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46
「エノノカちゃんの服って、アシリパさんの服に似ていると思いませんか?」
朝食後、暖かいトイチセの中でくつろいでいる時に、今まで薄っすらと思っていた疑問を口にした。「わたしの服?」と首を傾げるエノノカちゃんを見ながら、杉元さんも「ああ、確かに」と頷いた。
「それもアットゥシ?」
「ううん、これはテタラペ」
「テタラペ?」
「テタラペの意味、白いもの」
オヒョウなどを使うアットゥシとは違い、テタラペはイラクサという草で作った着物らしい。へぇーとチカパシが物珍しそうに反応しているのを見るに、北海道アイヌには馴染みのない物なのだろうか。でもそれなら、アシリパさんがこのテタラペを着ている理由が良く分からない。
「アットゥシ白くない」
チカパシを指しながらエノノカちゃんが言った。確かにチカパシのも谷垣の物も、少し茶色っぽい色をしている。特段気に留めたこともなかったが、今まで出会ったアイヌの多くがそのアットゥシを着ていた。しかしアシリパさんのは白かった。てっきりあれは色違いのアットゥシだと思っていたのに違ったのか。
「アシリパさんはでもアットゥシだって言ってたけどなぁ……」
「でもアシリパ、そういうのあんまり知らないと思う」
「うん、あれ多分テタラペ」
わたしと一緒、とエノノカちゃんが自分の服を摘んで言った。実際テタラペを着ているエノノカちゃんが言うのだから間違いないのだろう。アシリパさんは物知りだけど、チカパシの言う通り刺繍や織物のような所謂女性の仕事に関してはあまり興味がないようだったから、間違って覚えていてもおかしくはない。
「それがどうかしたのか?」
「あ、いえ……特に理由はないのですが、何だかちょっと気になって」
月島軍曹へ愛想笑いを返したことでこの会話は終了した。「遊んでくる!」とチカパシとエノノカちゃんが元気に飛び出していき、その後を追ってヘンケもチセを出たので一気に室内が静かになった。
──懐かしいなこのトンコリ。アシリパの父親が樺太で手に入れたものだ。
キロランケさんと初めて出会った時に言っていたことがふと蘇った。チセには樺太アイヌの楽器があった。そしてアシリパさんは樺太アイヌの服を着ている。アシリパさんは立派に北海道アイヌとして生きているが、その生活の端々には父親が残していったこの地の文化が見え隠れしている。もしかして、私たちが樺太へ来ることは必然だったのだろうか。てっきりキロランケさんはかつての仲間と合流するためだけに樺太へ来たのかと思っていたけれど、金塊を得るにはいずれ暗号を解かなければならない。父親の足跡を辿らせることでアシリパさんの中に眠る鍵を見つけようとしているのだろうか。
「何か騒がしいぞ。様子がおかしい」
全部推測の域を出ず、妄想とも呼べるようなことを一人で考え込んでいたら、谷垣の声で意識が引き戻された。チセの外がガヤガヤとうるさい。大きな怒号や悲鳴のような声が聞こえてくるから、何か問題でもあったのかと谷垣に続いて私たちも外へ出た。
「エノノカ!」
ヘンケの悲痛な声が聞こえてきた方向には人だかりができていた。嫌な予感で体がざわつく。慌てて駆けつけ人ごみを掻き分けたその先では、興奮状態のアイヌの男が木の幹を背にして、エノノカちゃんの首元にマキリを突き付けていた。二人の男たちが小銃の銃口を向けて囲んでいるが、エノノカちゃんがいるので膠着状態のようだった。
「
アイヌ語だが言っていることは分かった。子供を人質にするなんて卑怯にもほどがある。ふつふつと湧き上がってくる怒りに任せて踏み出したくなるのをグッと堪えていると、「なんだあの男は!!」と鯉登少尉の大きな声に近くに居たアイヌの男たちが振り返った。
「あいつ人を殺して逃げてきた」
「人を?」
なら本当にあのマキリでエノノカちゃんを刺しかねない。ドッと冷や汗が噴き出して、体の芯から冷えていく。
「後ろから回り込むぞ。危ないからナマエさんは下がっていろ」
「でもっ……杉元さん?」
