬉しくなってくる子供のような笑顔に、私も気づいたら頬が緩んでいた。昔、遠足に行った時も勇作君はこうやって楽しそうにしていたっけ。
「ナマエちゃん今日少し雰囲気違うね?」
「そ、そう?」
「うん。可愛いですよね?兄さん」
いつもよりも気合が入っていることを指摘されただけでも気まずかったのに、あろうことか尾形さんに話を振ったので車よりも先に私の心臓が走り出しそうだった。出発の準備をしながら、チラッと私を一瞥した尾形さんに耐えられなくて視線を泳がせれば、私たちのシートに手をかけて、前のめりで尾形さんの言葉を待っている勇作君が視界の端に入ってきた。
「そうだな」
言わせてるじゃん。いつもと変わらない落ち着いた声の尾形さんに、心臓がぎゅっと縮こまったと同時に車が発進した。まるで幽体離脱のように私の魂だけが置いてけぼりにされたように錯覚した。変なこと言わないで、と後ろの勇作君に睨みを効かせたのに、本人は目を三日月にして微笑み返してくるだけだ。勇作君のチャームポイントとも言える笑顔が、今だけは憎たらしかった。
土曜日の朝、少しだけ混んでいる道を車がすーっと走っていく。今日も音楽やラジオはかかっていない。いつも何もかけないのかな?普段から人の車に乗る機会がないからそれが普通なのかも良く分からないけど、海に行くなら夏のヒットソング的な物をかけて気分を盛り上げたりするイメージがあったから、外の音が僅かに聞こえてくるだけの車内は少し寂しく感じた。でも、尾形さんがノリノリで夏のヒットソングを聴いているのも想像できないから、このままが一番自然なのかも知れない。
「あんまり触らない方がいいんじゃないか」
目線は前のままの尾形さんに急に話を振られて反応が遅れた。顎のニキビを無意識に指で触っていたことを指摘されているのだと気づいて、ぶわっと一気に顔に熱が集まった。
「ごっ、ごめんなさい。朝起きたら急に出来てて気になっちゃって……」
「そこに出来るのって思われニキビって言うんだよね」
「思われニキビかぁ、懐かしい。すごい久々に聞いた」
そういえばニキビはできる場所によって、思い思われ振り振られと色々な名前がついていた。片思いしてるからだとか、告白する前から振られちゃったとか、みんなできゃあきゃあ言い合っていた青い日々が懐かしい。でもそんな可愛らしい名前がついていたとしても、このニキビが憎いことには変わりない。なんで今日に限ってこんな目立つ所にできたんだろう。また触らないようにと膝の上で両手を軽く組んだ時に、勇作君の含みのある声が後ろから聞こえてきた。
白熊 無断転載禁止
「ナマエちゃんは誰に思われてるんだろうね?」
右折待ちレーンでゆっくりと動いていた車体が急にガクっと止まって、後ろから「痛っ」という勇作君の声と衝撃が伝わってきたが、十数年来の付き合いの大切な友人を心配するほどの余裕を私は持ち合わせていなかった。少しだけ前のめりになった体の鳩尾あたりに、尾形さんの厚い手のひらが私を支えるように触れていたからだ。ドッドッドッドッと狂ったように心臓が跳ね始め、心音が轟くように鼓膜を揺らし、何か言おうとすればたちまち大声で叫びだしそうだった。
「……悪い」
鳩尾の手がハンドルに戻っていって、ふっと体の力が抜けた。極度の緊張から解放されて少しだけ涙が滲んだ。テレビやネットの記事でしか知らなかった急ブレーキ時のあの有名な動作を、まさか自分が体験することになるなんて思っていなかった。シートベルトは確認したのに。これは盲点だった。助手席怖い。誰かボタンを押して私の席だけ外に射出して欲しかった。夏祭りでもエスコートしてくれていたし、本当に尾形さんのさり気ない動作の一つ一つが私を殺しにかかってきている。怖いなぁ、沼だなぁ。
「青ですよ兄さん」
「うるせぇ分かってる」
後ろからのクラクションに急かされるように尾形さんが車を発進させた。右折した先は片側二車線の広い道路で、車はもう既に私の生活圏をとうに越えた場所を進んでいた。さっきよりもスイスイ進んで景色が流れて行くのが気持ちいい。
「今時年賀状のやりとりしてるのか」
「えっ……?あっ、勇作君とですか?学生の頃からの習慣で」
「物好きだな」
突然、尾形さんが夏なのに年賀状の話をし始めた。謎すぎる会話に突っ込んで聞いてみたい気持ちもあるものの、運転中に悪いだろうかと迷っていると、勇作君が会話に参加してきた。
