原作沿い
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37
子供達が寝静まった夕飯後、染み抜きをした少尉殿の外套を囲炉裏の側で縫っていると、斜向かいに座っていた月島軍曹に名前を呼ばれた。手を止めて返事をすれば、鋭い視線に迎えられた。世間話がしたいのではないのだろう。ピリリとした雰囲気に居住まいを正した。
「何故小銃の扱いを知っている」
「尾形上等兵に教わりました」
「何のために」
「護身用に」
「……小銃を?」
もっともな指摘に口を閉ざした。兵士とは程遠い私の体格で、小銃を護身用とするのは無理がある。少し考えてから、すぐ横に置いていた背嚢の中にホルスターごと隠していた拳銃を取り出した。分かりやすく驚いた向かいの少尉殿に「兄の形見です」と補足した。
「最初は拳銃を教えてもらっていました。そのうち、小銃も」
私は拳銃だけで良かったのだけれど、使えるに越したことはないだろうと、いつの間にか小銃も教わることになっていた。周りの目を盗んで演習場で練習したり、こっそり山まで連れ出されて狩りに同行させられたりしていた。網走までの旅でも、昼間のあのクズリという動物相手にも役に立っていたので、結果的に小銃の扱い方も教わっていて良かったと思うが、こうなってしまっては私はあまりにも怪しく見えるだろう。
「お前は本当に尾形から何も聞いていないのか」
「はい。金塊を求める理由も何も知りません」
「何故それで手が組めた?」
「個人の行動原理など知らなくても、最終的な目的が一致していればそれで充分だと思っていたからです」
月島軍曹は未だに納得が行っていないような顔をしているが、今伝えたことは嘘偽りない本心だった。尾形さんが何故金塊が欲しかったのか、私は本当に何も知らない。ただ単にお金持ちになりたいなんて言うような人ではないと思うから、金塊を使って何かをしたかったのだろうけど、記憶を辿っても何も思い当たる節がなかった。「俺たちでブン盗る」と鹿の中で私を頭数に入れてくれていた理由も、結局分からないままだ。一度でも良いから聞いてみれば良かった。私側の事情も全て話していた訳ではなかったし、まあ尾形さんにも色々あるのだろうな、と詳しく聞かなかったのだ。
同様に、一緒に造反する予定だった玉井伍長や野間、岡田の事情も私は特に知らない。私たちは利害が一致して、一時的に協力するだけの寄せ集めにしかすぎなかった。信頼とか、忠誠心とか、仲間意識とか、そういった感情なんてなかった。少なくとも、今年の春まではそうだった。
「……尾形について、ずっと引っかかっていることがあるんです」
私の右隣で静かに話し始めた谷垣に、一斉に視線が移動した。
「目的と関係あるか分からないんですが……網走監獄で杉元達を回収した時、尾形はミョウジさんを撃たなかった。その理由が分からないんです」
「あの尾形にも情があったんじゃないのか」
「いえ、そういうのではありません」
少尉殿の言葉をすぐに否定すれば、今度は私に皆さんの視線が集まった。だって、情なんて持っていたら狙撃手なんて務まらない。そんなもの、狙撃手に一番必要ないものだ。
「多分、気に食わなかったんです」
「そんな理由で?」
「はい。狙撃手にとっての理想は、獲物が訳も分からないまま命を落とすことなんだと思います」
あの時、一撃で仕留められたアシリパさんのお父さんのように。特に、一流であるが故に、尾形さんは狙撃に関して並々ならない美学や矜持を持っている。直接教えてもらっていたから、すぐそばでずっと尾形さんの狙撃を見ていたから、良く分かる。
「撃たれて良いと思っている的を、撃ってみろと挑発してくる的を、わざわざ撃ちにいくような人じゃない」
そこに情なんてある訳がない。
「獲物の命を転がすのが好きなんですよ。自分が全てを掌握して、絶対的優位に立っていたい」
私はそれを揺るがした。私の生き死にを決めるのは私だと、尾形さんに突きつけた。あの時の尾形さんにあったのは、ただ腸が煮え返るほどの苛立ちのはずだ。
狙撃手に必要な素質、それは殺人に強い関心を持っていること。一晩中痛みに喘ぐ仲間の声を聞き続けても、平然として獲物の追跡を続けられるほどの冷酷さと慎重さを持ち合わせていること。昔、尾形さんが私の反応を楽しむように、したり顔で語っていた。聞いた時は何を言っているのか全く理解できなかったけれど、今なら分かる。本能的な瞬発力や判断力が物をいう近距離戦とは違い、狙撃手は安全な場所から相手を観察し、先を読み、どうやったら確実に仕留められるかを考える。理性的に、冷静に、ただひたすらに人を殺すことを考えなければならない分、引き金を引くことを躊躇わない冷徹さが問われる。生かすも殺すも、全ては狙撃手の采配だ。引き金に掛けた指一本で、相手をどうにでもできる。尾形さんは、そんな狙撃という行為を心の底から愛している。それを邪魔されたのだから、怒り心頭だったはずだ。