指示を出していた鯉登少尉にドンっとぶつかりながら、ズンズンと杉元さんが大股でエノノカちゃんへと向かっていった。真っ直ぐに男だけを見つめ、とてつもない殺気を放っている。誰もが人質に怯んで何もできない中、杉元さんが真っ向勝負を仕掛けようとしていた。
先に手を出したのは男の方だった。ザッと勢い良く杉元さんの首元にマキリが刺さったように見えて、生きた心地がしなかった。
「杉元さんッ!!」
「危ないっ、ナマエさん行くな!」
不死身の杉元がこんな素人相手に倒されるわけがないと、頭のどこかで確かに思っているはずなのに怖かった。飛び出しそうになった体を鯉登少尉に抱き込まれジタバタともがいていると、杉元さんの手が一瞬で伸び、男の髪を力強く鷲掴んだ。気づいた時には顔面に膝が入り、男が無様に崩れ落ちていた。雪の上に放り出されたマキリには、よく見たら鞘が刺さっていた。幹の陰からチラリとチカパシが見えて、隙を見て自分のマキリの鞘を差し込んだのだと分かった。
「離れてろアシリパさん!!」
「えっ……?」
エノノカちゃんを後ろ手で遠くへやった杉元さんの言葉に耳を疑った。今、間違いなく「アシリパさん」と言っていた。さっきまでアシリパさんの話をしていたから?それとも──
「待ってくれ」
「あんたは殺さなくていい」
ゴッと足で男の頭を踏みつけ腰の銃剣へと手を伸ばした杉元さんにわらわらと小銃を構えていたアイヌの男たちが集まっていく。完全に男を殺そうとしていた杉元さんだったが、「俺たちの話を聞いてくれ」と懇願されて、渋々といったふうに銃剣を仕舞った。
「すまなかった。あの男はここから東にある我々の村の者で人を殺して逃げた。やっと見つけて連れて戻る途中で逃がしてしまった。あの男は我々の村で処罰する」
「確かアイヌには死刑はなかったろ?止めてくれなくても俺がやったのに……あんたら手ぶらで帰れたぜ」
口元に冷たい笑みを浮かべた杉元さんを見て、全身が苦しくなった。本当にあのまま殺そうとしていたのだ。そして今も殺してやりたいと思っている。その瞳は先ほどと変わらず、怒りに満ち溢れていた。
「樺太では我々のやり方がある」
「へぇ……どんな?」
「眼に針を刺し、底のない棺をかぶせて生き埋めにする」
鯉登少尉の質問に返ってきたのは、もしかすると死刑よりも残酷な刑罰の内容だった。その"イトイウリ"という生き埋め刑は、加害者を閉じ込めた棺の上に被害者の遺体の入った棺を埋葬するものであるから、どうしてもこの男を生きたまま村へ連れて帰る必要があるのだと言うのだ。
「生き埋め刑か。刑罰であっても直接的な殺人をさけたいのだろうな」
「それだけ彼らにとって殺人は不浄で忌み嫌うものなんでしょう」
目を覚ました殺人罪の男と村へと帰っていった男たちの背中を見ながら、"直接的な殺人"という鯉登少尉が言ったことを反芻していた。手は下さず、時間に任せながら逃れがたい死を与えるのが間接的な殺人なら、私もたくさんしてきた。もうどうにもならならず、苦しみもがきながら放置されていた兵士たちの顔が今でも次々と浮かんでくる。私は紛れもなく殺人をしてきたのだ。分かっていたけれど、今更になって漸くちゃんとした意味で理解が出来た気がした。ずっと輪郭が曖昧だったものが間接的な殺人という言葉の鋳型に流し込まれて、綺麗に固まったような感覚だった。
アイヌの言い伝えでは人を殺すと地獄に送られるらしい。だから人を殺したくないとアシリパさんは言っていた。では、間接的な殺人は?間接的とは言え、殺人は殺人だ。あの村の人たちも、生きた人間を地中深くに埋めたことをきっと後悔する日が来る。埋めたのは自分たちの意思なのだから。仕方がなかったと正当化しようとしても、ずっとどこかで見殺しにした罪悪感を感じ、苦しみながら人生を送ることになる。それは杉元さんのように直接的な殺人を犯した人間と何が違うのだろう。
「ナマエさん、ボーッとしてるけど大丈夫?」
