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34
「北海道の最北端から約40キロか……あっという間に着いたな」
谷垣の言う通り、思っていたよりもずっと早く着いた。アシリパさんたちが樺太に来ているのならば、この大泊から上陸した可能性が高い。ひとまずこの近辺での聞き込みをすることとなったのだが、差し当たっての問題は少尉殿の荷物だった。
「鯉登少尉殿、なんですかこの荷物……こんなに持っていけませんよ。置いていきなさい」
「必要最低限だッ」
地面には大きなトランクがいくつも並べられている。徒歩なのに、こんなに多くては気軽に移動することもできない。まるで長期旅行に来たかのような荷物の量に、思わず苦笑いが出た。荷物を北海道へ送り返すようにと月島軍曹が諭しても、全部持って行くのだと少尉殿は一歩も譲らない。先に私たちだけでも聞き込みに行った方が良いのだろうか。二人の様子をぼんやりと眺めていたら、急に一つのトランクの蓋が勢い良く開いた。
「ヒッ!!なんだこの汚いのはッ」
「チカパシ?!」
「なんでここに……!怪我はしてない?具合は?大丈夫?!」
こんな狭い中に、しかも貨物として取り扱われていたと思ったらゾッとした。慌ててチカパシとリュウをトランクから出して、怪我をしていないか確認した。
「平気だよこれくらい」
ちょっと狭かったけど、と笑ったチカパシは本当に元気そうだった。あの日以来、チカパシとは一度も会えていなかった。病院は兵士に囲まれていて外出も制限されていたから、会おうと思おうにも会えなかったのだ。インカラマッも谷垣も心配していたけれど、コタンと村人たちは無事だと月島軍曹から聞いていたので、チカパシなら元気にやっているだろうと思っていた。しかしまさか、荷物に忍び込んで、私たちをここまで追ってくるほどに元気とは。
「もう、こんな無茶までして……」
ぎゅっと握ったチカパシの手が驚くほど冷たくて、両手で小さな手をさすりながら息を吹きかけた。
「……チンチンがムズムズする」
「え?大丈夫?ムズムズって痛痒いってこと?」
「やめなさいチカパシ。大丈夫です、ミョウジさん」
谷垣が慌てたようにチカパシの口を押さえたら、「北海道へ戻る船に頼んで送り返しておけよ」と月島軍曹が伝えてきた。
「北海道戻っても俺がいる場所ない……」
神妙な顔でそんなことを言われてしまっては、こちらも強く出られない。谷垣と返答に困っていたら、鯉登少尉を一瞥しながら月島軍曹が大きなため息をついた。
「……これ以上子守をする気はないぞ。谷垣が責任を持て」
やった!と跳び上がって喜ぶチカパシを横目に、杉元さんがリュウに近づいてアシリパさんのマキリを嗅がせた。
「チカパシは分からんが、こいつには何度も助けられている」
「アシリパさんのことも見つけてくれるかもしれませんね」
ピスピスと可愛い音を立てながら熱心にリュウがマキリを嗅いでいる。頼むよ、と少し見ない間に冬毛でモフモフになりつつあるリュウを撫でていると、奥でチラチラと鯉登少尉が私を見ていることに気づいた。
「……荷物?あれだけでしょう」
「そんなわけがあるか!」
鯉登少尉と月島軍曹のやりとりが聞こえてきて、心底面倒そうな顔をした月島軍曹と視線がかち合った。
「ミョウジの荷物がそれだけか知りたいそうだ」
「私のですか?この背嚢と医療嚢だけですよ」
着替えなどが入っている背嚢と、肩から掛けている包帯や医薬品の入った医療嚢を見せれば、少尉殿が驚いたように固まった。
「だ、そうです。ほらほら、早く送り返しますよ」
まるで先生のようにパンパンと手を叩いて鯉登少尉を急かす様子に笑いそうになり、慌てて咳払いをした。「なんなんだよアイツ」と杉元さんの呆れた声が聞こえてくる。「もう置いていこうぜ」と杉元さんがリュウを連れて歩き出してしまったので、月島軍曹に一言断ってから、私たちはひと足先にアシリパさんたちについての聞き込みを開始した。
*
「うーん、ちょっと分からないねぇ」
「お時間頂いてすみません。ありがとうございました」
アシリパさんを必ず見つけるのだと、聞き込みを始めた当初は意気込んでいたのに、さっきから何度も聞いた返事にどんどん気持ちが落ち込んでいく。もう何人も尋ねたのに、誰もアシリパさんのことを知らないと言う。小さいアイヌの女の子が、三人の成人男性と歩いていたら目立つと思うのだけれど。
アシリパさんは、本当に大泊から上陸したのだろうか。どこか別の所から上陸した可能性だって捨てきれない。そもそも、本当に樺太に来ているのだろうか──分からないことが多くて、焦りばかりが募っていく。
