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32
さらに詳しい状況やインカラマッから伝え聞いたキロランケさんのことなどを話し終えれば、すっかり日が昇りきっていた。ぐぅうっと盛大に鳴った杉元さんのお腹を合図に炊事場へと移動すれば、幸い白米が炊いてあったのでとりあえずおにぎりを握って病室へと戻った。話している分には元気そうだけれど、本当はお粥などの胃に優しいものの方が良いのでは、と思いながら寝台横の机にお皿を置けば、杉元さんが早速おにぎりを両手に持ってガツガツと食べ始めた。次から次へとおにぎりが消えていく様子を見るのは気持ちが良くて、あまり見ては失礼だとは思いつつもついつい見続けてしまう。あっという間に最後の一つになったおにぎりに杉元さんが手を伸ばした。
「……もっと作ってきましょうか?」
「えっ?!もしかしてこれナマエさんが作ったの?ごめん、ちゃんと味わって食べれば良かった……」
「そんな大げさな」
正直なところ、大掛かりな手術もしたばかりでこんなに食べてもらえるとは思っていなかった。余ったら家永さんたちと食べれば良いかと思いながら多めに作っていたので、一つも余らなかったのには驚いた。杉元さんの回復力には目を見張るものがあるけれど、それを支えているのがこの食欲なのだろうか。こんなことになっても、生きることを一瞬たりともやめない姿を見るのが好きだった。
「おかわり作ってきますね。あとどのくらい食べられそうですか?」
空になったお皿を回収しながら聞いてみれば「あと一升は食べられる」と冗談なのか本気なのか良く分からない返事が真顔で返ってきて、思いがけず笑ってしまった。
「そんなにお腹空いてるんですか?」
「いやだって──」
ピタッと、おにぎりを口に運んでいた杉元さんの動きが急に止まり、穏やかだった雰囲気が豹変した。射殺すような視線が私の背後の何かに向けられている。その急な変貌に戸惑っているうちに軍靴の音が響いてきて、すぐそこで止まった。
「お取込み中だったかな?」
鶴見中尉の白々しい声が病室に響いた。途端に部屋の空気が重くなり、呼吸がしづらくなる。慌てて壁際に移動しようとして杉元さんに手を掴まれた。しっかりと握り込まれてそばから離れることができない。仕方ないので一歩ずつ近づいてくる中尉の邪魔にならないよう、ちょうど体一つ分ほど開いていた寝台と机の間の隙間に体を収めた。ピリピリとした緊張感に、無意識に背筋が伸びて鼓動が早まっていく。
「不死身の杉元。脳みそが欠けた気分はどうだね?我々は『脳みそ欠け友達』だな……」
そう言い終えた中尉が、私に視線を移した。口元だけが緩やかに弧を描いている。脳が欠けているだけでなく、言外に私を介しても二人が繋がってもいるのだと言われているようでお皿を持つ手に力が入った。
──君がしてきたことを知っても、杉元は一緒に居てくれるかな?アシリパはどう思うだろう。
杉元さんが目覚める前に言われた言葉が蘇って、視線を外した。バクバクと数口で残りのおにぎりを食べ終えた杉元さんが、私の手を握る力を強めた。
「アシリパさんを取り戻す。俺達を樺太へ連れて行け」
「そう早まるな、その傷ではすぐに追うこともできまい」
寝台の横につけていた椅子をおもむろに引き、中尉が腰掛けた。いつの間にか谷垣や月島軍曹らも部屋に入ってきて、さらに緊張感が高まっていく。
「しかし……アシリパという重要な鍵を手に入れた今、キロランケはかつて極東でゲリラ活動をしていた仲間と合流する可能性が高い。パルチザンにアシリパが確保されると厄介だ」
「俺達を使え。あんたらだけで行ってもアシリパさんは信用しない」
