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45
「あははっチカパシ中身いれすぎ!」
「だってたくさん入ってた方が良いんじゃない?」
「あっ、でもここ破けちゃってるよ」
「本当だ」
お互いの手元を覗きながら、エノノカちゃんとチカパシと一緒に小麦粉と卵でできた
真っ暗闇の中、身を寄せ合ってただ吹雪が止むのを待つことしかできなかった私たちは、月島軍曹たちが灯してくれた燈台の明かりで九死に一生を得た。文字通り死に物狂いで明かりへと向かっていった私たちを出迎えたのは、月島軍曹たちと、人の良さそうなロシア人夫婦だった。見ず知らずの日本軍とアイヌという不思議な組み合わせにも関わらず、ご夫婦は驚くほどに私たちに優しくしてくれた。本当ならもっと警戒されても良いはずなのに、無事で良かったと温かい軽食と寝床まで提供してくれたうえに、今日も出発前に一緒に食事をしようと誘ってくれたのだ。
「できた!」
全ての具材と生地を使い終わって、エノノカちゃんとチカパシがペリメニの乗ったお皿を台所の夫人へと渡しに行った。夫人はそれはそれは嬉しそうに、ロシア語で何かを言いながらお皿を笑顔で受け取っていた。言葉が通じなくとも、優しくて穏やかな人柄が伝わってくる。けど、たまにエノノカちゃんたちを見る目が酷く悲しそうに見える時があった。少し前に気づいたが、壁には写真が掛けられている。多分ご夫婦の娘さんくらいの年齢の女性の写真だ。一部屋しかないこの家に、その人は見当たらない。あまり詮索したくはないが、どこかに嫁いであまり会えていないだけなのだと思いたかった。
「ペリメニ茹でたらすぐできるって」
「じゃあ皆さんのことを呼んでこなきゃ」
男性陣は皆納屋の方で橇の修繕などを行っている。布巾で手を拭いて、ペチカの近くで乾かしていた外套を羽織って小雪の降る屋外へと足を踏み出した。仕方なかったとは言え、ヘンケの橇を壊してしまったのは申し訳なかった。上手く修理できていると良いのだけれど。心配しながら隣の納屋へと歩いていると、向こうから歩いて来る二つの人影が見えた。
「月島軍曹、ヘンケ!」
「どうした」
「食事の準備ができたので、皆さんを呼びに行こうと思っていました。修理の方はどうですか?」
「無事に終わった。今から戻るところだった」
そうですか、と返事をしたと同時に後ろの納屋から鯉登少尉と杉元さんが急に飛び出してきた。何やら少尉殿が杉元さんに追い掛け回されているようで、「もう出ちゃうから!」「汚い!やめろ!」などと二人の声が聞こえてくる。遅れてリュウを連れた谷垣も出てきて、姿が小さくなっていく二人を見守るように佇んでいる。
「……止めてきましょうか?」
「いや、いい、お前は行くな。放っておけ」
はぁ、と月島軍曹がじゃれ合うように追いかけ回る少尉殿と杉元さんを一瞥して歩き始めたので、私も今来たばかりの道を引き返すことにした。
「元気で何よりですね、昨日のことが嘘みたいです」
「それはお前もだ。怖くないのか、こんな旅に同行して死にかけて」
「怖い、ですか……全く怖くないと言うと嘘になりますけど、皆さんのことを信用していますから」
昨日はぐれていた時だって、そういえばこのまま凍死してしまうのでは、というような考えは一切過らなかった。自然を知り尽くしたマタギの谷垣がいたし、月島軍曹と鯉登少尉も探しに来てくれるだろうと思っていた。それに──ずっと、杉元さんが抱きしめてくれていたから。考えないようにしていたことをふと思い出して、少しだけ背中と首の辺りが熱を持った。
──きっと大丈夫
体を巡ったおまじないのような言葉が私を恐怖から守ってくれていた。燈台へと向かう途中も、杉元さんは私のことを離さなかった。「大丈夫だから」「もうすぐだよ」としきりに声をかけながら、打ちつけてくる雪から私を守るように強く抱え込んできたあの安心感は、今でもはっきりと思い出せる。杉元さんがいれば大丈夫だと、自然と信じることができた。だからこそ、もっと先の未来のことのほうが怖かった。
