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30
「杉元とキロちゃんがのっぺら坊を連れてくるから正門で待ってろって」
物陰から飛び出してきたアシリパさんと白石さんとの再会の感動もそこそこに、私たちは足早に正門へと向かっていた。舎房ののっぺら坊は偽者だった。本物は教誨堂に居る。土方はアシリパちゃんを杉元から引き剥がしたかったみたいだ、と白石さんがこっそりと私に耳打ちしてきたことで心がざわついていく。少し前に新聞にアシリパさんのことを書かせるつもりだと言っていたことも思い出した。
「まさか、土方さんは本当に北海道独立のためにアシリパさんを利用しようとしているんですか……?」
「さあな……でも信用しねぇ方が良さそうだ」
中尉が来ていなければ、土方さんに嵌められて杉元さんも白石さんもどうなっていたか分からない。インカラマッの行動に未だ納得はできなかったが、それで助かった命もあったのだと認めざるを得なかった。それでも、アシリパさんを中尉に渡すわけにはいかない。どうにかして私達だけでこの場から逃げないと。
*
「みんな無事か?」
少しして、正門に現れたのはキロランケさん一人だった。
「杉元は舎房からは助け出したが、ひとりで教誨堂へ行った。『のっぺら坊を連れてくる。アシリパに必ず合わせる』と。土方も犬童も教誨堂にいるらしい」
「助太刀しなきゃだぜ牛山さん!」
夏太郎君が駆け出し、牛山さんもその後を追って行った。さも当然のようにアシリパさんも後に続こうとしたので、慌てて腕を掴んで捕まえた。思った以上の強さでぐいぐいと引っ張られて私も引きずられていく。
「待ってアシリパさん!行ってはダメ!」
「でも……!本当はナマエだって行きたいんだろ」
「杉元さんを信じましょう?」
行き違いになるかもしれませんし、と続ければしぶしぶといったようにアシリパさんが大人しくなった。手を引いて皆さんのもとへと戻れば、屋根の雪下ろし用の梯子を登っているインカラマッが目に入った。高い所から見渡せるかも、という言葉に私達も梯子を登り始めた。
「アシリパちゃん!のっぺら坊と杉元ニシパが居ますッ」
インカラマッが指した方向へ、恐る恐るアシリパさんが双眼鏡を向けた。肉眼でも赤い囚人服と杉元さんが認識できる距離だった。
「本当に父親か?!」
キロランケさんの切羽詰まった問いに、お願いだから違うと言って欲しいと横で祈り続けた。アシリパさんがゆっくりと口を開いた。
「アチャだ」
「間違いなくウイルクなのか?」
「アチャ……どうして……?」
はらはらと静かに涙を流すアシリパさんを思わず抱きしめた。私も双眼鏡を覗き込めば、皮を剥がれ、文字通り顔のないのっぺら坊がこちらを見続けていた。ひっきりなしに打ち上げられる照明弾に照らされて、はっきりと確認できた。その瞳は間違いなく、アシリパさんと同じ物だった。
泣いている娘を見て何を思ったのだろう。こんな姿になって、皮を剥ぐことを前提とした入れ墨の暗号まで作るような人が、何かを思うのだろうか。ぎゅうっと私の服を掴んで小さな体を震わせながら、変わり果てた父親を見続けるアシリパさんを腕の中で感じて、静かな怒りがふつふつと湧き上がってくる。轟音と共に閃光弾が撃ち上がり、辺りがまた目が眩むほどの光で照らされた。
「え……?!」
瞬間、のっぺら坊の体が大きく後ろに揺れた。何が起きたのか分からなかった。
「ウイルクが撃たれた!」
狙撃されたのだとやっと理解した時、杉元さんの頭にも弾丸が撃ち込まれた。毛が逆立つほどの戦慄が体を一気に駆け巡る。咄嗟に周りを見渡したが人は確認できない。誰が撃った?看守か?中尉は生け捕りにしたいはずだ。いやそんなことはどうでもいい。
