原作沿い
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31
ふと手術室の窓の外を見れば、空が白み始めていた。たくさんの命を犠牲にした夜が明けようとしている。アシリパさんたちは、今頃どこにいるのだろう。暫くぼうっと外を眺めていれば、すぐそこまで軍靴の音が近づいてきていることに気づいて、慌てて手術で使った器具や薬剤を棚に戻していく手を再開させた。
「あの姿、百之助にも見せてやりたかったなぁ」
顔を見なくても分かるほどに楽しそうな声が、部屋の入口から聞こえて来た。今最も会いたくない人物の登場に、気分が見る見るうちに萎んでいく。少し視線を寄越せば、ニヤニヤと動く宇佐美の口と連動して、二人のホクロちゃんたちが走っているように見えた。暫く見ないうちに顔に随分と奇抜な落書きをされていて驚いた。でも触れるほどの体力も気力も残っていなかったし、何より興味もなかった。早くどこかへ行ってもらえないだろうかとぼんやりと思いながら手を動かし続けた。
「百之助に捨てられた気分はどう?杉元に鞍替えしたから愛想尽かされたんでしょ?見かけによらず節操なしなんだね、君って」
狭い室内では鋲を打った軍靴の音が良く響く。どこかへ行くどころか隣へ来た宇佐美にげんなりした。ベラベラと良く喋る人だ。私が戻ってきたのが余程嬉しいらしい。この男と居ると、自分の中の暗くて嫌な部分を認識してしまって益々気分が落ち込んでいく。
「あぁ……だからあのハナタレで甘えん坊の百之助は君に懐いたのか、母親と同じ匂いがするから」
思わず手が止まった。どうして宇佐美はそうやって、いつも酷い言葉で尾形さんを侮辱するのだろう。不快感を露わにしたまま顔を上げれば、爛々と輝く瞳で、それはそれは嬉しそうに宇佐美が私を見下ろしていた。その顔を見た瞬間、今まで抑え込んでいた感情が腹の底から湧き上がってくるのを感じた。相手にしてはいけないと分かっていても思いとどまることができなかった。
「宇佐美は自分の生い立ちに何か不満や引け目を感じているの?」
「……は?何それ」
「人の生い立ちや家庭事情について色々言うのが好きなようだから。それって、自分が言われたくないことの裏返しでしょう?」
宇佐美が分かりやすく固まった。またすぐに言い返されると思っていた。
「誰が……!誰が安い駒だッ!!」
「何の話……っ、いっ……!」
ガシャンと腕の中の器具が落ちて床に散乱した。ものすごい力で首を掴まれ壁に叩きつけられる。頭を打って一瞬目の前に星が散った。息ができない。爪先が床から浮いて、顔が鬱血する感覚に焦って必死になってバタバタと抵抗した。細身の体に渾身の蹴りが何度か入ったのに全く怯まない。それどころかどんどん力が強まっていく。
「お前らは本当に……!そんなにこの間の続きをしたいのならやってやるよッ!」
血走った目は私を殺すことしか考えていないようだった。駒には致命的だ。怒りで我を忘れて好き勝手やるなんて、駒のすることじゃない。酸素が足りず段々と狭まっていく視界の端に抜き身の銃剣が見え、手に隠し持っていた鉗子を強く握りしめた時だった。
「オイッ何をしている!やめろ!」
月島軍曹があっという間に、驚くほどに素早く宇佐美を羽交締めにして床にねじ伏せた。唐突に解放されて床に崩れ落ちれば、騒ぎを聞きつけた他の兵士たちも次々に現れて、谷垣が慌てて私の前に立ち塞がった。
「宇佐美をミョウジに近づかせるな」
怒り狂う宇佐美が兵士数人がかりでズルズルと引きずられてく。すぐに見えなくなったが何か喚いている声が部屋の外から未だに聞こえてくる。月島軍曹にもほかの兵士にも見られて、これでは鶴見中尉への報告は免れないだろう。ざまあみろ、と心の中で小さく毒づいた。
「何があった」
何も言わない私を見下ろしながら、月島軍曹が心底迷惑そうにため息をついた。
「宇佐美を挑発するな、死にたいのか」
あんなことを言われて黙っていろと言うのか。口答えをしても更に怒られるだけだと思い、ギュッと唇を噛み締めた。前回のことだって私はまだ許していないというのに。
「ミョウジさん、立てますか」
「……ありがとう、大丈夫」
月島軍曹たちが部屋を出て行ったのを見計らって、谷垣が手を差し出してきた。片腕を撃ち抜かれている谷垣に頼るのも忍びない。あの場に居て私だけが無傷だったんだ。差し出された手を断り、ゲホゲホと咳き込みながら立ち上がって壁にもたれかかった。
「私は良いから、インカラマッについててあげて」
「いや、でも……」
谷垣がオロオロと視線を彷徨わせた。マキリが腹の奥深くまで刺さっていたせいで、インカラマッは未だに危険な状態を脱していない。自分が死んでも犯人が分かるように、マキリを決して離さなかったからだ。私なんかに構ってないで、隣で見守ってあげてほしかった。
