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36
エノノカちゃんたちのコタンに着けば、月島軍曹と鯉登少尉と共に、すぐに治療のために彼女達の"冬の家"へと案内された。極寒の地に住まう樺太アイヌは"
「すみません、すぐに終わらせますから。痛くないですから大丈夫ですよ」
「きぇっ……!月島ぁん!!」
「鯉登少尉、ここでまともに傷の手当ができるのはミョウジだけです。治療に必要な行為なので観念してください」
嫌だと暴れる少尉殿の外套などを月島軍曹が無理やり剥ぎ取っていく。幸い、出血の割に傷は深くないようで胸を撫で下ろした。化膿したりしなければ一週間ほどですっかり良くなるだろう。患部を綺麗にして医療嚢から軟膏を取り出そうとしたら、ヘンケから何かが入った袋を渡された。動物の内臓からできた袋の中身を嗅いでみたら、知っている匂いがした。熊の油だ。月島軍曹が訝しそうにこちらを見ているが、できるだけ物資を温存したいので、有り難く使わせていただくことにした。
「ありがとうございます。イヤイライケレ」
ちゃんと伝わったようで、うんうんと頷き返された。エカシとヘンケ、コタンとクコタヌフなど、北海道と樺太では随分と言葉が違うようだから、あとでエノノカちゃんに言葉を教えてもらおう。手のひらに熊の油を出していると、視界の端でヘンケが月島軍曹に向かってちょいちょいと入口を指したのが見えた。二人が外へと出て行ったのを尻目に、油を少尉殿の傷口に塗りこんでいく。
「臭い臭いッ何を塗っておるのだ月島軍曹?!」
「熊の油です。アイヌの民間療法なのですが、杉元さんの顔の傷もすっかり消えたので、効果はお墨付きですよ」
私の返事に少尉殿が勢いよく振り返った。背を向けていて、月島軍曹が席を外したことに気づいていなかったらしい。辺りを慌てて見回しながら猿叫混じりで不明瞭なことを話している。断片的に聞こえてきた単語を繋ぎ合わせれば、どうやら月島軍曹を呼んでいることと、杉元さんの顔の傷が消えていないことを指摘しているようだということが分かった。
「あっ、あれは古傷なので。新しい傷はこう……ふふっ、ナスの、隠し包丁みたいに入っていたんです、ふっ、ごめんなさい、ちょっと……ふはっ」
あの時の杉元さんは熊の油だけでなく、アシリパさんに色々な物を塗り込まれて大変そうだった。隠し包丁を入れたナスという的確な例えを出した白石さん、あらゆる薬を塗りこんで満足そうにしていたアシリパさん、包帯でぐるぐる巻きにされて困っていた杉元さんを思い出してしまって、込み上げてくる笑いが抑えきれなかった。空いている方の手で口元を隠しながらまた熊の油を塗ろうとしたら、少尉殿が勢いよく身を引き、顔を赤らめて先程とは比べ物にならない早口で何かを話し始めた。
「お、落ち着いてください、少尉殿。もう少しゆっくり……」
全く聞き取れない。しかも先ほどとは違って標準語ですらなさそうだ。早口で、しかも薩摩弁で捲し立てられては何も分からない。月島軍曹が戻ってくる気配はないし、チセには私たちしか居ないので、人づてに言葉を交わすこともできない。これから協力してアシリパさんを探しに行かなければならないというのに、月島軍曹がいないと日常会話もままならないなんて致命的だ。それにさっきの単独行動も良くないし、忠告されたのにも関わらず、得体の知れない動物へと近づいたのも軽率だった。少尉殿の自由奔放さや裏表のないところは素敵だと思うこともあるけれど、今のところ全て裏目に出てしまっている。
分からない言葉を投げかけられていくうちに、次第にモヤモヤと心のわだかまりが膨れていく。伝えるべきか迷っていると、私の様子に気づいた少尉殿が急に静かになって、沈黙が訪れた。眉間に深い皺を寄せたまま、眼光鋭くこちらを見つめている。話せということなのだろうか。違っていたらどうしよう、と様子を伺いながら口を開いた。