杉元さんたちの成果はどうだろう。振り返ったところで、ちょうど鯉登少尉が一人でどこかへ向かっていくのが見えた。一緒に行動していたはずの月島軍曹は、住民と話し込んでいて気づいていないようだ。自由放法な行動が目立つとはいえ、良い大人だから一人でも問題ないだろう……と、一度は私も聞き込みに戻ろうとしたものの、何だか放っておけなくて、気づいた時には鯉登少尉が消えていった方向へと走り出していた。
「少尉殿!勝手に離れられては困ります。戻りましょう?」
ちらりとこちらを一瞥したから聞こえているだろうに、少尉殿は何も言わずにそのまま歩き進めていく。その足取りはしっかりとしていて、どこか目的地があるようだった。
「もしかして、何か見つけられたのですか?」
私の問いに対して少尉殿が"フレップ本舗"と掲げられた看板を指差し、ズンズンと店内へと入っていってしまった。なんだ聞き込みをするのか。確かにお店なら色々な人が立ち寄るから情報も集まりそうだと思ったが、ふとその隣に書いてある文字に気づいた。
「フレップワイン……?」
少尉殿、まさかこの聞き慣れないワインが飲みたくて来たわけではないですよね──一抹の不安を抱えながら店内に入れば、早速そのフレップワインと思しき物を楽しんでいる少尉殿が目に飛び込んできて、頭を抱えた。
「軍人さんフレップ知らないの?コケモモよ。こっちでは夏の沼地にたくさん実が成るの」
「……少尉殿!ワインが飲みたいだけなら戻りましょう?今頃きっと皆さん心配しています」
フレップの説明を受けながら、悠然とおかわりを貰っている少尉殿に冷汗が流れ出た。月島軍曹の顔が浮かんで、ソワソワと落ち着かなくて店内を無駄に出入りしてしまう。近くに杉元さん達の姿が全く見えなくて、益々焦りが募っていく。アシリパさんを探しに来ているのに、私たちがはぐれてしまっては元も子もない。しかも、目的と何も関係ないことではぐれたなんて酷すぎる失態だ。
「お嬢さんもいかが?」
「えっ、いえ、私は……」
すごく気になる。
鮮やかな色合いのフレップワインを勧められて、心が揺れた。さっきから見ないようにしていたけれど、鯉登少尉はそれはそれは美味しそうにワインを飲み進めている。でも飲んだら絶対に怒られる。月島軍曹にバレたら「お前も呑気に飲んでないで早く連れ戻せ」と怒られるのが目に見えている。「こういうのはバレなきゃ良いんだよ」と尾形さんならしたり顔で言うだろうが、慣れないことをすれは見つかるのが世の常というものだ。
「ほら、こちらの将校さんも飲んだらどうかって」
「いや、でも……お、お気持ちは、嬉しいのですが……うっ……」
少尉殿がコソコソと店員の女性へと耳打ちをしていると思ったら、そんなことを言われて退路を断たれてしまった。腹を括ってコップを受け取り、初めてのフレップワインを一口口に含んで、ごくりと飲み込んだ。
「……おいしい!」
「でしょう、樺太の特産品よ」
「香りが豊かで甘酸っぱくて、普通のワインよりもとても飲みやすいですね……っではなくて!」
早く戻らなくては。ごくごくと一気にコップの中身を飲み干した後、最後にアシリパさんのことを聞こうとポケットを探って、私たちの写真を取り出した。
「あの、ちなみになのですが、今この子を探していて──」
「鯉登少尉殿、勝手にうろちょろしないでください」
突然、この場で一番聞きたくなかった鋭い声が店内に響いた。びっくりしすぎて写真を落としてしまった私とは正反対に、鯉登少尉は「甘酸っぱくてなかなか美味いぞ。飲んでみろ月島軍曹」なんて呑気なことを言っている。ヒラヒラと床に落ちた写真を拾って、恐る恐る顔を上げれば、眉間に深い皺を寄せた月島軍曹がそこに居た。視線は私の手の中の空のコップに注がれている。
「ミョウジ、お前も一緒になって何をしている。気づいたのなら早く連れ戻せ」
「も、申し訳ありません……!」
「おい、ナマエさんに迷惑をかけるな。観光じゃねぇんだぞボンボンが。てめぇの楽しみを優先すんなよ」
杉元さんが苛立ちを隠さずに詰め寄ったが、鯉登少尉は優雅にフレップワインを飲み続けている。
「服に垂らさないようにね。フレップの赤いのは洗っても落ちないから」
「あ、そうなの」
言われたそばから少尉殿がべべッと杉元さんの服にワインを引っかけたので「えっ?!」と大きな声を出してしまった。幸い、杉元さんの外套は元々濃い色だからあまり目立ってはいないけれど、落ちないと言われたものを何故わざわざ引っかけたのか。杉元さんの顔を見れば、度重なる少尉殿の言動に、明らかに堪忍袋の緒が切れている様子だった。「落ち着け杉元」と谷垣が宥めているが、多分、もう遅い。
「お姉さん俺にもついでくれる?」