「だから多分、私でなくても、谷垣が同じことをやっていても撃たなかったと思います」
「随分と理解しているんだな」
月島軍曹の刺すように冷たい視線と声色に、目を伏せた。
「……理解できていたら、こんなことにはなっていなかったと思います」
もっと理解できていたら。もっと知ろうとしていたら。金塊を求める理由すら、私は一度も聞こうとしなかった。拒まれて、一人置いていかれるのが怖くて、踏み込むことを躊躇した。背中合わせで寄り添っているくらいがちょうど良かったけれど、鹿の中の時のように普段からもっとズケズケと踏み込めていたら、一緒に泥濘の底まで落ちていけていたら──今頃何か変わっていたのだろうか。理解されることを拒むくせに、一番理解されたがっていた人だったのに。どちらもできなかったくせに私は今、尾形さんについて随分と知ったような口をきいている。
「……もういいだろ」
それまで一言も発さなかった隣の杉元さんの声に、ハッとして顔を上げた。
「尾形の目的がなんだろうが関係ねぇ。追いついて一番にぶっ殺してやるだけだ」
後ろの壁まで届く大きく間延びした影が、まるで杉元さんから溢れ出た憎悪や殺意の塊のような何かに見えて、思わず息を呑んだ。揺れる囲炉裏の炎をただ一点に見つめる顔は、いつもの杉元さんとは似ても似つかない。網走の病院でキロランケさんも尾形さんも殺してやると、淀んだ瞳でぶつぶつと一人呟いていた時と同じ顔だ。ちらちらと不規則に揺らめく炎の反射によって、顔に濃い陰影が作り出されて一層不穏さが増している。あの時も、今も、どう声をかけたら良いのか分からなくて、何も言えなかった。それからは会話らしい会話もなくなって、私たちは各々の時間を過ごして眠りについた。
翌日、キロランケさんが近くのロシア人の村について尋ねていたとエノノカちゃんから聞き、私たちは早速その村へと向かうことになった。
「何やってんだあいつら」
荷造りを終えて杉元さんと一緒にチセの外に出れば、先に出ていた鯉登少尉がエノノカちゃんと話し込んでいた。子供相手にとても真剣な顔をしているのを不思議に思っていると、報酬の交渉をしているのだと谷垣が教えてくれた。
「鯉登少尉が移動するのに歩きたくないから、エノノカの爺さんを雇って犬橇で我々を運んでもらおうとしてる」
「歩きたくないって……本当なんなんだよアイツ」
「でも犬橇の方が早く移動できますし、地元の方がいれば警戒されにくいですから、意外と良い案なんじゃないですか?」
ね?と杉元さんを見上げれば、「まあ確かに……」と少尉殿の方を見つめたまま黙り込んだ。歩きたくないのは本心だろうけど、エノノカちゃんたちを雇うというのは実際かなりの妙案なのではないだろうか。懐事情を考えるとキロランケさんたちは徒歩だろうから、私たちが犬橇で追いかければ今までの遅れを早めに埋めることができる。
「犬たちエサ代……一日これくらいでぇ~」
「そろばん弾いてるぞ」
「アシリパさんもエノノカちゃんも、小さいのにしっかりしてますね……」
すごいなぁと漏れ出た感嘆の声が、後ろを通り過ぎていったチカパシの歌でかき消された。チンチンか~おっぱいだ~という歌詞には苦笑いしてしまうが、ピリピリとした大人たちとは反対に、自由に伸び伸びと人生を謳歌している様子は年相応で微笑ましい。「その歌はやめなさい」と谷垣に嗜められて静かになったのもほんの少しだけで、今度はリュウとそこら中を駆け回り始めた。そんなチカパシの元気な笑い声を背景に、私たちはエノノカちゃんと鯉登少尉がグッと固く握手を交わす様子を見守った。
*
犬橇で辿り着いたロシア人の村はそれほど大きいものではなかった。静かで、どこにでもありそうな農村だ。しかし、南樺太にロシア人の監獄がいくつかあったこと、それらが日露戦争後に閉鎖され、日本軍が上陸したどさくさでほとんどの囚人が逃げたことを月島軍曹が説明したことで、のどかに見えていた農村が一気に物々しく見えてきた。とは言え、ここで聞き込みをしないという選択肢はない。人が集まる場所ということで、私たちはまず酒場に狙いを定めた。
「ナマエさん、危ないから絶対に俺から離れないでね」
はい、と緊張しながら頷けば、杉元さんが酒場の重い扉を開けて踏み込んだ。ギィィっと大きく軋む音に反応して、中の客たちが訝しげにこちらを見てくる。
「Не