繋がれた手に中尉の視線が落ちる。その視線は冷たく、半ば呆れも含んでいるようだった。いつの間にそこまで親密になったのかと咎められているようで、体が縮こまってそのうち消えてなくなってしまうのではないかと思うくらいだった。
「ただし条件がある。アシリパさんを確保して刺青人皮の暗号が解けたら二百円俺にくれ」
俺も行きます、と間髪を入れずに谷垣が前のめりで発言した。
「杉元はこの状態だ。何かあったときは俺が必要になる。アシリパが信用してるのは俺達三人だけのはずです」
「インカラマッはいいのか?」
「必ず戻るからそれまで死ぬのは許さんと伝えた」
本当は側で付き添っていたいだろうに、谷垣は既に意志を固めたようだった。良いだろう、と私たち三人を見渡しながら中尉が言い、その鋭い視線が私を捉えた。
「杉元はどのくらいで動けるようになる?」
「2週間、長くて3週間ほどあれば……」
「10日だ。それまでに使い物になるようにしなさい。それ以上は追跡も難しくなるだろう」
こんなボロボロなのに10日なんて無茶だと反論しようとしたら、当の杉元さんが分かったと返事をしてしまった。頭だけでなく、脚だって散弾で酷く撃ち抜かれているというのに。でも早くアシリパさんを追いかけたいという気持ちが痛いほどに分かってしまって、何も言わずに口を噤んで頷いた。
中尉自身は網走監獄で暴れた後片付けが残っていてまだ北海道を離れられないため、樺太へは少数精鋭で先遣隊を送ると話し始めた。
「月島軍曹と鯉登少尉!!お前たちが同行しろ」
「きえええええッ!!」
狭い部屋に突如響いた猿叫にびくっと肩が震えた。発生源に視線を向ければ、鯉登少尉が月島軍曹に何やら耳打ちをしていた。
「どうして私が鶴見中尉殿から離れなければならないのか、と」
「父上である鯉登閣下の頼みだ」
意気消沈し、ぐにゃっと膝から床に崩れ落ちた少尉が軟体動物さながらに起き上がり、コソコソとまた月島軍曹に耳打ちし始めた。
「ミョウジまで連れていく必要があるのかと聞いています。私も同感です」
「治療ができる者が居た方が何かと良いだろう」
それに、と中尉が続けた。
「尾形上等兵もナマエさんになら何か話すやもしれん」
とても仲が良いようだから、と含み笑いを向けられてまた居心地が悪くなる。情報将校である鶴見中尉が私たちの噂について知らないはずがないのに、中尉にまでしっかりと知られていることを突きつけられて今さら強い羞恥心が込み上げてきた。
また時間があれば様子を見に来ると中尉が退室したところで、鯉登少尉が顔を真っ赤にしながらこちらを指さしていることに気づいた。そのまま月島軍曹にまた何かを小声で伝えている。「落ち着いてください、聞き取れません」と面倒くさそうな声が聞こえてきて、私が第七師団にいた頃と変わらない二人に少しだけ懐かしさを覚えた。
「……いつまで手を握っているのか、と言っている」
「えっ?」
指摘された手元が目に入り、バッと二人同時に勢いよく手を離した。今までずっと、大勢の人の前で杉元さんと手を繋いでいたことに顔が一気に熱を帯びて、咄嗟にお皿で顔を隠してしまった。
「……お前達はそういう関係なのか」
「えっ?!いやっ、あのっ」
「ちげぇよ」
部屋にはっきりと響いた言葉に、月島軍曹の冷ややかな視線が私達から離れてホッとした。と、同時に胸につっかえたような気持ちがあることに気づいた。またあとで月島軍曹に小言を言われる不安だろうか。いや、もっと何か違うもののような気がする。モヤモヤとした気持ちが良く分からなくて気持ち悪い。
「……あっ!おかわり作ってきますね」