「ナマエちゃんの住所が分かる物が年賀状しかなくて。それで兄さんびっくりしてて」
「確かに、今時年賀状って送らないもんね」
いつから始めたのかも思い出せないくらい、勇作君とは長い間年賀状のやりとりをしている。それは私が実家を出て一人暮らしをし始めてからも続いていて、身に染み付いた年末年始の恒例行事となっている。昔の人はそれはそれは大勢に送るからうんざりするほど大変だったのだろうけど、私は勇作君とほんの一握りの友人にしか送らないので、今年はどんなデザインや写真にしよう、どんな物が届くのだろうと考えるのが年末のささやかな楽しみだった。
「年賀状、案外良いですよ。兄さんも僕とやります?」
「やらない」白熊 無断転載禁止
つれない返事に勇作君が残念そうに眉を下げた。でも勇作君は実家暮らしだから、尾形さんと年賀状をやりとりするとなると色々複雑なんじゃないだろうか。実際花沢家と尾形さんがどういう関係なのか知らないけど。異母兄弟とその弟の同級生という私たちの組み合わせも、改めて考えると妙な関係だ。そんなことをボーッと考えながら窓の外を覗いたら、少し先でファストフード店の季節限定のドリンクの幟がはためいているのが見えた。勇作君も見つけたのか「あっ」と声が聞こえてきて、シートの間から腕が伸びてきた。
「あそこ、レモンシャーベットだって。ナマエちゃん好きそうなやつだね」
「うん、好き!海の方にも店舗あったら飲みたいなぁ」
鞄から取り出したスマホで店舗情報を調べようとしたら、チカチカとウィンカーの音がして、さっき前方に見えた幟の脇を通って車がお店の敷地内に入っていった。気づいた時には車がドライブスルーの列に並び始めていた。
「えっ……」
「飲みたいんだろ」
「い、いいんですか?!」
「向こうだと混んでるだろうしな」
良かったね、と勇作君が笑いかけてきて嬉しいやら恥ずかしいやらでむず痒い気持ちになって、モジモジと座り直した。私、そんなに飲みたそうにしてたかな。お祭りの時も、食べたかったたこ焼きを買って来てくれたことを不意に思い出して、危うくまた顔が真っ赤になるところだった。絶対、食い意地が張っている奴だと思われてる。別にそこまでじゃないんだけどな。ただ美味しいものが好きなだけで。
前には2台ほどしか並んでいなかったので、すぐに私たちの番は回ってきた。私と勇作君はレモンシャーベットのドリンク、尾形さんは氷抜きの烏龍茶を注文した。受け取った袋を三人で回していき、各々のドリンクを取っていく。結露した紙コップを持ちながら、もったりとした中身をグルグルと何度か掻き混ぜて、ストローに吸い付いた。
「おいしい!」
ストローから上がってきたのは、すっきり甘くてしっかり酸っぱい、シャリシャリとした夏の味だった。レモンピールが入っているのか、所々粒々していてほんのりと苦みも感じる。甘いだけの飲み物が多い中、これは中々大人な味だ。後ろを見れば、勇作君も瞳を輝かせて飲んでいたので「夏の味がするね」と二人で笑いあった。
「尾形さんのも美味しいですか?」
「……まあ、烏龍茶だからな」
「あっ、そっかぁ、そうですよね」
同じ製造元なのか、どこで頼んでも烏龍茶は味がブレずあまり当たり外れがない。そこが烏龍茶の良いところである。
「美味しくない烏龍茶ってどんなのだろう?」
「え~?めんつゆの味がするとか?」
「うわぁそれは嫌だ」
「……それはもう烏龍茶じゃないだろ」
ドリンクを啜りながら全く実りのない会話をし始めた私たちを乗せて、車が今度こそ海へと出発した。
『ナマエちゃんからの年賀状、小学校から今年までのがありますけどどれが見たいですか?』
『お前宛だろ。そんなに簡単に見せて良いものなのか』
『いらないんですか?』
『いらないとは言ってない』
2025.01.22
しかし、私は忘れていた。私たちの人生に、彗星のごとく突如として現れた人物が、長年変化の無かった勇作君との関係を少しずつ変えてきていることを。
『ナマエちゃんまだ家出てないよね?』
もうちょっと横になってても良いかな、なんてことを思いながらスマホを手にして、しょぼしょぼと霞んだ画面を操作していた。勇作君から何通かメッセージが届いているようだったので開いたら、30分ほど前に送られてきていた文面が目に飛び込んできた。
