原作沿い
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閑話 -釧路にて-
「あらら、アシリパさんおねむだ」
「海亀猟で疲れたんですかね」
聞こえてきた会話に小銃からおもむろに顔を上げれば、アシリパがナマエに凭れかかっていた。寝ぼけているのか、まるで幼子のように胸元に擦り寄って行くアシリパをナマエが少し驚いたように笑いながら抱き止めた。とん、とん、と温かく滑らかな手が背中を優しく叩いている。その眼差しはどこまでも柔らかく、腕の中の存在にだけに注がれていた。
ナマエもいつか母になるのだろうか。誰の母に。誰の妻に。子守唄を歌い、子を寝かしつけるのか。誰の子だ。杉元か?隣で心底愛おしそうにナマエの横顔を見つめている杉元に、ナマエ自身は全く気づいていない。それはお前のではないというのに、当たり前のようにナマエの隣を陣取る姿が気に食わない。
「前に言ってたよ。ナマエさんと一緒だと落ち着くんだってさ」
パッと嬉しそうに顔を上げたナマエが杉元の視線に気づき、戸惑ったようにまたすぐに俯いた。今、お前は何を考えた?一瞬でも杉元との未来を想像したか?いや、ナマエのことだ。その視線の意味を理解できていない可能性さえある。つくづく鈍感でめでたい奴だ。
ナマエが昔、月島軍曹は小言が多いと文句を言っていたが、ナマエは自分に向けられている視線にあまりにも無知で無頓着すぎる。あわよくばを狙っていた輩がどれほど居たのか、ナマエは気づいていない。陰があるのが色っぽいだとか、たまにふと見せる笑みが儚くて可憐だとか、華奢な体が庇護欲を掻き立てるだとか、それはそれは色々なことを周りのやつらが鼻息荒く語っていた。髪型や服を褒めるくらいで落ちるやつでもないだろうに、ナマエの見た目に何か少しでも変化があれば、兵士たちは浮き足立って話しに行く機会を伺っていた。
いつだったか、三島なんて堂々と花を贈っていたが、花瓶が無いので困るとナマエは俺に零していた。「ミョウジ先生は花が似合いますね」と言われてぎこちなく愛想笑いをしていた姿は、半分に割ってやった焼き芋のどちらを選ぼうか考えていた姿とは大違いだった。花や装飾品なんかよりも飯を喜ぶ女だと、一体どれだけの人間が気づいていたのだろう。多分、誰も気づいていなかった。あの中尉でさえも。
俺との噂話が出回ったことは想定外だったが、結果そういった輩が減ったのは宇佐美の手柄だ。あいつにしては珍しく良い仕事をしてくれた。しかしそんな噂話を物ともせずに、最後にはあのいけ好かないボンボン相手の縁談話まで出てきやがった。まあそれも造反と逃亡で白紙になっただろう。そもそも月島軍曹が居なければ碌に会話もできないくせに、アイツにこのじゃじゃ馬の手綱が握れるとは到底思えない。「引っ張って行ってくれるような女性がお似合いだろう?」と中尉は笑っていたが、引っ張られるどころか引き摺られるのが関の山だろう。
誰も、何も、分かっていないくせに、払っても払っても気づけば誰かが側にいる。まるでこの世の全てに愛されるために生まれてきたようだと、ミョウジ少佐の言葉が蘇る。
「……なんだよ」
まるで番犬だ。杉元の威嚇するような鋭い目つきと声色に腹の底から呆れ返った。それはお前のではないと何度言えば分かるんだ。
「どうしたんですか、尾形さん?」
いつもと変わらない瞳でナマエが俺を見つめてきた。どうかしたのはお前の方だろう。久々に会ったと思ったらアシリパ達と些細なことで瞳を輝かせてはしゃいで、口を開けて笑うような奴になって。
「いや……なんでもない」