コポポッとつがれたフレップワインをぐびぐびと杉元さんが一気に飲み干して、少尉殿にコップを投げつけた。ゴッと鈍い音を立ててコップが少尉殿の顔面を直撃したのを合図に、掴み合いの喧嘩が始まった。
「ちょっと杉元さん、少尉殿も……!店内でやめましょうよ」
私の言葉に、杉元さんが鯉登少尉の胸倉を掴んで無理やり店の外へと連れ出していく。違います、そういう意味じゃなくて。店外だったら良いという意味ではないです。月島軍曹と谷垣も呆れたように外の二人を見つめていた。最初は掴み合って口論していただけだったのが、徐々に激化していって、地面に転がってドカドカと遠慮のない殴り合いまで始めたので、慌てて月島軍曹と谷垣が飛び出していった。
「大体何なのだ貴様はッ!ナマエさんナマエさんと馴れ馴れしい!」
「あぁ?!ナマエさんはナマエさんだろうがッ!」
「貴様のような野蛮な奴に馴れ馴れしくされてナマエさんも嫌がっているはずだ!」
「そ、そんなことねぇよッ!」
私も遅れて外に出れば、そんな言葉の応酬が聞こえてきて顔を覆ってしまった。やめてください、そんなことで喧嘩しないでください。
「旅順でナマエさんって呼んで良いかって聞いて良いですよって言われたもんね!本人公認なんだよ俺のはッ!」
そうだったっけ。そういえばすっかり忘れていたけれど、昔杉元さんにそんなことを聞かれた気がする。わざわざ聞いて来るなんて律儀な方だな、と思ったのをぼんやりと思い出した。日露戦争中は"ミョウジ大尉"と"ミョウジさん"だと、兄と私のどちらなのか分かりづらいということで、ナマエさんと呼ばれることが多々あった。誰が言い出したわけでもなく、何となくそういう習慣になっていたので、下の名前で呼ばれることについて特に気にしたことがなかったけれど、改めて呼び方について考えてみれば、兄が亡くなってから私はすっかり苗字で呼ばれることが多くなっていたことに気がついた。第七師団で私のことを名前で呼んでいたのは、鶴見中尉と鯉登少尉くらいだろうか。月島軍曹と谷垣が仲裁に入っても中々終わらない喧嘩を見つめながら、そんなことをぼんやりと思った。
「あらあら元気ねぇ」
「すみません、ご迷惑をおかけしています」
「いいのよ、別に、気にしないで」
店先で乱闘騒ぎを起こしているというのに、店内から出てきた女性がニコニコと楽しそうに笑った。そのおおらかな人柄に、アシリパさんを探すと言う目的がなければ、フレップワインをいくつか買って帰りたいと思ったくらいだった。
「あら?坊やも初めて見るアイヌの子だねぇ」
リュウと外で待っていたチカパシに気づいた女性が、不思議そうに話しかけた。
「どこから来たの?今日は二人目だわ」
「えっ?!その一人目のこと、詳しく教えてください!」
女性によると、いつも町まで魚を売りに来るアイヌのお爺さんが、今日は犬橇の後ろに初めて見るアイヌの女の子を乗せていたらしい。それを聞いた杉元さんが、鯉登少尉に殴られながら慌てて懐から写真を取り出した。
「こ……この子か?!」
「ちょっと違うわねぇ……」
「うわっ、すみませんこっちの子です!」
褌姿の谷垣がチラリと見えて、慌てて私が持っていたアシリパさんの写真を代わりに差し出した。
「ああ!そうそうこの子よ」
「ホントに?間違いなくこの子か?」
「うんうん!このアイヌの女の子よ!ついさっきアイヌの集落へ帰っていったわよ」
その言葉に私と杉元さんでパッと顔を見合わせた。やっぱりアシリパさんは、この樺太に来てたんだ。僅かに差した希望の光に居ても立っても居られなくて、二人で駆け出した。そのうち月島軍曹たちも追いついて、数キロ先だというそのアイヌのお爺さんが住む集落を全員で目指していると、前から馬を連れたロシア人の男性がやってきた。ズドラーストヴィチェ、と聞きなれない言葉を月島軍曹が発し、そのまま二人でロシア語で何かを話し始めた。
「……月島軍曹ってロシア語しゃべれるの?」
「凄いですよね。日露戦争では通訳としても活躍されていたそうですよ」
「すげぇな月島軍曹」
ロシア語が分からない私たちが遠巻きに会話を見守っていると、突然、月島軍曹が走り出した。
「走れッ急ぐぞ!ついさっきアイヌの女の子を見かけたらしい!」
なんでもあの男性は、その女の子が一人で森に入っていくのを止めようとしたが、見失ってしまったらしい。この時期はまだヒグマも冬眠していない上に、この辺りの森にはヒグマよりも凶暴な動物が生息している、という説明に耳を疑った。
「ヒグマよりも凶暴?」
「どんな生き物だ?それは……」
そんな動物、想像がつかなかった。どうか無事でいて。泣きたくなる気持ちを抑えて、私たちは鬱蒼とした森の中へと足を踏み入れた。
2024.09.20