『車で迎えに行くね』
「……むかえ?」
現地集合現地解散が基本の私たちには無縁の言葉を、訳も分からず復唱した。
『兄さんと』
「にい、さん……ッ?!」
寝起きのぽやぽやとしていた頭が一気に覚醒した。兄さんって……兄さんだよね。尾形さん?えっ、待って。今日尾形さんも来るの?お祭りの時と同じ衝撃を受けて、思わず不安定なベッドの上で立ち上がってしまった。
『9時半頃に行くね』
「今……8時45分ッ?!」
あと一時間もない。下の階の迷惑も考えずにドスンとベッドから飛び降り、洗面所へと慌ただしく駆け込んだ。今日に限って寝癖が爆発しているし、出来立てほやほやのニキビがぽつっと顎下で赤く主張している。
「あっ返信……は、良いか!」
既読ついたから多分向こうも分かってくれるだろう。返信する僅かな時間でさえも支度の時間に回したくて、ヘアアイロンを準備してからバタバタとトイレへと駆け込んで、最短で支度が出来るように頭の中で工程を組み立て始めた。こんなはずじゃなかったのに!白熊 無断転載禁止
「ひぃいっもうあと10分もないよ勇作君!」
頼むから渋滞にでも巻き込まれていてほしい。どうにか首から上を作り上げることができたけど、慌てているせいでアイロンで指を軽く火傷してしまったし、ニキビは全然隠れてくれないし、アイラインも何回も引き直さなくてはならなくて最悪だった。もう、3人なら3人だと最初から言って欲しい。いや、もしかしたら急に尾形さんも海に行きたいとか言ったのかもしれない。いや、そんな人には見えないから、やっぱり最初から3人だったのだろうか。
どうなの勇作君。なんなの勇作君。最近ちょっと連絡が雑になってませんか勇作君。
でも尾形さんが来ることはもう確定事項なのだからそんなことは最早どうでもよくて、早く今日着ていく服を決めなければならなかった。昨日のうちに何を着て行こうか目星はつけていたけど、尾形さんが来るとなると話は別だ。ちゃんとした服を着たい。尾形さんの隣に似合いそうなタイトな服とヒールは着こなせないけど、芋い奴だとは思われたくない。
慌ててクローゼットを開いて、いくつか候補をベッドに広げ始めた。海辺にスカートはちょっと風が心配だから除外するとして、カジュアル過ぎるのも子供っぽいと思われそうで嫌だな……あれでもない、これでもないと鏡の前で早着替えファッションショーを一人で開催していると、ヴヴっとスマホが鳴った。
『マンションの下で待ってるね』
「早いよ!!」
まだ9時25分だよと思っていたら『僕たちも少し休憩したいから急がなくて大丈夫だよ』と、私の叫びを見透かしたように勇作君から続けてメッセージが届いた。その気遣いを違うところで発揮してほしかった。
結局、今までの早着替えで一番マシに見えた白いチュールトップスとデニムの組み合わせを選ぶことにした。トップスは、二の腕や首回りの程よい透け感とふわっとしたシルエットに一目ぼれして買ったものの、可愛すぎるかなと思ってあまり日常生活で活躍の場が無かった物だ。店員さんに「デートにもぴったりですよ」と言われたのを思い出してちょっと顔が緩んだ。今日はデートじゃない、けど。最後に洗面所に寄って、何度も着替えたせいでボサボサになっていた髪の毛を手櫛で整えた。リップを塗ってスマホを確認すればもう40分で、鞄の中に色々投げ込んでから玄関を飛び出した。
「すみません、お待たせしました!」
エントランスを出れば、見覚えのある車がすぐ横に止まっていた。運転席の尾形さんと目があって、普通に話す感じで咄嗟に謝ってしまったけど、多分聞こえてなかっただろうな。後部座席で勇作君が手を振ってきたので隣に乗ろうとしたら「こっちだ」と中から尾形さんによって助手席が開けられた。「後ろは荷物を置いちゃってて」とシートの隙間から顔を覗かせた勇作くんが言った。そんなに荷物持ってきたの?海にでも入るつもりなのだろうか。
「し、失礼しまぁす……」