杉元の視線が煩わしくて背を向けた。それでも苛立ちが収まらない。いつもどこか緊張した顔をして、俺といる時にだけ少し多く笑う奴だった。生きていることを楽しむように飯を食べる姿も俺だけが知っていた。隣で俺のことを見ていると言っていたお前はどこへ行った。今のお前はただ、自分の問題から目を逸らしているだけだろう。他人の痛みには殊更敏感なくせに、自分のことは後回しにして、誰かの世話をしている間に自分の傷が塞がるのを期待しているんじゃないか。癒える前に、かさぶたになる前に、俺が何度でもお前の傷口を抉ってやる。ドクドクと流れ出る血を見れば、嫌でも生きていることが分かるだろう。大好きな兄を犠牲にしてまで得た命だと、何度でも実感するだろう。
それでも、心の底から絶望しているくせに、ただ生きていくしかないのだと悶え苦しみながらナマエは進んでいくのだろう。今までだってそうだった。泣きながら飯を食い、次の日にはまた前を向いている。何がお前をそうまでさせる。いつになったらお前は諦める。いつになったら俺の所まで堕ちてくる。これが、祝福された人間とそうでない人間の差なのだろうか。
ただ、同じ祝福された人間とはいえ、先日の答えからするに、ナマエは勇作殿とは少し違うように思えた。どうせ同じなのだから殺してやろうと思っていたのに、俺のことを否定しない姿勢に困惑した。まあ殺すのはいつでもできる。今殺すのはあまりにも惜しい。その見せかけの高潔さを、純潔を剥ぎ取ったら何が残るのか、グチャグチャに暴いてやってからでも遅くはない。数日前に触れた時の、ナマエの肌に指が沈み込む感覚が未だに手に残っている。服越しでこれだ、直に触れたらさぞかし気持ちがいいのだろう。昔見た胸元は滑らかでふっくらとしていて、妙に眩しく見えた。物は同じなのに、花街の女とは違って見えたのは処女性故だろうか。なんでも処女の純潔は黄金、瑠璃や真珠にも匹敵する物らしい。汚濁の中の光、茨の中の百合だとか。人に夢を見過ぎだ気色悪いとバカにしていたが、あながち間違いではないのかもしれない。全て剥ぎ取った後には一体何が残るというのだろう。価値は、愛は、残るのだろうか。
ナマエは誰の存在も否定しないと言っていた。本当だろうか。すべて暴いて、晒して、ぶつけて、それでも俺を愛してくれるだろうか。それを証明するためにはどうすればいい?
一番邪魔なのは杉元だ。そもそもこいつさえ居なければ、今頃ナマエと金塊を探していたはずだった。結局故郷の女の所に帰るというのに、勝手にナマエを連れ去って、勝手に隣に居座り続ける杉元が邪魔で仕方がない。子守りだけしておけば良いものを、一々俺たちに突っかかってくるのが煩わしい。ナマエもやたらと杉元を気にかけているのが気に食わない。杉元はお前のことを何一つ知らないだろう。知られたくもないだろう。
それに邪魔なのはアシリパもだ。最近のナマエは口を開けばアシリパアシリパと言っている。金塊はいらない、アシリパを見届けるだけで良いなんて、夕張で腑抜けたことをぬかした時は一体どうしたのかと思った。どいつもこいつもよそ見ばかりしやがって。お前は俺を選んだだろう。ぬるま湯に浸かりすぎて忘れたのか。嬲られ床に転がっても、何度傷を抉っても自分の足で立つ奴だ。お前にぬるま湯は似合わない。まあしかし、本当にのっぺら坊の娘なら、ナマエがアシリパの信頼を勝ち取っているのは都合が良い。利用するだけ利用して、金塊を手に入れたら切り捨てれば良いだけだ。ナマエはごちゃごちゃ言うだろうが少しすれば何も言わなくなるだろう。
こいつらを排除すれば、ナマエはまた俺の隣に戻ってくるはずだ。ナマエの手も、瞳も、全て俺のものだ。中尉を中央に売れば俺は将校になれる。第七師団長だって夢じゃない。今よりもずっと楽な暮らしができる。悪い話じゃないはずだ。
振り返れば、アシリパと並んで眠るナマエがいた。すやすやと無防備な寝顔を晒して、アシリパを抱きしめながら眠っている。
目を開けろ、俺を見ろ。
なあ、欠けた人間とそうでない人間が交わったらどうなるんだろうな。教えてくれよ、ナマエ。
2024.08.02