「正直、この旅が終わる方が怖いです。アシリパさんが見つかって、北海道に戻ったら、私は……」
多分、用済みになる。裏切者を見逃すのは他の兵士にも示しがつかない。裏切ったふりをして、スパイとして杉元さんたちと行動を共にして、刺青を集めていた……というのが鶴見中尉が選んだ筋書きらしいけれど、アシリパさんを奪還した後に、また裏切る可能性がある私を無駄に生かしておく理由が見つからなかった。少しでも可能性があれば潰す人だ。
「そうでもないんじゃないか」
仄暗い未来を想像していたら、月島軍曹が足を止めてヘンケに先に戻るように促した。
「お前には鯉登少尉との話があるだろう」
「裏切ったのに、ですか?」
「鯉登閣下にご子息の婚約者が裏切り者でしたすみません、と説明するとなると鶴見中尉の体裁も悪くなる。お前が大人しくしていれば全部丸く収まるんじゃないか」
じゃあ私は生きるためには結婚するしかないんですね。口に出せなかった恨み言の様なことが頭の中で響いた。「大人しく」。昔の見合いの前に兄にも言われたことだ。大人しく良い子にしていろ、知識をひけらかすな。向こうは私のことをそれなりに気に入っているのだから、ただ愛想良くニコニコと相槌を打っていればそれで良い。会ったことも話したこともないのに、一体私の何を知ってどこを気に入ったというのだろう。そんなことを言ったら怒られるのが目に見えていたので言わなかった。結局私のことは私で決めると返して、父も私の味方になってくれたけれど、その結果がこれだ。ほれみたことかと、兄は今頃腹を抱えて笑っているに違いない。
「……良い縁談ですよね。知らない人でもないし、歳も近くて真っすぐで優しい人ですし。前のなんて会ったこともない一回り以上年上の方だったんですよ」
月島軍曹から返事はない。もとから期待していなかったからそれで良かった。そうだな、なんて後押ししてもらいたくて言ったわけでもない。ただ自分でそう思いたかった。この縁談はきっと、今度こそ本当に、私のためなのだと。何しろ私の命がかかっているのだから。
気を抜いたら昨晩の安心する体温を思い出してしまいそうで、一度大きく息を吸った。肺がキンキンに冷えた空気で満たされて、心なしか気分もすっきりとした。これでいい。少尉殿もこの間言っていた通り、結婚したいとかしたくないとか、そういう話ではない。
「お前の知り合いで、知らない男に見染められて嫁いで行った人はいるか」
ザクザクと雪を踏みしめてまた歩き出したら、意外なことを聞かれた。月島軍曹らしくない質問に少し戸惑いながら、「たくさんいますよ」となるべくいつも通りに返事をした。
「その人たちはどうなった」
「今は連絡を取っていませんが幸せそうでしたよ。特に一目惚れされて、どうしてもって学校や家まで何度も押しかけられた子なんか、旦那様が優しくて困ってしまうと惚気ていました」
結婚生活について初々しく頬を染めながら話していたあの子は今どうしているのだろう。変わらず幸せであると願いたい。こんな回答で良かったのかと月島軍曹を伺えば、「そうか」と短く返されただけだった。結局何故そんなことを聞いてきたのか分からないまま、温かい食事の待つ室内へと二人で足を踏み入れた。
「なにこの汁物真っ赤じゃん!!」
「この汁物はボルシチといって、赤いのはビーツというカブの色素だ」
「『美味しい』はロシア語でなんていう?」
フクースナ、と月島軍曹が言ったのを皮切りに、私たちは新しく覚えたロシア語を口々に唱えた。真っ赤なボルシチは少し酸味があって、ゴロゴロと入った野菜や肉の旨味がギュッと汁に濃縮されている。一口飲むごとに唾液腺が刺激されるおいしさだ。スメタナという
「この谷垣ニシパの金玉みたいなのは俺が作った!」
「食事中にやめなさいチカパシ。破れてるじゃないか」