「インカラマッを一人にさせないで。今、すごく心細いと思うから」
谷垣は少し迷ったあとに「すみません」と一言残し、部屋を後にした。一人になり、無意識のうちにはぁっと大きなため息を吐き出していた。まだ首を絞められているような嫌な感覚が残っている。呼吸をするたびヒューヒューと喉から変な音がする。硬直したままだった右手を左手で無理やり開けば、鉗子が鈍い音を立てて床に落ちた。
まさかあんなに怒るだなんて。安い駒ってどういうこと?「お前らは」と宇佐美は言っていたから、もしかして尾形さんが逃亡前に何か言ったのだろうか。一体何を言ったんですか、尾形さん。こっちはとんだとばっちりですよ。震えを抑えるようにギュッと両手を握りしめた。
──あまり無茶をするな
あの時投げかけられた言葉が蘇って、一瞬で目頭が熱くなる。尾形さんは、もう居ない。
「ナマエさん」
いつの間にか家永さんが隣に居た。夜通し働いて、さっき仮眠を取ると言っていたのに。うるさくしてごめんなさい、と言えば困ったように微笑み返された。手を取られるがままについていけば、家永さんが使用している診察室にたどり着いた。
「首元を隠しましょう、痕が残っています」
杉元さんには見せない方が良いかと、と言いながら家永さんが荷物からスカーフを取り出した。とても滑らかで、艶のある繊細な絹織物だ。上等なものに違いない。家永さんがするすると優しい手つきで私の首にスカーフを巻いていく。深い藍色は、アシリパさんの瞳とマタンプシを連想させた。泣いてもどうにもならないというのに、色々なことが起きすぎて涙腺がバカになっている。また少しずつ涙が込み上げてきて、鼻がツンとした。
「あの野郎ナマエさんになんてことを……ぶっ殺してやるッ!」
「えっ?!」
突然、キュッとリボンを結びながら家永さんが叫んだ。いつもの家永さんじゃないみたいだ、と思って気づいた。
「……もしかして杉元さんの脳みそ食べました?」
一応、万が一のことを考えて切除した部分は術後すぐに廃棄したのに。まさか目を離した隙につまみ食いしたのだろうか。すごい執念だ。「天才となんとかは紙一重」だと月島軍曹が言っていたことを思い出した。
「生姜醤油が良く合うんですよ。ナマエさんも試してみませんか?」
「いえ、結構です……」
一体誰ので試すつもりなんだ。ふふふふふ、ととても綺麗な顔で笑い続ける家永さんが怖くて、お礼を言って足早に部屋を後にした。
廊下の奥の病室に足を踏み入れれば、そこには変わらず横たわったままの杉元さんがいた。手術は成功したけれど、杉元さんはまだ一度も目覚めていない。頭から足まで包帯だらけの姿を見ているだけで胸が苦しくなる。
杉元さんの傍の椅子に腰かけて、シーツの上の傷だらけの手を握った。その温かさに緊張の糸がぷつりと切れてしまったようで、昨日の夜からの疲れがドッと押し寄せてきた。体が重い。もう動けない。動きたくない。ああ、そういえば手術室を散らかしたままにしてしまった。早く戻って片付けなければいけないのに目蓋が重い。諦めて目を閉じれば、涙に濡れた青い瞳が目蓋の裏に浮かんだ。
時々、思うことがある。兄に取引を持ちかけた時に、私が最初に治療した兵士はどうなったのだろうと。また前線に戻され、死んでいたとしたら。予後不良で死んでいたとしたら。私は何のためにあの時兄に取引を持ちかけたのだろう。あんなことをしなければ中尉に出会うこともなく、兄も死ぬこともなかった。中尉はもしかしたら奉天で命を落としていたかもしれない。そうしたら、アシリパさんも杉元さんもこんな目に合わなくて済んだ。たらればの話をしてもしょうがないのに、考えられずにはいられない。結局は死んでしまう赤の他人の命を一瞬だけ救った結果がこれだとしたら──あの時私は、見て見ぬ振りをした方が良かったのだろうか。
澱んだ気持ちのままうつらうつらとしていたら、手の中で何かが動いたような気がした。寝ぼけていたから、自分の指が動いたのを勘違いしただけかもしれない。いくら杉元さんが驚異的な回復力の持ち主だからといって、開頭手術までしたんだ。そんなすぐに目が覚めるはずがないと思った時、杉元さんの人差し指が目の前で確かにピクッと動いた。
「っ、……杉元さん!」
慌てて両手でぎゅうっと握りしめて、前のめりになって声をかけた。目蓋の下の目が動いている。弱弱しいが手も握り返してくれている。杉元さんが、目を覚まそうとしている。杉元さん、杉元さんとぎゅうぎゅうに手を握り込んで声をかけ続けた。目頭と鼻が熱を持ち始め、視界が滲んでいく。ぼやぼやとした視界のまま、ずっと声をかけ続けた。杉元さん、起きてください。たくさんたくさん、話さないといけないことがあるんです。謝らないといけないことはもっとある。ついに堪えきれなくて涙がこぼれれば、その分だけ視界が晴れていく。
