原作沿い
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35
木々の間から何が飛び出してくるのか分からない恐怖と戦いながら、薄暗い森の中で手分けしてアシリパさんを探し始めた。ヒグマよりももっと凶暴な動物までいると聞いてしまったせいで、気持ちばかりが焦っていく。いくらアシリパさんでも、そんな動物に出会ってしまってはひとたまりもないだろう。少し離れた所から、子供の足跡を見つけたという谷垣の声が聞こえてきて、杉元さんが一目散に駆けだした。私も急いで後を追えば、少し行った所で杉元さんの背中が見えてきた。
「杉元さん!アシリパさんは──」
聞きながら、立ち止まっていた杉元さんの目線の先にいる人物に気が付いた。そこには、見知らぬ女の子がいた。アシリパさんよりも少し年下の、樺太アイヌの女の子だった。
「アシリパさんじゃない……」
「あのフレップ姉さんもいい加減だな。まあ和人にとっちゃどっちもアイヌか」
ゾロゾロと現れた私たちを、女の子が不思議そうに見まわした。アシリパさんではなかったのは残念だけれど、この子も放ってはおけない。一緒にいるはずのお爺さんも見当たらないし、迷子になってしまったのだろうか。怖がらせないように膝を折って目線を合わせて、ゆっくりと話しかけた。
「こんにちは。あなたはどうして一人なの?」
「ヘンケの耳悪い……ヌソからわたし落ちた。クコタヌフ帰る。ここまっすぐ私のクコタヌフ」
樺太アイヌの言葉なのだろうか。ヘンケやクコタヌフなど聞き慣れない言葉が多かったが、何となく言っていることは分かった。村に帰る途中で橇から落ちたのにお爺さんの耳が遠くて、気づかれずに置いていかれてしまったから、近道でこの森を通ったということなのだろう。それにしても一人でこんな森を通って行くなんて無謀すぎる。何か起きる前に見つけられて良かったと心の底から安堵した。
ふと、女の子がチカパシに気づいて話し始めた。
「あなた北海道のアイヌ?わたし会った。北海道から来たアイヌの女の子」
「ちょっと待てその子って──」
杉元さんが話を聞こうとしたその時、リュウが突然大きな声で吠え始めた。耳を後ろに倒し、牙を剥き出してガウガウと荒々しく何かに威嚇している。その視線の先には、こちらへと向かってくるヒグマがいた。
「子供たちを後ろに!!」
月島軍曹の一声で、谷垣と子供たち二人と一緒に後ろへと退がった。月島軍曹と杉元さんが銃を構えるが、なんだかヒグマの様子がおかしい。私たちのことなんて気にも止めずに、ブエエッと大きな叫び声を上げながら錯乱したように動き回っている。
「血が出てる。怪我してるのか?」
「何か背中に付いてませんか?」
「本当だ、何か居るな……」
杉元さんとそんな会話をしている間にヒグマが体を捩りはじめた。ボタボタと鮮血がそこかしこに飛び散って、真っ白な雪を染めていく。ブンブンと体を大きく振り回したと同時に、ボテっと何か小さい物が雪の中に落ちてきた。
「こいつがヒグマを襲っていたのか?何だこの生き物は?!」
ヒグマが慌てて逃げていき、振り落とされた動物が今度は私たちへと向き直った。毛足が長く、顔周りが黒くてイタチや熊のような顔立ちをしている。大きさはリュウと同じくらいで、脅威というにはやや小さく感じる。でも、先ほどまでその体の何倍もある大きさのヒグマに襲いかかっていたのだ。念のため子供達と一緒にまた一歩後ろへと下がったが、鯉登少尉が軽率にその生き物へと近づいて行ってしまった。
「鯉登少尉殿、離れてください」
「これがさっき言っていたヒグマより凶暴な奴なのか?何か弱そうだがな。目もつぶらで可愛いではないか月島軍曹」
「……リュウは分かるみたいだぜ」
距離を取ったまま警戒しているリュウを一瞥して、杉元さんが銃を構え直した。その直後、得体の知れない動物が、ゴルルルッと唸り声を上げながら間合いに入った鯉登少尉へと襲い掛かった。
「少尉殿ッ!」
「月島ァ!!」