あのお祭りの日のことを思い出して、一人でドキドキしながら乗り込んだ。あの日のように尾形さんは黒いTシャツを着ているから尚更だ。後部座席からこちらを伺っている勇作君は、その対極のような、春の空みたいな淡いブルーのシャツを着ていた。今日は普通に洋服だから乗るのに苦戦はしなかったけど、服が挟まれていないことを確認してからドアを閉めて、念入りにシートベルトが捻れていないことも確認した。君が捻じれたせいで大変な目にあったんだ。もう捻じれるんじゃないぞと言い聞かせてからふと視線を上げれば、バックミラーに映る勇作君がいつも以上にニコニコしていた。
「どうしたの?」
「ううん、嬉しくて」
そんなに今日海に行くのが楽しみなのか。見ているこっちまで嬉しくなってくる子供のような笑顔に、私も気づいたら頬が緩んでいた。昔、遠足に行った時も勇作君はこうやって楽しそうにしていたっけ。
「ナマエちゃん今日少し雰囲気違うね?」
「そ、そう?」
「うん。可愛いですよね?兄さん」
いつもよりも気合が入っていることを指摘されただけでも気まずかったのに、あろうことか尾形さんに話を振ったので車よりも先に私の心臓が走り出しそうだった。出発の準備をしながら、チラッと私を一瞥した尾形さんに耐えられなくて視線を泳がせれば、私たちのシートに手をかけて、前のめりで尾形さんの言葉を待っている勇作君が視界の端に入ってきた。
「そうだな」
言わせてるじゃん。いつもと変わらない落ち着いた声の尾形さんに、心臓がぎゅっと縮こまったと同時に車が発進した。まるで幽体離脱のように私の魂だけが置いてけぼりにされたように錯覚した。変なこと言わないで、と後ろの勇作君に睨みを効かせたのに、本人は目を三日月にして微笑み返してくるだけだ。勇作君のチャームポイントとも言える笑顔が、今だけは憎たらしかった。
土曜日の朝、少しだけ混んでいる道を車がすーっと走っていく。今日も音楽やラジオはかかっていない。いつも何もかけないのかな?普段から人の車に乗る機会がないからそれが普通なのかも良く分からないけど、海に行くなら夏のヒットソング的な物をかけて気分を盛り上げたりするイメージがあったから、外の音が僅かに聞こえてくるだけの車内は少し寂しく感じた。でも、尾形さんがノリノリで夏のヒットソングを聴いているのも想像できないから、このままが一番自然なのかも知れない。
「あんまり触らない方がいいんじゃないか」
目線は前のままの尾形さんに急に話を振られて反応が遅れた。顎のニキビを無意識に指で触っていたことを指摘されているのだと気づいて、ぶわっと一気に顔に熱が集まった。
「ごっ、ごめんなさい。朝起きたら急に出来てて気になっちゃって……」
「そこに出来るのって思われニキビって言うんだよね」
「思われニキビかぁ、懐かしい。すごい久々に聞いた」
そういえばニキビはできる場所によって、思い思われ振り振られと色々な名前がついていた。片思いしてるからだとか、告白する前から振られちゃったとか、みんなできゃあきゃあ言い合っていた青い日々が懐かしい。でもそんな可愛らしい名前がついていたとしても、このニキビが憎いことには変わりない。なんで今日に限ってこんな目立つ所にできたんだろう。また触らないようにと膝の上で両手を軽く組んだ時に、勇作君の含みのある声が後ろから聞こえてきた。
白熊 無断転載禁止
「ナマエちゃんは誰に思われてるんだろうね?」
右折待ちレーンでゆっくりと動いていた車体が急にガクっと止まって、後ろから「痛っ」という勇作君の声と衝撃が伝わってきたが、十数年来の付き合いの大切な友人を心配するほどの余裕を私は持ち合わせていなかった。少しだけ前のめりになった体の鳩尾あたりに、尾形さんの厚い手のひらが私を支えるように触れていたからだ。ドッドッドッドッと狂ったように心臓が跳ね始め、心音が轟くように鼓膜を揺らし、何か言おうとすればたちまち大声で叫びだしそうだった。
「……悪い」
鳩尾の手がハンドルに戻っていって、ふっと体の力が抜けた。極度の緊張から解放されて少しだけ涙が滲んだ。テレビやネットの記事でしか知らなかった急ブレーキ時のあの有名な動作を、まさか自分が体験することになるなんて思っていなかった。シートベルトは確認したのに。これは盲点だった。助手席怖い。誰かボタンを押して私の席だけ外に射出して欲しかった。夏祭りでもエスコートしてくれていたし、本当に尾形さんのさり気ない動作の一つ一つが私を殺しにかかってきている。怖いなぁ、沼だなぁ。
「青ですよ兄さん」
「うるせぇ分かってる」