「……私たちのせいで鶴見中尉殿のもとを離れることになって、不本意なのは承知しています。ご迷惑をおかけして本当に申し訳ないと思っています」
少尉殿は依然として何も言わない。居心地の悪い沈黙をなるべく早く埋めるために、床を見つめながら次の言葉を探した。今から言おうとしていることはただのお節介だ。私は軍人でもなければ、少尉殿の教育係でもない。「ナマエさんが引っ張っていってあげなさい」と以前中尉に言われたことはあるものの、今となっては律儀に従う必要もない。けれど、今後のことも考えたらやはり一度ちゃんと話した方が良いだろうと、腹を括って目線を上げた。
「でも、もう少しだけ周りを見て行動していただけませんか」
真っ直ぐに目を合わせながら伝えれば、少尉殿が分かりやすくピシッと固まった。
「少尉殿は、いずれ鯉登閣下のように大勢の兵士の上に立ち、師団を率いる立場になられるのですよ。部下たちの前での立ち振る舞いは、士気に直結します」
そして兵士の士気は、戦果に繋がる。昔聞いたところによれば、士気は物質的要素の3倍も重要らしい。私達は少尉殿のことを多少なりとも知っているから大目に見ていられるが、何も知らない杉元さんは既にかなり不満が溜まってしまっている。これがもっと大きな隊だったら。これが戦場だったら。僅かな士気の低下が大損害へと繋がりかねない。そしてその十字架を、苦悩を、後悔を背負うことになるのは少尉殿なのだ。
「命を預けるに値する人間だと示すことができれば、部下は自ずとついてきます」
そのためにはまず周りを良く見て、常に毅然とした態度でいられるようにならないと──軍人でもない女が何を語っているんだと思っているだろうか。でも、私は少なくとも少尉殿よりも戦場について知っている。良い上官も、そうでない上官も、その下で働く兵士たちも、あの戦争でたくさん見てきた。士気が高く、何のために、誰のために戦っているのかはっきりしている隊は、他と比べて戦果を出しているように見えた。やり方はさておき、鶴見中尉の隊はその筆頭だと言えるだろう。
「きっと鯉登閣下も、少尉殿にそのような立派な指揮官になって欲しくて、この旅への同行を提案されたのではないでしょうか」
少しだけ、少尉殿の瞳が揺れた。こんなに踏み込んで良かったのだろうか。しかし発してしまった言葉はもう無かったことにはできない。話すぎていると理解していたけれど、もうこの際胸の内を全て吐き出してしまおうと思って、また口を開いた。
「最後に、これは私の我儘なのですが……」
そう前置きをして、一番言いたかったことを口にした。
「私は誰かを通してではなく、少尉殿の言葉で、少尉殿とお話しがしたいです」
無言を貫いたまま、みるみる赤くなった顔に一瞬怒っているのかと思ったが、パッと視線を外してもごもごと口を動かしている様子を見るにそうでもないらしい。少尉殿の言葉を待っていると、月島軍曹が足早に戻ってきて私たちを見下ろした。
「何をした?」
「……何でもない、月島軍曹」
先ほどまでの沈黙が嘘のように、少尉殿が代わりに答えた。油でベタベタな背中のままシャツを羽織ろうとするので、慌てて制して包帯を巻きますと伝えれば、少尉殿がぎこちなく動きを止めた。何度か視線が月島軍曹と私を往復したあとに、私で止まった。
「……そ、それくらい、自分で、できる」
「背中は難しいですよ?」
「……できる」
子供のようにムっとした顔で言われて、思わず小さな笑みが零れた。今までで一番、ちゃんと会話ができている。
「では私は外套を直しておきますね」
「……頼む」
医療嚢ごと包帯を少尉殿に渡して、外套を手に取った。あの動物の鋭い牙と爪によって所々穴が空いたり、ほつれてしまっているがすぐに直せるだろう。でもまずは血を落とさねばならないなと考えていると、追いついた谷垣と共にエノノカちゃん達がチセヘと入ってきた。
「エノノカの名前、フレップって意味なんだって」