そういえばさっきまで杉元さんとおかわりの話をしていたのだった。手を動かせば、この良く分からない気持ち悪さも紛れるだろう。杉元さんの返事も聞かずに足早に部屋から出ようとすれば、また早口の薩摩弁が耳に届いた。しかしいつものように内容は理解できず、私に向けての言葉だっただろうかと伺うように少尉殿を見れば、さっきの声の主と同じとは思えないほどに、わずかに聞き取れるくらいの小さな声でぼそぼそと話し始めた。
「私も腹が減った」
「え?あっ、では少尉殿の分も……いや、皆さんの分も作ってきましょうか?」
「お前らは自分で作れよ、ナマエさんが大変だろうが」
「大丈夫だ俺も手伝う」
「そういうことじゃねぇんだよ」
貴様が作ると毛が入りそうで嫌だと鯉登少尉に言われて、悲しそうな顔をする谷垣を慰めながら退室し、二人で炊事場に向かった。腕を怪我している人に調理は任せられないので安心して欲しい。家永さんの分も作ることを考えたら鍋などの方が良いのだろうか。谷垣と何を作ろうかと話しながら、網走までの旅もこんなふうに毎日騒がしかったなと、随分と昔のことのように思い出した。
*
迎えた出発日前日。たった10日間の療養で本当に大丈夫なのだろうか、という不安は払拭されていた。流石というか、何というか、不死身の名は伊達ではないのだと思い知らされるほどに杉元さんはメキメキと回復し、今では支えもなしに十分に歩き回れるようになっていた。もう全然大丈夫だよ、とその場で飛んだり跳ねたりし始めたので慌ててやめさせたほどだ。元気な杉元さんを見られるのは嬉しいけれど、なんだか残りの命を燃やしているようにも見えて少し複雑な気分だった。寿命の蝋燭が激しい炎で削られていくような、そんな嫌な想像が頭から離れない。眩い光は美しい反面、恐ろしくも見えた。
インカラマッもだいぶ病状が安定してきて、このまま安静にしていれば問題ないだろう。家永さんがついているのが何よりも心強かった。色々と複雑な思いはあるけれど、もう誰かが死ぬのは見たくない。最後に少しだけ言葉を交わして、私は一階の診察室を訪ねていた。
「家永さん、ありがとうございました。何もお礼ができなくてすみません……帰ってきたら必ずさせてください」
私の首の痣も随分と良くなって、家永さんに貸してもらっていたスカーフを取っても襟に隠れるほどになっていた。「別にそんな大層なことはしていませんよ」とスカーフを受け取った家永さんは微笑んだだけだったけれど、お礼をしたいのはそのことだけではなかった。
「家永さんが居てくれて、本当に良かったです。私一人では二人とも救えていたかどうか……」
二人の重症者を前に、また大切な人が目の前で死んでしまう恐怖に足が竦んだ。私が一番諦めてはいけないのに、一番恐怖に飲まれてはいけないのに。それを吹き飛ばしてくれたのが家永さんだった。病院に着いてからも素早く的確に処置を施していく家永さんは名医としか形容できず、つくづく自分の未熟さに嫌気がさした。多分、私が居なくても、家永さんだったら二人とも救えたのだろう。私はあまりにも多くのものを犠牲にしてこの場に立っているのだから、せめて医学の知識と技術は人一倍でなければならないのに。年齢と経験の差は埋められないものだとしても、圧倒的な力の差を見せつけられたのが悔しかった。悔しくて悔しくて、最近はずっと家永さんを質問攻めにしていた。個人的な趣味によって生死の境を知り尽くした家永さんから得られた情報は、どんな医学書や症例報告よりも役に立った。家永さんがしてきたことを肯定するつもりはないけれど、せめてその知識をできる限り吸収して今後に役立てたかった。そんな私に家永さんは嫌な顔一つせずに、ずっと付き合ってくれていたのだった。
「……ナマエさん、私はあなたが羨ましい」
「いや、そんな……」