「アシリパさん逃げましょう!」
「アチャ!!杉元ッ!!」
「アシリパちゃん早く逃げなさい!これで金塊の謎を解く鍵は……あなたの中だけに存在する…!!みんながあなたを巡って殺し合いになる!!」
ガクガクと震える足に思いっきり力を込めて、アシリパさんの手を掴んで梯子へと走り出した。嫌だと暴れるアシリパさんを途中でキロランケさんが抱き抱えて梯子を降り始めた。
「逃げるぞアシリパ!」
「死んでない、置いていけないッ!」
「ダメだ二人を撃った奴が近くに居るッ」
震えが止まらなくて、上手く梯子が降りられない。最後の数段を踏み外してドサっと床に落ちて蹲った。痛い。挫けそうになるほどに痛い。アシリパさんやキロランケさんの声が段々と自分の鼓動と呼吸音でかき消されていく。
──俺に何かあったらさ、アシリパさんを頼むよ
私は、託されている。この場からアシリパさんを無事に連れ出さなければいけない。インカラマッの言うように、これから皆が血眼になって彼女を追うだろう。この先ずっと逃げ惑うか、私たちだけで金塊を見つけて全てを終わらすしか道はない。本当にできるのだろうか。私に、杉元さんの代わりが務まるとは思えない。いや、できるできないの話じゃない。やらなければいけない。絶対にアシリパさんを中尉にも、土方さんにも渡してはいけない。尾形さんも、白石さんも、キロランケさんも谷垣もいれば、きっと大丈夫だ。双眼鏡越しに最後に見た杉元さんの姿を思い出しそうになって、慌てて頭を振ってかき消した。今じゃない。今、やるべきことを優先しないと。拳を力任せに握りしめれば新鮮な痛みに思考がはっきりしてくる。尾形さんと早く合流しなければ。段々と鼓動が鎮まってきて、また周囲の音がよく聞こえてくるようになった。
「杉元には釧路で借りがある!」
外で谷垣がインカラマッの制止を振り切ったのが聞こえて来た。「助からない!もう手遅れだ!」とアシリパさんを窘めるキロランケさんの言葉に唇を噛んだ。お父さんとは違って杉元さんは頭の端を撃たれていた。今行けば間に合うのでは、見捨てるのかと、またグラグラと決意が揺らいでいく。
「ナマエ!ナマエ!杉元を助けに行ってくれっ……!」
「やめろアシリパ!ナマエも早く来い!逃げるぞ!」
私は、私の役割を全うしなければいけない。手のひらに食い込む爪に意識を集中させ、立ち上がってアシリパさんに向き直った。
「ナマエにしかできないことなんだ!」
どこまでも綺麗な青い瞳に囚われる。真っ直ぐに私を求めるその瞳に、突き動かされる。
「白石さん、予備の舟で待っていてください」
「えっ…… ナマエちゃん?」
「アシリパさんをっ……!頼みます」
半纏の袖をギュッと強く掴んで目を合わせれば、白石さんが唇を噛み締めた。
「きっと、大丈夫です」
ボロボロと大粒の涙を流しながら私を見つめ続けるアシリパさんと、最後の最後まで目を合わせてから駆け出した。旭川の時と一緒だ。約束の一つも守れないまま私は駆けている。何もできない無力感に何度も絶望したくせに、何かをせずにはいられない。ここで動かなければ、私は一生後悔する。泥濘から這い出すことができず、あの瞳をもう二度と真っ直ぐに見つめることができなくなる。
先を行く谷垣の背中を追って駆けていく。アシリパさんの喚き声も、キロランケさんの制止する声も、照明弾の轟音と自分の呼吸音で掻き消されていく。まるで昼間のように明るくて走りやすい。こちらはこっそりと侵入するためにわざわざ新月の夜を選んだというのに、全てを圧倒的な力でねじ伏せてくる中尉に笑いまでこみ上げてきた。笑い声が聞こえたのか、ギョッとした顔で谷垣が振り返った。本当に、中尉も私もどうかしている。