「そうなの?可愛いね、樺太の名産なんだよね?」
「うん。たくさん食べてゲ~って全部ゲボしたからついたの」
「えぇ……?」
ほかに名付けるきっかけはなかったのだろうか、と思っていたらエノノカちゃんがそういえばと思い出したように話し始めた。
「北海道から来た女の子もうちでフレップ食べた」
「それってこの子かい?」
「そうこの女の子!!」
杉元さんが渡した写真を見ながら、エノノカちゃんが笑った。さっきの"フレップ姉さん"のことがあっただけにまだ確証は持てないが、樺太アイヌのエノノカちゃんが言うなら信頼が出来そうだ。連れの男達についても聞いてみれば、「三人いた」と返ってきた。キロランケさん、尾形さん、白石さんだ。数も合っている。
「この男はいたか?」
谷垣がキロランケさんの写真を見せれば、「いた。『北へ向かう』って言ってた」とエノノカちゃんが答えた。北。北には国境がある。キロランケさんは一体どこまで行くつもりなのだろう。何をしようとしているのだろう。彼らのことで気になることは山ほどあったけれど、一番気になったことはそれではなかった。
「エノノカちゃん、その女の子はどんな様子だった?元気だった?」
「元気ない。とてもとても悲しそう。何も話さなかった」
当時のことを思い出しているのか、エノノカちゃんがしゅんとした。
「でも……フレップの塩漬け出したら食べた」
木の器にこんもりと盛られたフレップの塩漬けを、エノノカちゃんが私たちに差し出した。数粒摘まんで口に入れてみれば、しょっぱくて酸っぱくて甘い味が口いっぱいに広がって、その美味しさに少しだけ口元が緩んだ。「女の子も、フレップいっぱい食べたらちょっと元気になった」と私を見ながらエノノカちゃんが微笑んだ。
「ちょっと笑って『ヒンナ』って言ってた」
「ヒンナって、杉元さんっ……!」
「間違いなくアシリパさんだぜ。確かにこの村にいた。やっぱり樺太に来てたんだ……!!」
杉元さんと顔を見合わせているうちに、あっという間に目頭が熱くなって、慌てて顔を伏せた。鼻の奥がツンとする。気を抜いたら情けなく泣き出しそうだった。アシリパさんは樺太に来ていた。私達は間違っていなかったのだと嬉しく思うと同時に、あの活発で明るいアシリパさんが「とてもとても悲しそう」と形容されるほど落ち込んでいたことも分かって、心がぎゅっと締め付けられた。大好きなお父さんがのっぺら坊だと判明したのに、話をする間もなく殺されてしまった。気持ちの整理もつかないまま見知らぬ土地に連れて来られて、とても心細いはずだ。潜入前に網走監獄を見下ろしながら、「怖い」とはっきりと口にしていたのに、最後まで私が一緒にいると伝えたのに、側にいられないのが歯痒くて、申し訳なかった。それに、もしかしたら、杉元さんも殺されてしまったと思っているかもしれない。
「……早く、追いつかないと」
追いついて、杉元さんの無事を伝えなければ。そばに居られなくてごめんなさいと謝らなければ。でも、信頼していたキロランケさんの裏切りは、どうやって伝えれば良いのだろう。尾形さんが、お父さんと杉元さんを撃ったことは?大人たちの汚くて身勝手な思惑と都合で、またあの子を傷つけることになってしまう。俯いたままの私に、エノノカちゃんがフレップの塩漬けを差し出してきた。
「……っ、ヒンナ」
甘くて、しょっぱくて、ちょっと元気が出る味だ。瞬きをした拍子に、膝の上にポタポタと涙が落ちていく。泣きながらフレップを食べ続ける私はさぞかし滑稽だろうに、そんな私の背中を、エノノカちゃんは泣き止むまで優しくさすってくれた。
──
『なっ、何がそんなにおかしいんだ!そんなに楽しそうに……もう良い触れるなッ!深い傷ではないし痛みもない!』
「お、落ち着いてください、少尉殿。もう少しゆっくり……」
『そんなに軽率に触れるなまだ婚姻前だぞッ!恥じらいはないのか!大体月島は何も言わずにどこへ行った?!』
2024.10.18