月島軍曹がキロランケさんの写真を見せながら、ロシア語で酒場の客たちへと聞いて回っていく。多くの人が無視をしたり、無言で首を横に振る中、赤ら顔の大柄な男が突然何かを言いながら立ち上がって、強い口調で杉元さんへと詰め寄った。
「Убир
「何言ってるかさっぱりわかんねぇぞ酔っぱらい。俺に触ったらブッ飛ばすとこいつに伝えろ月島軍曹」
言っていることは分からないが、私たちに友好的でないことは確かだ。一触即発の雰囲気に後ろでハラハラしながら月島軍曹の通訳を待っているうちに、ロシア人が杉元さんに殴りかかってしまった。突然の暴力に唖然としていると、すぐさま反撃した杉元さんの拳がこめかみの辺りにめり込んで、ロシア人が大きな音を立てて床に沈んだ。
「ここはダメだ酔っ払いしかいねぇ。近所へ聞き込みに行くぞ。犬ぞりは待たせてろ」
行こうナマエさん、と手を取られて酒場の外に連れ出された。さっき殴られたせいで顔が少し腫れていて、鼻血も出ている。見せてくださいと杉元さんの顔に手を伸ばしたと同時に、鼻をかんでぶぴーっと豪快に中に溜まった血を出し切ってしまった。私が手を伸ばしたまま止まっているのに気づいて「なんでもないよ、これくらい」と杉元さんが残った血をゴシゴシと袖口で拭いた。
「キロランケたちは何が目的でこの村に立ち寄ったんだ?」
谷垣の疑問に私たちは一様に首を傾げた。随分と喧嘩っ早い人たちがいるだけで、この村には何もなさそうだ。とりあえず他の場所で聞き込みを続けようと歩き出した時に、エノノカちゃんが何か叫びながら駆けてくるのが見えた。
「イ……イヌ盗られた!!」
「えっ、犬が?!」
「ロシア人話しかけてきた。すごくたくさん話す。おしゃべり。その人居なくなったらイソホセタの紐切られてた」
「イソホセタ?」
聞きなれない単語だ。犬橇の先頭に繋がれるリーダー犬のことだとエノノカちゃんが説明してくれたことで、綺麗な頭飾りをつけていた犬がいたことを思い出した。あの犬が盗られてしまったのか。犬は大切な家族なのだと、ヘンケと一緒に肩を落とすエノノカちゃんの手を取った。
「絶対取り返すからね、エノノカちゃん」
「『おしゃべりロシア人』も仲間だろう。よくある盗人の手口だ。そいつを探そう」
どんな人だった?と話を聞いていると、一人の男が真っ直ぐにこちらに向かってくるのが見えた。「あッおしゃべりロシア人だ!!」とエノノカちゃんがその男を指した。わざわざ戻って来たと言うことは、ただ犬が盗みたかったわけではないということだ。こんなことまでして、一体何が目的なのだろう。ついてこい、と促されるままに、私たちはまた酒場へと戻って行った。
酒場では先ほど杉元さんに殴られたロシア人と、酒場の主人が私たちを待ち構えていた。主人がロシア語で月島軍曹に何かを伝えている。
「スチェンカ?」
「何だ?何と言っている?」
「どうやら杉元が殴り倒した男はなにか賭け事の参加者で、こんなに目が腫れては出られないから責任取れと言っています」
酒場の主人はその男に大金を賭けていたらしく、犬を返してほしければ男の代わりにそのスチェンカという賭け事に参加しろと杉元さんに言っているらしい。
「でなければ……」
それまで至極淡々と説明していた月島軍曹が急に渋い顔をして、私を一瞥して言い淀んだ。眉間に皺を寄せて、深く息を吐いた姿からは怒りが少し見え隠れしていた。
「……でなければ犬の次はその女だ、と」
「ア?」
「何だと貴様」
ザッと杉元さんと鯉登少尉が私の前に立ちはだかり、谷垣がすぐ横についた。上背も筋肉もある三人はまさに壁と形容するのがしっくりくるようで、安心感よりも圧迫感に息苦しさまで感じるほどだった。
「いいからさっさと犬返せ。ナマエさんに指一本触れてみろ、店ごと潰して宗谷海峡に浮かべるぞこの野郎。伝えろ月島軍曹」
「あの犬は私が高いエサ代を出して雇っている。『ナマエさんに謝罪した後すぐに返さんとそのパヤパヤ頭を三枚おろしにして犬のエサにする』とロシア語で伝えろ月島軍曹」
「そ、そこまで言わなくても良いんじゃないですか……」
難しい表現の通訳は出来ません、と月島軍曹が毅然とした態度で返事をしている最中に、また酒場の主人が話し始めた。
「何?!我々が探していた男……つまりキロランケたちは『北海道から来た刺青の男を探していた』……と」
「だからこの村へ来たのか……!!どこかで刺青の脱獄囚の噂を聞いたんだ」
スチェンカには刺青の男も来るかもしれないと酒場の主人が続けたことで、一気にその賭け事に対して興味が湧いてきた。ヘンケとエノノカちゃんには悪いけれど、新たな刺青が手に入る可能性があるなら確かめないわけにはいかない。日が暮れたらスチェンカに連れて行ってやると言われ、私たちは暫く酒場で暇つぶしをすることになった。
2024.11.10