「ナマエさんが作ったのはどれだ?」
「えっと、どれでしょう……これかな?」
少し小ぶりのペリメニを指差したら、杉元さんと鯉登少尉のフォークがほぼ同時に勢いよく突き刺さった。
「おい離せ、私の方が早かった」
「んなわけねぇだろ、お前はあっちの谷垣の金玉でも食ってろ」
「ナマエさんの前で何を言っているんだ貴様ァ!!」
「もう、騒がないでください!半分こしたらいいじゃないですか」
大体どれも味は一緒なのに。私のフォークでペリメニを半分に切ったら、それぞれの分を渋々と言った様に口に運んで、二人が静かになった。
「うるさくしてごめんなさいってロシア語でなんて言うんですか、月島軍曹」
「Извините за шум」
それを聞いたご夫婦が、くすくすと笑いながら話し始めた。
「いつも二人だけなので賑やかな食事はうれしいとさ」
「ご家族は他にいないの?」
「あの写真は娘か?」
杉元さんと鯉登少尉の質問に、ご夫婦の表情が途端に曇ってしまった。何か事情がありそうな雰囲気に、私たちも食事の手が止まった。
「日露戦争前から燈台守として親子三人はここで穏やかに暮らしてた。しかしある日ロシア軍の脱走兵が現れた」
時折りつかえながら話し続ける二人の言葉を、月島軍曹が丁寧に通訳していく。その脱走兵はしばらくこの燈台に居ついたが、大切なひとり娘を連れ去ってしまったという。あちこち探して回ったが娘は見つからず、軍や政府にも探してくれるよう頼んだがいっさい何もしてくれなかった。やがて日露戦争で日本軍が樺太に上陸すると、事前にロシア政府から『日本軍に燈台を利用されないよう破壊するように』と爆薬を渡されていたのだが、政府の対応に憤っていたご夫婦は素直に燈台を明け渡したという。しばらくするともっと北に新しい燈台が作られ、ここは不要になった。
「でもこのご夫婦は娘の帰りをこの燈台でずっと待っているそうだ」
シンと静まり返った部屋にエノノカちゃんの嗚咽が響き渡る。私たちをこんなにも温かくもてなしてくれた二人が抱えていた事情を知って、急に空気が薄くなったような息苦しさを感じた。何て言葉をかけたら良いのだろうと思案に暮れていると、杉元さんが静かに話し始めた。
「娘さんのことがあって燈台は残り、俺たちは命を救われたってことか。この娘さんの写真一枚借りていってもいいか?」
「どうするつもりだ?」
「探そう」
立ち上がった杉元さんが額から娘さんの写真を抜き取り、身振り手振りでご夫婦に意図を伝え始めた。眉間に皺を寄せ、何かを言いかけた月島軍曹の声は、わぁっと泣きながらご夫婦が杉元さんの手を握ったためにかき消された。ギュッと唇を噛みしめるように口を噤んだ月島軍曹の顔は、いつも以上に険しかった。
「
「本当にありがとうございました。スパシーバ、ダスヴィダーニャ」
「
「
食事も終え、出発の準備も整った私たちは、お世話になったご夫婦と最後の挨拶を交わし合った。先ほどから夫人が杉元さんの手を握り、涙ながらにロシア語で訴えている。言葉は分からないけれど、娘さんのことを思っての言葉だというのは痛いほどに伝わってきた。
「オイ杉元……」
「分かってるよ!行く先々で聞いて回るくらいは負担にならないだろ?本来の目的が最優先だが、何も恩返しせずにサヨナラはできねぇよ」
あくまでアシリパさんについて聞き込みをするついでに娘さんのことも聞いて回るのだという杉元さんの主張に、月島軍曹もそれ以上何か言うことはなかった。
「おかあさん、あの空っぽの額に俺の写真を入れておいたから、もしもこのアイヌの女の子が立ち寄ったら伝えてくれ、『杉元佐一が生きてる』って」
いつもよりも柔らかい声色で杉元さんが言って、橇へと乗り込んだ。写真って、どの写真を置いてきたのだろう。まさかあの悪い顔をした写真を置いてきたのではないだろうな。他に杉元さん一人だけの写真はなかった気がする。確認するためにもいつものように杉元さんが率いる橇へと乗り込もうとしたら、鯉登少尉に腕を掴まれた。