「俺が二人を引っ張るので、ミョウジさんは隠れててください」
軒先に身を潜めながら折り重なった二人に近づけば、ドンッとまたお父さんの身体に弾丸が撃ち込まれた。弾は杉元さんの頭のギリギリの所を掠めている。谷垣が手を伸ばして二人の身体を引き寄せるが、すかさず腕を撃ち抜かれてしまった。色々な音に紛れて遠くで銃声がしたような気がする。随分と遠くから撃ってきているようなのに、突然軒先から現れた腕一本を撃ち抜くほどの狙撃の精度に鳥肌が立った。紛うことなき凄腕の狙撃手だ。
──狙撃手に向いてる奴がどんな奴か分かるか
「ちょっと!何やって……!早く隠れてください!」
両腕を広げて杉元さん達の前に立ちはだかった。撃てるものなら撃ってみろ。私はここだ。
土埃が立ちこめる中、遠くに櫓が見えた。あんな所から撃ってきているのだろうか。ただの、一介の看守が。この距離で一撃でのっぺら坊の頭を撃ち抜き、杉元さんの頭も撃ち抜き、念には念を入れてトドメを刺そうとする執念を持つような狙撃手が居るのだろうか。分かりやすい的を提供してやったというのに、狙撃がぴたりと止まった。撃ちたくないんだろう。獲物に喧嘩を売られてムカついているんだろう。生き死にを決めるのは自分だと、驕り高ぶっているくせに臆病なまでに慎重で優秀な狙撃手だ。この北海道に、そんな狙撃手がそう何人も居るのだろうか。
私は、一人しか知らない。
脳裏に浮かんだ顔に、涙が溢れそうになる。
「ミョウジさん!もういい!早く隠れて!」
谷垣の声に慌てて軒先に身を隠した。二人を運ぼうとする谷垣から村田銃を受け取りながら、急いで容体を確認する。お父さんはもう息がない。分かっていたことだけれど、いざ現実を突きつけられるとアシリパさんを思って胸が詰まる。でも、杉元さんはまだ息がある。まだ、大丈夫。きっと大丈夫。こんな状況でも"絶対"と言えない自分に腹が立つ。絶対大丈夫だと言って誰かが、自分が傷つくのが怖いのだ。どこまでいっても情けなくて腹が立つ。
杉元さんの傷を押さえながら、谷垣と急いで正門へと向かった。まだ救える見込みはあるとはいえ、こんな所で処置なんてできない。ここから一番近い、開頭できるような設備の整った病院は?人手もいる。私一人じゃできない。家永さんだ。家永さんを呼ばないと。でも、中尉が来たということは滞在していたコタンも包囲されていると考えて良い。家永さんたちはどうなったのだろう。緊張と不安で心臓がうるさい割に、頭がよく回る。必死になって次取るべき行動を考えながら、正門を潜り抜けた。
「インカラマッ!」
谷垣の悲痛な叫び声に正面に視線を向ければ、インカラマッがぐったりと地面に横たわっていた。二人で駆け寄れば、腹にはマキリが深く刺さっていた。キロランケさんの、マキリだ。なんで、どうして、キロランケさんのマキリが。さっきまでいつもと変わらない様子で隣に居たのに。
「インカラマッどうした何があった?!」
「う、ウイルクが撃たれた時……」
「喋らないで良いから!」
「……キロランケがどこかに合図していました」
嘘、と自分でも知らないうちに口から零れていた。合図を送った先はあの櫓にいた狙撃手──いや、それが誰なのかもう分かっている。あんなことをできる人は、この場に一人しかいない。
「尾形さんっ……」
今日やけに尾形さんの話が出たのも、そのせいだったんだ。二人が結託して裏切って、お父さんも杉元さんも撃って、アシリパさんを連れ去った。なんで、そんなことしたんですか。どうして、いつも私の大切な人を奪おうとするんですか。理解できないことが立て続けに起こって、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