「若さも、美貌も、才能も欲しいがままのあなたが喉から手が出るほど欲しい」
家永さんの言っていることがいまいちピンと来なかった。私は家永さんの足元にも及ばないのに。なんて返せば良いのか分からず、緊張で一つに握った両手に視線を落とした。
「日本にはまだまだ開頭手術ができる医者はおりません。ナマエさんの事情は分かりませんが……その歳で、あなたはその一人なんですよ」
その事実を忘れないで、と優しく続けられた言葉がじんわりと心に染み込んでいく。
「でもお礼をしてくださるならそうですね……私は完璧なあなたが見たい」
完璧。以前にも家永さんが口にしていた言葉だ。その意味を問う前に、ひんやりとした華奢な手が頬に添えられて、びくっと心臓が小さく跳ねた。
「顔を上げて、前を向いてください……そう、その目です」
両手で頬を包み込まれ、家永さんの綺麗な顔がどんどん近づいてくる。
「その水晶玉のような、どこまでも透き通って輝き、先を見つめるその目」
「あ、あのっ、家永さっ……」
「何度抉り取ってしゃぶりついて、飴玉のように舌で転がしてやりたいと思ったか」
目と鼻の先でズズズッズチュッと盛大に口で音を立てながら、私の目玉を転がすことを想像している家永さんにぞわぞわと鳥肌が立って足がすくんでいく。
「でも、ここで暫く観察して気づいたんです。あなたの瞳を食べたところで、私には無意味なのだろうということを」
「え……?」
「もっと何か……内側から滲み出る何かがあなたを輝かせる。傷ついて顔を上げるごとにまた一層輝くんです」
私の顔を固定していた両手から力が抜けて安心したのも束の間、急に人差し指と親指で右目を無理やりグイッと開かれ覗き込まれた。まるで瞳の中のその先の、私の体と心の奥の奥まで覗き込むように、じっくりと何かを見つめている。
「血の一滴も残さず、すべて余すことなく食べたら、私はナマエさんの美しさを丸ごと手に入れられるのかもしれない」
でもそれは今じゃない、と言い終えると共にやっと指が離れ、乾いた右目を手で押さえた。
「あなたの完璧は、これからやってくる」
平面的な世界で、家永さんが今までで一番綺麗でゾッとするような笑顔で言い放った。どくどくと鼓動がうるさい。目蓋の下でカラカラに乾いた瞳に、じわっと涙が張っていくのを感じる。
「たくさんの困難を乗り越えて、あなたはもっと輝ける」
嬉しそうに伝えられた言葉に、乾きを潤すためではない涙がせり上がってきた。私を食べようとしている人の言葉に、自分でも何故泣きそうになっているのか分からなかった。
「ですから是非、いつか完璧な状態のナマエさんを私に見せてくださいね」
ついにポロっと目尻から零れ落ちた涙を家永さんの舌がすかさず舐め取ろうとしたので、反射的に強めに押し返してしまった。「元気になって良かったです。ついでに少し味見させてください」と満面の笑みでにじり寄ってくる家永さんと一定の距離を保ちながら、慌てて退室した。
元気になって良かったと言われた通り、自分でも分かるほどに口角が上がっていた。いつか家永さんと再会した時に、生姜醤油で食べられてしまうことを想像したからだろうか。まさかそんな滑稽な死に方があるなんて思ってもいなかった。痛いのは嫌だけれど、どこかでただ死ぬよりも、誰かの血となり肉となり、糧となれるのならば、それも悪くはないのかもしれない。
でも、まだ駄目だ。まだその時じゃない。
前を向いて歩き続けろと家永さんに背中を押してもらえて、自分の中の迷いや澱みが消えた気がした。自ら選択して掴んだものから目を背けるな。どんなにつらくても最後まで足掻いて、駆け抜けて、全部背負って生きていくしかない。私が今日まで生き残った理由は、それしかないのだから。
2024.08.17