「ナマエさんはこっちだ」
「えっ」
「心配したのだ、あの猛吹雪の中はぐれて」
グイグイと引っ張られ、有無を言わさずにヘンケの橇へと連れられて行く。「じゃあ私あっち乗る」とチカパシの方へ軽やかに駆け寄っていくエノノカちゃんの後ろ姿を目で追っていたら、杉元さんと目が合った。特に何かを言う訳でもなく、何となく見つめ合っていると、ぐんっと橇が動いて後ろに引っ張られた。瞬間、少尉殿の手が力強く腰を掴んできた。
「──
「うあっ!」
すぐ後ろから聞こえてきた大音量にビクッと体が大きく跳ねた。同時に少尉殿の手がパッと離され、後ろで月島軍曹が文句を言っているのが薩摩弁の合間に聞こえて来た。
「鯉登少尉!ミョウジに掴まってください!危ない!」
「わっぜ
「我慢してください自分で蒔いた種でしょう!」
「少尉殿!危ないですからちゃんと掴まってください!」
埒が開かないので万歳をしていた少尉殿の右腕を掴んで、無理やり体の前に回した。
「落ちて怪我でもしたら大変ですから、ちゃんと掴まっていてください!」
「きぇっ……」
後ろを振り向きながら言えば、何故か真っ赤になっている少尉殿がいた。恐る恐ると言ったふうに左腕も前に回され、次第に力が入っていく。その力は緩むことなく、ぎゅうっと後ろから抱き込まれる様な形でどんどん体が締め付けられていく。「杉元ニシパこわい!前見て!!前!」と隣を走る杉元さんの橇の方も騒がしいが、少尉殿によってがっちりと固定されて体が動かせない。
「うっ、ぁ、ちょっと、苦しい、です……」
「す、すまないっ……!」
ふっと腕から力が抜けて、血流が再開した。
「こっ、これくらいで問題ないか?」
「はい、丁度いいです」
「そ、そうか」
その後は少尉殿も落ち着いて、見かけた動物などを報告し合いながら、和やかな雰囲気で橇での時間が過ぎていった。
*
燈台を出てから天候にも恵まれ、私たちは無事に新問付近にある樺太アイヌの集落にたどり着くことができた。国境まではあと140kmほど。ここまで来たのに、スチェンカ村以降未だにアシリパさんやキロランケさんらしき人物の情報は入ってこない。この村でも子供からお年寄りまで聞いてみたが皆一様に「知らない」と返してくるばかりだった。ついでに聞いた燈台のご夫婦の娘さん・スヴェトラーナさんについても一切手がかりは見つけられなかった。
聞き込みを終えてトイチセの中でくつろいでいると、「チカパシ聞いて!」とエノノカちゃんが瞳を輝かせながら鼻息荒く話し始めた。
「こないだこの村メコオヤシ出たって!」
「何それ怖いやつ?」
「
足跡がある、ということはお化けの類ではないのか。子供たちの話に聞き耳を立てていると、メコオヤシとは樺太アイヌの昔話に出てくる猫の化け物だと、エノノカちゃんが説明し始めた。
「浜に荷物ぜんぶ置いて仕事してたらメコオヤシが追いかけてきたの。船にのって逃げたら浜にいっぱいメコオヤシ出てきてこっちにらんでみんなで鳴いてたって」
化け猫というと猫又のようなものだろうかと想像を膨らませていると「毛皮に赤と白のブチがある犬みたいにおおきな猫」とエノノカちゃんが随分と具体的な特徴を挙げた。
「オオヤマネコだな……」
「この辺りに生息するヤマネコですか?」
「ふん……尾形百之助じゃないのか?いよいよ奴らに追いついたか」
尾形さんの名前が出て、心臓がドクっと大きく飛び跳ねた。「なんで尾形なんだよ」と私たち四人の中でただ一人意味を理解していない杉元さんの声が聞こえて、早まる鼓動と共にキリキリとした痛みが増していく。
「『山猫の子供は山猫……』」
「少尉殿っ、やめてください」
「どういう意味だ?」
咄嗟に大きな声を上げてしまった私に驚いた様子の杉元さんが、月島軍曹へと説明を求めた。谷垣はその隣で困ったように黙り込んでいる。