気づいた時には周りに鯉登少尉と杉元さんしか居なかった。少し先で谷垣と月島軍曹がチセの方へと歩いているのが見えた。隣にいるのはいつもの優しい杉元さんなのに、どこか気分が晴れない。頭に血が上って周りが全く見えていないようだったこと、エノノカちゃんをアシリパさんと間違えていたこと、俺が殺してやったのにと言っていたこと。小さなことが積み重なって、不安が大きく心を占領していく。
「すみません、ちょっと……びっくりしてしまっただけです」
「まあまあむごい刑罰だもんな」
「杉元さんこそ、首は大丈夫ですか?」
鞘があっても勢い良くマキリを突き刺されたら痛いはずだ。襟巻へと伸ばした手が握り込まれて、いつものように「大丈夫だよ」と穏やかな瞳と声で杉元さんが言った。
「手冷たいね、手袋は置いてきちゃった?」
「杉元さん、さっき……あの……」
「ん?」
アシリパさんって言ってましたよね、と今更言ってどうしようというのだろう、言い間違いは誰にでもあるし、そんなことをわざわざ蒸し返すのも厭らしい気がする。なんでもないです、と言おうとした時、腕に衝撃が走った。
「いつまで触れているつもりだ」
鯉登少尉が杉元さんの腕をはたいて、私たちの手が空中で分離した。
「軽々しく触れるな。ナマエさんも、簡単に触らせるな」
「……すみません」
「ケッ、テメェもどさくさに紛れて橇の上で不必要に触れてたじゃねぇか。大丈夫ナマエさん、変な所触られてない?やっぱりこっちの橇に乗った方が良いよ」
「ばっ、馬鹿を言うな!そんなことするわけが……!大体貴様がッ……!」
ぎゃあぎゃあと杉元さんと鯉登少尉の言い争いが始まってしまった。過熱する前にどうにか落ち着かせようとしていると、視界の端で仏頂面の月島軍曹が駆けてくるのが見えた。怒られる。スッと一歩引いて、一人天を仰いで心の準備をし始めた。
*
ついに年が明け、私たちは国境を越えた。事前に鶴見中尉が話をつけてくれていたお陰であっさりと入国できたのだが、少し前まで戦争をしていたロシアの領土にいるのが未だに信じられなかった。途中途中で買い物のために街によりつつ、主にウイルタやニヴフなどの少数民族の集落を頼りに私たちはアシリパさんの聞き込みを続けていた。そして、阿港にほど近いウイルタ族の集落で、思わぬ収穫を得ることになった。
「しばらく前に三人の男と一緒にトナカイを一頭届けに来たと言っている」
「アシリパさん……」
「良かった……」
杉元さんと一緒に、心の底からホッと吐息が漏れ出た。長らく手がかりがなかったから、アシリパさんたちが本当に阿港に向かったのかさえ分からないままここまで来てしまった。でも今ので分かった。私たちは確実にアシリパさんたちに追いつき始めている。「しばらく前」というのが気になるが、月島軍曹が定期的に新聞を購入してアレクサンドロフスカヤ監獄の脱獄などが起きていないことは確認している。もし投獄されている仲間と合流するのが目的なら、まだアシリパさんたちは阿港に潜んで機を伺っている可能性が高い。数ヶ月前、網走監獄に潜入しようとしていた私たちのように。
「鯉登少尉殿、戻ってきてください。天幕で休ませてもらいますよッ」
いつの間にか遠くへ行っていた鯉登少尉に向けて月島軍曹が手を叩き、パァンパァンと乾いた音が冷たい空気に良く響いた。上官なのに、まるで犬か何かを呼び戻すかのような仕草に思わず笑いそうになって、慌てて視線を逸らした。
「小さいトナカイがいた」
「そうですか」
はっはっと白い息を吐き出しながら、鼻先と頬を赤くして戻ってきた鯉登少尉の顔は、宝物でも見つけたような少年の顔をしていた。
「ナマエさんも見てくると良い、目がつぶらでふわふわだ」
「ふふ、あとで見てみますね」
「少尉殿にトナカイの首輪つけておいたらどうだ?」
「杉元さん、それはさすがに……」
「まったく杉元は嫌味な男だな?月島」
以前立ち寄ったウイルタの村で知ったのだが、飼いトナカイの首輪にはトナカイたちが遠くへ行かないように棒がぶら下げられていて、脛に当たるようになっている。勝手な行動が目立つ少尉殿にぴったりだという嫌味を聞いて月島軍曹も怒るのかと思いきや、その視線はジッと地面の首輪に落ちていた。
「なあ!月島ぁん」
肩を揺さぶられてぐわんぐわんと揺れながらも、月島軍曹の視線はトナカイの首輪ただ一点に注がれていて、この数ヶ月の苦労がひしひしと伝わってきた。