地面に降ろされたお父さんの頭からとめどなく血が流れ出ている。杉元さんからも血がどくどくと溢れてきて、止血する手が真っ赤に染まっていく。止まらない。当たり前だ、応急処置でどうにかなる傷じゃない。手首まで血塗れでつるつると手が滑る。血溜まりを服が吸い上げて体が重い。兄と重なる。息が上がっていく。インカラマッも出血がひどい。谷垣だって腕を撃たれている。アシリパさんが連れ去られた。早く取り戻しにいかないと。家永さんはどこにいる。今すぐ移動しなければ中尉が来てしまう。
どうしよう、選べない。
早くここから立ち去らなければいけないのに、アシリパさんを連れ戻さないといけないのに、私一人で治療もして、全員を安全な場所まで移動させてアシリパさんを追いかけることなんて、できるはずがない。ボタボタと杉元さんの血溜まりが波打って、自分が泣いていることに気づいた。泣くな、泣くな。考えろ、考えるのをやめるな。感情に流されるな、合理的に考えろ。最善の策が何なのか、頭ではもう、分かっているはずだ。
「中尉殿、助けてください」
聯隊を引き連れた死神の足音にゆっくりと顔を上げた。轟音と共に後ろでまた照明弾が打ち上がり、逆光で表情が見えない。
「のっぺら坊が殺されました。アシリパさんも、連れ去られました」
喉が詰まる。何を言えば良いのかはっきりと分かっているのに、言いたくなかった。涙と鼻水と血に塗れて嗚咽する私を、中尉はただ静かに見下ろしていた。
「私たちが、取り戻します。集めた刺青人皮も渡します。だから……お願いします、助けてください……」
お願いします、どうか、どうか、お願いします。ぎゅうっと、横たわる杉元さんの体を覆うように頭を下げた。温かくて、弱々しい鼓動が良く伝わってきた。まだ生きている。まだ救える。お願いだから、助けて。
「早くこの者たちを運んでやりなさい」
永遠にも思えた沈黙が破られて、わらわらと兵士たちが慌ただしく群がってきた。インカラマッと杉元さんが担架に乗せられていく。
「可哀想に、こんなに汚れてしまって」
立ち上がってよろめいたところを中尉に支えられ、ハンカチが頬を撫ぜた。白いハンカチが土埃と血と涙でどんどん汚れていく。その手つきに、怪我をしていないかと問う声に、錯覚してしまいそうだった。ひとしきり拭い終えたあとに、中尉がとても満足そうに笑った。
「大丈夫。ナマエさんなら杉元を救えるだろう、私を救ってくれた時のように」
血の気が引いた。あの日、私が中尉を救わなければ──違う。自分の過ちから目を背けるな。あの日、私が兄に取引を持ちかけなければ、こんなことにはならなかった。無力感に押しつぶされそうだったのに、こんな形で自分が確実に世界を変えてしまったのだと突きつけられて震えが止まらない。私のせいだ、全部、全部、私自身が招いたことだ。私は、もうずっと前から選択を誤っていた。私の軽率な、自己満足にしかすぎない薄っぺらい正義感と驕りで、こんなことになってしまったんじゃないか。
「早く治療してあげなさい。君の話はあとでゆっくりと聞こう」
優しい手に促されて歩き出した。足が鉛のように重い。見覚えのある顔ぶれが私を凝視している。小樽であんな派手な去り方をしたくせに、地面に這いつくばって命乞いをして、さぞかし滑稽で無様に見えるんだろう。誇りは無いのかと軽蔑されているに違いない。でも、そんなのどうでも良かった。杉元さんを救えるのなら。アシリパさんを取り戻せるのなら。
運ばれていく担架のその先に、銃口を向けられた家永さんを見つけて一目散に駆けだした。
2024.07.18
