原作沿い
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33
「鯉登少尉、ミョウジナマエには気をつけてください」
鯉登少将との話を終えて、甲板から船内へ移動しようとした時、どこからか月島軍曹の声が聞こえて来た。その声の先では、鯉登少尉が何かの写真を手にしながら眉間に皺を寄せ、谷垣は気まずそうに視線を彷徨わせていた。
「あの女はあなたが思っているよりも強かで図太い女です。自分の目的のためなら何だって利用する」
「……そんな言い方はよせ、月島軍曹」
「そうやって、皆あの見た目に騙されるんです。あの尾形だって随分とのめり込んでいた」
ふと俺に気づいた月島軍曹が、表情を変えることなく今度は俺に話しかけてきた。
「お前もだ、杉元。ミョウジには気をつけろ」
忠告はしたからなと月島軍曹が去っていき、鯉登少尉が何か言いたげに後を追っていった。何が忠告だ。知ったような口を利きやがって。ナマエさんはそんな人じゃない。いつだって周りの人間が勝手に持ち上げて、期待して、あることないことを話して、ナマエさんに何かを見ているだけだ。
小さくなっていく月島軍曹たちの背中を睨み続けていれば、視界の端で谷垣が一度口を開いてまた閉ざしたのが分かった。
「なんだよ、お前も何か言いたいことがあるのかよ」
「いや……さっきの言い方は俺も良い気はしない。月島軍曹は第七師団に居た頃のミョウジさんしか知らないからああ言ったんだと思う」
以前のミョウジさんは今とは全然違った、と肩にかけた村田銃の負い革をしきりに触りながら谷垣が続けた。
「口数は多くないし、何を考えているのか分からないような人だった。鶴見中尉が引き抜いてきたお気に入りなだけあって腕は良いし、頭の回転も速い。医者としては頼もしい限りだが、あの成りで第七師団に居るのが不気味だった」
「……ちょっと待て、ナマエさんは医者として第七師団に連れてこられたのか?」
「えっ……聞いてなかったのか?」
俺が黙り込めば、しまったというように谷垣が青ざめて口を閉ざした。小樽の兵舎でナマエさんが"先生"と呼ばれていた時の記憶が、急に蘇った。看護婦なのに優秀なお兄さんの下で働いていたから先生と呼ばれるようになってしまったと、桜鍋を囲みながら困り顔で説明していたことも芋づる式に思い出した。色々と話してくれていないことが多いことは分かっていたが、ナマエさんがついた嘘をこんな形で知ってしまって、虚しさや後ろめたさがない混ぜになった、何とも言えない複雑な気持ちになる。内容はどうであれ、ちゃんとナマエさんの口から聞きたかった。
「ミョウジ大尉、いや少佐か。少佐はどうした?ナマエさんが亡くなったって言ってたけど」
「少佐のことについては良く知らない。事故だとか聞いたが……詳しいことは……」
事故?そんなはずがない。ただの事故でナマエさんがあんなに取り乱すとは思えなかった。ついこの間も私のせいで、と泣きじゃくっていたのに。今までの様子からミョウジ少佐の死に中尉が絡んでいるとしか思えなかったが、谷垣は本当に何も知らないようだった。
「……網走ではミョウジさんに全て背負わせてしまった」
谷垣の口調は重々しく、あの夜のことを思い出しているようだった。
「あの場で全員を助けようと、中尉に必死に頭を下げていた。尾形の狙撃だって、身を挺して止めてくれた。俺たちはミョウジさんに救われた」
ウイルクは死に、インカラマッも俺も重症で、アシリパさんは連れ去られ、逃げ場をなくした絶望の淵で必死に最善の策を考えてくれたのだと思うと胸が張り裂けそうだった。意識を失っていた俺なんかよりも、ずっとつらい目に遭わせてしまった。それなのに、恨み言の一つも言わずに、目覚めた俺にただただ謝り続けるナマエさんを思い出して、軍帽を目深に被り直した。
「杉元は前にミョウジさんと旅順で会っていたんだろう?どんな人だったんだ」
「どんな人って……今とそんなに変わらねぇよ」
「そうか、良かった」
良かった?と不思議に思って聞き返せば、谷垣が少しホッとしたように口元を緩めていた。