しばらく拗ねた様子だった鯉登少尉だったが、暖かい天幕の中で休ませてもらっているうちに機嫌を直したらしい。ナーナイ族の男が置いていったもので何だか分からない動物の置物について各々意見を言い合ったあと、また寒空の下で出立の準備をしていると、杉元さんに呼び止められた。あまり聞かれたくない話なのか、神妙な顔をしながら天幕の影に隠れるように杉元さんが移動した。
「あのさ、ナマエさん……阿港に着く前に一つだけ、確認させて欲しいことがある」
「はい」
「俺はキロランケも尾形も殺すつもりだ。ナマエさんは、それを受け入れられるの?」
こんな遠くまで来たというのに、私はまだ、大泊の時から前に進んでいない。杉元さんたちが殺し合うことについて、ちゃんと受け入れられていない。むしろ阿港が近づくにつれて、大切な人同士の殺し合いが始まってしまうことへの不安が強まっていく。きっと杉元さんもそれを分かっているのだろう。確認なんてしてくれなくて良かったのに、杉元さんの優しさが今はとてもつらかった。
「……まず話をするのではダメなんですか?」
「殺さなきゃ俺らが殺される」
杉元さんが言っていることは良く分かる。万が一向こうに気づかれたまま尾形さんの射程圏内に入ったら、私たちは無傷ではいられない。尾形さんのことだから、きっと迷うことなく私たちの頭を撃ってくる。
「ナマエさんはアシリパさんとは違う。こういう方法でしか解決できないこともあるんだって分かってるでしょ」
「それは……」
分かっている。そんなことは、痛いほど分かっている。全て話し合いで解決できるのなら戦争なんて起きない。ほんの数年前、互いの主張を認めることができず、馬鹿馬鹿しいほどに多くの血が流れた。それでも諦めたくなかった。短い期間だったかもしれないけれど、私たちは共に旅をした仲間だった。きっとまだ、交渉の余地がある。
「私は、それでも話をしたいです。聞きたいことも、言いたいことも沢山ある。なんでお父さんを、杉元さんを撃ったのか、なんでアシリパさんを連れ去ったのか、なんで──」
「ナマエさんを置いていったのか?」
心臓に釘が打ち込まれたような痛みが胸に走った。なんで私を置いていったのか。どうしてキロランケさんとの作戦を教えてくれなかったのか。教える義理なんてないと言われればそれまでなのに、「俺たちでブン盗る」「俺と来るか」なんて言っていたくせに蚊帳の外にされていたことに対して怒りと悲しみと、孤独感を確かに感じていた。杉元さんの目は静かに私を見てくる。優しさと、不満と、憐れみを孕んだ目だ。そんな風に私を見てほしくなかった。
「それを知ってどうするの。ナマエさんが傷つくだけになる。そんなのは俺は嫌だ」
「今更傷の一つや二つ増えたところで変わりません。それに……」
震え始めた息をゆっくりと吐き出した。まるで実体があるようにはっきりとしていたのに、白い靄はやがて綺麗さっぱり消えてなくなった。
「私は、殺し合いをさせるためにお二人を治療したわけではないんですよ」
少しだけ杉元さんの瞳が揺れた。尾形さんも、杉元さんも、月島軍曹も、生きていてくれればそれでいい。できるだけ長生きしてほしい。今の状況では、そんな些細な願いを叶えることも難しい。
「……ごめん」
小さな呟きは何に対しての謝罪だったのか、良く分からなかった。希望に沿えなくてごめん。考えを変えるつもりはなくてごめん。せっかく救った命を消そうとしてごめん。色々なものが混ざって、きっと杉元さんも良く分かっていないはずだ。
「ナマエさんは尾形が死にそうになった時、どうする」
「どうするって……」
死にそうになった時。考えたくもなくて唇を噛んだ。杉元さんの怒りは良く理解ができたけれど、殺人という方法で物事を解決に持っていこうとするその姿勢だけはどうしても賛同できなかった。それが苦しかった。あなたはそんな人じゃないと、自分の理想を押し付けてしまいそうだった。真っ直ぐで、憧れた瞳が私を射抜く。
「ナマエさんにとって、尾形は何なの」
2025.09.10