「山猫は『芸者』を指す隠語だ。師団の一部の連中が言っていたくだらない軽口だ」
「本当にくだらねぇな」
不快感と呆れが滲み出ている声色に、少しだけホッとした。同調するような人ではないと分かっていても、やはり分かりやすく一蹴してくれたのが嬉しかった。軍では、そんな人はいなかったから。
「あの性格だ、嫌っている人間も少なくない。私も大嫌いだ。それに『山猫』にはいんちきとか人を化かす意味の隠語もあるだろう?山猫社会とか……くだらん軽口だが、しかし案の定……ではないか。違うか?杉元」
杉元さんは黙ったままだ。月島軍曹も、谷垣も。
尾形百之助は山猫だと最初に聞いた時、私も意味が分からなかった。そう言っていた人の表情からして何か良くないことなのだろうと思っていたけれど、次第に芸者のことを猫と呼び、その中でも芸が拙く、体を売ることでしか客を取れない者が山猫と呼ばれるということを知ってからは、怒りを通り越して悲しみを覚えた。本人の耳に入ることも厭わないほど、いや、むしろ耳に入れば良いとでも思っているくらい「山猫」という言葉は尾形さんと一緒に使われていた。生まれは誰も選べないのに。尾形さんは気にしている素振りは見せなかったけれど、どうにもできない出自のことを言われ続けて平気な人なんているのだろうか。宇佐美に至ってはもっと直接的に、商売女だと口にしていた。少尉殿からは、他の人とは違って生まれを揶揄して貶そうとするような陰湿さが感じられないのが唯一の救いだった。共感も同情もなく、ただ陰口を言われても仕方のない性格だと思っているのだろう。だとしても、言っていいことと悪いことがある。
「少尉殿、お願いですからそうったことをもう口にしないでください。気分の良いものではないです」
少し迷うように視線がさまよった後に「悪かった」と少尉がポツリと呟いた。
「それでメコオヤシどうなったの?」
「あとで荷物取りに戻ったら足跡いっぱいあって荷物ぜんぶないの。服も靴も袋もぜ~んぶ」
「食べちゃったの?」
「かもね」
子供たちの無邪気な声がチセの中に広がって、重かった空気が少しずつ変わっていく。
「タバコ入れも?」
「いや、タバコ入れはくさいから食べないと思う……」
「こわい……」
「その変な話に教訓があるとすれば……『泥棒猫は撃ち殺せ』だ」
また先ほどと同じように心臓が痛みを伴って大きく波打った。ぎゅっと唇の内側を噛んで目頭の熱が引いていくのを待っていたら、少尉殿がいささか困惑したように私を見て来た。全部顔に出てしまっていたらしい。
「ナマエさんは何故そこまで尾形に肩入れできる」
「別に肩入れは……」
「しているだろう。鶴見中尉殿もナマエさんを連れて行けば尾形は何か話すかもしれないと言っていた。仲が良いと。何故あんな奴と……」
「仲も良くはないです……でも、そんなに悪い人ではないんですよ」
三人分の視線が一斉に体に突き刺さった。自分でも言っていて全く説得力がないことに呆れていた。そんなに悪い人ではないのなら親や弟を殺したり、杉元さんを撃ったり、上官である少尉殿をボンボンなどとバカにしたりはしないだろう。思い返せばキリがなくて段々と眉間に皺が寄っていく。もっとちゃんと上官を敬ったり、それなりの態度を取ってくれていたら擁護のしようもあったのに。しかし、やはり私にとって尾形さんはそんなに悪い人ではないのだ。決して良い人でもないけれど。
「私に銃を教えてくれましたし、ご飯も意外と文句を言わずに平らげてくれますし……あ、焼き芋を半分もらったこともあります」
今までの尾形さんの不遜で傲慢な態度や仕打ちを打ち消すには全然足りないが、なんてことないそういった優しさをちゃんと持っている人なのだ。他の人となんら変わらない。
「撃ち殺すかは、話をしてからでも遅くはないのではないですか。相手は言葉の通じる人間です。山猫なんかじゃない」
誰からも返事はなく、ただ炉の薪が爆ぜる音だけが大きく鳴った。
2025.07.12