少尉殿の背中があっという間に血まみれになっていく。さっきのヒグマと同じだ。体格差で不利な分、まずは相手を動けなくさせるために脊椎を狙っているのだろうか。獣は酷く唸りながら少尉殿の背中に激しく食らいついて離れない。月島軍曹が思いっきり蹴り上げてすかさず銃弾を撃ち込んだが、瞬時に木を駆け上がって見えなくなってしまった。
「コイツ素早いぞ!」
「少尉殿っ……!立てますか?!」
「ナマエさん危ないから下がって!」
蹲っている少尉殿へと駆け寄れば、ガサガサと頭上から音がして、さっきの獣が木々の間を動き回っているのが分かった。しかし見上げてみても幾重にも重なった枝葉が広がっているだけで全く姿が見えなくて、緊張感と焦燥感からドッと汗が噴き出してきた。まずはここから離れなくては。少尉殿に肩を貸して、背中を警戒しながら少しずつ移動していたら、突然バキバキと枝が折れる大きな音が聞こえてきて、あっという間にあの獣が女の子目掛けて落ちてきた。間に合わない。一瞬で血の気が引いて、ひゅっと息を呑んだ時だった。
「でかしたチカパシ」
すんでのところでチカパシが女の子に覆いかぶさって身を挺して守っていた。獣がチカパシの背中を容赦なく攻撃しているが、羽織っている毛皮が邪魔になって苦戦している。その隙に杉元さんが暴れる獣をむんずと捕まえて、女の子を連れて行くように谷垣に指示を出した。
「ナマエさんも早く行って!」
「はい!少尉殿、すみませんもう少しの辛抱です!」
はぁはぁと苦しそうな呼吸を繰り返す少尉殿と一緒に谷垣達を追い始めれば、背後で杉元さんと月島軍曹の声や銃声が聞こえてきた。そのうち二人分の足音が近づいてきて、月島軍曹が私の代わりに鯉登少尉を支え、杉元さんが私の手を引いて走り始めた。
「来たぞ月島ァ!!」
「杉元撃て!!追いつかれるぞッ」
後ろを振り向いたらあの獣が真っ直ぐ私たちを追ってきていた。ダン、ダンッと焦りからかあらぬ方向に弾が飛んでいき、「当たんねぇ!!」ともどかしさと苛立ちが入り混じった声で杉元さんが叫んだ。どんどん距離が縮まってきて、このままでは追いつかれるのも時間の問題だった。
「……杉元さんっ!」
手を伸ばせばすぐに手渡された小銃を走りながら構え、深く息を吸って狙いを定める。緊張しているはずなのに、何故か的が良く見えた。静寂の中で、キリキリと緊張の糸が張り詰めていく感覚が心地良いとさえ思った。
「銃口を上げろ」
耳元で、尾形さんの声がした。銃口を僅かに上げてから、すぐに引き金を引いた。ダァン!と久々に感じる大きな衝撃によろけたところを杉元さんに支えられる。
「当たった……のに全然効いてねぇな!何だあれぇッ?!」
「月島ァ!何故ナマエさんが小銃の扱いを知っておるのだッ!」
「知りませんよ本人に聞いてください!」
すぐに杉元さんに小銃を引き取られて、また全速力で走り始めた。再度繋がれた手が離れないように、足手纏いにならないようにがむしゃらになって足を動かした。チラリと後ろを振り返れば、先ほどよりもあの獣との距離は出来ていたが、銃弾を受けても尚追ってくる執念に底知れぬ恐怖を感じた。10月中旬とは思えない凍てつく空気をたくさん吸い込んで肺が痛い。脚がズンっと重くなってきて、どこまで行けば逃げ切れるのか分からない絶望に飲まれていく。そんな中、「犬橇だ!」という谷垣の声が前方から聞こえてきた。
「エノノカ!」
「ヘンケ!」
お爺さんが戻ってきてくれたのだろう。沢山の犬が繋がれた橇に女の子とチカパシが乗り込み、後から私たちもバタバタと急いで乗り込んだ。ぐんっと体が後ろに大きく引かれる感覚があった後、橇が徐々に加速していく。
「諦めたみたいだぜ」
杉元さんの声に後ろを振り返ろうとしたが、谷垣の体に後ろからぎゅうぎゅうに押し潰されて身動きがとれなかった。
「く、くるしい……」
「おい、大丈夫かミョウジ」
「は、飯盒がっ……!」
「待て、今下ろす」
月島軍曹の背嚢に下げられた飯盒があばらを圧迫してきて、痛みで息ができない。背嚢を下ろそうと月島軍曹が動いたら、逆にゴリゴリと骨を伸すように押されてしまって、あまりの痛みに声が出た。このままでは谷垣と飯盒に挟まれて死んでしまう。
「パーセ!!」
「ヘンケが重いって言ってる!犬が疲れちゃう!」