後ろからのクラクションに急かされるように尾形さんが車を発進させた。右折した先は片側二車線の広い道路で、車はもう既に私の生活圏をとうに越えた場所を進んでいた。さっきよりもスイスイ進んで景色が流れて行くのが気持ちいい。
「今時年賀状のやりとりしてるのか」
「えっ……?あっ、勇作君とですか?学生の頃からの習慣で」
「物好きだな」
突然、尾形さんが夏なのに年賀状の話をし始めた。謎すぎる会話に突っ込んで聞いてみたい気持ちもあるものの、運転中に悪いだろうかと迷っていると、勇作君が会話に参加してきた。
「ナマエちゃんの住所が分かる物が年賀状しかなくて。それで兄さんびっくりしてて」
「確かに、今時年賀状って送らないもんね」
いつから始めたのかも思い出せないくらい、勇作君とは長い間年賀状のやりとりをしている。それは私が実家を出て一人暮らしをし始めてからも続いていて、身に染み付いた年末年始の恒例行事となっている。昔の人はそれはそれは大勢に送るからうんざりするほど大変だったのだろうけど、私は勇作君とほんの一握りの友人にしか送らないので、今年はどんなデザインや写真にしよう、どんな物が届くのだろうと考えるのが年末のささやかな楽しみだった。
「年賀状、案外良いですよ。兄さんも僕とやります?」
「やらない」白熊 無断転載禁止
つれない返事に勇作君が残念そうに眉を下げた。でも勇作君は実家暮らしだから、尾形さんと年賀状をやりとりするとなると色々複雑なんじゃないだろうか。実際花沢家と尾形さんがどういう関係なのか知らないけど。異母兄弟とその弟の同級生という私たちの組み合わせも、改めて考えると妙な関係だ。そんなことをボーッと考えながら窓の外を覗いたら、少し先でファストフード店の季節限定のドリンクの幟がはためいているのが見えた。勇作君も見つけたのか「あっ」と声が聞こえてきて、シートの間から腕が伸びてきた。
「あそこ、レモンシャーベットだって。ナマエちゃん好きそうなやつだね」
「うん、好き!海の方にも店舗あったら飲みたいなぁ」
鞄から取り出したスマホで店舗情報を調べようとしたら、チカチカとウィンカーの音がして、さっき前方に見えた幟の脇を通って車がお店の敷地内に入っていった。気づいた時には車がドライブスルーの列に並び始めていた。
「えっ……」
「飲みたいんだろ」
「い、いいんですか?!」
「向こうだと混んでるだろうしな」
良かったね、と勇作君が笑いかけてきて嬉しいやら恥ずかしいやらでむず痒い気持ちになって、モジモジと座り直した。私、そんなに飲みたそうにしてたかな。お祭りの時も、食べたかったたこ焼きを買って来てくれたことを不意に思い出して、危うくまた顔が真っ赤になるところだった。絶対、食い意地が張っている奴だと思われてる。別にそこまでじゃないんだけどな。ただ美味しいものが好きなだけで。
前には2台ほどしか並んでいなかったので、すぐに私たちの番は回ってきた。私と勇作君はレモンシャーベットのドリンク、尾形さんは氷抜きの烏龍茶を注文した。受け取った袋を三人で回していき、各々のドリンクを取っていく。結露した紙コップを持ちながら、もったりとした中身をグルグルと何度か掻き混ぜて、ストローに吸い付いた。
「おいしい!」
ストローから上がってきたのは、すっきり甘くてしっかり酸っぱい、シャリシャリとした夏の味だった。レモンピールが入っているのか、所々粒々していてほんのりと苦みも感じる。甘いだけの飲み物が多い中、これは中々大人な味だ。後ろを見れば、勇作君も瞳を輝かせて飲んでいたので「夏の味がするね」と二人で笑いあった。
「尾形さんのも美味しいですか?」
「……まあ、烏龍茶だからな」
「あっ、そっかぁ、そうですよね」
同じ製造元なのか、どこで頼んでも烏龍茶は味がブレずあまり当たり外れがない。そこが烏龍茶の良いところである。
「美味しくない烏龍茶ってどんなのだろう?」
「え~?めんつゆの味がするとか?」
「うわぁそれは嫌だ」
「……それはもう烏龍茶じゃないだろ」
ドリンクを啜りながら全く実りのない会話をし始めた私たちを乗せて、車が今度こそ海へと出発した。
『ナマエちゃんからの年賀状、小学校から今年までのがありますけどどれが見たいですか?』
『お前宛だろ。そんなに簡単に見せて良いものなのか』
『いらないんですか?』
『いらないとは言ってない』
2025.01.22