「俺たちと一緒に旅をしていたミョウジさんが、本当のミョウジさんなんだな」
谷垣に別れを告げて、今度こそナマエさんの居る船内へと降りていく。狭い船室はボイラーの音が響いてうるさい。しかし椅子に座って、膝の上に背嚢を抱えて枕にするようにナマエさんがうたた寝をしている姿を見つけて、思わず笑みがこぼれた。確かに図太い人だ。
そういえば網走までの旅でも一言も文句を言っていなかった。いつだって、疲れた、腹減った、もう休もうぜと、泣き言や文句を言っていたのは白石の方だった。見た目や所作から滲み出る"良いところのお嬢さん"というような雰囲気とは正反対で、中身は燃え盛る炎のような力強さを持っている人だと思う。その炎はナマエさんという入れ物に入れられて、いつもはふんわりと日向のような優しい光で辺りを灯している。でも、ごくたまに、抑えきれない火花が溢れ出るように見えて驚いてしまうことがある。そういう時はいつだって、何か壁にぶち当たった時だった。悲しみや怒りや絶望をくべられて、ナマエさんの中の炎はさらに燃え盛る。パチパチと火花を散らして光が増す姿はハッとするほどに美しい。
網走でのナマエさんはまさにそうだった。俺が目覚めた直後は痛々しいほどにゆらゆらと不安定な灯火だったのに、しっかりとご飯を食べて、日々できることを着実にこなして段々と安定していき、遂には身を焦がすほどに勢いを増していく様は、見ていてとても綺麗だと思った。立ち止まっている暇なんてないのだと、真っ直ぐに力強く進んでいく姿を見るのが好きだった。同時に、いつかその炎がナマエさんの身ごと焼き尽くしてしまいそうで不安だった。
一つ席を空けて左隣に座れば、ナマエさんの寝顔がよく見えた。長いまつ毛が目元に影を落としている。起きている時より幾分か幼く見える寝顔は、旅順で見たものよりも顔色がいい。寝顔を盗み見るのは失礼だと思いつつも、やっぱり目が離せなかった。
暫く見続けていれば、突然船体がぐらりと波に煽られ大きく揺れて、ナマエさんが飛び起きた。瞳はまん丸に見開かれ、背嚢につけていた右頬は赤く跡がついてしまっている。状況が飲み込めずに固まっているのが可愛くて、堪えきれずに吹き出してしまった。
「あっ、杉元さん?!起こしてくださいよ!」
「ごめん、気持ちよさそうに寝てたからさ」
「えっ?!恥ずかしい……!」
かぁっと一瞬で赤みが差した頬をナマエさんが手で覆って、背嚢に突っ伏した。小樽で出会ったばかりの頃よりも、随分と表情豊かな様子に気持ちが揺さぶられる。
ねぇ、ナマエさん。何があったのか、なんで中尉の下にいたのか、今もう一度聞いたらナマエさんは全部話してくれる?あの時は再会したばかりで、遠慮して言えなかっただけだよね──
間違ってもそんな言葉があふれ出ないよう、ぎゅっと下唇を噛み締めた。人間、一つや二つ、話したくないことや隠したいことがあるだろう。そのことでナマエさんが苦しんでいることは分かっているし、それを無理に暴いたところで誰も幸せになんてならない。今までの積み重ねでナマエさんが信頼に値する人だという認識は変わらない。答えてくれてもくれなくても、掴んだ手を離すつもりが毛頭ないのなら、聞く意味なんてない。
それらしい言い訳をして、向き合うことから逃げ出した。知って、どうする。知ったら、どうなる。お互いを深く知らずにそばに居るのは心地いい。俺はずっと、理解したふりをして、優しいふりをして、臆病な心を隠しているだけだ。情けないにもほどがある。
それでも、今はまだ、何も知らないふりをして隣に居させてほしかった。
*
「あっ、そうそう、俺たちの写真を確認するんだったね」
杉元さんの声に顔を上げれば、背嚢をごそごそと探っていた。樺太でどうやってアシリパさんたちを探そうかという話になった時に、私たちはやっと北見で撮った写真のことを思い出したのだった。杉元さんは網走に居る時に既に土方さんから写真を渡されていたらしいのだけれど、網走監獄への潜入の準備などですっかりと忘れていたらしい。そしてつい数日前まで、写真は刺青人皮と一緒に背嚢に入ったまま中尉の手元にあったので、今日まで一度も写真を確認する機会がなかったのだった。