「あっ、私降ります……!降りたいっ、降ろさせてください!」
鋭い痛みに加えてみしみしと体が軋み始めて、一刻も早く降りたかった。なんとかこの隙間から脱出しようと体を捩っていると「何故ナマエさんが降りねばならんのだ!」と少尉殿の怒声が前から聞こえてきた。
「谷垣一等卒!!貴様のせいだ牝牛のように太りよってからに!!」
「そうだな……肥えすぎだ」
「ええ?」
「ミョウジも潰されて死にかけているぞ」
急に皆さんが口々に谷垣の体型を責め始めた。確かに、今まで誰も触れていなかったが、谷垣は昔と比べてかなり体重が増えている。釧路で再会した時よりも更に増えているようにも見えた。健康そうでなによりだけれど、このまま押しつぶされるのは勘弁したい。「熊みたいで可愛いでしょう」「意外とふかふかしているんですよ」といつだったかインカラマッがニコニコ顔で言っていたのを走馬灯のように思い出した。
「走って痩せろ谷垣一等卒」
少尉殿の言葉と共にふっと後ろが軽くなったと思ったら、視界の端で谷垣がゴロゴロと橇から転げ落ちていった。私たちの重みでそこまで速度は出ていないけれど、それなりに痛そうだった。
「だ、大丈夫でしょうか……」
「大丈夫だろ」
後ろを見ながら呟けば、杉元さんの腕が遠慮がちにお腹に回ってきた。余裕ができたのは嬉しいけれど、ひぃひぃと必死に私達を追いかけてくる姿を見ていると何だか罪悪感が湧いてくる。ズキズキと未だに少し痛む肋骨をさすっていたら、「ナマエさんは怪我してない?」とすぐそこで杉元さんの優しい声がした。
「はい、私は大丈夫です。杉元さんこそ脚大丈夫ですか?」
「うん、全然平気」
元気そうな返事に胸を撫で下ろした。保定器具をつけたままの脚であんなに走っていたから少し心配だったのだ。頭の傷のこともあるし、本来ならもっと安静にしておかなければならないのに。樺太に上陸してまだ一日も経っていないのに、もうこんなことになるとは思ってもいなかった。
「それよりナマエさん凄かったね、また腕上げたんじゃない?一発で当てちゃってさ」
「まだまだです、凄くブレちゃったので尾形さんに怒ら──」
ハッとして口を噤んだ。一体、何を言っているんだろう、私は。尾形さんたちのせいでこんなことになっているというのに、軽率に名前を出してしまったのが申し訳なくて、すぐに「ごめんなさい」と口走った。杉元さんは何も言わない。でも、お腹に回った腕に少しだけ力が入ったような気がした。肋骨の痛みが増して、びゅうびゅうと凍える風を切る音が大きく聞こえる。
本当に、自分が嫌になる。
自分の甘さに、能天気さに、ぐっと奥歯を噛み締めた。頭では分かっていても、まだちゃんと受け入れられていないのだ。杉元さんが、今度こそ本当に尾形さんを殺すつもりだということを。そしてそれは尾形さんも同じなのだろう。小樽で始まった二人の因縁は、どちらかが死ぬまで終わらない。顎も腕も折れ震えながら運び込まれた尾形さんの姿と、額の端からどくどくと血を流して倒れていた杉元さんの姿を思い出して、胸が痛いくらいに締め付けられた。もうそんな二人の姿は見たくない。キロランケさんのも、誰のも見たくない。もっと他の選択肢があるんじゃないですか。全部水に流してまた以前のように過ごしましょうよ、なんてバカみたいに生ぬるいことばかり考えてしまう。
銃口を上げろ、腹に力を入れろ、ブレすぎだ、目を瞑るな……尾形さんに散々言われてきたことが頭を巡る。私は腕力がなくてすぐに銃口が下がってしまうから、支えのために銃剣を木の幹に良く刺してくれていた。傲慢で人をおちょくることを生きがいにしてそうなのに、そういう所があるから憎みきれない。兄を殺して笑っていたくせに、私は誰にも必要とされていないと突きつけてきたくせに、夕張でだって旭川でだって私を守ってくれていた。狩りをして、ご飯を一緒に食べていたあの日々は、もう戻ってこない。なんで、こんなことになってしまったんだろう。どんよりとした空を見上げて、溢れそうになった涙が引くのを待った。
知ってますか、杉元さん、尾形さん。
私がお二人を治療したのは、殺し合いをさせるためではないんですよ。
2024.10.05