「ナマエ、さん……?」
パチパチと瞬きをしている瞳が、私を捉えていた。
「あ……すぎもとさっ……よかった……!」
喉が狭まって上手く話せない。杉元さんの顔をもっと良く見たいのに、涙が止まらなくて禄に見ることができない。脳の血管が一気に拡張して頭がガンガン痛む。生きていて良かった。早くアシリパさんを追いかけないと。尾形さんを止められなかった。刺青も渡してしまった。全部私のせいだ。約束を守れなかった。間に合って良かった。頭の中がぐちゃぐちゃだった。
「ごめん」
いつのまにか起き上がっていた杉元さんに抱き寄せられて驚いた。まだ寝ててくださいと離れようとしたのに、伝わってきた体温にまた涙が迫り上がってくる。生きている。ちゃんと、生きている。良く知っている消毒液と血の匂いが肺いっぱいに広がった。
「杉元さん、杉元さんっ……」
「ごめん……ごめんね、ナマエさん」
背中をさする大きな手に、体を包む温もりに、涙が止めどなく溢れてくる。謝らないでください。杉元さんは悪くない。何一つ悪くない。こんなになるまで一生懸命に走り続けてくれていたのに。
「アシリパさんが、キロランケさんと尾形さんに連れ去られました……多分、樺太に向かって……約束、守れなくてごめんなさい……」
一番伝えないといけないことをやっとの思いで伝えたら、杉元さんの腕に力が籠った。ここが網走近郊の病院であること、刺青人皮を中尉に渡してしまったこと、谷垣と家永さんは無事なこと、インカラマッがキロランケさんに刺されて危険な状態であること、唯一白石さんがアシリパさんと一緒であること……一晩で起きたとは思えないほど、積もりに積もった話を少しずつ話していく。杉元さんは時折言葉に詰まる私の背中をさすりながら、ただただ静かに話を聞いていた。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ……アシリパさん、私が役立たずだったから……!刺青も中尉に渡してしまった。お父さんも、杉元さんも撃たれて……!私のせいで、迷惑ばかり……兄さんも杉元さんもっ……全部、全部っ!」
私が取引なんて持ちかけなければ兄は死ななかった。私が助けた中尉が杉元さん達を、網走監獄の人達をこんな目に遭わせてしまった。私が一番尾形さんのそばに居たのに、何も気づけなかった。街にでも行くかと言われた時に、なんであんなことを言ってしまったんだろう。街で一緒に美味しい物でも食べて、話でもしていたら何か変わっていたのかもしれない。一緒に来るかと聞かれた時だってそうだ。尾形さんともっとちゃんと向き合っていたら。今までの後悔が雪崩のように押し寄せてきて、涙が止まらなかった。
「……俺はナマエさんに何があったのか知らない」
どうして中尉のもとに居たのかも、どうして尾形と組もうとしていたのかも知らない。杉元さんが続けてぽつりぽつりと私の肩口で話し始めた。杉元さんに話せていないことばかりなのだと改めて気づいて、自分の弱さと狡さに、何も聞いてこない杉元さんの優しさに、また涙が溢れ出てきた。
「でも、ナマエさんが苦しんでいることも、俺たちを救おうと最善を尽くしてくれたことも、俺が一番知ってる」
腕が緩められて、杉元さんが私の顔を覗き込んだ。ぐちゃぐちゃの顔を見られたくなくて俯こうとするが、杉元さんが許してくれない。優しくて、熱い手のひらが私の両頬を包み続けている。
「ナマエさんが無事で良かった」
ボロボロの体でそんなことを言えてしまう杉元さんに、涙が止まらなかった。いつだって、私はその優しい眼差しに救われてばかりだ。朝日に照らされて、ぼやけた視界でも綺麗な金色の瞳が良く見えた。
「俺がちゃんとアシリパさんを取り戻しに行くからさ」
だから大丈夫だよ、と袖で私の涙を拭いながら伝えられた言葉に、考えるよりも先に口を開いていた。
「私も行きます、行かせてください」
「でも……」
「連れてって、杉元さん」
目を見て真っ直ぐに伝えれば、一瞬で杉元さんが泣きそうな顔をした。下唇を噛んで、いつも被っている軍帽を探した指が空を切り、気まずそうに俯いた。迷惑をかけてばかりだけれど、ここで大人しくしていられるわけがない。最後に見たのがアシリパさんの泣き顔だなんて、絶対に嫌だ。尾形さんにだって、言いたいことがたくさんある。
「私も、連れていってください」
もう一度、はっきりと伝えれば、杉元さんがゆっくりと震える息を吸って、顔を上げた。
「行こう、一緒に」
俺たちでアシリパさんを取り戻そう。ぎゅっと握られた手は、相も変わらず燃えるように熱かった。
2024.07.28