「えっ、こんなに沢山?」
遅くなってごめんね、と杉元さんが写真の束を渡して来て、その厚さに少し驚いてしまった。一枚撮るのでも決して安くはないのに、こんなにあれば相当な金額になったはずだ。そういえば夏太郎君はいつも宿などに泊まっていたと言っていたし、「これで何か買ってきなさい」と土方さんが私たちに十分すぎるお小遣いまでくれたこともある。土方さんは一体どこからお金を出していたのだろう。私たちとは桁違いの財力をひしひしと感じながら、杉元さんと一緒に一枚一枚写真を後ろに送って中身を確認していった。
「わぁ、良いですね、この写真」
アシリパさんと杉元さんが並んでいる写真だ。アシリパさんのキリっとした、凛々しい表情がかっこいい。杉元さんも精悍な顔つきをしている。兄妹でも親子でも友達でもなく、これはまさに──
「相棒って感じですね」
へへっと杉元さんが照れ臭そうに笑った。でもその雰囲気はどことなく寂しげだ。私も、写真のようにまた二人が揃っているところが見たい。名残惜しいけれど、このままこの写真を見ていたらしんみりとした空気になりそうなのが嫌だった。次の写真は誰だろうと期待しながら送ったら、悪い顔をした杉元さんで思わず声を出して笑ってしまった。何故だか威嚇するように両手の指を鉤爪のように広げて構えている。
「やだ杉元さん、これっ……!」
「うーわ、ふざけて撮ったやつだ……!」
いつの間にこんな写真を撮っていたのだろう。恥ずかしそうにその一枚を取り上げて、杉元さんが机に伏せて置いた。もう一回見たくて写真に手を伸ばせば「やだぁ、やめてぇ?」と慌ててポケットに仕舞ってしまった。
「あ、ナマエさんとアシリパさんだ」
笑いが引かないまま手元に視線を落とせば、手を繋いだ私たちの写真があった。写真の中のアシリパさんはあどけない顔で笑っていた。さっきの杉元さんと撮った時とは全然違う表情だ。対して、私は少し緊張した顔で固まっている。化粧もしていることも相まって、自分ではないような不思議な感じだった。アシリパさんはこんなにも素敵に写っているのに、とても勿体ないことをしてしまった。しげしげと杉元さんが私たちのことを眺めているのが恥ずかしくて、次の写真に送ったらまた私だった。その次も、その次も、微妙に構図や表情が違う私の写真で段々と怖くなってくる。
「と、撮りすぎじゃないですか……?」
「田本さんスゲーノリノリだったからな……」
次は?と杉元さんに促されてまた一枚送った。また私だった。でも、どこかぎこちなさが漂っていた今までの写真とは、少し雰囲気の違う物だった。はにかんだ笑顔を向けている写真の中の私は、なんだかとても幸せそうだった。
「ナマエさんって感じの素敵な写真だね」
「そ、そうですか?」
こそばゆい気持ちに早々に次の写真に送ったら、椅子の上で開脚をする褌姿の谷垣が現れて、びっくりして思わず写真をばら撒いてしまった。「他の人たちはみんな脱いだよ?」「もうちょっと脚を開いてみようか!」と高揚感に溢れた指示を出していた田本さんを思い出して顔が真っ赤になった。変なことを言っているなとは思っていたけれど、なんて物を撮っていたんだ。机と床に散らばった写真の中に、そんな谷垣の写真が何枚もあることに気づいて、直視できずに顔を覆ってしまった。
「なんでこんなに沢山っ……!」
「このスケベマタギが!!」
杉元さんが手際よく写真を回収していき、谷垣のを他の写真とは別の束としてまとめた。厚さからして谷垣の写真がおよそ半数を占めていたことが分かった。仲違いしたとはいえ、私達は土方さんのお金で何をしているのだろう。まともな写真が少なすぎる、と思ったところで気づいた。そういえば、杉元さんと撮った写真がなかった。もしかしたら現像に失敗してしまったのかもしれないけれど、杉元さんは気づいているのだろうか。でも、わざわざ私達の写真がなかったことを指摘するのが何となく気恥ずかしくて、結局何も聞けないうちに樺太の玄関口・大泊港に到着したのだった。
2024.09.07
